本名=吉野作蔵(よしの・さくぞう)
明治11年1月29日—昭和8年3月18日
没年55歳
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園8区1種13側18番
政治学者。宮城県生。東京帝国大学卒。明治42年母校東京帝国大学助教授。43年欧米に留学。帰国後教授。主に『中央公論』に政治評論を発表。大正5年「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を発表、大正デモクラシーの代表的論客となる。『吉野作造博士民主主義論集』などがある。

小説の表面には女房は痛々しく弱々しく描かれている。併し彼女の魂の前には兇暴な主人公も結局頭は上らなかった。外面でこそいじめさいなんではいるが、内部では無限の信頼を寄せ又無限の同情を求めたのであった。あんな兇悪たる男から頼まれ縋られる魂は、一体神の外にありうるものだろうか。……普通平凡な人間の裡にも相手に依てはこんな神々しい聖熱が起るという所に人生の面白さをみるべきではないか。……私はかくの如き魂を我々人間の裡に与え給うた神に感謝する……
(魂の共感--谷崎潤一郎氏作の「或る調書の一節」読後感)
旧制第二高等学校(現・東北大学)卒業間際の明治33年、20歳のたまのと結婚。東京帝国大学法科大学に入学しものの、経済的余裕がなかったため妻は小学校の教壇に立ちながら子供を育てた。卒業後は欧米留学などを経て、母校の教授に迎えられた。
——大正デモクラシー運動の政治的アマチュアリズムの代弁者として、おおいに知識人や青年たちのそれを覚醒・成熟させる立役者となったが、昭和3、4年頃から肺気腫に悩まされ講義も咳により中断を余儀なくされることが度重なるようになっていた。
昭和8年1月11日、肋膜炎を発症し賛育会病院に入院。その後、逗子小坪の湘南サナトリウム病院へ転院したのだが、病状は回復せず、3月18日、唯一の神に召されて逝った。
吉野作造は谷崎潤一郎の『或る調書の一節』の読後感を谷崎に送ったが、それに対して谷崎は〈あなたは善人の側に立って、私は悪人の側に立って一つ物を看ているのじゃないかと思います〉と返書した。
旧制第二高等学校高在学中にブゼル牧師が少年のために始めたバイブル・クラスに参加したことを機に仙台第一浸礼教会(バプテスト教会)で浸礼を受けキリスト教徒となった吉野の肯定的な人間観はその信仰によって決定されたものであろうが、 鬱蒼と湿気を帯びた暗緑色の塋域に、作造と妻たまの、妻の父安部彌吉と母、長男の俊造、次女の明、六女などが眠るほんのりと和らかな光を放つ「吉野家之墓」に出会ったとき、その人を目の当たりにしたと思った。
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