【第五章】
姫君の庭に流れる泉水は、涼やかに流れていく。
華奢な支柱に支えられた丸屋根の下、絹の帷に守られて、小さな姫君がクッションに身を横たえていた。
花陰に立つ少年は、絹ごしの淡い影に微笑みかける。
ゼラナ姫は、王よりも尊い血の末裔を側近くに招いた。
美しい玉石の飾りが、姫君の手にある。サルフィからの贈物だった。
そして今ひとつ。
「物語の先を続けてみよ」
「王の姫君。私もこの驚くべき物語の最後を知りません。我が友エリーティルが、語る時を待つばかり。なれど、お許しがあれば、私の知るところまで、続きを語ることが出来ましょう」
「苦しゅうない。許す」
幼い姫の弾んだ声に、美しく装った侍女達も熱心に頷く。
今を盛りの花の中、いまだ髭の生えぬ白い頬の少年は美しく、その声を聞き、その姿を目にするのは、心楽しかった。
そして物語は語られた。
……失われた女の物語……
昔々、砂漠の果てに、ティンク・トゥンと称する小さな王国がありました。
王国を継いだ若き王は、邪悪な魔女の誘惑を退け、これを砂漠へと追放したのだそうです。
すべての魔力を剥ぎ取られたのにもかかわらず、魔女は、再び王都へと向かいます。
砂漠では、不吉な噂が囁かれるようになりました。
ティンク・トゥンの魔女が、砂漠をさ迷っている。再び魔力を得ようと、哀れな犠牲者の血をすすり、精気を喰らって殺すのだと。
初めの犠牲となった商人には、弟がおりました。兄を失った男は、復讐を誓って魔女を追います。
人々は噂しました。弟もまた、兄のごとく、魔女に食い殺されるだろうと。そうでなければ、魔女の足跡を見失い、むなしく砂漠をさ迷うことになるだろうと…
ティンク・トゥンの魔女の物語は、ご存知の通り。
魔女と災いを引き連れた隊商は、今やティンク・トゥンへたどり着いてしまったのです。
市場は、陽気な喧騒に包まれていた。
ティンク・トゥンは、砂漠の果てにある小さな王国に過ぎなかったが、多くの隊商を惹きつけ、驚くほどの豊かさを誇っている。
早くに父王を亡くし、幼くして王位に就いた兄弟は、国をよく治め、富ませた。
とくに月のごとく美しいと称えられた兄王は、千年を生きた魔女の姦計を見抜き退けたという。
「何故」
少女は、呆然とつぶやいた。
左手に琵琶を、右手に剣を抱いた魔女は、王国の繁栄を前に立ち竦んでいる。
背の高い隊商の長が、小柄な娘の耳元へ囁けるよう屈みこむ。彼の奴隷は、この王国の誰にも知られてはならない身の上なのだ。
「災いの魔女め。この王国は、お前の呪いから免れているようだな。ティンク・トゥンの王には、神の加護がある」
「呪いから免れて」
魔女は、アーフィフの言葉をなぞり、そしてそれを否定した。
「いいや。この王国は、魔女の呪いに囚われたままだ」
アーフィフは、眉をひそめる。
「お前の呪い。お前の災いだ。私の兄を殺してまで、果たそうとした目論見とはなんだ」
魔女の薔薇色の頬が、血の気を失って青褪める。
やむを得ぬとはいえ、アーフィフの異母兄だった商人を殺した。その上、アーフィフの首や腕には、魔神と闘ったときの酷い傷痕が残されている。
借りは多く、何一つ返せてはいない。
「恩は忘れない。でも返せるものが残るのかどうか、私にはわからない。私は、ティンク・トゥンの王国へ、そして王城へ、王の御前に行かなくてはならないのだ」
うつむいた魔女の肩に、暖かな手が置かれる。白銀の髪と瞳を持った女奴隷の長が、少女を抱き寄せた。
「ユーナ。またアーフィフ様に苛められたのね。かわいそうに」
エンナは、娘の黒髪を撫ぜながら、主であり恋人である男に微笑んだ。
「アーフィフ様。可愛いと思っているなら、苛めてはいけませんよ」
「エンナ。ばかを言うな、これは」
これは千年を生きた魔女なのだ。だが、そう言うわけにもいかない。アーフィフは、苦り切った表情を見せたが、エンナは笑った。
「ユーナ。アーフィフ様はね、貴方を可愛いと思っているのよ」
ティンク・トゥンの魔女は、幼い子供のように眼を瞠った。
背の高い男は、捨て台詞を残して踵を返す。
「子供だとは、思っているが、可愛くはない」
一行は宿へ入り、荷を解き始めた。
エンナは、品々の選別を指揮しながら、所在無さげな若い主を目で追った。
アーフィフは、本来武人なのだ。兄の隊商を護衛する男達を指揮し、戦うことには長けていても、商人として目利きというわけではない。諦めたように溜息をついて、宿を出て行った。
「愛想も無いし」
傍らの少女は、エンナを手伝いながら応えた。
「でも、エンナがいれば大丈夫。貴方の目はとても確か。ティンク・トゥンでは、いい商いができる」
「そうね。私がいなくても、貴方も目はよさそう」
「エンナ。何故そんなことを」
女奴隷の長は、謎めいた微笑みを見せた。
「ここをお願いしてもいいかしら」
「今だけなら」
しなやかな身のこなしで、喧騒の中を行く美しい女。エンナは、宿を出て、市場の雑踏に紛れていってしまう。
ティンク・トゥンの魔女は、俯いた。
「王城へ行かなければ」
それしても、エンナは美しい。優しくて謎めいている。
王城へ行かなければならないのに。こんな事を考えている場合ではないのに。
王は、この隊商を王城へ呼ぶだろうか。
隊商の男が一人、エンナを捜してやってきた。
「エンナはどうした?割れてしまった陶器があるんだが」
「外へ行った。捜してくる」
エンナが出て行ったのは、ほんのすこし前。かけて行けば間に合う。
アーフィフといるかも知れない。にぎやかな市場を、二人で楽しんでいるのかも知れない。
気難しい男が、恋人といる時は、思いがけなく優しく微笑む。
小さな魔女の足が止まる。
恋人達の邪魔をすることになるのだ。
肩を落として、とぼとぼと歩き出した。
これ以上、憎まれたくない。幸せそうな二人を見たくない。
「何故そんなことを。それがどうしたんだ」
つぶやきが小さく消える。ひどく心細かった。
白銀の輝きが、雑踏の中にちらりと見えた。
「エンナ」
ほっとして、呼びかける。
エンナといたのは、アーフィフではなかった。
白銀の髪を持つ女奴隷は、路地に広げられた小間物を手にとりながら、店の主と話し込んでいる。貧相な小男で、露天商としては、妙に暗い雰囲気をまとっていた。
ユーナを振り返るエンナも、悲しげな表情をしている。
「何か、あったのか」
「まぁ、ユーナ。いいえ。偶然だけど、この方は、私の故郷を行商してきたばかりなの。知合いが死んでしまったのを教えてくれたのよ」
「エンナ」
慰めの言葉をかけようとした小さな娘は、女奴隷の長に抱きしめられた。
「ユーナ、忘れないで。私がいなくなっても、大丈夫。貴方がいる」
「何を言っている。どうして」
エンナの腕の中で、ティンク・トゥンの魔女は震えた。
この優しい女がいなくなったら、どうしよう。異母兄を亡くして、あれほど嘆き怒り狂ったアーフィフは、どうなる。
誰よりも美しい女は、青褪めた微笑を見せ、応えてはくれなかった。
青白い月の光が、王城を照らし出す頃、小さな影が、隊商宿から抜け出した。
人通りの無くなった街路で、琵琶を爪弾く。
美しい詩句が、若い清雅な調べに重なった。もう思うままに声が出、指が動く。
最後の和音を奏でると、琵琶を置き、その美しい姿に指を滑らせ惜しんだ。
剣を手に、琵琶を後にする。
心の中で、琵琶に隊商に別れを言った。
王城へ行かねばならない。
「災いよ。ティンク・トゥンの魔女の呪いよ。私は、退きはしない」
整然とした石畳が、かすかに熱を帯びた。
鈍くきしる音が響く。
青白い月の光が、赤錆びて翳り、一陣の風が通りを吹き抜けた。
風に混じり、かすかな声が応えた。
《災いよ。立ち去るがいい。お前こそが、今、災いなのだ》
ティンク・トゥンの魔女の双眸は、鋭く王城の威容を射抜く。
「私は、お前の前に立つ」
魔女は、歩みを止めない。
そろりと、石畳が揺らいで砕けた。黒々とした土が吐き出され、それは姿を現す。不思議と、音もない。
粘液を滴らせる腕が、砕けた石畳を這う。小さかった。生まれそこなった赤子のような異形。魔神達は、忌まわしい姿を現した。
青褪めたティンク・トゥンの魔女は、剣の鞘を捨てる。
「神よ。ティンク・トゥンに加護を」
無数の異形は、いっせいに頭をもたげた。その滑る首が、魔女に向かって伸びる。甲高い鳴き声が、無人の街路に響いた。
「邪魔をする者は、許さない」
駆け抜ける魔女は、華奢な腕で、奇跡のように軽々と剣を振う。鈍い音とともに、追いすがる魔神の首が落とされる。
それでも、あまりに数が多すぎた。首を落とされる異形より、地の底から這い上がる魔神の方が多い。
魔女の髪を捉え、足を捕り、その細い首に、粘液にまみれた異形の腕がかかる。毒蛇を思わせる牙が剥き出され、眼前に迫る。
優美な曲線を描く刀身が、鋭い音をさせ一対の牙を防いだ。
だが、次を防ぐ術がない。
「神よ…」
新たに、異形のまぶたのない首が迫り、牙を剥く。
眼を閉ざしてしまった魔女の耳に、苦り切った声が届く。
「なんという悪夢だ!」
男の剣は、魔神の首を落としていた。
「アーフィフ」
ティンク・トゥンの魔女は、強い腕の中にいた。
「災いの娘め。なんて様だ」
「王城へ行きたいんだ」
「こいつらを片付けてから、言え。なんという生まれぞこないだ」
無数の魔神の首が、音もなく空を切って迫る。
アーフィフの剣は、無造作に魔神の首を落としていった。力強くすばやい。魔女は、つかぬ間、男の剣技に見とれた。
だが、アーフィフをしても、果てしない魔神に辟易した。
街路は、魔神の甲高い鳴き声で埋め尽くされている。街人が起き出して来ないのが不思議だ。
「きりが無いぞ。魔女!」
ティンク・トゥンの魔女は、必死になって辺りを見回すと、戸締りの甘い一軒家に目をつけた。
夜は無人になる小間物商の店だ。外から、お義理程度の鍵が掛けられている。
「アーフィフ。あの扉だ」
アーフィフは、ものも言わずに扉を蹴破った。掛け金が吹き飛んで、床に跳ねる。
間髪をいれず魔女を引きずり込むと、叩きつけるように扉を閉める。掛け金の変りに、我が身で抑えるが、貧弱な扉は、魔神達の体当たりでたわんだ。
アーフィフの腕に血が滴った。左の袖が切り裂かれている。
「少し、持ちこたえてくれ」
魔女は、アーフィフを残して、店の中をすばやく物色する。探し当てた火打石と、蝋で、小さな灯りを作り出した。
「どうするつもりだ」
「清める。扉を開けろ」
アーフィフは、眉をひそめたが、何も言わず横に退いた。
扉が吹き飛んだ。
黒髪が煽られ顕わになった魔女の首には、赤黒く魔神の残した疵がある。
「魔神よ。異形よ。ここは、ティンク・トゥン。神が加護したもう王土。お前達の居場所はない。還れ。ティンク・トゥンのすべては、神のもの」
涼やかな鋭い声が、暗闇に蠢く魔神を圧した。小さな火が、おそろしく明るく燃え上がる。
「この火を見よ。ティンク・トゥンの火は、すべて神の加護の下に燃える。忌まわしき者どもよ。清められよ。清められ神のものへと還れ」
アーフィフは、異形達がたじろぐのを見た。
少女は、確かに魔女だった。華奢な影が、光を掲げて異形の中に進みでる。
「神よ。ティンク・トゥンに、その加護を。この者共に慈悲を」
眼を開けていられないほどの光輝が辺りを包み、消えた。
魔女の手にした燭台は、元通りささやかな灯りを作っている。
街路からは、魔神の鳴き声も、その異形も消え果ていた。
「魔女め」
アーフィフは、つぶやいた。
ティンク・トゥンの魔女は、怯えた眼差しで、男の左腕を見る。
「また、怪我をさせてしまったのか」
燭台が、石畳を転がった。涙が魔女の白い頬を伝っていく。
アーフィフは、血に塗れた左手を差し伸べかけて止めた。よけい怯えさせる。
「戻って来い。主の手当てぐらいするものだ」
小さな魔女が頷いて、歩み寄りかけたその時。
男の体が、かすかに揺らいだ。
「アーフィフ?」
ささえようとした手が触れる寸前、アーフィフの右胸を刃が貫き、その姿を現した。黒く冴え渡った鈍い刃。一瞬を置いて、血が吹き出す。
剣の主は、冷ややかな双眸で、男の背を、驚愕に声もない魔女を見つめた。
アーフィフは、踏みとどまり、今まで気配を感じさせなかった刺客を見た。
生まれたときから、よく知っている、その美しい容貌。
「エンナ」
美しく優しい女奴隷の長は、恋人の身体から、血塗られた剣を引き抜いた。
「アーフィフ様。お別れです」
かつて恋人だった者達の剣が交わった。
「何故だ」
「故郷からの便りがありました。私達の王が亡くなったのです」
魔女が、息を呑んだ。
「王の子供は、後を継ぐお一人を残し、すべて死ななければなりません。貴方は、王の子なのです。お母様は、王の末子を宿したまま、商家に下げ渡されてしまった。私は、この刻の為に、配された刺客」
生まれたときから、生まれる前から裏切られていたと。
「お前が」
アーフィフの剣は、裏切った恋人の剣をはらい、そのたおやかな肢体をかすめたが、太刀筋にかすかな迷いがある。
エンナは舞うような身のこなしで、主を追い詰めた。黒く鋭い切っ先の軌跡は、優美ですらある。
それに比べ、男は、傷つきすぎ、立っていられるのが不思議なほどだった。
そしてそれでも、闘おうとしている。
このままでは、魔女にも魔神にさえ屈しなかった男の命が、美しい刺客に奪われてしまう。ティンク・トゥンの魔女は、叫んだ。
「やめるんだ。許さない」
忌まわしい黒剣を手にしたエンナは、小さな娘の必死の叫びに微笑む。
魔女の腕には、アーフィフから与えられた剣がある。
どちらをなのか、致命的な一撃から遮ろうと、アーフィフの血塗られた腕が伸ばされた。
だが、間に合わない。
恋人達の間に飛び込んだ娘の剣は、エンナの喉元をわずかに裂き、エンナの黒剣は、魔女の髪をほんの少し散らした。
アーフィフは、自らを背に庇おうとした娘の腕を捕らえた。
「これは、俺の戦いだ」
「だって、そんな怪我をしているのに」
「俺が王の子というならば、神の加護とやらがあるだろう」
ティンク・トゥンの魔女は、苦しげに眉根を寄せた。力なくつぶやく。
「ああ、神の加護は、王たる者へ下されるが、王の心まで思いやりはしないのだ!」
エンナは、指先で喉もとの血を拭い、甘く優しい微笑を見せる。
「愛しい方。その可愛い子を離してくださいな。私に酷い事をさせないでくださいまし」
「わかっている。よくわかった」
しんと静まり返った街路に、殺気が満ちた。
息苦しい時が流れる。
ティンク・トゥンの魔女は、静かに対峙する二つの影を見守った。
エンナが動き、アーフィフが応じた。
傷を負いながら、男の動きはしたたかで鋭い。女はしなやかに受け流し、せめる。二人の動きは、おそろしく美しかった。とてもとても美しい。
鋭い音とともに黒い刀身が砕ける。エンナの青褪めた頬が眼に焼きつく。
アーフィフは、恋人を抱きとめた。己が切り裂いた女の肢体から溢れる血が、その女がつけた傷から流れる血に混じり、石畳に滴り落ちていく。
細い首がのけぞり、赤錆びた月光が、事切れた女の微笑を照らしていた。
ふいに音がした。誰かの足音が遠ざかっていく。
強情な男が、追うことも出来ず、ついに膝をついた。
「エンナ。俺は王にはならない。だが、お前を道具にした男も、王にはさせぬ」
アーフィフの背に、怯えた声が囁く。
「エンナは、アーフィフを殺そうとしたんじゃない。そうして死ぬつもりだった。だから、自分の代わりにお前を守れと、私に言った」
「わかっている。エンナには、老いた両親がいた。彼らを質に取られれば、逆らえなかったはず」
恋人達はわかりながら闘ったのか。
先ほどの足音は、小間物商に扮していた密使が、刺客の失敗を伝えに走り去っていったものだった。
自分が死ねば、アーフィフを殺さずに済む。王にすることもできる。ティンク・トゥンの魔女は、その助けになるだろう…
あの美しい優しい女は、そう考えたのだ。
だが、残された男は拒んだ。
「王にはならぬ。俺は、自分が生まれた国にとって、災いとなるだろう。王とその眷属すべて滅ぼしてやる。神の意に背いても」
小さな魔女は、頭を振る。
「神の加護は、お前にある。神の望みは、その卑劣な男を王にしないことなのだろう。お前は、王にならずとも、神の意を現す者となるだろう。私は、私の成すべき事を終えたら、お前を助けることをしよう。異母兄の復讐は、すべてが終わってからにしてくれるか」
「お前の成すべき事?」
アーフィフの暗い眼差しが、魔女を捕らえた時、街路に音が甦った。
木戸のきしる音。怯えを含んだざわめき。怯えた人々が、戸口から覗き見ている。
駆けつけた兵隊の掲げる松明は、惨劇の跡を白々と照らし出した。
人々は噂した。
善き王への復讐を胸に、ティンク・トゥンの魔女は、砂漠をさ迷い、再び王国に姿を現すだろうと。
そしてそれは、真になり、魔女は再び王の前に立ったという。
人々は、少年が口を閉ざすと、大きく息を吐いた。
美しい女官達は、慎みを忘れてざわめく。
「なんということなの。なんと恐ろしい。なんと哀れな。いったいどうなるというのでしょう」
サルフィは、困ったように応えた。
「皆様。初めにも申し上げたとおり、私も、この物語をここまでしか知らないのです。いずれ我が友が語ってくれるのを待つばかり」
ゼラナ姫は、すねた声で言う。
「そして、私は、もっと待たされるというのですね。その者に語らせるのなら、ここで、私にも聞けるようにしなさい」
気難しいと評判の少年は、優しく微笑んで頷いた。
「姫君のお許しがあれば、我が友は、喜んでそうするでしょう」
「苦しゅうない。許すぞ」
「はい」
長い物語を終えた少年は、慎ましく退出を願い出たが、小さな姫君は許さず、もっと他愛無い話を始める。
子供達の様子を見守る眼差しは、どれも優しい。これほど望ましい一対はあるまいと、誰もが思っていた。
「うまい手があると思っていたが、いい傾向だ」
黒い巨漢からの知らせを聞いたエリーティルは、微笑む。
サルフィにとって、王宮におけるもっとも危険な人物は、他ならぬゼラナ姫の生母である王妃だったのだ。サルフィがゼラナ姫を娶れば、もっとも強力な味方になるだろう。
「後は、貴族達」
このところ、こまめに手を回し、金をばら撒き懐柔し、あるいは危険の芽を摘んだ。残りも王妃が抑えるだろう。
「さて」
厄介なのは、やはり寺院ということだ。どういう手でくるだろうか。
瀟洒な商館の主は、海風に吹かれながら露台に出た。
この港町では、王城とともに、陰鬱な寺院の威容が何処からでも見える。
「なんとしても、我が友、我が異母弟から手を引いてもらわねばね」
館の内から聞こえるにぎやかな調べが、エリーティルのつぶやきをかきけす。
港町の主、王よりも王らしいと言われる男は、寺院の顰蹙を買いながら、王侯も適わぬという贅沢を尽くした宴を開いていた。人々の顔は明るく輝き、主を迎える。
「エリーティル様。あの話をお聞きになられたか」
宴の中心で、旅から帰ったばかりの男が、衆目を集めている。
「北海の災いですと」
「見たものでなければ、信じられはすまい」
鷹揚な主は、人々に誘われるまま話の輪に加わった。
「災いとは、また不吉なことです。何が起こったというのでしょう」
日に焼けた男が、興奮で赤くなった面を巡らせた。
「皆様。真のことです。考えてもみてくだされ、呪われたあの凍土から、島のような氷塊が流れ出てくるのです。空恐ろしい光景でございました。それは、意思あるもののように、幾つもの船団を沈めてしまったのです」
人々は推し量るように、商館の主の鷹揚な微笑を窺った。
驚くべき事に、この穏やかな人物が、寺院に逆らい冒涜の罪人を庇って、呪われた凍土までも流されてしまったのは、そう遠い昔のことではないという。
「エリーティル様は、ご存知でしたか」
「いえ。初耳でした。真のことなれば、恐ろしいことです。では、寺院の方々には、一層のお祈りをお願いいたしましょう。事は、我らの航路の安全にも関わります。俗人の身なれば、何がしかの寄進をする他に、成すべきことがないのが悔やまれます」
客人方は、ほんの少し笑いをかみ殺して、お互いの顔を見やった。
王城を戴く港町の主は、優しいばかりではない。寺院に対する言い様には、そこはかとない皮肉が見え隠れする。
寺院の祈りには、本当に力があるのだろうか。寺院が求める寄進の価値ほどに?
人々は、呪われた凍土までも踏破した冒険の話を聞きたがったが、主は、今までどおり、あいまいな微笑を浮かべるばかりだった。
凶兆が顕れれば、犠牲が選ばれる。
そして、その犠牲は誰か。先ほど露台で考えていたと事の応えが、これだった。
エリーティルは、微笑の下に持て余すほどの怒りを隠していた。
月のない夜、無数の灯火に照らされた寺院は、陰鬱な姿を見せていた。
豪奢な部屋の中、賓客は、落ち着きなく辺りを窺う。
嗄れた声が、その様子を咎めように言った。
「王よ。王の血を持たず王座にある仮の王よ」
「落ち着きなされ。今宵裁かれるのは、そなた自身ではない」
王よりも高い座に収まる影は、高位の僧達の物だった。長年の修行により、しわ深く黒く縮んだ姿は、醜怪といってもよかったが、王は畏敬の念で、彼らを見上げていた。
「いと高き方々よ。いったい何が起こったのでございましょう」
「凶事だ。我らは、災いが起きた事を伝える」
「北の海に眠る呪われた凍土が、目覚めて災いを成す。巨大な氷塊が流れ出し、船団を沈めておる」
王は息を詰めて呻く。
「おお。神よ。何故そのような試練をお与えになるのか」
老僧が応えた。
「悪魔がおる。悪魔が目覚めたのだ」
その声は、寺院の高い丸天井に陰々と響き、人ならざる者のお告げを思わせた。
「王国の始まりに、神は聖母を遣わし、二人の御子を我らに下された。一人は王となり、一人は寺院の主となった。だが、王は呪われた」
仮の王と低く見られている男は、びくりと身を震わせた。
「王の血筋には、悪魔が顕れる。最後の王は、その悪魔に殺された。だからこそ、仮の王座をお前の一族に許した」
暗く誇らしげな宣告は、畳み掛けるように続く。
「寺院の主は、清らかな神の子。この世で最も貴い。王とは違う。呪われた王などとは」
身を竦ませた王は、すでに顔も上げられずにいた。
高みからの声は言う。
「だから、我らが導こう。仮の王よ。悪魔を滅ぼすのだ。王の血筋を絶て」
王の眼は、限界まで見開かれた。
「王の血筋」
もっとも貴い血筋の末裔。あの美しい子供。
ぼんやりと、それでも頭を振ろうとする王へ、哀れむような声が掛けられた。
「王の血筋には、悪魔が現れるのだ。すぐにわかる」
王と呼ばれるのに疲れた男は、屈してしまいそうになった。
その時、手が差し伸べられた。
招かれぬ客人は、穏やかな微笑で、穏やかならざる言葉を語った。
「王が悪魔なら、寺院の主も悪魔。二つは、同じ根から育ったもの。至極単純な理もわからぬようなら、その高き座から、降りられるがよかろう。それこそが世の為になる」
仄かな灯火に姿を現したのは、商人の束ねたる男だった。粗末な水夫の服を身に纏い、髭を落とし、髪を刈り込んだ姿は、ひどく若い。
王は、若者にすがりつく。
「エリーティル!」
「王を跪かせられるのは、神のみだ。それを覆そうというなら、あなた方こそが悪魔と呼ばれましょう」
何故、僧兵によって王城よりも堅く守られたこの場へ、このような男が現れることができたのか。そして何故、この物言いを、誰も遮る事が出来ないのか。
あまりの不思議に、気おされ静まり返った中、細い声が消え入りそうに囁いた。
「もう遅い。あの少年は、王妃を殺害し、その咎により囚われる」
打ちのめされた王が呻く。
哀れむ眼差しをした若者は、呟いた。
「王妃は、老師方の僕だった。信心深く、欲も深く。サルフィに王位を渡さぬよう、市場に獣を放って殺そうとした。だが、王の口から、娘とサルフィの縁談が出て以来、寺院から遠ざかった。つまり、寺院にとって、捨石にできるほどの裏切り者だった」
エリーティルは、踵を返す。
殺気だった僧兵が囲む中、悠然と歩み去ろうとしていた。
喘ぐような声が、訊ねる。
「お前は何者なのだ」
ゆっくりと振り返った若者は、苦笑を見せる。
「見たままの者だ。愚か者の下僕達よ。私の問いにも応えてみるがいい。寺院の主はどこにいるのだ」
王は、冒涜者の言葉を、呆然と聞いた。
それにしても、不思議な事を問う。
寺院の主たる皺深い老僧は、最上段に座しているではないか?
だが、僧達から、応えは返らない。
エリーティルは、再び踵を返すと、柱廊の影に静かに姿を消した。
冒涜者を見失った追手達は、悪魔を見たかのように青褪めた面を見合わせた。
王の唯一の姫は、血を吐く母の姿に悲鳴を上げた。
王妃は、信じられないというように眼を見開き、その赤い爪は空を掻く。
サルフィは、意識を失った幼い姫にかけより、その身体を抱きとめた。
「何とした事なのだ!」
毒を盛られた王妃は、最後に、愛娘と少年へ、懇願するような眼差しを向けた。高価な絨毯が、赤黒く染まっていく。
「誰か!」
困惑したサルフィが、人を呼ぼうと声をあげた時、王宮の衛兵が駆けつけて来た。
いささか、早すぎたかもしれない。王妃は、まだ事切れていなかった。
「裏切り者ども、呪われてあれ」
末期の呪詛をまともに浴び、臆したように眼がさまよう。
いささか力ない声が、サルフィへ投げかけられた。
「お前が王妃を殺したのだ。咎人め」
あまりの事に声を失った少年から、ゼラナ姫が奪われる。
「姫に何をする」
荒々しい扱いに、意識を取り戻した少女が助けを求める。
「サルフィ様!」
怒りに頬を紅潮させた少年が剣を抜く前に、少女を捕らえた衛兵が唸るように言った。
「大人しく縛につけ。姫が大事ならばな」
恐ろしい晩だった。月もなく神もない。
その夜に、王都に悪魔が顕れ、王妃を食い殺したのだ。
悪魔は寺院によって捕らえられ、密かに滅ぼされるのだという。
人々は、落ち着かない幾夜かを過ごすことになった。
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