【第二章】
石畳の路は、強い陽射しを受けて、つややかに輝く。
それは、海鳥たちが騒ぎ立てる港から王城へと、途切れることなく続いていた。
緩やかな坂を登るにつれ、上流貴族の邸が瀟洒な姿を見せ始め、行き交う人々も、上品でいて華やかな装いになる。
雲一つない晴天の日の午後、港町の会頭は、友にして異母弟の館を訪れた。
古い血統を誇る老貴族は、ほんの少しでも気を許すまいというように、皺深い険しい顔を更に顰めた。
明るい陽射しの中、孫が招いたという客人は、悪びれもせず微笑んでいる。
商人の束ねは、丁重な挨拶とともに美しい絹や宝玉、珍しい異国の陶器や香料などを贈り、館への訪問を許された礼としていた。
老いた貴族は、目をやるも穢れとばかり顔を背ける。
この男の父が、娘をたぶらかさなければ、愛しい娘は、命を落とすこともなかった。
この男が、寺院に逆らい冒涜の罪人をかくまわねば、ただ一人の孫が、この世の果てまで船出をするなどという危険に冒さずにすんだはず。
憎んでも憎み足らぬ相手である。男を見る老人の眼差しは、険しかった
。
その男が、穏やかな声で言う。
「賢き智慧の師父よ。父のもたらした悲しみを、息子の私に、少しでもはらすことができればと、常から思っておりました」
サルフィが、自宅にいてさえまとわりつく護衛の手から逃れ、ようやく客間の前に立った時、信じがたい場面を目撃することになった。
人一倍気難しい祖父が、談笑している。
かつて呪いの言葉さえ口にした相手…友にして、異母兄であるエリーティルと。
なお驚いたことに、内気で決して表にでようとしない祖母までが、ベール越しに微笑みを見せているではないか。
少年が、客間の入り口で立ち尽くしていると、まず異母兄が気付き、わずかな目配せで祖父の注意を促した。
「おお、愛し児よ。サルフィ。ここへおいで。この老いた祖父の傍らへ」
サルフィが、祖父の寛いだ声に戸惑っていると、祖母が、愛しい子供の手をとって長椅子へと導く。
老貴族は、満足げにこれを見つめていたが、その眼差しを港町の会頭へ向けると命じた。
「さて、これでよかろう。エリーティルよ。その物語を続けてみよ」
サルフィは、祖父の言葉に眼をみはった。
異母兄は、常のごとく優しい微笑みを見せ肯く。
「御望みのままに」
エリーティルの手の中で、金と翡翠で象眼された指輪が、ほんのりと輝きを放った。
…復讐者を誓う者の物語…
昔々、砂漠の果てに、ティンク・トゥンと称する小さな王国がありました。
王国を継いだ若き王は、魔女の誘惑を退け、これを砂漠に追放したのだそうです。
すべての魔力を剥ぎ取られたにもかかわらず、邪悪な魔女は、再び王都へと向かいます。
砂漠では、不吉な噂が囁かれるようになりました。
ティンク・トゥンの魔女が、砂漠をさ迷っている。再び魔力を得ようと、哀れな犠牲者の血をすすり、精気を喰らって殺すのだというのです。
初めの犠牲となった商人には、弟がおりました。兄を失った男は、復讐を誓って魔女を追います。
人々は、噂しました。
弟もまた、兄のごとく、魔女に喰い殺される事になるだろうと……
娘は、若草色の瞳に憎しみと焦りを浮かべていた。
王都へ行かねばならない。一刻も早く。その為に何をしてでも。
男は、娘の足跡を追っていた。
砂漠馬は、徒歩の娘に、難なく追いつくだろう。
その時こそ、あの人の良い兄を殺した魔女に、復讐をするのだ。
そうして、魔女が砂漠に落とす小さな影を、星明かりがあらわにした。
男は、歓声をあげ、砂漠馬に鞭をあてる。
鍛えられた腕が、魔女の胴をさらった。男は、馬上であらがう娘を無慈悲な言葉で打ち据える。
「呪われた魔女め。主殺しの奴隷よ。お前には、死よりもむごい罰を与えてやろう。呪われた上にも、呪われるがいい」
「獣め。お前達こそ、呪われるがいい」
甘みのない堅い声音が叫んだ。
怒りに燃え立つような若草の双眸。そして、埃によごれていてさえ、若く美しい娘…
「魔力のない魔女の呪いなど、怖れるものか」
「放せ!触るな。お前達など嫌いだ。だいっきらいだ!」
なるほど姿こそ美しくはあったが、娘の罵声は、ひどく子供じみていた。
この子供のような娘が、ティンク・トゥンの千年を経た魔女と考えるのは難しい。
寄る辺なく憐れで美しい。
兄が惑わされた理由が、わかろうというもの。
男は獰猛に唸ると、その強い腕で、きつく魔女を拘束した。
娘は、眦から白い頬へ涙をあふれさせたが、悲鳴だけは、かみ殺してみせる。
「強情な」
男は、白い歯を見せて笑った。彫りの深い整った容貌が、痛みをこらえる娘の目の前に迫る。
魔女が、唸った。
「私に触れるな。下衆め。兄のように殺されたいか」
「兄は商人だったが、俺は武人でもある。たやすく殺せると思うな」
「殺してやる」
男は、冷ややかな眼差しで、娘を見つめる。
「主に逆らった奴隷がどうなるか、よほど楽観しているのだな」
「私は、奴隷ではない。おまえ達の勝手にはならないぞ」
「砂漠で死にかけていた命を救った礼が、命を奪うことか。貴様の魂は、よほど黒く焼けているのだろう」
娘の抵抗が、不意にやんだ。
「違う…恩は、働いて返すつもりだったのに…」
「何が違う!お前は、妻に迎えようとまで言った恩人の心臓を、情け容赦なく抉ったのだ。兄の天幕は、主の血をすって赤黒く染まったのだぞ」
娘は、堅い口調で応えた。
「私は、王都へ行かねばならない。邪魔をするものは、恩人でも許さない」
魔女の眼差しは、おそろしく生真面目で揺るぎが無い。
男は、ふと興味をそそられた。
「追放された身で、王都へ行ってどうする」
「善き王を…殺す。ティンク・トゥンの王国の為に」
魔力を剥ぎ取られたという魔女の呪いは、弱々しく、砂漠を渡る風に吹きさらわれた。
男は、この時初めて、「アーフィフ」と名乗った。
娘は、細い声で自らの名を「ムーナ」と告げた。
アーフィフは、大方の様相に反して、魔女を伴い、無事に街へ戻ったという。
程なく、新しく組まれた隊商が、砂漠の果ての小さな王国、ティンク・トゥンへ向けて出立した。
ムーナは、再び奴隷として隊商に囚われたが、アーフィフが宣言したむごい扱いなどは受けなかった。
「何のつもりなのだろう…」
憂いを含んだ若草の瞳が、男の背を追う。
アーフィフは、どこか謎めいていて恐ろしい。
そして彼が、兄を愛していた事だけは、はっきりとわかる。復讐の誓いは、絶対に守られるだろう。
「今でなければ…」
復讐の刃を、受けてもかまわない。それが、人一人殺してしまった代償なら、それも仕方がない。だが、今は、まだだめなのだ。
魔女は、歯を食いしばって、奴隷仲間の元へ戻った。
火をおこし、粉を練ってパンを焼く。砂漠馬に水や飼い葉を与える。破れた布を繕い、天幕を整え、また解体する。仕事は、果てしなく、永遠に終わらないかのようだった。
それでも、ムーラは、眠ることができるほんの僅かな時を、更に裂いて、自分の為の時間を作った。
アーフィフは、何か釈然としない想いを抱えて、魔女を見つめていた。
妖艶な美女であれば、納得がいく。
だが、いくら美しくても、あの生真面目な…子供のような娘が、王を誘惑している姿など、どうにも想像できない。
兄が、ムーラに惹かれたのは、その美しい容貌は、もちろん、身を守る術もない無垢な娘を守ってやりたいといった、そんな気持ちを、そそられた部分もあったのだ。
いったい何の恨みで、王を狙うのか?
王国を守るとは、どういう意味なのか?
アーフィフは、ムーラの後を追った。
魔女のほっそりとした手には、剣を模した木の棒がある。
逃げようというわけでは、ないらしい。
人々が寝静まる刻、魔女は寝床から抜け出し、剣の鍛練を始めるのだ。
初めは、ぎこちなかった動きが、美しい舞踏のように滑らかなものへ変わっていく。漆黒の髪が舞い、その危険な動きを飾っている。
アーフィフは、毎夜、魔女の舞踏を飽きずに見守っていた。
ある夜のこと、魔女の背に声がかけられた。
「失った魔力の代りに、剣をとるのか?」
ムーラは、ゆっくりと振り返った。
「今の私は、何の力もない。何かの足しにはなるだろう」
相も変わらぬ堅い生真面目な口調が、応える。
アーフィフは、苦い微笑みを見せると、魔女に剣を与えた。
「足しにするがいい。お前がなすべきことをせよ。恩人を殺してまで、やりとげねばならなかったという事が何か、見届けてやろう。兄の死を無駄にするのは許さぬ」
魔女は、眼を瞠る。
冷ややかな光を宿す刀身は、美しく鋭い。ありふれた剣ではなく、名のある業物なのだ。間違っても、奴隷に投げ与えるようなものではない。
「アーフィフ…?」
訝しげな声も、首を傾げる様子も、妙にあどけない。
注意深く見つめていた何日かで達した結論は、アーフィフに、ため息を吐かせた。
「お前は、まだ子供なのだな。魔女よ。何故、兄を殺したのだ?」
魔女は、与えられた剣を抱きしめて、身を堅くした。
「……わからない…ただ怖かった…何処へもやらないって言われて…私は、行かなければならないのに…」
「兄が、妻にといった意味が、分からなかったんだな?」
途方に暮れたような若草色の双眸が、自らの手で殺した男の弟を見上げていた。
「なんのことだ?私の方が、殺されると思ったんだ。でも…でも…」
確かに兄の息の根を止めた短剣は、兄が守り刀として常に身につけていたものだった。
美しい娘は、その見た目に反した幼さで、言い寄る男を、わけもわからず殺してしまったのだ。
「だが、死は死。罪は罪だ」
魔女は、顔を上げると、尊大な態度で言った。
「わかっている。私が目的を果たしたら、お前は、私を殺し、兄の復讐を果たすがいい」
アーフィフは、娘の生真面目な言葉を笑った。
「千年も生きて、まだ子供とは、魔女とは、気の長い生き物だな。俺が生きているうちに、目的とやらを果たして欲しいものだ」
男の手が、魔女の漆黒の髪を撫ぜた。娘の眼は、美しくあどけない。
「アーフィフ?」
「お前が、俺を惑わしているのなら、兄のように殺して、逃げたらどうだ?」
「私は、誰も惑わしてなどいない。私には、魔力などないんだ」
男は、眉をひそめると、魔女から身を離した。
「もう休むがいい。明日も仕事はあるぞ」
魔女は、素直に肯き、剣を抱いて、与えられた天幕へ戻って行った。
隊商の長は、そのほっそりとした後ろ姿を見送る。
「冗談ではないぞ。魔力などないだと?」
兄が惑わされた理由が痛いほどわかった。
「まったく…冗談ではない」
今度は我が身の為に、神の加護を祈らねばならない。
「あれは…魔女なのだ」
気のよい兄の死を、忘れてはならないのだ…
魔女を追った男は、砂漠から生きて戻った。
その時連れていた奴隷は、魔女だったのではないか?
人々は、噂した。
追放されたティンク・トゥンの魔女は、その魔力で人々を惑わし、再び王都を目指していると。
それは、神に加護された王を妬み怨んで、呪うためなのだと。
そして……
語り手は、口を閉ざした。
すっかり夢中になって聞き入っていた老婦人は、ベール越しに細い声で尋ねた。
「そうして?魔女は、どうなったのです?」
エリーティルは、穏やかに微笑んで応える。
「そのお話を始めてしまうと、また、とても長くなってしまいます。お疲れではありませんか?よろしければ、また日を改めてということで、どうでしょう」
サルフィは、ため息をついた。
「私はいいのだけれど、おばあさまは、ご無理をなさってはいけません」
「まぁ。サルフィ。私、続きを聞いてしまわなければ、気になって、休むことなどできそうにないのですよ」
少年は、祖母の訴えに、相槌を打ちながら、拗ねたように言う。
「それは、そうなのですよ。私だって、気になって仕方がないのですが、物語の途中で、何度も家に連れ戻されていたんです」
孫と妻の視線を受けて、老貴族は、咳払いをした。
「では、近いうちに、また招くとしよう。それでよいな」
「明日?」
サルフィは、期待を込めて、異母兄と祖父を交互に見る。
祖父は、眉をひそめる。忌々しい男の息子に対して、あまりに急に隔てが無くなり過ぎるのではないか?
エリーティルは、如才なく老人の躊躇いを汲んで問う。
「それは…程よい日をおいて、ということで。いかがでしょう」
「うむ。よかろう」
老人は、威厳をもって肯いた。
サルフィは、祖父母に、暇乞いをした異母兄の後を追った。邸の庭で追いつくと、引き止める。
「エリーティル。おじいさまに、何を言ったの」
異母兄は、甘やかすような微笑みを見せると、弟の手をとった。
「君は、少し不用心だね。我が友サルフィ」
「何のこと?」
「とても危うい立場なのだという自覚がない。祖父君は、心配されている。私が、君の為に何ができるかお話したので、私の素性には、眼をつぶる事にされた…ということなんだ」
サルフィは、首を傾げた。
「危うい立場?宰相のことなら、断った。それが、何か?」
この美しい子供は、王の好意を一顧だにせず拒絶した。
それは、意外なほど大きな波紋を、王城へ投げかける事となった。
人々は、囁く。
この王は、王たる王なのか…?
その祖は、神の定めた王ではなく、その妃の連れ子に過ぎない。
その血筋は、決して正当なものではない。むしろ、臣のなかに血統に優れたものがいる…これは、神の意志なのか?
最後の王には、年の離れた妹姫があって、長じて臣下に嫁いだ。
それが、サルフィの祖母にあたる。
臣下として生まれたものの、王家の血を持つ最後の一人となるであろう子供。それがこの異母弟だった。
エリーティルは、王に勝る血を持つ少年を守ると、老人に誓ってみせた。
港町の主として、友として、異母兄として…
老貴族は、信じさせるのは、容易かった。エリーティルの誓いは、心からのものだったから。
そして、美しい子供の出自は、必ず争いを呼び寄せるだろうから。
サルフィは、怒ったように言う。
「我が友、エリーティル。謎かけはやめてくれ。君は時々、何を考えているかわからない」
「……君のことだよ。私は、償いをしなければならない」
「父のことか?君が償うようなことではないだろう」
エリーティルとサルフィの父は、若い恋人をおいて旅立ち、帰らなかった。深窓の姫君だったサルフィの母は、嘆きのうちに亡くなったという。
それを、祖父母やエリーティルは、気に病んでいる。
もっとも、父どころか母の顔も覚えていないサルフィは、そのことでエリーティルを怨むなど、考えたこともなかった。
異母兄は、優しい声で応える。
「それもあるけれど…。そうだね。君は、母君の分まで幸せにならなければ、ならないだろう?」
老いた祖父母の為にも。
サルフィは、納得していない顔で、だが一応は肯いた。
今を盛りの白い花々が、港町の潮風に揺れる。瀟洒な庭は、甘い香りに満ちていた。
「物語の続きは、いつ?」
「君が望むなら、近いうちに…」
港町の主といわれる青年は、用心深い眼差しを王城へ向けた。
優美な曲線を描く屋根と、丈高く空を穿つ尖塔が、夕日に映えている。
サルフィが邸へ戻ると、入れ替わりに、黒い巨漢が木陰から姿を現した。
「旦那様。案の定、ネズミが四、五匹、ねぐら目指して、すっ飛んでいきやしたぜ。いやはや、まったく不用心なお邸で」
嗄れた声が、陽気に告げる。
エリーティルは、腹心の友に苦笑いを見せた。
「無邪気というべきだな。悪いことではあるまい。つまりは、後ろ暗いことなど何一つないのだろうから。しかし、ネズミに食い散らかさせるのは、許しがたい」
バハディースは、指を折って数え上げる。
「現宰相、財務長官、寺院に、後宮…まぁ、ネズミの親分は、大物ぞろいでございます…ですぜ。お頭
」
「王は?」
「そいつは、当然しごくでさ。といっても、旦那様の方へ、張り付いているようですぜ。かわいいお供にゃ、お気をつけなせいよ」
エリーティルは、困ったように頬を掻いた。
最近商売仲間から譲られた小姓は、よく気が利く利発な子供で、気に入っている。今日も伴に連れて来ていた。
「いや。それはいいんだ。気の利いたかわいい子供は、私のネズミになってくれるそうだから」
「お頭
…」
バハディースは、わざとらしくため息をついた。
「ぼっちゃんには、ばれないよう祈ってあげやしょう」
「こらこら、何を考えている。王が約束した以上の飴玉を、用意して見せただけだぞ。金色の重たい飴をな。近頃の子供は、しっかりしている」
「ま、そういう事にしときやしょうかね。それで、これから、どうすればいいんで?」
エリーティルは、人のよさそうな微笑みを見せた。
「まず、王に話をつけたほうが、よかろう?」
黒い巨漢は、大きな丸い目を、さらに見開いた。
大仰に、天を仰いで言う。
「それはまた…王に神の御加護がありますように」
港町の主は、腹心の頭を軽く小突いた。
「いつまでも、戯れ言を言っていられればよいがな。バハディース。サルフィの護衛を頼んだぞ」
「旦那は、お一人で大丈夫なんで?」
「一介の商人を、わざわざ暗殺しようなんて、御仁はいないさ。いまのところは…」
エリーティルは、穏やかな微笑みに似合わぬ物騒な言葉を残し、白い花の咲き誇る庭を後にした
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