本名=吉村 昭(よしむら・あきら)
昭和2年5月1日—平成18年7月31日
享年79歳
新潟県南魚沼郡湯沢町大字神立字原1214 大野原霊苑
小説家。東京府生。学習院大学中退。『鉄橋』のほか都合四度、芥川賞候補に挙がるもついに受賞は果たせなかった。『星への旅』で太宰治賞。以後、『深海の使者』『戦艦武蔵』『ふぉん・しいほるとの娘』『冷い夏、熱い夏』『破獄』『天狗争乱』などが、次々と名のある文学賞を受賞する。

時間の存在を身にしみて知った払にとって、死は観念の世界のものではなくなった。人間の生命は時間の流れとともに推移し、或る瞬間、弦が音を立てて切れるように死の中に繰りこまれてゆく。死は決してまぬがれられぬものであり、生きてゆくということは、一刻一刻死への接近を意味している。誕生したばかりの新生児すら、すでに死への歩みをはじめている。
弟の死は、眼前にせまっている、と解すべきであった。五十年———一万八千余目を生きてきた弟の肉体は、医師の推測によればあと三十日前後で物体と化す。死が確定しているものなら、残された時問が多半短縮されることはあっても、苦痛が幾分でも軽減されれば、その方がよいのではなかろうか。
私の内部では、弟はすでに死者に等しいものになっていた。弟の生命の弦が切断される瞬間は、近々のうちに必ずやってくるし、それに対する心購えもととのえておかねばならない。
路面に眼を落して歩きながら、私は人間として不遜なのかも知れぬ、という罪の意識に似たものが胸の中をよぎるのを感じた。たとえ兄であるからとは言え、弟の肉体は他者のそれであり、延命を義務とする医師にその努力を放擲して欲しいと告げる資格はない。死に対する自分なりの考えを弟に押しつけるのは、僭越ではないだろうか。
(冷たい夏、熱い夏)
何処までも史実にこだわった歴史小説を精力的に書き続けた。平成17年2月、舌がんの宣告を受けた。放射線治療のために数度の入退院を繰り返したが、翌年2月には新たな病巣が発見され膵臓の全摘手術を行った。退院後の自宅療養生活は、遺作となった『死顔』の推敲が生きることの支えになっていたのだが、7月10日に再入院。死は一時も待つことなく急速に近づいてきた。
自宅に帰ることを切望していた彼は早期退院し、30日朝にはビールを一口とコーヒーを飲んだ。その夜、自らの意志でカテーテルポートの針を抜き最期の瞬間を潔く待ったのだった。延命治療は望まないと遺書に書いた吉村昭は、7月31日午前2時38分、「無」になった。
冷雨のあとの山霧、ゆっくりと幕が上がる舞台のように、紅葉した山々が鮮やかに浮かびでてくる。吉村が毎月のように出かけては憩いの場所としていた越後湯沢。平成12年、町営墓地に墓を建てた。田圃の中の墓地。「悠遠」、自然石に自慢の書を彫り込んだ墓に生前からお参りするのを楽しみにしていた。記念碑のような墓で、左側の黒石には銅板がはめ込まれ、吉村昭と妻であり作家である津村節子のサインがエッチングされてあった。
吉村家の菩提寺は静岡県富士市の長学寺で、そこには両親や長兄の墓があり、吉村昭自身の墓用地も取得してあるのだが、両親の墓の脇にも、今は書斎に遺されているという分骨が納まって、彼の二つ目の墓が建つときがいつの日か来るのであろう。
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