菅原克己 すがわら・かつみ(1911—1988)


 

本名=菅原克己(すがわら・かつみ)
明治44年1月22日—昭和63年3月31日 
享年77歳 
東京都台東区谷中5丁目4–7 全生庵(臨済宗)



詩人。宮城県生。日本美術学校中退。室尾犀星の影響を受ける。第二次世界大戦前・後を通じて共産党員として活動したが、のち除名。昭和26年第一詩集『手』、33年『日の底』を刊行。新日本文学会の講師を務める。日本文学学校副校長。詩集はほかに『陽の扉』などがある。







東一番丁、
ブラザー軒。
硝子簾がキラキラ波うち、
あたりいちめん氷を噛む音。
死んだおやじが入って来る。
死んだ妹をつれて
氷水喰べに、
ぼくのわきへ。
色あせたメリンスの着物。
おできいっぱいつけた妹。
ミルクセーキの音に、
びっくりしながら
細い脛だして
椅子にずり上がる。
外は濃藍色のたなばたの夜。
肥ったおやじは
小さい妹をながめ、
満足気に氷を噛み、
ひげを拭く。
妹は匙ですくう
白い氷のかけら。
ぼくも噛む
白い氷のかけら。
ふたりには声がない。
ふたりにはぼくが見えない。
おやじはひげを拭く。
妹は氷をこぼす。
簾はキラキラ、
風鈴の音、
あたりいちめん氷を噛む音。
死者ふたり、
つれだって帰る、
ぼくの前を。
小さい妹がさきに立ち、
おやじはゆったりと。
東一番丁、
ブラザー軒。
たなばたの夜。
キラキラ波うつ
硝子簾の向うの闇に。

                               
(ブラザー軒)



 

 げんげの花を摘むあどけない娘に〈私は貧乏になっても、詩人というものになるのだ〉と無言の誓いをしたあの春の日の夕ぐれ。ある日は呼吸のように透明な平和の明るさのなかで途方にくれ、そしてある日は二つの椅子しかない家の一つの椅子に腰をおろしてまた思うのだ。本を読み、かみさんはじゃが薯をむく、ただそこにあるだいじな暮らしを望むことはすでにふしあわせなのだということを。死ぬときは〈ぼくの好きな夏の夕暮れだったらどんなにいいか〉と。
 そんな詩人が昭和63年3月31日午前10時49分、脳梗塞とパーキンソン病の悪化により入院先の都立北療育医療センターで死んだ。ただそこにある家の部屋のまんなか、書きもの机やかみさんの専用机や食事の場にもなる大きな一つの机をのこして。



 

 寺町谷中、さんさき坂の途中に全生庵という山岡鉄舟開祖の寺がある。ここには鉄舟はもとより三遊亭円朝の墓もあり、本堂裏手の高壇にはまばゆいばかりの金色の聖観音菩薩像が建っている。北村西望作の大観音像の足許、納骨所に菅原克己は眠っている。
 〈詩人は貧乏だから 詩を書くのだ、と。 だから、結局、 あんたは幸福で わたしは不幸だ、と……。〉いったかみさん、〈二十年前の唱歌のうまい幼女は 十二年前おれの嫁さんになった。 あの桃色のセルをきた明るい少女よ。 お前は今でも肥って明るい。 まるで運命がお前を素通りするように〉と詩人がときどきふしぎそうに見たかみさんも平成13年9月、自宅が全焼した際に火傷をおって亡くなり、おなじ石碑の銘となって並んだ。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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