本名=吉野セイ(よしの・せい)
明治32年4月15日—昭和52年11月4日
享年78歳(永光院文錦清照大姉)
福島県いわき市好間町北好間字上野107 龍雲寺(曹洞宗)
小説家。福島県生。尋常高等小学校卒。大正5年検定により小学校教員。10年詩人の三野混沌と結婚。好間村菊竹山で開墾生活に入る。夫の死後、草野心平のすすめにより七〇歳を過ぎてから筆を執る。『洟をたらした神』で大宅壮一ノンフィクション賞と田村俊子賞を受賞。
本名=吉野義也(よしの・よしや)
明治27年3月20日—昭和45年4月10日
享年76歳(永賢院晴山義光居士)
詩人。福島県生。磐城中学校卒。大正5年菊竹山で開墾を始め、10年若松せいと結婚。開墾生活のかたわら猪刈轍弥と『農夫』を創刊。草野心平の『銅鑼』や『歴程』に参加。詩集『百姓』『開墾者『或る品評会』『ここの主人は誰なのか解らない』『阿武隈の雲』などがある。

あの種まく人(混沌)は私の知らないでいる間に、いつこんな広い陸稲畑を拓いて播きつけていてくれたのだろう。(刈ることにはうといが、播きつけの種ざるだけは私にも息子にも任せず、老いて足元のよろよろする迄、ぎっちりつかんで自分の手から種をおろした。だから私たちは種まく人と名づけていた。)光りもないのにその陸稲の畑は広漠たる平原の豊かな様相を備えて、希望で一ばい明るく見えた。それは奇異なことであって、ちっともおかしいことには思えない夢の中での真実の形であった。私は嬉しくてその人が播いて行ってくれたこの淡い芽を、緑から金色に変える努力は自分がやらねばならぬ大仕事だと沙漠のようなその砂浜を見渡した。前は時折り白く歯がみする真黒い海だ。波音は聞こえただろうか。どこかに種まく人がさまようているような気がする。確かにする。いやもうあの人は通り過ぎてしまったのだとそのはっきりした意識だけは夢の中に凝固として溶けこんでいなかった。
吉野せい(夢)
ふしぎなコトリらがなく
はながさいてくる
どういうものか ひとのうちにゆくものではない
ひろいはたけにいけ
きんぞくのねがするヤマはたけにいけ
まっしろいはたけへいけ
そこでしぬまでとどまれ
あせってはならない
きたひとにははなしをしろ
それでいい
クサをとりながらつちこにぬれろ
いきもはなもつかなくなれ
これはむずかしいことだが
たれにもできることだ
いちばんむずかしいこのことをしていけ
いちばんむずかしいなかでしね
三野混沌(いちばんむずかしいことで、だれにもできること)
昭和52年11月4日、いわき市の病院で亡くなった一人の農婦、「百姓バッパ」吉野せい。三野混沌が入植した福島県いわき市郊外の菊竹山開拓地での出会いと理想、文学への情熱や希望を一切捨て、ともに土と生きようと、見いだした荒地における50年は、貧困、苦闘、憎悪に明け暮れる焦燥の人生であった。
野良にあっても詩作を綴る伴侶混沌のあるがまま、詩人としての理想と、生活者として無能な伴侶のため「書く意志」すら放棄せざるを得なかった吉野せいの確執は晩年において「鬼婆」と罵られ「死んでくれたら」と思うほどの烈しさでもあったが、昭和45年4月10日、肺炎のため逝った混沌の死を転機として、せいの「書く意志」も大きな脈を打ち始め、長い空白を埋める『洟をたらした神』は生まれたのだ。
混沌の葬儀の日、棺の通る小径両側の花畑には、真っ赤なチューリップが燦として燃え、向かい合った純白の雪柳がつつましく見送っていた。
棺をおろし、花々を投げ込み、二人で墾した畑の土をかけた墓も今は新しく、竹笹の葉ずれを和みながら、〈底辺に生き抜いた人間のしんじつの味、にじみ出ようとしているその微かな酸味の香り〉を漂わせ、昭和五年の暮れに〈山の上で生まれ育ち病み死んだ〉儚い命「梨花」とともに、三野混沌・吉野せいは、西日に照らし出された「吉野家之墓」に黙してある。
主なく草木に覆われてゆく菊竹山の住処よ、杉林を背景にして独り立つ混沌の碑、〈天日燦として焼くが如し 出でて働かざる可からず〉——。
数十年の歳月をともにたたかい、吹きつのる風に委ねた理想と現実はどこへ消えた。
|