鈴木信太郎 すずき・しんたろう(1895—1970)


 

本名=鈴木信太郎(すずき・しんたろう)
明治28年6月3日—昭和45年3月4日 
享年74歳(宏徳院積學英信居士)
東京都文京区大塚5丁目40−1 護国寺(真言宗)


 

フランス文学者。東京府生。東京帝国大学卒。早くからビヨン、ならびにベルレーヌ、マラルメを中心とするフランス象徴詩を研究、日本における本格的なフランス文学研究の確立に貢献した。著書に『ステファヌ・マラルメ詩集考』『フランス詩法』、訳詩集に『マラルメ詩集』『ビヨン全詩集』などがある。








 ボオドレエルは、最も畏敬した詩人エドガア•ポオに就いての覺書の中に、「斯の如く強烈に意圖され深刻に凝念された詩篇を飜譯することは、愛撫すべき一つの夢であり得るが、然し一つの夢に過ぎない」と述べてべてゐる。またマラルメは、ポオの「大鴉」を初めて譯して書きつけた十八歲の時の手帖に、亂雜な筆蹟で、「この逐字譯は、恰も少女の骸骨が少女の新鮮な薔薇色の肉體に對するが如きものである。骸骨は少女の脊骨や脛骨が彎曲してはゐなかつたことを示すだけである。……譯文を讀む時、これを覆ってゐた肉體が如何に淸純で薔薇色であつたか少しも解らない」と記してゐる。
 ボオドレールは、空しい夢と考へたにも拘らず、ポオの「魔の宮殿」「征服者蛆虫」を韻文に、「大鴉」を散文詩に飜譯して、夢を現實に置換してゐる。マラルメは、骨格を示すだけと諦めながらも、なほポオの詩篇全部を飜譯せずに居られなかった。しかもその骨格には陰翳の微妙な彼自身の色艶に似た少女の肉體を覆ひ被せたのである。
 心を傾倒して敬慕するかういふ詩人たちの言行を想起して、己を看るよすがとすれば、私はヴィョン、ボオドレエル、 マラルメ、ヴェルレエヌ、ランボオ、ヴァレリイ等の詩に對して、私自身が感覺し理解し得た限界まででも、完全に飜譯し得るといふ夢を嘗て心に抱いたことはなかつたが、その試みはいつも夢みずには居られなかった。そしてこれはまた愛撫に價する夢であった。然るにこの夢が置き換へられた現實は、甚だ乾からびた骨組に、皺だらけの皮膚を被覆した慘愴たる姿の譯詩である。それが私にとっては、怡樂と苦惱との入亂れた「夢の果實の收穫」であった。この收穫の 四十年に近い堆積が、辛じて玆に二卷の譯詩集となったのだが、私はこの不毛石胎の詩の原野を顧みてただ惘れ入るばかりである。

(「鈴木信太郎譯詩集」序)



 

 神田佐久間町の米問屋の長男として生まれた鈴木信太郎は大正14年、30歳でパリに私費留学して中世仏語、演劇、絵画などの見聞を広め、戦後は東京大学仏文科教授として辰野隆とともに日本のフランス文学研究の開拓者となり、三好達治、小林秀雄、中村光男、福永武彦などの逸材を生んだ。晩年は、長年の友人岸田国士、豊島輿志雄、辰野隆などを次々と失い、また風邪をこじらせるなど著しく体力が衰退して昭和45年3月4日、春弥生とはいえ雪の降る寒い日の午後3時40分頃、机の前に坐し、井上究一郎より贈られた美術雑誌「みずゑ」に掲載されたゴヤの写真を眺めたまま、突如襲ってきた大動脈瘤破裂のため死去した。おそらく一瞬の出来事であったことだろう。



 

 東京都豊島区東池袋の細い路地が入り組んだ場所にあった鈴木信太郎の自宅は、昭和3年に建てられ、城北大空襲でも焼け残った書斎棟と戦後に建てられた茶の間・ホール棟、明治時代に建てられた鈴木本家より移築した書院造りの座敷棟から構成されているのだが、信太郎生前には岸田国士、辰野隆、高畠達四郎、フランス文学研究者など多くの文化人の集った家も今は豊島区立鈴木信太郎記念館として一般に公開されている。そこからもほど近く信太郎の葬儀も執り行われた護国寺の墓地西奥、音羽陸軍埋葬地英霊の塔西側の参道を雑司ヶ谷霊園方向に少し下った右側奥8列2側、鉄扉の取れた石柱の先にあった昭和2年建之の「鈴木家之墓」には静寂の中、父政次郎、母シン、妻花子らとともに信太郎も眠っている。




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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