言語録

シリアル番号 日付

1153

2007/9/5


名言 あいつらの言う国家とは、結局、てめえだけのことではないか。何万人もの兵士が餓死しても、全て、国のためだと言って、平気なのだ
言った人、出典 高山高麗雄(こまお)「フーコン戦記」
「死の谷」を意味する北ビルマの広大な谷地フーコンで、日本軍はインパール戦に並ぶ必敗の愚かな戦いを演じた。
片腕を失い生還した元兵士は、ながい平穏な戦後、老いを重ねる。問い、反復、忘却、諦念。記憶の年輪ともいうべき稀有の文学世界。
作家自身の遺書ともいうべき名篇である。
引用した人、他 朝日新聞素粒子が昭和の参謀瀬島龍三の大往生に関して引用。瀬島は富山県生まれ、陸士次席、陸大首席で太平洋会戦時の大本営参謀でガダルカナル撤収作戦、ニューギニア作戦担当。終戦後11年目にシベリア抑留から帰って、伊藤忠会長、臨時調査会の仕切り役として行革、電電公社、国鉄の民営化で辣腕をふるった。また亜細亜大学理事長であったが、2007/9に95才で死去。

瀬島は自らの戦争責任を語ることなく、大往生したがゆえに戦後の功績があっても 自分に都合のわるいこと(戦争開始責任)に関しては完全黙秘で冥土の土産とする古いタイプの人間だ。記者早野透に対し語ったことは、「国威の進出は満州国までよかった。万里の長城の先へ行ったのが失敗でしたね。軍対政治、陸軍対海軍の対立が絡んで、戦略がなかった。永田鉄山がいれば調整できたかな。日本自身が日本を壊したんです」と語った程度である。

永田鉄山は諏訪出身。陸士、陸大とも首席。1920年に駐スイス大使館付駐在武官。1921年10月頃、陸士同期である小畑敏四郎、岡村寧次や一期下の東条英機と共に、ドイツ南部の温泉地バーデン・バーデンにおいて、陸軍の薩長閥除去を目指す「バーデン・バーデンの密約」を行なったという。皇道派の中心人物眞崎 甚三郎(まさき じんざぶろう)教育総監を更迭したため、北一輝(ほくいっき)の思想的影響を受けていた相沢三郎(あいざわ さぶろう)中佐に惨殺された。企画院総裁だった鈴木貞一は戦後、「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」、「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」と言っていた。

瀬島は悪名高い辻参謀程ではないが、辻の出身地石川県の隣の富山県の生まれだ。辻が陸大2番の特権である外国留学せず、外国を見た経験がなく、非常に狭い視野しか持っていなかったのと同じく、瀬島は永田鉄山が持ちえたような海外経験がなかったので戦争の無謀さに気がつかなかったであろう。しかし自分が失敗から学んだことも、美学かどうか知らないが、後輩に教えようとは思わない狭量なタイプなのであろう か。



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