本名=須賀敦子(すが・あつこ)
昭和4年1月19日(戸籍上は2月1日)—平成10年3月20日
没年69歳(マリアアンナ)
兵庫県西宮市甲陽園目神山町4–1 甲山墓園カトリック墓地
随筆家・イタリア文学者。兵庫県生。聖心女子大学卒・慶應義塾大学大学院中退。20代後半から30代はイタリアで過ごし、40代は非常勤講師。50代以降はイタリア文学の翻訳者、50代後半からは随筆家として注目を浴びた。『ミラノ霧の風景』で女流文学賞受賞。『コルシア書店の仲間たち』『ユルスナールの靴』がある。

時がすぎて、〈廃墟〉になぐさめを得ているじぶんに気づいたのは、比較的最近のことだ。それは、あるとき、古代についての本を読んでいて、廃墟は、もしかしたら、物質の廃頽によってひきおこされた空虚な終末などではないかもしれない、と考えたことがきっかけだった。それにつづいて、人も物も、〈生身〉であることをやめ、記憶の領域にその実在を移したときに、はじめてひとつの完結性を獲得するのではないかという考えが、小さな実生のように芽ばえた。かつては劣化の危険にさらされていた物体が、別な生命への移行をなしとげてあたらしいく物体〉に変身したもの、それが廃墟かもしれない。そう考えると、私はなぐさめられた。
廃墟はまた、人びとが歩いてきた、そして現に歩いている、内面の地図のようにも思えた。迷路に似た廃墟の道をたどりながら、私たちは死んでしまった人たちの内面をなぞったり、あるいはまだ生きているじぶんの内面に照合したりすることができた。そう考えてくると、なにも幼稚園の遠足みたいなよそよそしさで廃墟を歩くことはなかった。廃境は私たちの内面そのものであり得たかもしれないのだから。
(ユルスナールの靴)
〈きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。〉、そう願い、そう信じ、そう生きた須賀敦子は前年に卵巣腫瘍の手術を受け、次の年、心不全のために逝った。
平成10年3月20日、冷たく強い風の吹く朝に。霧、石畳、青麦や風の匂い、目覚めの朝、懐かしい人たち。心をならし、蔦葉を吹きすべるように次々と現れては瞬く間に消え去って行く追憶の日々。しかしその追憶の先にあるものは?——生と死を貫いてなお成すべきことは?—— 須賀敦子の脳裏に明確な答えが浮かび上がったころ、がんという病が我が身を蝕んで、彼女をも追憶の彼方に押しやってしまった。
——〈私は結局は言葉をあやつりながら死んでいくのではないか〉。
蒼緑の朝、人影もない墓園に鮮やかな彩りの躑躅が咲きそろい、六甲の山々は輝きはじめている。ゆるやかな坂をのぼり、広場を越して下るとカトリック墓地。幾筋かの細道に慎ましやかに並んだモノトーンの碑のひとつ。かつて彼女が探したユルスナールの墓には、ペンネームと生没年の下に〈人のこころを生ぜんたいの大きさにひろげ給うおん者に、うけいれられんことを〉と墓碑銘が彫られていたというが、灰白色の盤石の上に置かれたシンプルな黒い磨き石には、十字と父、母、敦子の名がある。
愛惜の糸に繋がった夫ペッピーノや、それぞれの友人たちも彼の国で次々に逝った。この国に戻り、果てた彼女の魂もまた、〈霧の向こうの世界に行ってしまった〉人たちを求めて、すでに彼の国に旅立ってしまったのだろうか。
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