吉川幸次郎 よしかわ・こうじろう(1904—1980)


 

本名=吉川幸次郎(よしかわ・こうじろう)
明治37年3月18日—昭和55年4月8日 
享年76歳(文徳院釈幸善) 
京都府京都市東山区五条橋東6–514 大谷本廟墓地第9区329(浄土真宗)



中国文学者。兵庫県生。京都帝国大学卒。北京大学留学後、東方文化学院京都研究所員をへて昭和22年京都大学教授。古典の奥深い解釈で中国文学研究に貢献。吉川学とも呼ばれる新しい学風を樹立した。著書に『杜甫詩注』『新唐詩選』『支那人の古典とその生活』『本居宣長』などがある。







 
  机の上にひろげられた唐本、それは黄ばんだ紙の、しかもややつかれたものである方がよい。
紙の黄いろは、ふいに下から光線をあてられたようにあかるくなり、漢字の画がうきぼりのようにうかびあがる。つらなった漢字の一くぎりごとにほどこした朱点は、私自身がほどこしたものであるけれども、それが古い宝石のようにかがやく。
 ページは開かれたままである。部屋の中には、ただ一人の声が、周囲の静寂をふかめつつ、つづく。そのページの上の漢字の文章について、こまかな分析を展開しているのである。
 ふいに紙の上の光りはきえ、ふたたびくらい黄色へ、しずかに、しかしすみやかに、しずんでゆく。うきあがって見えた漢字の画はうすれ、朱点もあざやかさをしぼませる。
 小さな空間での、この小さな徴妙な変化は、私だけの楽しみであるかも知れない。
 冬の日の演習室の、机の上で、この現象はおこる。机を同じくする人人の前にも、それぞれ、おなじ書物のおなじベージが開かれている。おなじ現象がおそらくはおこっている。しかし人人は、私と楽しみを同じくしないかも知れない。
 
それは夏の日ならば、もとよりむつかしい、春の日、秋の日も、そのためには最適でない。冬の日の、ガラス窓ごしに、雪の多い空を走る太陽が、この楽しみを私に作るのである

 

(虚室生白)





 神戸という開放的な土地柄の貿易商の子として生まれたせいもあり、外国文化へのあこがれは強く、とりわけ中国の古典に親しんだ。中国人になりきるために京都大学在学中は中国服を着て中国語を話していたというほどの中国学徒・吉川幸次郎は好きなことばとして〈己を知るものなきをなやみとせず 知らる可きことを為すを求むるなり〉という論語に見る孔子の言葉を上げているが、あくまで自力によって生きるべきであり、他力によってはならぬという教えをつねに実践してきた。昭和54年、中国文学研究者訪華団団長として中国訪問の帰国後、胃の不調を訴え京都大学病院で手術、小康を得るも翌年3月再入院、昭和55年4月8日午前4時45分、自らを儒者と名乗った中国文学の碩学は癌性腹膜炎により死去した。




 

 吉川幸次郎は釈迦の誕生日、花まつりの朝に死んだ。通夜の晩も翌日密葬の朝も降り注ぐ雨で京都の空は寂漠としていたが、今朝の鳥辺山はことのほか眩しい陽光で輝いている。〈私は、仏教にはなじみません〉と仏教とは無縁の者として、儒者意識を純粋に保っていた儒教的君子吉川幸次郎だが、死後の世界は存在しないとする儒者の眠る墓は浄土真宗開祖・親鸞聖人廟所の裏にひろがる大谷本廟墓地にある。細長く伸びる坂道を妙見堂の先までのぼって段状に区分けされた墓域を右方に下ってゆくと「吉川家之墓」があり、側面に長男惇夫氏の幸次郎没後百日に復営された旨の碑文が刻されている。見上げると清水寺の子安塔、西下方には司馬遼太郎の墓所が見える。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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