住井すゑ すみい・すえ(1902—1997)


 

本名=犬田すゑ(いぬた・すえ)
明治35年1月7日—平成9年6月16日 
享年95歳 
茨城県牛久市城中町77 自宅書斎
 



小説家。奈良県生。田原本技芸女学校卒。大正8年講談社に婦人記者として入社。犬田卯と結婚。10年『相剋』を刊行、生田長江から激賞される。「無産婦人芸術連盟」、「農民文学運動」に参加し、犬田卯主宰の機関誌『農民』に寄稿。『みかん』で小学館児童文化賞、『夜あけ朝あけ』で毎日出版文化賞を受賞。『向い風』『橋のない川』などがある。







 ところで網走の旅が終ったら、君にはもう一つの旅路について欲しいと、秀坊んはじめ、和一従兄さんも願っている。それは水平社、農民組合、労働者組合統合の大きな旅路だ。地域にとどまり、地域の人々の役に立つのもむろん大切なことだが、しかし時代は、より大きな単位で動き出そうとしている。言うならば、新しい歴史の建設だ。そうした仕事に献身するのも一つの生甲斐として君が受け止めてくれるのを、僕は切に期待している。このことを心に入れて、網走の旅についてほしい。と言っても網走は寒冷の地。出発は早くても三月末か、四月はじめと僕は思案している。それまでに具体的な事柄について、詳しく打ち合わせ、しましょう。
 うれしくて心急くままに、いや、うれしさに心弾むままに、お礼のつもりが、勝手な文句になりました。ごめん。ごめん。
追申
 葛城山系の雪も解け初めて、葛城川はこの日ごろ水量豊かに流れていることでしょう。思えば傷ついたばい(虫へんに貝)を葛城の流れにもどして、ここに二十年。君も僕も一応、大人になりましたが、心はあの日のままなのが、おかしくもまた、なつかしいです。
〝ばい(虫へんに貝)は無事に海へもどったか?〟
 思うたびに、心が洗われて、僕はしんそこ、しあわせです。
 網走の旅が終ったら、一日、あの大橋の上で、川の話を聞きましよう。川は永遠の旅人。きっと、きっと僕たちに、長い長いその歴史を語り聞かせてくれることしょう。
                                                
(橋のない川)



 

 〈ホーイ ホーイ …… 〝あ、誰やら呼んだはる。あれは私を呼んだはるネ〟 少女は走った。追い風が少女を助けた。〉——第二次世界大戦中に書いた軍国賛美の作品の罪滅ぼしをするかのように昭和32年、大河小説『橋のない川』の連載が始まった。
 部落解放、天皇制批判、反戦平和などを強く書き付けた人間賛歌は、平成4年に刊行された第七部〈——午後一時。春を含んだ陽射しの中で、何の小鳥か。しきりにさえずっていた。〉の結びで終わるのだが、平成9年6月16日午後10時10分、安らかな永遠の眠りに就いたすゑの書斎の机上には、第七部完成直後に書かれた『橋のない川』第八部とのみ記された原稿用紙の束が、執念の如く厳然と置かれてあった。



 

 「大地のエクボ」と呼んでいた牛久沼ほとり、すゑの書斎の硝子越し、庭の樹木の間に間に穏やかな水面が反射している。幾多の作品を生み出してきたこの書斎の机上にあるのは「住井すゑ」の遺骨箱。紫色の布がかけられている。その前には穏和な笑顔が写真立てにおさまっている。
 インク壺、茶飲み、眼鏡と万年筆、今にも書き始められそうな原稿用紙。傍らの額には、死後に発見されたという〈わがいのち おかしからずや 常陸なる牛久沼辺の 土とならむに〉としたためられた言葉。座布団に座り机に手をついて笑顔の写真をみていると、あの旺盛な活力が蘇って原稿用紙の上に『橋のない川』第八部の書き出しが浮かび上がってくるようだ。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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