第22章 1995-97年

バックエンドエンジニアリング部門

を預かって

 

本章を書き上げてから2年以上お蔵入りさせたのは本章が正直言って公表したくない時期に触れるからだ。「敗軍の将、兵を語らず」といってつましくふるまうのが 日本人の美徳というものだ。しかし物理学者でもあるメルケル独首相が「過去 を知っている者のみに未来がある」と言っている。成 功の歴史は語られるが、失敗の歴史は書かれない。当事者が沈黙を守るからだ。集団と個人の関係は次の3 つに分類できると加藤周 一は言う。

@少数意見を持ちそれを表現する・・・極めて少ないかゼロ
A少数意見を持ち、沈黙する・・・集団の内外の状況によって増減する
B多数意見に順応し、それに従う・・・常に大多数

日本のように個人が集団へ高度に組み込まれていると意見の強制的同化、圧殺、個人の自由の極端な制限をともなうが米国では自由な精神の証としてしばしば退 職症候群が発現する。退職症候群(retirement syndrome)とは退職後に意見が変るのではなく、意見は現役のときから多数派のそれと対立していて変らず、退職後に沈黙を破る行動をいうのである。 実例としてアイゼンハウアー元大統領の「産軍複合体」、マクナマラ元長官の「マクナマラ回顧録」、パウエル元長官のイラク戦批判などが ある。先人に見習って勇気を出し、名も知れない人々の ために 恥をしのんで公開しよう。

 

安値受注に狂奔

創業社長の後継者として娘婿のジュニアが登板した1980年代は端境期でプロジェクトが極端になかった。しかし1990年代に入るとアジアがテイクオフ し、プラントマーケットは復活し、プロジェクトが目白押しだった。韓国などのコントラクターが参入して過当競争に突入したが、価格さえ安ければ受注ができ た。

ジュニアが引退して会長になり、桃平社長が社長が任命されると、新社長はプロジェクトはあるのだからコスト競争力をつけて仕事を一杯こなすのだという方針 をとった。ただジュニアの採用した多角化路線はアンタッチャブルでそのまま残った。ジュニアが会長になると同時に木町さんも技術本部長を引退して監査役に なった。彼の担当範囲のうち、フロントエンドエンジニアリングを後崎が、バックエンドを私が担当することになった。研究所は上町が継続して掌握していた。 研究費の配分に関しては多角化した部門の研究費も一括してこの3名の審査にまかされていた。私はプロセス設計部出身のため、バックエンド部隊の管理などに は素人であったが、これらファンクショナル部の幹部連中は自ら新しい部門を率いて自立してしまっていたので適任者が見つからない状態であった。

フロントエンドはプロセス設計部が中心で小部隊である。大学で応用化学か化学工学を専攻した人間を中心に構成されてい る。バックエンドは電気、計装、機械、配管、土木、建築という大学の工学部の学科の専門性を反映したファンクショナル・エンジニアリングをまとめた縦割り の組織であった。電気、計装は 電気工学科、電子工学科や理学部物理、機械と配管は機械工学科、土木、建築は工学部の相当する学科出身といった具合である。

1980年代後半の多角化により、ファンクショナル・エンジニアリングの半分の人材が新規事業部に移籍した。正確な数値 は覚えていないが、大雑把にいって正社員数3,000人のうち、500人は事務系の管理・営業部門と研究所の扶養家族で、500人はプロジェクト、残り 2,000名がワークフォースたるエンジアであった。従って本体のハイドロカーボンビジネスに設計サービスを提供するヒューマンリソースは約1,000名 となった。この 縮小したヒューマンリソースのうち900名の管理が私の責任となったのである。

技術本部の主要な役割はプロジェクトが必要とするエンジニアリングサービスを提供することである。プロジェクトはプロジェクトマネジャーが権限と責任を もってプロジェクト運営をすることにエンジニアリング企業のよってたつ存在意義があった。米国で成功したPMIのマネジメント理論でもそのように 書いてある。

木町さんから引継ぐとき、

「技術本部はプロジェクトが要求するサービスに無限の可能性をもって答えなければならない。手持ち要員が不足したら社外から調達してきてでも答えなければ ならない」

と言われた。そういうわけで、社内のエンジニアを核にして社外の設計会社に詳細設計を外注し、設計品質、コミットしたスケジュール、コミットしたコストに 責任を有している。といってもプロジェクト毎のスケジュール、コスト管理はそれぞれのプロジェクトが調整管理するので、人材派遣と設計品質維持にまず第一 義的な責任を持つ部門である。

有能なプロジェクトマネジャーとして鳴らした小峯さんがバックエンドの副本部長となったので、技術本部としてのコスト責 任を果たそうと初仕事としてタイオイル向けリファイナリープロジェクトの機器のコスト、サブコントラクトラクターに発注する工事量を過去の実績データと比 較し、技術本部として査定した。そして切れるものは切った。ついで技術本部、プロジェクトマネジャー、海外プロジェクト本部長の岩さん、営業の 町淵も交えて同じ査定を繰り返し、最終合意した。しかし数日して新聞紙上に千代田が受注と受注金額とともに発表されて非常におどろいた。技術本部がコミッ トし海外プロジェクトが合意した金額の約30%引きであったように記憶している。技術本部と海外プロジェクトの合意金額は2番札の競争相手のN社とほぼ同 じだったと思う。岳下さんと桃平社長がこの応札価格を最終決定したと聞いた。あとで社長になぜあのような無謀なことをしたのかと問い詰めると

 「あの時、君は合意しなかったのかい」

と聞く。合意もへったくれもない。御前会議に呼ばれもしない欠席審議だったのだ。海外プロジェクト管轄する土島本部長は 御前会議に出席しているはずで、あなたはどう主張したのか聞いてもはっきりした回答は得られなかった。

このようなことがあるのなら技術本部としてのコスト責任は果たせない。また我々が査定すると何がしかのカットをするであろう。この上にプロジェクト独自の カット、そして社長カットと続けば、べき乗のマジックがはたらいて、すぐ最終額で30%カット位になってしまう。 小峯さんと相談して技術本部としてのコストレビューとカットはしないほうが良いと判断した。しかし技術本部とプロジェクトのコスト審議会には出席し、不当 なカットをさせまいという努力は継続した。

その後、同じような経緯でサウジアラビアにモービルが建設したルーブオイルプラントも受注した。我々の声を耳にした岳下さんはタイオイルプロジェクトでは 赤字で受注したかもしれないと反省し、以後、自らのカットは実施せず、タイアロマプロジェクトを失注し、苦境にたった。 創業社長は赤字を出したプロジェクトマネジャーや営業は降格したものだが、桃平社長は失注した岳下海外営業本部長の首を切った。我々は岳下さんがタイオイ ルを安値受注してからあの人は用心しなければならぬとおもっていた矢先のことであったのでこれで完全に力が抜けてしまった。

桃平社長は岳下さんの担当していた海外市場を長年、国内プロジェクトで共に戦い気心の知れているアニマルとあだ名された武山さんに海外も含めて担当させる ことにした。マレーシアのLNGプロジェクトへの営業活動支援のため、私がクアラルンプール出張のおり、桃平社長と武山専務との会食に呼ばれた。岳下さん が遅れてやってきてマレーシアが計画している巨大製油所拡張プロジェクトの現状を説明していた。このときただならぬ雰囲気を感じたものである。その時は気 がつかなかったが、岳下さんが海外営業本部長の任を解かれる直前のできごとだった。

頭島常務は国内プロジェクト担当であったが、海外プロジェクトも全てみてコストダウンをおこなうように社長から命令が出た。前頭さんははじめは嫌がってい たが、一旦武山さんと組むとブルドーザーのごときコストカッターに変貌 した。いやコストカッターではなく、ただの応札値を下げただけと後で判明するのだが、当たるを幸い、なで斬りしはじめた。 武山さんの口癖は

「千代田の購買コストは競争会社と同じはずだ、だからエンジニアリングコストをカットしよう」

であった。 あとで考えると竹槍で突っ込めと言っているに等しい。

この当時、国内の化学プロジェクトは私の後をついで天然ガスプロセス設計部を課長として率いてくれた善山部長が見ていた。もともと武山/頭島組が見ていた 部門なので、お互いに気心が知れていてむちゃくちゃなことにはならなかった。しかし海外プロジェクトは文化と伝統の異なるこの2人のむちゃくちゃな要求に は免疫をもっていなかった。ほとんど無抵抗に白旗をあげたようである。

この時点でも私は技術本部と海外プロジェクト本部の査定会議に出て最後の抵抗をしていたが、いらだつ頭島さんに

「おれの邪魔をするなら出てゆけ」

と怒鳴られるしまつであった。向こうが常務でこちらは平取だ。これ以上歯向かえない。なにせ星の数が違うのだ。黙らざるをえないが、出てゆかないで何 をしているのか目撃することにした。

長篠の戦前夜の作戦会議で馬場信房、山県昌景、内藤昌豊ら歴戦の勇士は織田の陣構えをみて積極的攻撃の危険を説いたが内政グループの誤った献策を信じた大 将の勝頼は聞き入れず、無謀な突撃戦法を命じた。「おじ気づいたか、戦は時の運じゃ。戦ってみなければわからぬ」と大将に言われれば、みすみす負けるとわ かっていても、戦わざるをえない。敵陣に向かう馬場信房は、馬上の味方に向かって「何を言おうと犬の前の 経じゃ。討死、討死」と呼ばわるや、馬を駆って柵の前に突進していったという故事と同じ状況に直面するのである。

事情を東頭副社長に訴えると

「元気がよくていい」

でチョン。ずっと東頭氏を師として尊敬してきたのだが、ナンバー・ツーというものは全く無力な存在なのだろうと理解した。内田樹が「師弟関係とい うのは、基本的に美しい誤解に基づくものです。その点で、恋愛と同じなんです」といっているのは事実なのだろう。強かった尊敬の念も薄らいだ。

そのうちに正式なコスト審議会は開催されず。頭島さんはひそかにプロマネを呼びつけてドスの利いた声で勝手に予算を切り詰めていたようだ。2006年に導 入された新会社法の経営判断原則に従えば経営の責任は意志決定のプロセスに瑕疵がありと判断されるような事態である。こうしてバックエンド・エンジニアリ ング本部長の私は無視され、海外のプロジェクト運営に責任を持つはずの土島海外プロジェクト本部長は死に体になった。コストもスケジュールもコミットメン トしていないのだから責任の持ちようもない。営業の最高責任者となった武山さんは岳下さんが首になったのを見ている。そうとう用心し、社長への報告は全て メモして、

「前言と矛盾することは桃平社長には上げないことにしている」

というウワサが聞こえてきた。

無理な受注をしても設計品質の低下は工事が始まらなければ、顕在化しない、そして赤字という結果は手直し工事が完了し、業者の請求書がくるまで表面化しな い。プロジェクトが不正確でも予測して報告してくれれば少しは早くわかるのだろうが、プロジェクトは弱体化していて少人数でかつ未経験な人間がプロジェク ト運営していて、てんやわんやのなかで後回しとなるし、上にとって不愉快な情報はえてしてあとまわしにするのは人情である。 待っていて上がってくる情報ではない。こうして事態の深刻さが判明するまでに武山/頭島組はその当時のアジアマーケットのプロジェクトの殆どを受注してし まった。この中には雪畠部長をプロジェクトマネジャーに任命したマレーシアの巨大な石油精製工場の拡張工事があった。雪畠は配管設計は自分が指揮して現地 でするからといって、私の本部の支援は不要と宣言した。こうしてマレーシアの巨大な石油精製工場拡張プロジェクトではなにが生じているかすら技術本部から は見えなくなった。私自身、タイオイルの見積もりには深く噛んだので、赤字受注との確信はあったが、そんなことを予言してみたところで社内の誰も耳を傾け てはくれないだろう。まさにカッ サンドラの心境であった。

最終的な数字は出ていない時点では、もしかしたら、私はまちがっていているかもしれないなとも思ったものである。価格破壊と言われた時代である。我々が仕 入れる資材コストも時々刻々と下がっているので本当の支払いコストがどうなるかは本当は誰も分からないのだ。言わばメクラ運転をしているようなものだっ た。 競争相手のN社は完全に沈黙して何事が起こっているのか様子をうかがっていた。

ブライアン・サイクスが 「客観的証拠が不足している論争の場合、どうしても敵対するグループに分かれてしまう。そしていったんどちらかにつくと、人は頑としてその立場を変えよう とはしない」と言っているように、 当時の千代田は桃平/武山/頭島/雪畠のような国内マーケット相手にしてきた連中と我々のような国内マーケットから国際マーケットに展開した人々のグルー プに二分されていた。国際経験を持った人々の見方は無視され、権力を握った国内派が思い入れで力を振るいだすと「沈黙の螺旋」がまわりだす。そして国内育ちが大きくつまず いたという構図になった。エ リック・ホッファーの名言「権力は腐敗する弱さもまた腐敗する」の通りとなった。

こうして、年度末に会計役員が大幅赤字を社長に報告するまでは、国内派のゆけゆけドンドンの旗は振られ続けたのである。赤字決算のウワサを聞いたとき、私 はやはりと思ったが、桃平社長にとってはタイタニック号のスミス船長のような気持ちではなかっただろうか。タイタニック号は見張り台で双眼鏡が紛失して、 氷山をみつけるのが遅れたという伝説があるが、全速で危険な海を航海中のタイタニック号は突然 、船体に巨大な穴をあけてしまった。

海 外プロジェクト経験のない桃平社長、武山専務、頭島常務の3組が国際マーケットで大失敗したということに過ぎないのだが、この3人組の成立過程を引退後 15年後に初めて知った。もともと頭島常務は古くより桃平社長の自宅近くにに住み、家族ぐるみの親しい付き合いだったようだ。この仲を見ていた武山専務は 金持ちだったので、わざわざ桃平社長宅の近くに家を買って引っ越し、社長と親交を結んだ。これは文系が出世する常とう手段。結果、桃平社長は篭絡されて営 業は国内外とも武山専務、プロジェクトも国内外ともは頭島常務という結社ができあがったのである。(新規分野は会長の領域)桃平社長は記憶力だけはよい。 したがって武山専務は一度報告したことはメモして置き、以後矛盾がないようにに耳打ちを繰り返して2年、気が付いた時は大赤字になっていたというわけ。専 務と常務二人が社長をだましてした結末は半値八掛けだったため、総売り上げ額は例年通りであったが仕事量は2倍。エンジニア数は新規分野に配属されて半 部。エンジニア一人当たりの業務量は4倍。設計品質はがた落ちということになった。

ナシーム・ニコラス・タレブは「ブラック・スワン」で1907年にスミス船長が書いた 一文を紹介している。「私は一度も・・・とりたてて言うほどの事故には遭わなかった。海で過ごした歳月で、遭難した船を見たのは一度きりだ。難破船を見か けたことは一度もないし、自分が難破したしたこともない」と。しかし1912年にはこの歴史上最も有名な海難事故を起こしたのだ。 スミス船長はバートランド・ラッセルが指摘する「帰納の問題」(Problem of Induction)に絡めとられていたのだ。

さて 船体に巨大な穴をあけたとはいえ巨船はまだ浮いていた。沈み行くタイタニック号の船上で巨船の指揮を桃平さんから引継いだ新社長の南山さんの下で、バンド が軽快な曲を演奏し続けたのである。そして船長自らとその他大勢の客をのせたまま沈んだのである。半数は後に救助船 (三菱グループ)により、救助された。

今ふりかえってみれば、桃平社長が岳下さんを切った人事は強烈なメッセージを社内のあらゆる階層に伝えたと思うのである。 氷山にぶつかるまでは皆が双眼鏡をすててしまっていた。仮に真実を告げても身を滅ぼす場合は見ないほうが精神の安定は保たれるのである。最後の段階では受 注できないで苦しんでいる若い海外プロジェクトマネジャーが私のところにやってきて、

「どうか目をつぶって、私を男にしてください」

と懇願するようにまでなっていたのである。 ある人は桃平社長は”はだかの王様”となっていたと指摘したが、私自身は子供のような目を持っているつもりであったが、もしかしたら国際派の自分が間違っ ているかもしれないという思いもあり、大声を上げる勇気はなかった。仲間内でぶつぶつとつぶやいていただけである。あとでやはりとおもったのである。

山本七平氏

「日本には「抗空気罪」という罪があり、これに反すると最も軽くて「村八分」刑に処せられる。これは軍人・非軍人・戦前・戦後に無関係のように思われる」

と指摘されているが、まさにそのような空気がかもし出されてくるのである。

孫子にも

「戦う可きと戦う可からざるとを知る者は勝つ」

と書いてあるではないか。社長は戦う可からざるとを知らなかったということになる。こうなったのは営業主導をかかげたジュニアの経営方針の必然的帰結とい えるだろう。文系営業は受注プロジェクトが利益を上げたかどうかで評価されず、受注したかどうかだけでボーナス査定されるのだとう噂が社内を駆け巡ってい た。従って彼らの武器は価格競争しかなかったのである。そして営業マンは互いに敵だった。情報を仲間内にも隠すのである。ジュニア会長の下で桃平社長はこ れを正すなんらの対策もとれなかった。ジュニアによって使用人待遇の平取締役にとりたてられた身にとってもおなじこと、何もできなかった。制度と仕組みが 間違っていたのである。このような取締役によってだけ構成されている取締役会が外部から期待されている機能を果たしことなどできるわけがない。こうなるこ とは就任する前から予見できたのだが、運命のめぐり合わせでもしかしたらというチャンスにかけたのだが、チャンスはやってこなかった。

ではジュニアはどうすべきだったのだろうか。営業主導のかわりに顧客第一主義、SBRなどの多角化ないし分権主義の代わりに選択と集中、プロジェクト主導 を掲げて利益第一主義を採用していればもすこし異なった展開になったであろう。

NASAと米航空会社が共同で開発しているパイロットの訓練理論にコックピット・リソース・マネジメントというものがある。 操縦室内の意思疎通を円滑にし、計器類や管制官からの情報、乗務員同士の助言などのリソースを有効利用して事故を起こさないようにしようとするものであ る。しかし中華航空機事故やえひめ丸事故で見られるように機長の高圧的態度や米原潜館長がやり手すぎて部下が意見を言いにくい雰囲気があるなど”権威勾 配”がきついとチーム全体の能力は低下するという現象がみられる。上司と部下の関係を”権威勾配”という指標でみてその勾配を減らそうとするものである。 ジュニアという存在が創業者家族という権威そのものであったためと営業主導などという方針がこの権威勾配をきつくしたのである。そして取締役会で予定せざ るテーマに言及した役員は”和”を乱したとされて次の改選期には消えているということも恐怖感をあおり、警報を鳴らす役員は居なくなったのである。急な” 権威勾配”が危険情報を伝わりにくくした。すなわち千代田号のコックピットには前方を見ているパイロットが誰もいないという状態が突発したのである。

森嶋通夫が「なぜ日本は没落 するか」で言っているように、”和”という思想を十七条の憲法で残した聖徳太子は、政治はいうに及ばず民間企業の統治にも禍根を残したと思う。 トップは集団内で絶対的権威を持つと、この権威と異なる意見を持つものは探し出されて、和を乱すものとして排除されるのだ。和の精神は、集団の保存装置と して異分子の摘発、粛清、処分を行う機構の存在を正当化する。と同時に統治上のイノベーションを提案する「切れ者」を嫌うのである。

そもそも”和”と自ら揮毫した手ぬぐいを役員に配っているのだ。そして役員会で異を唱えた役員は再選されないのを見せ付けられたのである。千代田建て直し のためにM商事など大株主が送り込んだ役員の方はこの内実を知ってか「和して同ぜず」という言葉を座右の銘にしておられるとおっ しゃっていたのが印象的である。

五百旗真が「自 分の所属している組織、国が愚かな決定をした時、どうするか」とカッコよく言っているが、何をしてもだめな時はあるのだ。「和して同ぜず」という態度が皆 に染み渡らねばむりではないか? 戦時の捕虜虐待などのケースでは上官の命令に従いましたといっても罪は免れ得ないわけで虐待などしたわけでないが社員を養えなくなる事態をきたしたのは一 種の虐待だから”和”を保とうと唯々諾々と体制に従った罪は残る。

 

プロジェクト部門の弱体化

第15章でも解説したが、千代田のプロジェクト マネジャー、デピュティー・プロジェクト・マネジャー、サイトマネジャー、コントロールマネジャー、エンジニリングマネジャー、プロキュアメントマネ ジャーなどの職位は人事制度としての職位ではなく、プロジェクト遂行のための機能と責任を明示するための呼称で、この呼称と給与や待遇は直接はリンクして いない。プロジェクトマネジメントをビジネスの中心に据える企業にも関わらず、その人事制度は古色蒼然とした、オペレーション会社のそれであった。創業社 長が言葉と行動でプロジェクトマネジャーが大切とし組織を常に変えていた時代はそれでよかったが、ジュニア時代になり、そのようなことが言われなくなると 臨時組織たるプロジェクトを出たり入ったりしている社員は人事評価が下がり固定的・永続的組織にしがみつく社員の評価は高まるためプロジェクトが弱体化 し、無責任となってゆくのである。このような事態に至ったのはプロジェクト制を人事制度にしっかり作りこんでなかったため である。そうしてジュニアの時代にはプロジェクト制は形骸化してしまっていたのである。

創業期の千代田は工事現場の叩き上げがプロジェクトマネジャーになった。工事はコスト、スケジュール、品質管理などプロジェクト遂行能力を鍛えるには優れ た部門だから自然のながれでそうなったのだろう。しかし、これらベテランはジュニアの時代に大量に引退し、桃平社長時代には設計部門、それもプロセス設計 畑育ちの人間が英語ができる、顧客とのコミュニケーションができるという理由で特に海外プロジェクトに移籍して担当するようになった。顧客とのコミュニ ケーションはよくなるのだが、若い時にプロジェクトと工事を経験していないため、プロジェクト管理能力不足のまま大型の海外プロジェクトを任されることが 増えていた。

高校の同期で細木正志と いう男がいる。横浜国大で造船を学んだにもかかわらず、造船会社に入らず、造船会社と船舶会社の間をとりもつブローカー業を営む伊藤忠に入って成功した。 教授は造船会社で修行してから商社に入ってもよいのではないかと、推薦状も書いてくれなかったという。彼は教授に背いて商社に入社しそして成功するのだ。 彼はその人の思考パターンは社会にでて数年の修行できまってしまい、一生変らない。したがってある企業で成功するためにはそこで徒弟時代を過ごさねばなら ないと自分の経験から結論している。プロセス設計技師として成功した人をいきなりプロジェクトマネジャーに転進させても失敗するのである。鉄は熱いうちに 打たねばならないのだ。

桃平社長はプロジェクト管理能力を強化する方向は棄てて、オペレーション型の伝統的な縦割り組織であるバックエンドエンジニアリング組織にコスト、スケ ジュール管理を期待した。しかしそれは所詮実行不可能な期待にすぎなかった。プロジェクトは色々の要素が複雑にからみあった有機体である。それを知りえな い縦割り組織であるバックエンドエンジニアリング組織が多階層のピラミッド構造でコスト、スケジュール管理をできるわけがないのである。私は第15章で記したように 若い頃、2,000億円に達する巨大プロジェクト運営の成功経験を持っている。プロジェクトマネジャーしかコストの全体像を把握できないのだ。縦割り組織 であるバックエンド・エンジニアリング部門の長としてはどうすることもできないというはがゆい体験をしてプロジェクトマネジメント理論の正しさを再認識し た次第である。

命が惜しければ縦割り組織 の総合病院には行くな

という名医の言葉もある。立場上そうと言えないところがつらい。

人事・労務部門育ちの四人組の一人、立川氏はジュニア、桃平社長、南山社長の三代に渡って歴代の社長を必死に支えたが、その頭の中の構造はオペレーション 型の伝統的な縦割り組織の信奉者であるため、プロジェクト重視型の人事制度に変えるという発想はついに持ち得なかった。

ジュニアは後手であるが、後にプロジェクトエンジニア やエンジニアの能力低下対策としてエンジニアリング振興協会内部に米国式のプロフェッショナルとしてのプロジェクトエンジニアの能力向上と資格認定のため の組織を編成するために窓際族になっていた私を送り込んだ。こうして日本の産業全てを対象とするJPMFができた。しかしこれはほんの一歩前進でやはり人事制 度にまで反映しなければ生きてこないだろう。

弱体化したプロジェクト部門の裏方である技術部門として、役に立ったこともある。LNGプラントのように巨大になると別の未知の問題も発生してくる。カ タールのLNGプラントは海水取水口からプラントまで長さ6キロの長大な海水パイプの建設を必要とした。顧客は埋設管のジョイント部の漏洩検査をしてから パイプの埋め戻しをするようにという。現場は素直にその指示に従ったが何度トライしても漏れが止まらないという。設計に問題があるのではと問い合わせがき た。困った設計担当者が相談にやってきた。どういうことが生じているのかつぶさに聞くともれが止まらないところはエルボとかティー部である。直管部は問題 ないらしいと聞いてピンと来た。なにせ管径は人が立って歩ける位巨大だ。内圧によって生じる 非対称スラスト力はエルボとかティー部をジョイント部のゴムの限界までその力でずらしていると推察された。エルボとかティを固定 して非対称スラスト力がジョイント部にかからにようにしなければならない。そのためには漏洩試験前に埋め戻す必要がある。漏洩検知は圧力低下、または漏洩 音検知でするように顧客を説得すべしと計算書までつけて説得文書を送った。さすがの頑固な顧客もすんなり非を認めて万事めでたく解決したものである。

 

設計品質の低下が手直しコストとなって表面化

私がバックエンド・エンジニアリング部門の本部長になったとき、東頭副社長が弱体化した配管部建て直しにと、プロセス設計部出身のプロジェクトマネジャー 経験者である橋詰君を配管部長として送り込んできた。橋詰君は髪振り乱し、口角泡を飛ばして、持病に倒れながらも陣頭したが、増大する受注量をこなすだけ で精一杯で、設計品質の低下を防止することはできなかった。コスト競争力のなくなった国内の設計サブサブコンに見切りをつけて立ち上げた、フィリピンやイ ンドの設計子会社はいまだトレーニング中で戦力に育っていない。永年育ててきた台湾の設計会社は自立して快く協力はしてくれない。最後にたよる国内設計サ ブコンはどうせ捨てられる運命とあきらめてインセンティブが低く、若手が育っておらず、生産性と設計品質は悪化の一途をたどっていた。このような背景の上 に受注量が増え出すと次のようなことが頻発するようになった。

タイのTオイルの埋設配管の設計においてエルボの数を減らして資材コストを節約しようと考えた若いエンジニアが地下の立体障害を避ける目的で障害物の無い 深い平面に配管を設置する設計をした。彼は最適設計したつもりでも現場では重土木機械で深く掘削しなければならず、かえって工事費を押し上げ、さらに雨季 と重なって水没し、工期の遅延を引き起こしたと東頭さんにしかられた。分業で現場を知らない若いエンジニアは全体を見渡すことができず、部分最適化をして しまうのだ。無論ベテランがチェックしなければいけないのだが、設計要員が半分になっているのに受注量は史上空前のため、24時間働いても目がとどかない のだ。

複雑なプラントではエンジニアリングの手順と工事の手順が逆になることがしばしばある。たとえば配管設計が完了するまで配管の重量は出ない。しかし建築設 計者は鉄架構の設計をしなければ工事に入れないというパラドックスである。非常に短納期の国内のプラントで、このパラドックスを解決するために、建築担当 者が要請して配管部の若い担当者とプロジェクト担当者の三者が打ち合わせを持った。配管重量を事前推定して建築設計の見切り発車をするのが通常採用される 手法である 。このため、多少余裕をみる冗長設計による資材の無駄は覚悟の上である。ところがベテランが払底していて、その推定重量が過小であったと配管設計が完了し たときに判明することになる。幸い基礎には余裕があたっため、鉄架構造の補強で済んだが 、多大なコストアップになった。原価を割る受注が不採算の主要原因ではあるが、それに負い銭をしたことに変りはない。

ああ、このようなとき、門君がいてくれたらと小峰とため息をついたものだ。(彼は後日社長になる)門君は多角化の波に乗って米国子会社に転出し、日本の食 品会社の米国進出プロジェクトを担当していた 。彼に技術本部に帰ってきて建て直してほしいと考え、社内根回しに入ろうとしたが、本人にその意志がない以上、ジュニア体制下では無理だろうと小峰は言っ た。

マーケット価格が往時の4割り以下になっていたため、受注額はそれほどでなくともエンジニアリングの仕事量は歴史始まって以来最大規模に膨れ上がった。し かしエンジニアの数は多角化で往時の2/3になっている。外注で仕事はこなせても設計品質の低下はなかなか防止できない。多角化で散った他のエンジニアを 呼び返すことも考えたが、彼らは新分野で小領主となって毎日、愉快にすごしている。いまさら中央集権なしには機能しない大型プロジェクトで歯車となり、奴隷のような仕事になんの魅力も感じていな い。一旦縦割りの組織に散った人間はそれぞれの運 命共同体への帰属意識が強く一平取が動かせるものではない。そんな人間はたとえ首に綱つけて引き戻しても役に立たないし、ジュニアを動かしても頑 として動かないだろう 。それよりもM商事をやめた息子の受け皿となる自動車事業部を喜んで承認してしまったジュニアが動くはずはないとは容易に察しがついた。コスト競争力を維 持するため少人数でやれと号令をかけているのでなおさらである。

そんなある日、アルンLNGプロジェクト以来、信頼していた営業の上出君に昼食時に会った。彼がその時突っ込もうとしているトルクメニスタンのリファイナ リーの条件は悪いので慎重になったほうが良いとアドバイスした。しかし強い反発の言葉が彼の口から出た。

「ああ、ブルータス、お前もか」

という言葉が胸のなかで響いた。今にして思えば、彼にとって私は小泉政権の反動勢力のようなものと見えたようだ。いかな利発な人間でも環境によってはメク ラになるものなのだ。結局このプロジェクトも私が子会社に転出したあと、大赤字であることが判明した。プロジェクトマネジャーを勤めたのはかってのアルン LNGプロジェクトのコントロールマネジャーを勤めた寛伴であった。プロジェクトが終わったとき

「あの明るい性格はどこにいってしまったか、これが同じ人か」

と疑うほど人格が変ってしまった。

このフィーバーが終わってみると韓国のコントラクターも大赤字で、彼らは

「もしかしたら再起不能かもしれない」

と述懐していた。競争会社のN社もインドネシアのスハルト大統領のドラ息子がブチ上げたプロジェクトが中断されて深手を負っているというウワサがあったが なぜか公表されたバランスシートに異常は見られなかった。

読者はこのような状況で桃平社長にはどのような選択肢が残されていたのかという疑問が出るだろう。それは競争相手のN社がとった戦略をそのまま採用すれば 良かったのである。すなわち無茶な安値受注をやめて、競争相手に安値受注をさせ、自滅を待てばよいのである。 「どんな荒れ狂う嵐の日にも 時はたつのだ」ベクテルなど欧米の競争相手はとっくの昔にゲームから降りていたのだ。従ってマーケットのプレーヤーは日本に3社、韓国に数社あっ ただけである。競争相手とコンソーシアムを組むことも考えられる。欧米のコントラクター、日本の土建会社が採用している戦略である。桃平社長の本意ではな かったと思うが、結局、彼は無益な戦争に導いた旧日本軍の指導者と同じ過ちを犯したことになった。

1995年にバーミンガムで第11回LNG会議が開催され た。このときLNGプラントマーケットはN社とわが社が市場を2分していた。この寡占市場にT社も参入しようと会長以下熱心に勉強している。学会などで旧 知の上床会長 (故人)に

「LNGマーケットは外から見ているほど楽ではありませんよ。巨大すぎて、受注後の端境期に苦労しますよ」

と自分の経験を話して牽制をしたものである。N社/K社組と千代田はレセプション合戦で火花を散らしていた。N社/K社組は英国のパーティー業者を雇って のドンちゃんさわぎ、こちらは金もないので趣向を変えて地元の美術館を借り上げ、静かなレセプションを開いた。会場に旧知のN社の重久社長が表敬訪問して くれた。静かな泰西名画の下でワイングラスを傾けながら雑談していると二人だけになった。

「こうたたき合いが激しくてはやってゆけません。コンソーシアムを組むなりしてもっと仲良くやってゆかないと共倒れになりますね」

と私が水を向けると、

「願ってもないことだ、ぜひ一緒にやりましょう」

といってくれた。残念ながら私はこの会話を実行に移せる権力を手にいれることはできなかった。

日本初の発電用LPG気化器の開発で苦楽を共にし、引退していた大樹さんからある日電話が入り、

「おれ達が残してやった1,000億円の現金はどこに消えたのか、負債が500億円とか一体なにをしていたのだ」

と叱責された。面目ない。

「あなたが期待してくれた程の力は私にはなかったのです。すみません」

とつぶやくしかなかった。 しかし大樹さんはいちばん良い時に退職できた幸運な世代の人である。負債とともに取り残され、残るも去るも地獄の苦しみを受けた若い世代には本当にすまな く思う。しかし私にはどう してやることもできなかった。

千代田が人員削減をしたとき、N社に転職した私のかっての若い部下が

「N社に入ってみたら、たいしたことありませんよ、N社と千代田の差は経営者の差だと分かりました」

とメールをくれた。隣の庭はきれいに見えるものだ。彼は今、業績回復した千代田に復職している。

 

プロセスパーフォーマンス保証と機械保証

後崎がプロセスパーフォーマンス保証、私がプロセスパーフォーマンス保証のうち、ユーティリティー消費量保証値の承認責任を持っていたため、しばしば一緒 に審議した。結果としてこれらの値が達成されなかったことはない。

機械保証は商習慣では運転開始後1年間であるが、発展途上国や共産圏から3年とか10年とかの要求がでてきてよく営業と論争になった。そもそも機械保証は 設計ないしは製作過程での瑕疵に起因する故障の修理責任は製作側にあるという思想である。設計ないしは製作過程での瑕疵に起因する故障は概ね1年以内に出 尽くすものなのだ。運転・保守責任の残るBOT契約ならいざ知らず、所有権と管理権をトランスファー後の運転の瑕疵に起因する故障は管理不能であるという 法律論を物分りの悪い若い世代の営業に教育する立場 に立たされた。こうしてこれら紅衛兵によってこちらの態度は不遜だという悪評を社内上層部に広められることになる。無責任ならはいはいといえばよいのだ が。

ではM自動車の欠陥隠しはどうなのかという感じをお持ちになるかもしれないので、コメントすると彼らが隠した欠陥は設計ないしは製作過程での瑕疵に起因す ると自覚しながら故意に隠したため、保証期間に関係なく、M自動車の責任ということになるのだろう。

さて千代田は機械保証の保証条項とかかわらず完璧に行うことは創業社長のころから当然と考えてきた。顧客の信頼は裏切れないからである。以下その実例をご 紹介する。

 

頻発する石油精製プラントの不具合解決陣頭指揮

工事が完成して運転に入ると、隠れていた設計・製作に起因する問題が発生する。頭島さんらプロジェクト本部長達はこの問 題を解決できる能力もないのだが、どこかに逃げこんで姿がみえない。というわけで私が専門家をつれて現地に飛ぶことになる。

たとえば、安値受注だったタイオイルに納入したM造船製の100気圧ボイラーが運転には入ってしばらくするとボイラー チューブがブローアウトしたとの報告が入る。すぐ現地に メーカーの設計担当者と飛んで対策会議に出席した。顧客のコンサルタントをしているS社のエンジニアは

「丁度バナーのフレームがボイラー壁をなめるところでパンクした。水循環不足ではないか」

とコメントする。しかしM造船は伝統的に実績のある設計を変えていない。水管理を疑ったが、記録を見せてもらえば、マ ニュアル通りに薬注をし、ラボの分析記録にも異常はみられない。原因不明のまま、壊れたボイラーパネルを交換して運転に入った。

しばらくすると今度はスーパーヒーターのチューブが2本パンクしたとの報が入る。この場所は丁度アテンプレータの直後に相当する。スーパーヒート度を調節 するためにスーパーヒーターの中間点でボイラー水を注入するところがアテンプレータである。ここで水質管理に疑惑が集中した。ハイドアウトというまれに見 られる現象で、不純物の多い薬剤を瞬間的に高濃度で注入するとボイラー壁に結晶が析出し、ボイラー壁温度が上昇してブローアウトに至るのだ。だが、圧力が 下がるとこの結晶は気化霧散してしまい証拠はなにも残らないという完全犯罪のような現象だという。日々の水管理は顧客責任である。これを英国人のS社の技 術顧問に理解させるには英国人がよいだろうと考え、M造船に元フォスターホィーラーの水管理の専門家を雇うように要請し た。この英国人に数時間説明してもらうと顧客の技術顧問はすんなりと理解してくれた。当方は間歇的なマニュアルサンプリング・ラボ分析では不充分と考え、 水質の連続・自動監視装置をつけさせてもらうことを申し出た。その後、ボイラーはパンクしていないのでこれが正解だったのだろう。

もう一つの例はやはり、タイのTオイルにM造船が収めたクーパーベッセマー型の水平対向往復動圧縮機のピストンの疲労破 壊であった。M造船はコンクリート基礎を軽量に出来るとのうたい文句で往復動圧縮機のピストンを鋼鉄製から軽量のアルミ製に変えた。ところが直径1メート ル前後あるピストンが運転中に割れてしまったのである。割れはピストンリングを納めるミゾの隅から発生していた。 顕微鏡で破面みれば、典型的な金属疲労である。アルミニウムの金属疲労現象はコメット機の墜落以来非常によく研究されていて、理論的に予測できる。この理 論で完全に説明できた。Vノッチによる応力集中を防止するためにミゾの隅にRをつけた機械仕上げにすると同時に、強度を増すために行う機械仕上げ前の熱処 理で残留応力が残らないように、予備加工してから熱処理をするという煩雑な工程で再製作したピストンに交換した。しかし残念ながらこれもほぼ同じ時間運転 したところで割れてしまった。今度はピストンリングの溝ではなく 、アルミを鋳造するときに砂型の砂を掻き出す穴にプラグを埋めたその加工跡から割れていた。

その部分の電子顕微鏡をみているとアルミニウムの表面を覆うアルマイト層が南極大陸に乗った氷河のように見えた。その氷河に深いV字状のクレバスが見え る。Vノッチの連想が一瞬頭にひらめいた。このクレバスの底のアルミ母材に応力が集中し、疲労が蓄積し 、ここから割れ伝播がしたのではないかという疑惑である。このアルマイト層の厚さはと聞くと50だか200ミクロンだったか覚えていないがガスが腐食性な ので、特に厚くしたというではないか。

「何!ガスが腐食性だと!トンでもない 」

運転中は露点以上で腐食性などないのだ。しかしプロセス設計部が作成したデータシートにはたしかに腐食性と書いてある。ガス中に微量の硫化水素が含まれて いるのでマニュアルに忠実なエンジニアが停止中に冷えて露点にもな るかもしれないと考えて書いたのであろう。乾燥状態なら硫化水素による腐食のリスク はゼロである。機関停止中にシリンダーが冷え、ガス中の微量の水分が凝縮すればリスクはある。でもここは熱帯地方だ。 腐食のリスクと披露破壊のリスクのトレードオフを考えれば決断は簡単にできた。アルマイト加工しないピストンに交換して以後、このピストンは10年も運転 を続けている。

国内のM石油の水島製油所の重油脱硫装置で火災が発生した。幸い人身やプラントに大きな被害はなかったが、その原因が配管ドレン弁がゆるみ、念のためつけ ていたキャップが外れて高温の重油が流れ出し、発火したものらしい。運転側に落ち度がないという自信があるので、何らかの振動で弁がゆるみ、キャップもは ずれたのではないかというのだ。そのようなことをいままで経験もしたことがなかった。専門家数人を引き連れて現地に乗り込む。

運転員の証言は信じるとしてどのような振動がこの小さな弁をゆるませたのかその原因を探ることにした。そもそもこのプラントは既設装置を改造してスルー プットを増す大改造をしている。100気圧の水添脱硫反応器に重油を送るポンプの吐出配管系のロウ・ポイントにつけたドレン弁が犯人である。大改造時にこ のポンプは大容量のポンプに入れ替えた歴史がある。 結果として新ポンプの締め切り圧力は既設熱交換器群の設計圧力を上回ってしまった。そのとき、M石油は既設の熱交換器群の再利用を強く希望したという。と いうことでこの配管系に4インチの巨大な液放出安全弁を取り付けて熱交換器群の再利用を計った。私はこの安全弁の弁体が振動し、この振動がドレン弁を共振 させたのではないかという予感をもった。しかし顧客の工務部長は当該弁を分解点検してなんらのあたり傷も発見できなかったから、この安全弁は無罪であると 主張する。彼らはポンプに設置してあるミニマム・フロー・バイパス弁が100気圧の減圧時に発生させる振動が原因であると主張し、実験プラントまで作って 証明しようとしたが、証明はできなかった。

原因不明のまま、とに角ミニマム・フロー・バイパス弁の振動を防止するため、多段オリフィスの減圧装置をつけた。また安全弁も場所を移してしっかり基礎に 固定し、ドレン弁にはリプをつけて容易には共振しないようにし、かつキャップはフランジ止めにした。配管自体の振動防止目的で熱応力の逃げが許す範囲内で 固定した。

M石油の副社長から本社に来てくれないかと声がかかって出向くと卒業論文のための研究を一緒にしたNではないか。かれは隣のN鉱業のプラントで同種の事故 があったという新聞の切り抜きを見せて、

「安全弁が原因なのではないのか危惧する」

といった。

「それこそ私の意見だったのだが、お前の工務部長が強く否定している。もう一度彼に警告してみよう」

と引き下がった。即、工務部長氏に電話を入れると

「本社のだれがそんなバカなことをいっているのか、絶対に安全弁ではありえない」

と猛烈な剣幕であった。

「お宅の副社長ですよ」

といっても

「バカな!」

で取り付くしまもない。工務部長氏はそれだけの人だとあきらめる外ない。

そうして運転再開し、運転側も夜の見回りを強化したが、今度はリプをつけて補強したドレン弁が根元から千切れて飛んで、油がもれ、再度火災が発生したとい う。早速駆けつけた。状況証拠を把握し、 宿舎に引き上げて皆でビールを飲んだ。そのリラックスした瞬間にあるアイディアがひらめき、それをふと口にした。翌朝の朝食のとき、計装エンジニアが「昨 夜のことですが、私も気になってリサイクル弁のポートの計算をしてみたのですが」とその計算結果を報告してくれた。 その計算結果はリサイクル弁の作動よりまえに安全弁が作動したことを暗示していた。私は「そうだやはり安全弁の弁体の振動しか考えられない !全ての証拠がここに集約する」とさけび皆も同意した。この説明を朝の会で説明するとあの頑固だった工務部長もなにか感じたらしく、即、「実機で実験して 見ましょう」という。全員立会いの下にプラントをスタートし、ポンプ吐出圧力を上げてゆくと突然この安全弁が強烈な振動を伴ってうなり出した。 そしてドレン弁が共振し、猛烈な勢いで首降り運動をしている。このまま長時間運転すればまたドレン弁が疲労破壊でぶっ飛び 、我々はファイアーボールにつつまれてしまう。私は実験の中断を申し出て、

「これで明白ですね」

と震えの止まらない声を出した。

原因が分かれば対策は簡単である。オイルダンパー付の安全弁にすればよいのだ。それまでの間は制御システムで安全を確保することで、本件は終了した。その 後の再発はない。後日彼になぜ安全弁だと思ったのか聞いたところ若いとき、原油の脱塩装置の大型液安全弁の弁体が震動して問題を起こした経験があったから だという。彼の経験が工務部長には伝承されていなかったのだ。とかくトラブルは秘匿されるのでこうなる。後で調べてみると米国のメジャーオイルの設計マ ニュアルには理由の説明はないが大型の液安全弁は要注意との但し書きがあった。彼らも経験済みのことだったのだ。私は社内に公表して経験と理論の共有をは かり、社外に配布する技術報告書にも特定の企業名を明かさずに発生した事象と理論説明文を発表させた。

 

アンタッチャブルの購買部門

購買に深く関係したのはアルンLNGプロジェクトだけで、それもプロジェクト購買担当者の関川に任すことができなかった 巨額の海洋工事のサブコントラクト案件と明らかに国内の保温・保冷工事業者が談合したと見られるケースだけだった。それゆえ 、恒常的組織である購買部のことはよく知らない。機材の購買から工事のサブコントラクトまで全ての調達は購買部が仕切ることになっているため、購買部がこ れ以上は値切れませんといえばそれでおしまいだった。プロジェクト側にできることといえばせいぜい引き合い先のリストに意見が言えるくらいなものである。 千代田が文系営業の食い物になっていることに嫌気をさし、東頭さんにさよならを言ってベクテルに去った平は後年、ベクテルを内部から観察した結論として

「千代田とベクテルの差は購買力の差だ」

といった。

平は故前葛さんからダス島LNGプロジェクトのLNGタンクトラブルの事後処理担当者を命じられて折衝を重ねる過程でベ クテルの4代目社長ライリーベクテルに近い弁護士にその能力をみそめられた。そしてアジア支社の営業部長に登用されていたのだ。外のメシを食ったのでこう いうことが見えてきたのだろう。給与は一挙に2倍近く上がったのではないかと推察する。

プラントコストの40-60%は購買品のコストで40-25%は工事費で最大のコスト要因なのだ。 エンジニアリングコストは20-15%に過ぎない。平のいうことが正しいだろうという判断材料を私は4つ持ち合わせている。

一つ目は銀親が担当したトリニダード・トバゴのLNGプロジェクトだった。米国のやわらかい腹といわれる領域に殴りこみ をかけたのはいささか冒険だったのかもしれないが、大差の応札価格でベクテルに負けたのである。 そしてベクテルは決して赤字ではなかったのだ。その差の理由は彼らの方が安く機器を買えることと直雇方式の工事に起因すると考えられる。千代田は直雇方式 の工事能力を持っていないので、現地サブコンに吹っかけられても、値切る力はなかったのである。

二つ目は印刷されているゼネラル・タームズ・アンド・コンディション(ゼネタム)だ。ここには何があってもベンダー、サブコントラクタの責任と書いてあ る。リスクを全て背負わされるわけで、コンティンジェンシーを上乗せせざるを得ず、コントラクターにとっては高い買い物になるのだ。

「コントラクター側がリスクをプールして管理するようにすれば、全体のコストは下がるよ」

とアドバイスされ、アルンのLNGプロジェクトで は購買部門と交渉して一部そのようにできたが、一般論としては受け入れてもらえなかった。

三つ目は技術本部の能力不足である。受注量に対して処理する担当者は少ない、英語の仕様書を読解するスピードはおそい。 しかし納期は短い。早く引き合い仕様書をまとめねばならない。そこで手っ取り早い方法として関係ありそうな仕様書は用心のため、 関係書類として添付して非常に厚い引き合い仕様書を作ってしまうのである。特にベテランが多角化に魅力を感じて飛び出してしまってもぬけの殻になってし まったバックエンド・エンジニアリングにこの傾向がつよかった。 ベクテルなら英語は母国語だ。ここにハンディキャップがあった。消防車1台の仕様書の厚さが8センチもあるといってミラノ調達事務所の沼末さんが苦情を 言ってきた。イタリアのベンダーも英語は不得意なので厚い仕様書を読む時間が不足し、リスク分散のため、高い応札価格を提出してくるというのである。残念 ながら、これが私が管理することになったバックエンド・エンジニアリング部隊の実力であったのである。そして私が軌道修正指導をするころは狂乱の受注活動 は終わりをつげていたのである。 購買部門の上層部は多角化で弱体化した技術本部の無能をあげつらって責任逃れの口実にしていた感がある。コストを下回る契約金額の低さもさることながらア ジアの顧客が要求した短納期競争も厚い仕様書、高いコストになる要因でもあったわけである。固定価格契約であるため、しわよせは全てコントラクターが自ら かぶることになったのである。

四つ目は仮に千代田に国際性の有る人材がいたところで、千代田のようにたまに買いに来る客より、ベクテルのように常時 買ってくれる客を重要視するのは世の常だろう。

このようなことを思い出してみて、武山さんの

「千代田の購買コストは競争会社と同じだ」

という確信は何を根拠にしていたのか、分からなくなる。

為替の急激な上昇でドルベースで競争力を失った国内メーカーからの調達比率は下がり、国際的な調達比率を上げなければな らないのに、購買部の人間は国際化に遅れ、その調達能力は欧米のそれに劣っていたことは認識していたが、ジュニアや桃平社長の下ではこれを改善するための 要員の交代や教育はほとんどおこなわれなかった。平は千代田の購買の体制を変えようとして米国子会社に左遷された祖根さんの同志だったと打ち明けた。祖根 さんが失脚したのち、元気な彼も

「はずかしながら沈黙せざるを得なかった」

と苦笑いしていた。

「千代田の購買部はジュニアの聖域になっている。ここにメスをいれないかぎり、千代田の将来はない」

とまで言い切った。

上町さんも千代田をやめて大学教授になってからからの打ち明け話に、自分の管轄下にあった購買部を改革しようと関川をそ の部長に任命しようとしたところ、ジュニアから直接電話が入り、

「その人事は承服できない」

とはっきり言われて非常におどろいたと言っていた。関川はかってアルンLNGプロジェクトでプロジェクト購買の全ての購 買を担当して、巨大な利益をもたらした人物である。退職後聞いたことであるが、反塚常務や慎葛が国内業者の談合を 采配していたという話も聞いたことがあるが本当のところどうだったのかは知らない。いずれにせよ安い受注金額と支払いの差額が赤字となって残ったことは事 実である。

 

新社長の下で技監

紅衛兵といえば4人組がいるわけで、千代田の4人組はそれぞれ山と川がつく34年入社の4人だと技術系の口さがない連中 はヒソヒソ声でマユをしかめるのだった。私は赤字の責任をとって辞任した桃平社長の後任には東頭副社長になってほしいと思っていたが、4人組の一人、南山 さんがジュニアによって後任社長に指名された。南山さんが 「創業家3代目を社長にする会」を設立したことが会長のおめがねにかなったとは思いたくないが、院政を引きたかったのだろう。同族維持が目的化してしまう と「劣性遺伝」が続くものなのだ。

南山さんは宴会営業の巨頭で宴会を楽しくすることは得意だと自認していた。 私も彼が永福町の豪邸で外国からの賓客をもてなす席に何度か呼び出され、同席したことが何度かある。彼は幸運にも桃平社長の下では無任所だったため、赤字 に関しては無傷であったのである。

1997年3月、赤字を出した執行部を率いた桃平社長、社長命令で値下げ競争に突っ込んでいった武山さん、予算カッター として辣腕をふるったが、コストカットには失敗した頭島さん、購買部を仕切って高い買い物をしたかもしれない反塚さん、死に体だった土島そしてバックエン ド・エンジニアリング部隊を預かっていて設計品質を維持できず、手直し工事を多発させた私、多角化した新規分野をひきいていた翁川さんなどの役員が責任を とって役員を辞任した。私は60才前で若かったから技監という役職をもらって千代田に残った。しかし実態は窓際族の仲間入りだ。多分、辞職して競争企業に 転職されるのを防ぐためだったのだろう。常務会がどのようなものであったかは知るよしもないが、平取からみていると社長以下、常務が日々の経営方針をきめ て、命令が天から降ってきて反抗はできなかった。商法上の取締役の責任は知っていたが、会社の大きなうねりのような流れを、取締役一人で押しとどめること ができないこともわかっていた。辞めてほっとしたものである。

桃平社長の後任の南山さんは慶応大学法科の出身で学生時代は競艇のコックスをしていた人だ。 千代田のボート部にも関係していて入社当時案内してもらったこともある。 桃平社長が急遽降板したため、南山さんはなんらかの打開策をもって社長に就任したわけではない。見ていても気の毒なくらいで、溜まった膿を出す抜本的な手 術ができる人ではなかった。任命した会長が膿を出したくなかったと思いたくないがこれが事の成り行きだった。

彼を補佐する立川さんが主導して性懲りもなく、米本昌平氏が「独学の時代」で紹介しているL・ローウェンタール、N・グ ターマンの”扇動の技術” に書かれているような一種の儀式に全社員を巻き込み、お祭り騒ぎを繰り返して更に2年を無為にすごしたのである。 このような一種のマスヒステリーのなかで会社の支配的精神とでもいうべきものの流行に抗することの難しさはその渦中にあった者でなければわからない。

南山さんとは、若いとき、常畠さんと3人でセールス活動のため、世界を一緒に回っていていたことがある。テヘランで シャーに会いたいと工作した後、ロンドンを回ってモスクワのホテルに滞在していたとき 、

「自分に星はあるか」

という会話を常畠さんとしていた。将来社長になれるかと私は勝手に理解した。そのくらいの野心を持っていたことは知って いるが、社長になりたての新旧同席の役員会で世界地図の逆さにしたいるオーストラリアの地図をかざし、今後はこの地図が示すように同じ世界を視点を変えて みなければならないと大見得を切ったのには苦笑いを禁じえなかった。彼が実際に取った施策は原点に帰るという ことで、創業社長の思考過程を理解せずして形を真似るというやりかたであった。

南山社長になってもマレーシアの巨大リファイナリー拡張工事のプロジェクトマネジャーの雪畠は常に楽観的だったが、赤字は膨らみ続け、底知れぬ恐ろしさを 我々に与え続けた。土島海外プロジェクト本部長は

「武山専務が任命したプロジェクトマネジャーの人選は間違いだ。彼が何を考えているかまったく分からない」

というようなことをいつもぼやいていた。マレーシアは雪畠が一人で抱え込んでいて手の打ちようがなかったし、だれも代わりのプロジェクトマネジャーになろ うという人は居なかった。そして1プロジェクトで数百億円の損失をだしたのである。さすがの南山社長も何か対策ととろうとサウジアラビアのルーブオイルプ ラントに関しては、赤字で受注した岳下元海外営業本部長を現地に派遣した。しかし彼は追加金額の請求を性急にしてかえって顧客のモービル担当者を怒らせて しまい。千代田の悪口を米国メジャーの友人達に発送する騒動まで起こして、逆効果だった。小峯はこの悪い噂の釈明にテキサコに飛ばなければならなかった。

南山さんは文系営業出身で新技術開発は中央研究所で行われるものという古い神話にとらわれていた。上町研究所長が完璧に 演出した研究員の発表会を聞くのが大好きであった。所長は発表会で私が質問してぶち壊しにすることをきらって、質問を時間がないと受け付けなかった。新社 長は上町氏を技術のトップに据え、更なる30%のコストダウン運動の先頭に立たせた。 南山さんで3代の社長につかえた立川さん、お得意の組合運動のような集会を催して社員に激をとばした。第二次大戦中の竹槍で戦えというような悲壮なムード を盛りあげる尖兵とされた上町さんに哀れをもよおした。

「30%のコストダウンなんて無理なのだからあまり深入りしないほうが良いよ」

とアドバイスするのが精一杯であった。 沈み行くタイタニック号の船上でバンドが演奏を続けた事は有名だが、南山さんのしたことはこれであろう。

こうして「世襲企業に残るのは"茶坊主とバカ殿だけ"」ということに 相成ったのである。

 

負の資産の精算

私がみるところ、創業社長が残した負の資産は円高についてゆけなかった川崎工場、売れる技術を生まなかった研究所、多すぎた文系の社員であった。 多すぎた文系社員の一部が跳ね上って勤労ファッショ、営業ファッショを生み出し、技術者連中を疲弊させ、無責任にさせたのである。

 カエサル

「どれほど悪い事例とされていることでも、それがはじめられたそもそもの動機は善意によるものであった」

といい、ニコロ・マキア ヴェッリも政略論で

「都市であろうと国家であろうと、規模の大きな共同体ならば、時が経つにつれて欠陥があらわれてくるのを避けることはできない」

と言っているが、創業社長がこの仕組みを作ったときは適切な方策だったのだ。しかし時代の変化とともに無用の長物どころか重荷になっていたのである。いず れも扶養家族となり、間接費の過大な負担はグローバル化時代の競争力を阻害し、無茶なコスト割れ受注とあいまって赤字を増大させた。このうち川崎工場だけ は桃平社長の時代に精算できたが、研究所、多すぎる文系の社員はジュニアが会長を務めていた 南山さんの時代は温存された。桃平社長は心のうちでは研究所はもう必要ないと思っていたかもしれないが、創業社長に子安研究所の所長に任命されたいきさつ からしても研究所をつぶすことまでは考えなかったと思う。

結果として研究所、多すぎる文系の社員は巨大負債を抱えた千代田を救出せんと大株主が動いてジュニアと南山さんを引退させ、東頭さんを社長に据えるまで待 たねばならなかった。

ここで東頭社長の若き時のエピソードを紹介しよう。沖縄のE社の製油所工事の時だったという。E社の工事仕様書では鋼管杭にペンキが塗ってある場合、数本 打ったところで1本引き抜いてペンキがはげていたら全て引き抜いて打ち直しとなっていた。何度これを繰り返してもペンキははげる。サブコントラクタも土木 技師もやっていられないと ギブアップしてしまった。このとき、プロジェクト現場担当者だった東頭さんは顧客の検査技師のところに出向き、検査に合格する方法をご教示願いたいと下手 に出た。検査官も放っておくわけにも行かないから、色々アイディアを出して指導してくれた。しかしいずれもうまくゆかない。困った検査官はE社の技術の総 本山のフローラムパークにお伺いをたてた。フローラムパークからの回答は

「その工事仕様書は無視せよ」

だったという。これで関係者は皆満足し、メデタシメデタシ。

比較のために同期入社の岳下さんの逸話をご紹介しよう。岳下さんは若い頃、シンガポールかなにかのリファイナリー工事に従事していた。パワーケーブルはト レンチの中に互いに交差しないように並列に一層並べて、検査官のOKをもらっては砂を入れ、その上に同じことを繰り返すことになっていた。ケーブルの中に は何本かクロスしていて検査官のOKはもらえなかったものがあったが、岳下さんは検査官の権限を甘くみて、検査官の警告を無視して工事を続行させた。工事 が全て完成し、運転に入る直前に顧客からパンチリストをもらう。この中に沢山のケーブルがクロスしている事実が列記してある。これを全て修正しなければプ ラントは受領できないと言われてしまった。あとはご想像におまかせする。この方は後日、海外営業本部長になって赤字受注したサウジアラビアのルーブプラン トの追加請求を性急におこない、顧客をかんかんに怒らせてしまった。子会社の社長になっても同じ過ちを繰り返し、私がその後始末をするはめになるのだ。よ うするに国際的なルールを無視して性懲りもなく墓穴を掘るのである。

東頭さんもカタールのNGLプロジェクトのプロジェクトマネジャーをしていたときは赤字で苦しんだ。本社の許可なく、アービトレーションにまで持ち込んで 値増し交渉を勝ち取り、トントンにした。このとき顧客に悪感情を残さず、むしろ友人にしたという稀有の人だ。この過程で創業社長ににらまれて、一時は辞職 するかもしれないと奥さんに予告したという。過労で目が見えなくなって、目を閉じたまま、現地雇いの秘書に手紙の口述をしたこともあったそうである。

東頭さんとの差は歴然である。桃平さんが岳下さんを切りたくなった理由は別であるが、桃平さんの部下は皆、迷惑をこうむるので困ったものだといつも考えて いた。桃平/武山/頭島組が国際感覚がすこし麻痺したまま、海外プロジェクトに突っ込んで大怪我したという感じであった。

ジュニアは社長を桃平さんにゆずるのは悩んだらしい。過労で急逝した前葛さんがかわいがった平を社長室に呼び込んで、

「おれを継ぐのは桃平さんしか居ないのだが、これで良いかね」

と聞いたそうである。いずれにせよ東頭さんを社長にするつもりはないと公言していたそうである。国際派の反応を知りたかったのであろうか?

ジュニアが失脚してから社長となった東頭さんは創業社長に仕えた森所さん同様、プロジェクト出身のため、エンジニアリング企業に研究所は不要と考えていた と思うが、社長になるまで、一切関心が無いふりして沈黙を守っていた。その彼も減資、借入金の一部免除、不要人員の整理を断腸の思いで断行しなければなら な くなったわけだ。結果社員数を1,000体制に絞りこんだ。多すぎる文系の社員は日本国家の官僚組織と同じく、文官優位の体制を築き、1934年入社の南 山、武山、立川、翁川の4名は”4人組”と技術系からは忌み嫌われ、恐れられたが、ジュニアとともに去った。研究所の主要メンバーは辞職して大学教官と なって去った。価値観が違って社業に貢献できないもだから間接費が減った分だけ、身軽になって企業業績に貢献することになる。 ジュニアが残した多角化路線も本業回帰の世の流れとともに見直され、不良資産ともども整理された。

くわしく数えたわけではないが、千代田の歴史はじまって以来30名くらいの大学教授が千代田から育ったのではないか。それだけ創業社長は優秀な人材をそろ えていたということになる。日本の大学教育の短所は純粋培養の教授が外の空気にふれもせで、狭量な教育をだらだらとしているところにある。これら30名は 過酷な職場でもまれた経験をもっているので多少とも有為な青年の教育に役立ったものと思う。私自身の経験でも学長にまでなった前田教授は八田先生の下を巣 立って当時の朝鮮窒素という会社に入ったのだが、八田先生が日本軍から触媒反応管の熱伝達の研究を委託され たとき研究担当として白羽の矢を立てたのが弟子の前田さんだったという。敗戦となって朝鮮窒素も消えてなくなったので大学に残ったのである。故徳久教授 だって創業社長と共に三菱合資会社に入り、戦前の石油精製業を立ち上げた人だ、敗戦で職場を失い、大学教授でもやるかと、大学にもぐりこんでいたのであ る。学生としてこれからでてゆく社会の仕組み、その表だけでなく、裏までしっかり教えてもらったものである。

こうして身軽になった千代田はMグループの支援で信用力も増し、東頭社長の時代の2001年、オマンLNGプロジェクトをS社から受注した。砂屋とプレ セールスのためにマスカッ ト・オマンに出張したことを懐かしく思い出す。千代田が1969年頃ブルネイLNGを取り逃がして以来、実に30年後にはじめてS社の サハリンLNGプロジェクトを受注できたのである。S社は石油精製プラントに関しては恒常的に千代田に発注してくれていたが、LNGに関しては競争会社の N社より低い応札をしても決して千代田には発注してはくれなかったのである。門社長になってからはS社はサハリンLNGプロジェクトも発注してくれた。そ して2004年2005年と立て続けに世界最大のガス田の上に鎮座するカタールのLNGプラントの第7系列までの拡張工事をE社/M社から受注できた。こ うして予定より1年前倒しで黒字転換し、復配にこぎつけ、株価は往年のレベルを越え、最低時の50倍にも跳ね上がった。18章で書いたようにカタールLNGプラントの第 1&2系列の受注のキッカケを作り、現在の展開への礎石を作った者としてうれしかった。

南山社長のころ、M商事の要請でK社が千代田の増資に応じた。南山さんに意見を求められたが、私は

「赤字会社に出資をしてくれるなら、ありがたいではないですか」

と賛成した。K社のオレフィンプロセスという魅力もある。しかしK社は長年競争相手のN社とパートナーシップを結び、LNGプラントマーケットで千代田と 競合してきた会社である。S社などメジャーオイルは必ずコントラクターに競合会社を必須用件としている。従ってK社がN社とのパートナーシップを解消しな いかぎり、K社は千代田のLNGビジネスには関与できないのである。なぜこのような条件でもK社が出資したかが分からなかった。オレフィンプラントでの提 携は大きな理由ではないだろう。競争を原則にしながら応札価格に関係なく、S社はブルネイLNGプロジェクト以降30年間、LNGプラントをN社/K社に 発注しつづけた。しかし、M商事トップが千代田救済に乗り出してから、S社は千代田にオマンとサハリンを発注するようになった。そのころ、平氏はM商事を 去ったのである。K社日本支社にM商事のガスプラント部から平氏が移籍したと聞いたとき、謎はとけたような気がした。K社の社長S氏が永年の彼の功績を評 価していたのだ。その平氏もS氏 退職後、職を失ったという。平氏とロンドンでゴルフをしたとき、彼は

「一切はS社のご意向」

ということを言っていたのが思い出される。

いままでS社のLNGプロジェクトを実質的に独占してきたN社は手持ちLNGプロジェクトがインドネシアのイリヤンジャヤとナイジェリアだけになって今 後、苦しいのではないか。2005年には株価も逆転してしまった。

ただ2005年の千代田の黒字復帰、復配は過去の遺産を食い潰しているに過ぎないと言える。顧客の潜在需要を敏感に感じ取る営業と設計部隊を育てることが できるかが、将来の運命を握ることにかわりはない。ウォークマンで成功したソニーがアップルのiポッドの後塵を浴びているのを見ても、潜在需要への感性の 差としか思えない。

プロセス設計部の善山吉次は失職に備えて博士号を取得したが、未だに引退することもできず、LNGプラントのフロントエンド設計に忙殺されている。大学教 授に転出する時期を逸してしまうのではないか。 まー、そのほうがいいかもしれない。大学は時代に取り残されている。

プロセス設計のまとめ役となっている平峯君は受注のために必死になった働いたが、今度は多量の受注ジョブをこなさなければならないとため息をついている。 彼も歳をとっただろうが、うまく処理してほしいものだ。私が残し てきた弱体化したバックエンド・エンジニアリング部隊はその後、フィリピンとインドの海外設計拠点が能力をつけて好調だと担当役員の黒島君が言っている。 やっと育ったのだろう。

後崎の部下として長年CAPESの開発にたずさわってきた、数学科卒業の”ちえこちゃん”が近くに住んでいる。彼女は業績が上向いて採用を開始した新卒の 教育係にされた。しかし最近の大学教育を受けた学生は意欲は充分なのだが、基礎学力が身についていない。ビスフェノールA製造プロセスの設計をさせるべく CAPESの説明をしても呆然と立ち尽くすのみでプログラムを使う能力はないとサジを投げてしまった。こんな連中のために残る余生を無駄にしたくない。主 婦をつとめながら、たのしい物理の勉強をしたいと引退してしまった。近頃の工学部教育はなにをしているのだろうかとピラミッドの壁画の言葉が頭をよぎる。

やはり戦力になるのはかっての社員だと他社に移った人材を再雇用しているという。

LNGプラントのような巨大プロジェクトを受注し、人手不足が深刻となると、私の残したもう一つの医薬品プラント・プロジェクト担当の都端君や渡末君らの 後輩達が仕事のできる環境でなくなったとこぼしている。 都端君だってかってはT石油の天然ガス処理プラントを設計し、運転したではないか、振り出しにもどってGMの 取締役チャールズ・ケタリングのいうアマチュア・プロフェッショナリズムに立ち返る時かもしれない。 都端君はその後、医薬品プラント・プロジェクトを卒業してシンガポール事務所長を拝命し現地に赴任した。

ジュニアが残した不良資産の一つ購買部がどのように生まれ変ったかは知るよしもない。千代田の多角化、分権化を先導した紅衛兵のリーダーとなった若手文系 の策士、上峰ら残党は しばらく残っていたが、彼もようやく間違った職場に居たことを悟ったか千代田を去ったようだ。

2007年になると中国の経済発展に伴いエネルギー需要が増え、原油価格も70ドルを越え、日本の原発も耐震設計の甘さが露呈して55基中10基が停止し たまま運転再開に数年を要する事態になって、LNG需要はウナギのぼりとなった。平たくの試算によると千代田を含む世界のエンジニアリング5社は過去10 年間にそれぞれ年産600万トンの生産能力を建設してきたことになるという。それぞれのシェアは千代田37-40%、ベクテル25-30%、K社/N社 25%、テクニップ他5%のようだ。

2011年3月11日には福島第一の3基がメルトダウンを起こし、世界は脱原発の方向に動き出した。天然ガス資源は限り があるが、掘削技術の進歩により、非在来型ガスが安価に手に入るようになったのでLNGブームは今後しばらく継続するだろう。

このようなLNGブームを乗り切る千代田の社長として入社以来LNG畑を歩んだ高畠が適任と門社長の後任として指名された。彼が新入社員をして入社したと き、千代田はベクテルと合弁でチームを組んでブルネイLNGプロジェクトの入札用見積もり作業をしていた。前葛プロジェクトマネジャーが彼を要員として確 保してきて、私にお前の後輩だから養育係りを命ずると下命されたことをつい昨日のように思い出す。

 

そして今

1971 -73年のアラビア湾のダス島に建設した天然ガス液化プラント建設プロジェクトで育った私を含む世代がアルンLNGプロジェクトで350人に達する大勢の人材をそだて、彼らから 現社長以下千代田を支えているマネジメントが輩出している。

千代田はカタールLNGプラント1,2系列を完成した後、3系列目は受注できなかったが4-7トレイ全てを受注した。サハリンLNGプロジェクトをあわせ 約1兆円に達する 契約である。2008年の原油高騰をうけて世界的に天然ガスプロジェクトが増えたのと、ドバイでの都市建設ブームで機器・資材の納入遅延、労務者払底によ る工期遅れ、人件費高騰でまだ苦戦した。4,5系列は2008年末にはなんとか完成に近づき、現場から続々と人が引き上げられるようになったという。しか し残る2系列は まだ苦しい戦いが続いている。

プラント需要の急激な増加でエンジニアリング企業側の売り手市場だったため、ランプサム契約といってもレインバーサブルな要素を加味することができたおか げで原油価格高騰という大きな変動があったとき、数百億円の追加がもらえるように してったので助かっている。またマルチカレンシー契約なのでサブプライム問題に端を発する為替変動も乗り切れているということだ。

ここで世界最大のガス田のガスを液化するラスラファンのLNGプラントの現在の航空写真をグーグルマップにリンクして表示する。北側のブロックに3系列、 南側のブロックに4系列見える。

LNGタンクは米国式の9%Ni内殻ー鋼鉄製外殻製である。アミン系は有機硫黄分離のためスルフィノールを選定したが、 原料ガス中の硫化水素濃度が次第高くなってきたため、アミン系のプレトリートメントが必要になり、ドイツのBASFが開発したより優れたアミンプロセスを 別途建設中という。

 
大きな地図で見る

サハリン LNGプロジェクトは内陸パイプラインの環境問題を口実にしたロシアの資本増強のため、ガス供給が遅れたことが幸いして工期にゆとりがでた。 2008年試運転担当者を残して全て引き上げたという。 これは実績の多いAPCI社の液化器ではなく、リンデの液化器を採用している。リンデの液化器はノース・ウェスト・シェルフ・プロジェクトのダンピ ア・プラントで初めて採用されたが、混合冷媒の不均一流のため設計能力が一号機は70%しかでなかったがサハリンではうまくいったようだ。

 

まとめ

後畠課長はよく

「えらくなりたかったら俺の下にいてはダメだよ、早く出ていって雄飛したほうがよい」

とおしゃっていた。その通り、プロセス設計部からプロジェクト遂行部隊に移り、大きく伸びた人は沢山いる。しかし私は設 計能力に自信があったし、好きで、これで社会に貢献できれば幸いと思っていたのでずっとこの課長の下に残った。

設計者として最も幸福な時はプロセス設計課長となって25名位の部下を率先指導・指揮したときだと思う。GEの元会長、 ジャック・ウェルチ氏の名言、

管理するな、リードせよ

を実践できた時代である。部長になれば間接指揮となり、ものごとは抽象的になり、つまらなくなる。歳をとれば、設計部門 には邪魔になるのでプロジェクトに出て大勢の人間を動かす役目を果たさなくてはならない。その醍醐味もじっくりと味あわせてもらった。しかし1,000人 というオーダーの人間を動かすのは性に合わないというか、いつも自分の大切な時間とエネルギーを浪費しているように感じたものである。 故東畠部長のようになっていたのかもしれない 。

破産しかかった名門企業のゼロックスを生き返らせたアン・マルケイヒー会長兼CEOのいう

「あの人にならついてゆこ う」

と部下に思わせる人望はジュニア、桃平社長、そして4人組の南山さん、武山さん、立川さん、翁川さん他、多くの役員にもなかったし、私自身もバックエンド エンジニアリングのチーフだった時代、部下を奮い立たせることができなかったと感じている。若き頃、後輩をリードできたのに、歳とって人望のない人間の仲 間に入ってしまったと思う。ダ ビデではないが「われは我が愆(とが)を知る。我が罪は常に我が前にあり」だ。ガレー船の漕ぎ手であっ たベルベル人にムチをふるうギリシア人やローマ人はベルベル人に人気があるわけはない。

取締役の末席に連なっていても、末席というのはその立場に立てばすぐわかるのだが、まことに弱い立場である。ジュニアの 紅衛兵時代と部下の処理能力無視で受注競争に狂奔した桃平社長の時代を生き抜くため、大変苦しい思いをした。いまでも心の傷はトラウマとして残っている。 それも時が癒してくれて懐かしい思い出となった。”恩讐の彼方に”という菊地寛の小説があるが、かって感じた 苦渋も今では色々勉強して冷静に分析できるようになった。この回顧録を書きたいという衝動とそのエネルギーは 「汚名のうちに生きる日」から脱却したいためなのだろう。

2006年になって会社法がドイツ式の事前規制から欧米式の自己責任に変った。この前提となる法理が「経営判断原則」であ るという 「経営判断原則」は「経営の意思決定は結果に責任を負うものではない」が「経営の責任は意志決定のプロセスにある」とする。 その心はリスクにチャレンジすることを束縛しないが、意志決定プロセスは厳しく看視しようとするものである。これからの経営者は十分なリスク分析と合理的 な論議の証拠を残さなければ 我々がしたような過ちを繰り返し、職を追われるだけでなく、乏しい資産さえ失う事態が待ち構えている。

アーノルド・トインビーは「歴史の研究」で”失敗には積極・消極両面あるが、消極失敗 の最たるものは指導者自身が、追従者にかけた催眠術にかかることである。兵卒の従順さが、士官の自発性喪失という不幸な代価を支払うことになる。これが文 明の停滞期の原因となる。指導者が指導する能力を失うと、彼らの権力保有は濫用になり兵卒は反抗し、士官は力ずくで秩序を回復しようとする。これは積極的 失敗である。これは衰退した文明の解体である”と言っているがまさにこういうことを体験したわけである。

こうして振り返ってみると、わが社も明治45年3月に与謝野晶子33才の時発表した歌、「或る国」に歌われた状 況と大差なかったと思うのである。

堅苦しく、うはべの律儀のみを喜ぶ国、
しかも、かるはずみなる移り気の国、
支那人ほどの根気なくて、
浅く利己主義なる国、
亜米利加の冨なくて、亜米利加化する国、
疑惑と戦慄とを感ぜざる国、
男みな背を屈めて宿命論者となりゆく国、
めでたく、うら安く、万万歳の国

2005年になって「真面目(まじめ)ナル技術者ノ技能ヲ、最高度ニ発揮 セシムベキ自由闊達(かったつ)ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設 」と設立趣意書に書 いたソニーも魅力或る新商品を出せず業績が低迷し、経営陣が総退陣した。わが社と同じく 「技術者ノ技能ヲ、最高度ニ発揮セシムベキ自由闊達(かったつ)ニシテ愉快ナル」環境を提供できない病弊があったと見える。

July 9, 2005

Rev. Rev June 2, 2016


M商事の支援の下に世界最大のガス田のあるカタールでLNGプロジェクトやNGLプロジェクトを多量受注した千代田では あるが、2008年の石油価格高騰の余波で中近東特にドバイなどでの巨大建設工事のために労務単価が高騰し、ランプサムで受注した工事を予算内で約束した 納期内に完成させることができず、困難に直面している。結果論かもしれないがこのような経済の激動期にランプサム契約をすること自体が無謀であったことに なる。この困難な時期を乗り越える舵取りを任された後輩の高畠君が上手く乗り切ってくれることを期待する。

Rev. August 18 2008


2008年にその後の千代田化工について記してから9年が経過したとき、2017年2月に 35%出資の持分法適用会社だった「EMAS CHIYODA Subsea」が経営破綻したことに伴う数百億円の累積赤字がでた。日経2018/11/1には再び千代田化工が1,000億円という巨額の赤字を抱え事 業継続への疑義がでたというニュースが飛び込んできた。マ クダーモットとのJ/Vでその建設を請け負ってい たルイジアナのカメロンLNGプロジェクトの工事の遅れで800億円教の赤字になったためという。その原因は2017年にルイジアナを襲ったハリケーンの 後始末のために建設労働者市場がひっ迫し、トランプの国境を超える人の制限政策も重なって、労働者の確保が出来なくなったためとされている。このキャメロ ンLNGプロジェクトへは三菱商事と三井物産が出資しており、国際協力銀行及び民間金融機関も融資している。

東芝が米ウェスチングハウスに投資して、2008年に米国のサザン・カンパニーのジョージア 州ヴォーグル(Vogle)原発3,4号機とSCANAの子会社South Carolina Electric & Gas Companyのサマー原発2,3号機 (SCE&G)PWR原子炉2基計4基の契約をして膨大な赤字計上したのはウェスチングハウスが工事をCB&Iに任せたためだといわれて いた。ところが千代田も米国の2つのシェールガス輸出向けのテキサスのフリーポートLNGとルイジアナのカメロンLNGプラントの建設をCB&I に任せて いると聞き、千代田がウェスティングハウスより上手くやれるのかと心配したものです。このCB&Iは私が現役のころはIHIにLNGタンクの技術 ライセンスをしている会社で 鋼板の溶接しか能がない会社でした。しかしベクテルを除き、他のルマスやS&Wというエンジニアリング会社が皆消えてなくなって最後に残っていた ため選択の余地がなかったのかもしれない。でもやはり上手くゆかずにオフショアの建設に強いマクダーモットに吸収合併されたようだ。

千代田化工が受注したもう一つのテキサスのフリーポートLNGは大阪瓦斯と中部電力の出資。 融資は株式会社国際協力銀行および民間金融機関6行協調融資。この工事は先行していたためか黒字で仕上がったもようだが、かの原発で失敗した東芝がこのLNGの Take or Pay契約を結んでいたため、もしこの権益を転売できなければ1兆円の損失になると心配されている。1000億円値引きして中国企業に売れそうだと報道さ れたが、トランが中国とのディールを嫌っているとの話もある。代わりに米ガス大手テルリアンか英・オランダのロイヤル・ダッチ・シェルや米エクソンモービルに売却という話もあったようだが断られたもよう。

健全経営だった日揮も東洋エンジも米国でのエチレンプラント建設で同じ理由で赤字になったと いうが、千代田は更に2018/9/10EXXON/Mobileからエチレン・プラントとKiwit社と共同で受注したという。エチレンプラントは素材 産業であり、堅実味があるが、千代田の強みのLNGはエネルギーであ り、ナイジェリアLNG Train7プロジェクトのFEEDを受注したというが、ロシアのヤマルLNGも終わり、LNGプロジェクトは再生可能エネルギーにコスト的に負けつつあ る産業であることは間違いない。こうしてエネルギープラント建設業は衰退産業であることは間違いない。

ならばと新規分野開発として稚内市―中川町間に計約78キロメートルの送電線を1,000億 円で新設。合計で出力60万キロワットの風力発電設備から電気を受け取り、中川町で北海道電力の送電線につなぐという北海道送北部風力送電株式会社の再生 可能エネルギーの送電線とバッテリー設置の工事を受注したというががどうだろうか?

原発の継続性に関する日本政府の腰が定まらず、前途多難。

Rev. November 10, 2018



歴史的考察

私が千代田化工を辞めた状況がカーボンコピーのように繰り返されたということ。

そもそもLNGプラントような巨額なプロジェクトをベクテルのような米国コントラクターが請け負っていた頃1960年代はすべてコストプラスフィー方式の契約でした。

それに対し、日本国内のプラント建設請負工事は明治時代の政府が弱体だったころの固定価格一括請負契約でした。この方式を1970年ころから中近東やアジ アに持ち込んで米国コントラクターの市場を奪い去ったのが千代田を含む日本のコントラクター3社です。その渦中にあってプロジェクトで巨額のマネーを動か すのは充実しているが、ストレスに心身を削るようなものでした。こうして固定価格一括請負契約は結果として大変競争力があったため、欧米のコントラクター は市場を去ったのです。しかしこれにはリスクがあります。よほどマネジメントがしっかりしていないと大赤字に陥ります。これが私が経験したことであり、今 回千代田を含む日本のコントラクターが経験しつつあることです。

さー!どのように展開するかわかりません。そもそも米国のシェールガスを運河と太平洋を渡って日本にもってくることが今後も必須かです。米国の軍産複合体 は東欧諸国にロシアのがすではなく米国産のLNGを買えと圧力かけていますが、どうでしょうか?もしLNGが今後も必須ならだれか助けるでしょう。しかし 私としては日本はそろそろ再生可能エネルギーに舵を切るべきだとおもっています。日本の経営者と政治家が皆そうおもえば、千代田化工の将来はありません。

コストプラスフィー方式 vs 固定価格一括請負契約のリスク

もありますが大体上手くカバーしています。私が辞めたころはLNGは一ラウンドしていて何もなく、石油精製プラントのアジアでの需要の最終ラウンドでし た。その先もう需要が無いだろうと、無理して見積もり価格を安くしたのが、やはり最大の原因でした。経営陣の大局感の欠落ですね。

私が辞めたあとはLNGプラント全盛時代が来て、そこそこの利益を出していたのですが、米国のLNGプラント受注のころは仕事が無くてかなり無理した見積 もりにしたのではないかと外から推察しています。どの産業にも盛衰はあるわけですが、その最後のフェーズで心理的なあせりで無理するんですね。

マスコミは「大型化の波」のリスクをあげますがこれは損失の原因とはなりえません。

それに組んだ相手が悪かった。しかし米国のこの輸出用LNGプラント工事をしたのがCBIという東芝を倒産寸前まで追い込んだ能力のない工事会社でした。というかもう米国にはその能力 は無くなっているのだろうと私は感じます。CBI の技術でIHIが造ったLNGタンクは欠陥品で原さんと一緒に苦労しました。CBI/IHIははじめから無能な会社です。なにせシカゴの橋梁会社ですか ら。先輩の苦労を忘れて後輩たちがCBIと組んだようです。CBIが潰れて海洋工事が強いマクダーモットが工事を引き継いだようですが金はかかるというこ とですね。

トランプがいくら頑張たって、一旦消えた産業は人々に嫌われてきえたのですらから簡単には戻らないでしょう。

January 17, 2019

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