読書録

シリアル番号 621

書名

独学の時代

著者

米本昌平

出版社

NTT出版株式会社

ジャンル

サイエンス

発行日

2002/8/25第1刷

購入日

2004/01/27

評価

鎌倉図書館蔵

前から敬服していた著者のため手にとった。

氏は1960年代の大学紛争を経験し、大学紛争がなにも改革できなかったことにたいする強い復讐心を持ち、大学の外にでて丸万証券で食を得ながら独学で知の探求をされてきた人である。三菱化成生命科学研究所に採用される逸話が面白い。冒頭で知の創出に不可欠な大学人の気概についてふれている。

啓蒙主義運動はえてして不寛容に陥り、白か黒かという踏絵を持ち出す特質がある。L・ローウェンタール、N・グターマンの「扇動の技術」に書かれているような一種のマスヒステリーのなかで支配的時代精神の流行に抗することの難しさを生物学の分野で目的論や生気論という言葉にたいする学者達個人個人の言動を引用して語っている。

DNAというセントラルドグマを確立したフランシス・クリックなどが先頭にたって生気論は誤りである。還元主義の機械論が正しいと生気論を弾劾したが、今となってはドリーシュの説いた生気論の多様度とかエンテレヒーの概念などシャノンの提唱した情報概念に似通っていると米本氏はいう。私は最近の複雑性理論の考え方も生気論的ではないかとも思った。

もし文化というものを、ある特定の時代の、ある特定の言語を使用する、ある特定の地域の、問題によってはある特定の集団に属している人たちが共有する世界観であり、それにのっとった行動様式である、と定義すれば形而上学的パラダイムの概念と大きな部分で重なることになる。文化とかパラダイムは権威をともなう。権威が権威とはっきり意識されたときにはこれと戦うには勇気さえあればよい。しかし最も困難でしかも大切なのは自己の内なる権威の自覚であると氏は説く。文化が自分自身を隠蔽する特質についてE・Tホールの「沈黙の言葉」にでてくることばを引用している。

氏はサンケイ新聞に掲載された山崎正和氏の大学批判を以下に引用している「学問はときに結果として社会に貢献することがあり、したがってそれが一面ではパブリックとしての性格をもつことも否定できない。だが真実の追究も半ば美の追求と同じなのであって、第一義的に、それを追求する本人の私的な喜びのためにするものである。学問や芸術を尊重する社会が良い社会でることは疑いないが、だからといって、それに従事する個人が社会の敬意を自動的に期待するのは驕慢だといえる。日本でも画家や小説家はそのことを知っているから、彼らは自分の仕事に社会の援助があるのを当然とは考えていない。いつしか大学に生きる人間だけがこの感覚を失ってしまった。教師も学生もその身分にあるだけで、社会の敬意を受けるのが天与の権利だと信じているように見えるのである」

大学アカデミズムというものがむしろ研究の自由に敵対する旧勢力であることは、当然のように見えてくる。ここを支配している原理は、現在作動している研究様式を拡大再生産しようとするある種の惰性であり、これを基本とする人事抗争である。その結果として、大学アカデミズムは外部世界に対して排他的で威圧的になり、新しいアイディアに不寛容となり、社会的課題にも不感症となる。つまり現在の大学は、一旦解体されるべき旧体制そのものなのである。国立大学は2004年を持って独立法人となる。いまこそ大学の解体を!としめくくっている。


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