【第六章】
高貴な囚われ人は、戒めを解かれると牢を見渡した。
窓の格子を除けば、室内は快適に過ごせるよう、贅沢に整えられている。看守達は、大人しくなった少年を残して去った。
サルフィは、憮然とした面持ちで腰を降ろす。
ゼラナ姫の悲鳴が、耳に残っていた。無事であろうか。
母の断末魔を見せられ、あろうことか、サルフィを捕らえる為の人質にされたのだ。
王妃を殺し、罪をサルフィに着せた者がいる。
その卑劣さが、腹立たしく厭わしい。
だが、このような境遇に陥れられたというのに、不思議と我が身の行く末を案じる事はなかった。
看守達の足音が遠ざかるのを待ちかねたように、嗄れた声がかけられた。
「若様。サルフィの若様」
サルフィが顔を上げると、中庭側の格子から、黒い顔が覗いている。
「バハディース。こんなところまで、どうした」
友から譲られた召使は、深い溜息を漏らした。
「ああ、若様ですね。あんまり怖い顔をなさっているから、間違えたかと思ったでごぜいやすぜ」
普段は、天使のようと言われる優しげな容貌が、首をかしげる。
「間違えたと思うほど、怖い顔だったの」
「そりゃもう」
バハディースは頷くと、格子の隙間から、包みを押し入れた。
「旦那様からの差し入れで。真犯人をつかまえて、若様を助けにいくから、少しばかり大人しく待っていて欲しいとのことですぜ」
「こんなところで、大人しくか」
「看守には、鼻薬をちいと効かせましたで、多少は、お楽しみも差上げられやす。お許しを」
黒い男は、悠長にも、格子の向こうでお茶を煎れ始めた。
サルフィが包みを広げると、砂糖菓子と瑞々しい果実、揚げたてのパンや、希少な香辛料を使った肉料理が姿を現した。異母兄は、弟の好みをよく知っている。
「これが、お楽しみか」
少年が微笑みかけると、異国の小さな茶器を差し出した巨漢は、首を振る。
「こいつは、若様に、まずいものを食わせたくねぇという旦那様からのこころざし。ただの腹拵えでして」
主は、料理の善し悪しより毒を案じたらしいが、無邪気な少年は、召使の言葉を素直に受け取った。
「エリーティルは、本当に贅沢好みだね。私は、かまわないのに」
名門貴族とはいえ、さほど裕福でない家で育ったサルフィは、あきれたように言う。港町の会頭を務める兄の差し入れは、香り高い異国のお茶にいたるまで、その食材一つ一つが、とてつもなく高価だ。
「それで、お楽しみとは何だ」
黒い男は、すました笑顔で告げる。
「もちろん、魔女の物語を」
こうして、かの物語は牢の中で語られました。
……王国に終わる物……
王に追放された魔女は、復讐を誓い、呪いとともに砂漠を越えたのだといいます。
砂漠の果て、ティンク・トゥンと称する王国の物語は、御存知のとおり。
王城の瀟洒な回廊で、人々は息を呑んだ。
牽きたてられた咎人は、毅然と頭を上げて歩む。
千年を経た魔女。それは、咲きたての薔薇のようにみずみずしく美しい乙女にしか見えない。この姿に、誰が惑わされずにいられるだろう。
王国に賢き王がなければ、魔女の呪いは、すべてを滅ぼしたのだ。
人々は、神の采配へ感謝の祈りを捧げる。
ティンク・トゥンのまだ若い兄弟王は、内廷で魔女を迎えた。
月のごとく美しいといわれた兄王は、嫌悪で顔をゆがめ、幼い弟王は、不安げに兄を見上げる。
ティンク・トゥンの魔女は、悪びれる風もなく不遜なまでに強い眼差しを善き王へ向けた。
優美な色彩の施された丸天井に、魔女の澄んだ声が響く。
「神のご加護に感謝を。魔女の呪いは、ティンク・トゥンを滅ぼせなかった」
内廷に集った人々は、驚きにざわめいた。
ここまで来て、自らの敗北を告げるとは。
善き王が、疲れたように力なく言う。
「命ばかりはとるまいとしてやったのに、何と言う恩知らずなのだ。今度こそは、許せぬ」
「兄上」
長椅子へ並んで腰掛けていた幼い弟王が、兄を制した。
「魔女は、姿を現したのみ。まだ何の罪も犯しておりませぬ」
「罪を犯してからでは遅いのだ。第一、魔女であるというだけでも、すでに罪深い」
「そうは思いません」
少年は、誰が止めるまもなく、魔女の前に立つ。
あどけない笑顔が、呪われた娘へ向けられた。
「お帰りなさい」
ユーナは、美しく優しい微笑を見せた。
「帰りました。ティンク・トゥンの唯一の王よ。貴方に神の祝福を」
人々は、何かとんでもない間違いを聞いたように、耳を疑った。
善き王が、苛立ったように叫ぶ。
「誑かされてはならない。それは、魔女なのだ!」
ユーナの眼差しは、善き王を冷たく射抜いた。
「魔女の名で呼ばれるべきは、私ではない」
多くの廷臣が詰めている内廷は、墓所であるかのように静まりかえった。
衆目を集めた少女は、甘さのない堅い声で告げる。
「偽りの王を抱く王国に、神の加護はない。ティンク・トゥンの変わらぬ繁栄は、それでも、正しき王が一方の玉座にあったからだ」
善き王は、怯えたように顔を背けた。弱々しい声で命じる。
「魔女の呪いを怖れよ。その者の首を斬れ」
ティンク・トゥンの魔女は、善き王から視線を外さず、人々に問いかけた。
「これが、汝らの善き王か。自らが魔力を奪い追放した魔女に怯え、眼を背けるこの者が!」
宰相が何かを言いかけて、言葉を呑み込む。
王の命で抜刀した役人達が、魔女の華奢な身体を捕らえようとした。
その手が、横合いから遮られる。
アーフィフは、魔女と共に捕らえられていた。
おざなりな手当てに、傷口から血が溢れ、絨毯を汚していく。死の淵を彷徨っているのが、順当な怪我人だ。だが、常と変らぬ暗く鋭い眼光が、役人を射竦める。
役人の剣が一振り、アーフィフの手に渡っていた。
異母兄を殺した魔女の目的が、くだらない呪詛ならば、寸時もおかず自らの手で仇を討つと誓っていた。なのに、黙って見ていれば、魔力は奪われ剣も取り上げられた魔女は、他の誰かに殺されてしまう。
いつもいつも、腹立たしいことに、護る羽目に陥る。
「呪われた娘め!」
アーフィフは、吐き捨てるように言う。
背を向けたままのユーナが、かすかに微笑んだ。
「賢明なる臣達よ。私は、砂漠に追われて旅した間、幾度となく魔物に襲われた。王都に着いてさえだ。私を捕らえた通りを調べてみるがいい。いったい誰が、私を襲わせたのだ。私が帰ることを、誰が怖れた。ティンク・トゥンの民なのか。彼らが、魔物を使ったとでもいうのか」
人々は、不意を打たれた。
魔女の帰還を喜ぶ者はいまいが、魔物をもって襲わせるなど、できようはずもない。
できるとしたら、魔女よりもいっそう危険な者ではないか。
誰が?
何故?
「何をしている。これ以上、呪いの言葉を聞かせるな。首を斬り禍根を断て」
王の声に、首切り役人が気を取り直した。かけつけた仲間から剣を受取り、咎人に向き合う。
アーフィフは、ゆっくりと身構えた。
魔女は、我が身に迫る危険を知らぬかのように、ゆるぎない声で告げた。
「私は、知っている。私の首を斬りたがる者こそ、魔女の名に相応しいのだと」
人々は、驚きに叫んだ。
「王が、魔女だと?!」
ユーナは、謎めいた微笑を見せる。
「魔女は、自らと私の姿を取り替えて、砂漠に追いやった」
若い王達の補佐をしてきた宰相は、震える声で問いただした。
「証拠は」
「善き王の秘密を明かそう。魔女の誘惑が効かぬも道理。私は、男のなりをしていたが、女だった。さあ、魔女よ。姿を取り替えたはずなのに、女の身体のままで、さぞかし驚いたろう。女の身で男の振りをしていたか?それとも何かの間違いと、本当に男の身体に変えてみたか?!」
老いた宰相は、よろめいて魔女と呼んでいた少女の前に跪く。
「おお、神に感謝を。その秘密を知るとは、まさしくユフェルリナ姫様」
弟王は、兄王の姿をした者へ、悲しげに微笑んだ。
「宰相と私達だけの秘密でした。私が成人するまで守る為に、男の姿で王の務めを果してくれていたけれど、本当は姉上なのです」
善き王の姿を借りた者は、血を吐くように呻く。
「何故、お前ばかりが…!」
魔女の姿をした者が、弟王の剣を取り上げる。
「魔女よ。お前が呪ったのは、王国ではなく、私だったのだな」
「私が憎いのは、お前だけだ」
ティンク・トゥンの典雅な王宮は、薄闇に包まれようとしていた。音という音が途絶え、沈黙が人々を圧倒する。
そのとき、天を裂く閃光が、闇から這出る異形の姿を照らし出した。その者達は、主を慕う犬のように、王の姿をした魔女の元へ集う。
今や正体を隠そうともしない魔女が、こもった声音で命じた。
「この忌々しい女を、引き裂いてしまえ」
どす黒い肉塊が、ぎこちなく立ち上がり、数知れぬ触手が大理石の壁を伝う。
刃のように鋭い爪が、魔女の姿をした王へ伸ばされた。どこかゆがんだ姿を持つ魔神達は、主に応えて敵を喰らおうと蠢く。
奇怪な声で鳴く幼子の首が、空を斬った。
宰相が、悲鳴をあげる。
「神よ。王にご加護を。ティンク・トゥンの民よ。汝らの王を助けよ」
怯えながらも、剣を抜く者達がいた。
ユーナは、彼らに微笑んだ。異形の魔神達を切り伏せながら、魔女に迫る。
「手駒は、これだけか。旅の間に戦った古馴染みばかりだな」
もはや旅は終わり、善き王の心を宿した身体は、琴を覚え、剣を巧みに操る。
見る間に魔神の触手は絶たれ、爪は砕かれた。
祝福された王宮の灯火は、明るさを増し、異形たちを怯ませる。
魔女の心を宿した身体は、悲痛な声で呻いた。
「呪われろ。魔女を欺きし者よ!!」
最期と思われた時、幼い声が、戦いを留めた。
「姉上。お待ちください」
弟王が進み出る。
「神と王に対する反逆は、大罪。ですが、これは、反逆などではなかったはず。我ら、姉弟の、家族の問題ではありませんか」
ユーナは、剣を魔女の首に模して振り向いた。
王と魔女の、月と薔薇になぞらえられた美しい容貌が並ぶ。
人々は、呆然と呟いた。
「なんとしたことだ。まるで瓜二つではないか」
王と魔女は、同じ人であるかのように、そっくりの容姿を持っていた。
その二人のもとへ、弟王が歩み寄った。
「魔女よ。本当の望みは何だったのですか。私は、それが聞きたかったのです」
「何故、私だけが魔女なのか、山へ捨て去られなければならなかったのか、問いたかったのだ!」
血を吐くような叫びに、ティンク・トゥンの真の王が応える。
「それは、父王が、貴方の母上を愛しておられたから。二人の子を二人ともを奪う事は、できなかったのです。皆も聞いておくれ。今こそ、真実を語りましょう」
千年を経たティンク・トゥンの魔女は、王国の王と愛し合い、二人の子を設けたが、王宮に入るのを良しとせず、一人の子を連れて山に帰った。
それからまもなく、魔女は、娘にその名を譲り、姿を消す。千年の果てに、命が潰えたのだ。
王のもとには、魔力を持たず生まれた魔女の娘が残され、やがて迎えた王妃から生まれた王子と、兄弟として育つ。
王が若くして亡くなったので、姉姫は、幼い弟を守る為、姿を偽り兄王として王国を治めた。
これが、ティンク・トゥンの、真実の物語。
そして…
「善き王でいてくださった姉上。ティンク・トゥンの魔女の娘にして、我らが姉上。どちらも、私の姉上です。魔女であるだけで、罪があるとおっしゃられましたが、私はそうは思いません」
ティンク・トゥンの真の王は、澄んだ双眸で姉妹を見詰める。
「姉上。お名前をお教えください」
長い間をおいて、震えを帯びた声が応えた。
「アルフェルリナ」
幼く、だが神に祝福された王が、微笑む。
「お帰りなさい」
ティンク・トゥンの民人は、一時、王宮を包み隠した異変に怯え、いぶかしみましたが、何が起こったのか、知るよしもありません。
王国の礎たる方々は、いたずらを企む子供のように、謎めかした微笑で、物語を締めくくります。
御存知の通り、ティンク・トゥンの王国は、繁栄の上に繁栄を重ねています。
真実の王は、神の加護のもと、恐るべき魔女の呪いを退けました。
魔女に呪われた姉姫は、真の姿を取り戻し、弟王を支え幸せに生涯を過ごしたと……
王妃暗殺の罪を問われ、牢に囚われた少年は、納得のいかない顔で唸った。
「ちょっと待って。それじゃ、わからないよ。ユーナとアーフィフは、どうしたの?本当の魔女は、山に帰ったのか」
黒檀を思わせる肌をした召使は、茶器を慎重に片付けると、白い歯を見せて笑った。
「旦那様から、言付かったのは、ここまででやして。もちっと、話は続くようですぜ」
「ひどいよ。またしても、お預けか」
「若様。ちいとばかり、くつろぎ過ぎちまったかもですぜ」
サルフィは、近づいてくる足音に気が付いた。
「バハディース。あやしまれたら、つまらない。もうお帰り」
「若様、辛抱ですぜ。旦那様が、何とかしやすから、ちいと大人しくですぜ」
黒い巨漢は、何度も繰り返して念を押すと、存外すばやく暗がりに姿を消す。
サルフィを迎えに来たのは、白い杖を携えた僧兵だった。
すると、この牢があるのは、王城ではなく、寺院の裁きの塔なのだ。
何かが変だった。
王妃殺害はもちろんだが、寺院に裁かれるような冒涜の罪など、犯した覚えはない。
何故、寺院に捕らえられたのだろう。では、裁きも、王の政務所ではなく、寺院が行うのだろうか。
そして、こんな夜も深い刻限に囚人を呼び出すとは、これから、取り調べだというのだろうか。
港町が見渡せる回廊には、無数の燈火が掲げられていた。静まり返った夜の寺院では、波の音が大きく聞こえる。参拝者で賑わう昼間の喧騒が、嘘のようだ。
サルフィは、先導する僧兵に訊ねた。
「これから、取調べを?」
「処刑だ」
陰鬱な声が、感情もなく短く応えた。
サルフィは、長い回廊を黙々と断罪の間へ進んでいく。
護送する僧兵達は、いささか拍子抜けしたようだ。
彼らは、希代の悪鬼に対する覚悟を決めていたはず。この美しい子供の何処が危険なのか、さぞかし戸惑っているのだろう。
男は、広間を横切る一行を、上層の回廊から見送った。
その手に頬を寄せる獣は、つややかな金褐色の毛並みを見せている。
「大丈夫。落ち着いているようだ。まだ、あれはサルフィだよ」
エリーティルは、獣の喉もとへ手を滑らせた。なでてやると、愛らしい子猫さながらに喉を鳴らす。
「愚か者がここまでするならば、仕方ない。久々の猿芝居だ。力をかしておくれ」
妖しく揺れる燈火のもとに姿を現したのは、富貴を誇る商人達の盟主らしからぬ、そまつな身なりをした船乗りだった。金褐色の獣が、しなやかな身のこなしで、主に付き従う。
金と翡翠で象嵌された指輪だけが、常と変わらず、ほんのりと輝いていた。
暗い色彩のタイルが敷き詰められた断罪の間は、民衆の為の見物席と、身分ある者為の桟敷が用意されている。最上段には、寺院の高僧が揃い、僧兵が守りを固めていた。
一段低い席に青褪めた王が現れた。度を失い、何度も高僧達を仰ぎ見ている。
異様なのは、物見高い民衆がいないことだ。本来、罪人の処刑は、多くの物好きが集まる。
この日、屈強な僧兵に引き出された咎人は、清らかに美しい子供だった。
何も知らぬ見物人などがいたら、憐れのあまり抗議の声をあげただろう。
「私の罪状は何なのです」
無垢な瞳が、王を仰ぎ見る。
妻を殺されたはずの王は、答える事が出来ず、僧達の座す高みを、すがるように窺うばかりだった。
長年の修行により、皺深く黒く縮んだ僧達は、忌々しげに震える声で告げた。
「悪魔が目覚め、凶事が起きた。王妃は殺され、北の海では、巨大な氷塊が流れ出し、船団を沈めておる」
「悪魔は、滅ぼされずばなるまい」
「その身を裂け。四肢を断て」
「その身を聖別された炎で燃やせ」
「さらなる凶事を防ぐのじゃ」
サルフィは、王だけを見ていた。
「王よ。貴方もそうおっしゃるのでしょうか」
処刑の任を負った僧兵が、湾刀を抜いた。油を注がれ一層燃え盛る炎が、その影を激しく揺らす。
怯えきった王は、手をもみ絞り、高僧達を仰ぎ見、そして少年を見下ろした。
「サルフィ…我は、このような…おお、神よ…神よ…我は…」
もっとも貴い血筋の末裔が、これほど美しい子供が、殺されようとしている。
言いがかりとしか思えない罪状だった。ろくな取調べもなく、不当な裁きだ。王城の政務所ではありえない。
寺院は、何がなんでも、悪魔が現れるという真の王の血筋を絶とうとしている。
だが、この少年に何の罪があるのか。
氷山が、船団を沈めた?
王妃を殺したのは、寺院ではないか。王は、そう告げたエリーティルを信じていた。
あの男は、奇妙な誠実さを持っている。嘘ではあるまい。
仮の王と蔑まれつづけた王は、神に祈った。祈る事しかできぬことを呪いながら。
サルフィは、王の無力と高僧達の理不尽な裁きに、怒りを感じたが、それはどこか冷たかった。
考えるまもなく、身体が動く。
処刑にあたった僧兵が、絶叫した。奇妙な方向へ捻じ曲げられた腕から、骨が突き出している。
少年は、湾刀を奪い、いま一人の僧兵の腹に叩き込んでいた。
水色の優しい双眸が、何か恐ろしい物を秘めて冷たく輝き、引き結ばれた唇が、少年に酷薄な印象を与えた。
皮肉な事に、悪魔と断罪された少年の容姿は、聖所の細密画に描かれた聖者を思わせる。画家達は、悪魔と戦い凍土に封じたといわれる御使いを、厳しく美しい少年の姿で描いていた。
僧兵達は、幾分か怯えを含んだ声をあげて襲い掛かる。
サルフィは、断ち切られるはずだった腕を炎に差伸べた。
白い指先に誘われるように舞い上がった火柱が、高い天井を焼く。無数に掲げられた燈火も有り得ぬほどに燃え立った。
断罪の間に、疾風が吹き荒れる。
高僧達が喚く
「悪魔め!正体を現したな。矢を射よ。槍を打ち込め」
寺院の美しい装飾壁に、無残な亀裂が入る。
僧兵達は、自らが風圧で吹き飛びそうになりながら、槍を構えた。
《神聖を汚す者…》
風と炎の轟音を越えて、すべての者に、冷たい声の宣告が届いた。
《…滅びよ》
暴風とともに、炎が疾走する。
この夜、港町の住人達は、光る蛇が寺院を締め付け砕いたのを見たという。
バハディースは、ごくりと唾を呑み込んだ。
「旦那様。いくらなんでも、やりすぎって、もんじゃありやせんか…」
寺院の威容を台無しにしたのは、エリーティルの指示で集めた爆薬に違いない。そうとしか、考えられない。
徹底的に寺院を叩くとは言っていたが、ここまでやるとは思わなかった。まったくもって、冒涜者の面目躍如だ。
バハディースには、あるいは誰にしても、この惨状が、あの可愛らしい子供の所業とは、思いも寄らなかった。
サルフィは、劫火と暴風の中、ぼんやりと人々の騒ぎを眺めていた。
自分の身体が、自分の意思でなく動く。この感覚は、市場で獣に襲われた時と同じだ。
あの時は、青褪めた異母兄に呼ばれて、正気に返った。
「サルフィ。我が友よ」
懐かしいあの声が呼んでくれれば、戻って来られるのだろうか。
怒号とともに、屈強な男達が断罪の間へなだれ込む。その瞳に畏れはない。
端然と佇む少年の足元が、燐光を放つ。
先頭を切った男の気合とともに、タイルを敷き詰めた床が、深く抉られ四方に弾けとんだ。
爆風に晒された咎人に、鋭い切っ先を表した聖杖が、打ち込まれた。
僧達に引きずられ、断罪の間から連れ出されようとした王が、たまりかねて叫んだ。
「これが、神に近しい方々のなされようか!あのような幼い者に酷いことを…!」
老いた僧達は、嘲るように応えた。
「あれが、王の血筋に現れる悪魔。見るがいい。あのおぞましい殺戮者を」
風が、瓦礫を吹き攫う。
そこに、美しい子供の遺体はなかった。
寺院の最も危険な僧兵達は、得物を手に、見失った敵を探して顔を廻らす。咎人を焼く筈だった炎が、四方に飛び散った油に燃え移っていた。
重たい沈黙とともに、すさまじい殺気が、瓦礫となった断罪の間に満ちている。
男達の頬を汗が伝い落ちた。
誰かが、祈りを口にする。
僧兵の手から、赤黒い炎の蛇が空に放たれた。幾筋にも禍々しい軌跡を残しながら、姿を隠した咎人を狩り立てる。
だが、それは、目的を果す前に掻き消えた。
暗い影を帯びたそれが、断罪の間に音もなく舞い降りていた。
丈高く、どこかおぞましい何か。
そのものは、咆哮した。
風が、すべてを切り裂く。吹き上がる僧兵の血が、一瞬で寺院の傷ついた壁面を赤く染め上げた。
影の眼が、ゆっくりと瞬きをする。
その場の誰もが、身動きできず、眼をそらす事もできなかった。裁くはずだった者達が、裁かれ断罪されようとしている。
皆が死を覚悟した、そのときだった。
一人の男が、落ち着いた足取りで近づいてくる。
粗末な船乗りのように装った港町の主が、悪魔の前に立った。
金褐色の輝きが、瓦礫と課した断罪の間を駆け抜ける。
金と翡翠で象嵌された指輪が、その者の頬に触れた。
サルフィは、異母兄の名を呼ぼうとしたが、声がでない。それどころか、身体を駆け抜けた何かが、異母兄に襲い掛かる。冷たく鋭い風だ。
エリーティルは、踏みとどまったが、その身体は無数に切り裂かれていた。
このままでは、殺してしまう。
なのに、心が動かない。
金褐色の獣が、逃げ惑う人々を、炎の及ばない方へ、追いやっている。
サルフィは、そちらへ顔を向けた。身の内に、凍りつくような力が溢れてくる。
逃さない。
私は、神を欺く者の災い。
異母兄の唇が動く。
「鎮まれ、……!」
よく聞き取れない。呼ばれたのは、別の名だった。
サルフィだった者は、立ちふさがる男に凍るような眼差しを向けた。
呼ばれたのは、悪魔の名前。
聖者によって、滅ぼされた獣の名だ。
では、自分は、悪魔なのか?
異母兄は、いつものように穏やかに微笑む。
「サルフィ。君は、悪魔ではなく、王にならねば」
血に塗れた腕が差伸べられる。
その指先に、翡翠で象嵌された指輪が、ほんのりと輝いていた。
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