本名=鈴木三重吉(すずき・みえきち)
明治15年9月29日—昭和11年6月27日
享年53歳(天真院啓迪日重居士)
広島県広島市中区大手町3丁目10–6 長遠寺(日蓮宗)
小説家・児童文学者。広島県生。東京帝国大学卒。明治39年夏目漱石の推薦で『千鳥』を『ホトトギス』に発表。大正5年処女童話集『湖水の女』を刊行、7年『赤い鳥』を創刊。多くの詩人、作家、画家を世に出した。『桑の実』『鈴木三重吉童話全集』などがある。

以來永く藤さんの事は少しも思はない。よく思ふのは思ふけれど、それは藤さんを思ふのではない。千鳥の話の中の藤さんを思ふのである。今でも時々あの袖を出して見る事がある。寝附かれぬ宵なぞには必ず出して見る。この袖を見るには夜も更けぬと面白くない。更けて自分は袖の両方の角を摘んで、腕を斜に擧げて燈し火の前に釣るす。赤い袖の色に灯影が浸み渡つて、眞中に焔が曇るとき、自分はそゞろに千鳥の話の中へ這入つて、藤さんと一しよに活動篤眞のやうに動く。自分の芝居を自分で見るのである。始めから終りまで千鳥の話を詳しく見てしまふまでは、翳す両手のくたぶれるのも知らぬ。袖を疉むとかう思ふ。この袂の中に、十七八の藤さんと二十ばかりの自分とが、いつまでも老いずに封じてあるのだと思ふ。藤さんは現在どこでどうしてゐても構はぬ。自分の藤さんは袂の中の藤さんである。藤さんはいつでもありありとこの中に見ることができる。
千鳥千鳥とよくいふのは、その紋羽二重の紋柄である。
(千 鳥)
昭和11年6月24日夕刻、あわただしく東京帝国大学医学部附属医院・真鍋内科に入院した三重吉は、27日午前6時3分、息子珊吉に手を取られて意識を閉じた。肺臓がんであった。
三重吉の酒癖がもとで絶交状態になってしまった北原白秋、別るべくも別るべきではなかった二人であったが、後半生の全てを童話雑誌『赤い鳥』に注いだ三重吉に、白秋は痛惜の『赤い鳥、小鳥』を捧げた。〈赤い鳥、小鳥、 いつまで鳴くぞ。 えんじゅの枝に 日はまだあかい。 赤い鳥、小鳥、 なぜ風さむい。 光がかげる、 あの空遠い。 赤い鳥、小鳥、 何見て出てる。 お馬で駈けた をぢさま見てる。 赤い鳥、小鳥、 何処行たお馬。 月夜の雲に とっとっと消えた〉。
東京・目白にあった『赤い鳥』の家の庭には、鈴木三重吉が散歩がてらに近所の森に行って、葉の草を採ってきては幾株となく植え込んだ叢があった
。〈自分の墓は土を盛って塚としこうした叢をつくるように〉との遺言があったとも聞いたが、原爆によって被爆し、この寺は焼失してしまった。のちに再建され、破損した墓碑が散見される爆心地近くの、広島市中区大手町長遠寺境内墓地にある整然と画一的に並立している墓群、先頭にあるのは、戦後の13回忌に鈴木家墓の右隣に長男珊吉が建てた墓。
自署を刻した「三重吉永眠の地/三重吉と濱の墓」に遺言の思いは望むべくもないが、微かに叢の匂いが漂っているような気もしてくるのは、やはり気のせいなのだろうか。
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