本名=与謝野志よう(よさの・しょう)
明治11年12月7日—昭和17年5月29日
享年63歳(白桜院鳳翔晶耀大姉)❖白桜忌
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園11区1種10側14番
歌人。堺県(大阪府)生。堺女学校(現・府立泉陽高等学校)卒。明治33年来阪した与謝野寛・山川登美子を知る。翌年家を捨て上京。同年、処女歌集『みだれ髪』を出版し、鉄幹と結婚。鉄幹との合著歌集『毒草』、山川登美子・茅野雅子との合著詩歌集『恋衣』『新訳源氏物語』などがある。
本名=与謝野 寛(よさの・ひろし)
明治6年2月26日—昭和10年3月26日
享年62歳(冬柏院雋雅清節大居士)❖冬柏忌
歌人。京都府生。明治25年上京。落合直文に師事。26年二六新報に入社。同紙に歌論『亡国の音』を連載、旧派の短歌を批判。詩歌集『東西南北』『天地玄黄』を刊行。32年新詩社結成。翌年雑誌『明星』創刊。34年鳳志よう(与謝野晶子)と結婚した。

やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君
御墓御墓梅によこぎる谷中みちひそかに呼ばむ名の趣味もたぬ
この塚のぬしを語るな名を問ふなただすみれぐさひとむら植ゑませ
与謝野晶子
いたづらに、我ハ死なじと、誰もいへど、名もなき墓の、多くこそあれ。
しら雲は空ゆく人は病ありこの日この時死なぬわれ見る
与謝野鉄幹
鉄幹11歳、大阪住吉の養家・安養寺から堺の街へ毎日漢籍を習いに通った。その道筋にある老舗和菓子屋「駿河屋」の娘晶子は当時6歳であった。
蘇る時と場所の悪戯、ある日、その少年と少女は午後の堺の町角で出会っていたかもしれないのだった。その二人が、10数年後に東京・豊多摩郡渋谷村(現・渋谷区道玄坂)の新詩社で明治詩歌の中心となって情熱的な新婚生活を送ることになるなど本人はもとより誰が想像できたことであろうか。
互いに、激しく、強く、熱気に溢れた歌壇への思いを貫き通したが、鉄幹が昭和10年3月26日、62歳で肺炎のため亡くなった7年後の昭和17年5月29日、晶子も狭心症のため63歳で世を去った。
〈今日もまたすぎし昔となりたらば並びて寝ねん西のむさし野〉。
〈なには津に咲く木の花の道なれどむぐらしげりて君が行くまで〉。
与謝野寛・晶子の墓碑にはそれぞれの歌が大理石に彫られ、互いに献じられている。明治33年、『明星』を創刊、北原白秋や吉井勇、石川啄木などを育て、無名だった晶子との不倫騒動などもあったが、晶子の歌集『みだれ髪』の刊行をもって不動のものとなった。
共に生き、共に競い合い、日本近代浪漫派の中核となった歌人が二人、また一つ所で並び建っていた。墓前の歌碑に歌ふたつあり。
〈知りがたき事もおほかた知りつくし今なにを見る大空を見る 寛〉。
〈皐月よし野山のわか葉光満ち末も終わりもなき世の如く 晶子〉。
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