横光利一 よこみつ・りいち(1898—1947)


 

本名=横光利一(よこみつ・としかず)
明治31年3月17日—昭和22年12月30日 
享年49歳(光文院釈雨過居士)❖横光忌 
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園4区1種39側16番 



小説家。福島県生。早稲田大学中退。大正12年『日輪』『蠅』などで新進作家として認められた。13年川端康成や今東光らと『文藝時代』を創刊。『頭ならびに腹』『春は馬車に乗って』等を発表、〈新感覚派〉の代表作家となった。『上海』『機械』『寝園』『紋章』『旅愁』などがある。






  

「けれども、君、あの栖方の微笑だけは、美しかったよ。あれにあうと、誰でも僕らはやられるよ。あれだけは----」
微笑というものは人の心を殺す光線だという意味も、梶は含めて言ってみたのだった。それにしても、何より美しかった栖方のあの初春のような徴笑を思い出すと、見上げている空から落ちて来るものを待つ心が自ら定まって来るのが、梶には不思議なことだった。それはいまの世の人たれもが待ち望む一つの明晢判断に似た希望であった。それにもかかわらず、冷笑するがごとく世界はますます二つに分れて押しあう排中律のさ中にあって漂いゆくばかりである。梶は、廻転している扇風機の羽根を指差しぱッと明るく笑った栖方が、今もまだ人々に言いつづけているように思われる。
 「ほら、羽根から視線を脱した瞬間、廻っていることが分かるでしょう。僕もいま飛び出したばかりですよ。ほら。」

(微 笑)



 

 敗戦間もない昭和22年12月30日に胃潰瘍が悪化し、腹膜炎を併発して横光利一は逝った。
 「新感覚派」の盟友川端康成は、弔辞で遺された者の寂しさを表し悼んだ。〈君の名に傍えて僕の名の呼ばれる習わしも、かえりみればすでに二十五年を越えた。君の作家生涯のほとんど最初から最後まで続いた。その年月、君は常に僕の心の無二の友人であったばかりでなく、菊池さんと共に僕の二人の恩人であった。(略)僕は君を愛戴する人々の心にとまり、後の人々も君の文学につれて僕を伝えてくれることは最早疑いなく、僕は君と生きた縁を幸とする。生きている僕は所詮君の死をまことには知りがたいが、君の文学は永く生き、それに随って僕の亡びぬ時もやがて来るであろうか〉。



 

 昭和24年7月、〈文学の神様〉とも称された横光利一は、墓碑がどこまでも建ち並ぶ、広大なこの霊園の碑の下に落ち着いた。
 ドクダミの匂いが強い土庭の、南天の一枝が飛び石にたれさがった先に、荒削りの石塊を磨き、川端康成の筆による「横光利一之墓」の文字が刻されている。飢えと悲しみと理想を自らに集中して、なお象徴的に煌めこうとする意志を信じた作家の墓標である。
 『機械』はモダニズム文学の傑作といわれもしたが、戦後は戦争協力者として〈文壇の戦犯〉との批判も受けた。自身の不幸しか噛んでこなかった作家に小林秀雄はいった。〈今日私が悲劇的という言葉を冠し得る唯一の作者である〉と——。
 〈蟻台上に餓えて月高し〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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