【第四章】
港町の穏やかな日々は、終わりを告げる。
旅立つべき船は、そそくさと出立し、とどまるべき船も何やら落ち着かない様子だ。人々は、さえない顔色で、白濁した空を見上げる。
悪い風が吹くのかもしれない。
最も高台に建つ王城では、神と王を称える人々の声に、かすかなためらいが混じっていた。
御前会議の間では、異国の大使らへの謁見が行われ、外廷の貴族達は、声をひそめて不快な噂話に興じている。
「くだらない」
不機嫌な様子を隠そうともしない少年が、控えの間を抜け出し、王城の美しい庭園を横切る。
サルフィの気を引こうと、あの手この手で声をかけてくる貴族達は、はるか後方に置き去りにしてやった。悪態をついても、聴く者はいないはずだ。
王よりも古く正しい血筋…それは、祖母や母からサルフィへ受け継がれたものだった。
だが、自分の父と言えば、得体の知れない一介の商人ではないか。
そう問うと、祖父には、きつく嗜められた。
元々、母につりあう身分の者など、今の世にはない。
それが王その人であっても、一介の商人との不釣り合いと、そう変わるものではない。
重要なのは、母から受けた王家の血。神に選ばれた王の末裔の誇りなのだと。
宰相に選ばれるのは、結構。だが、今の王の風下に立つのは、好ましくない。
「…くだらない」
母亡き後、育ててくれた祖父には、悪いが、王家の血どころか、貴族であることすらが、疎ましい。
あの異母兄のように、商家に生まれ、当たり前のように、船出することができれば…
「サルフィ様。ご主人様が、是非ともお話をと…」
瀟洒に設えられた四阿の前へ差し掛かると、美しく装った侍女が現れ、行く手を遮った。
少しでも早く王城から逃れようとしていた少年は、眉を顰める。
また、酔狂な貴族の、愚にもつかない諫言だの忠告だのを、聞かされる事になるのだろうか。
「どなたであろうか」
侍女は、目を伏せて囁くようにいった。
「御内密に。ゼラナ姫様にございます」
サルフィは、驚いて四阿を見た。四方が紗幕に覆われ中の様子を窺い知ることはできない。
澄んだ…だが、棘を含んだ声が掛けられた。
「父上様のお苦しみ。貴方にはおわかりでない」
現在の王は、王の血を持たない僭王と言われている。
三代前の王が、跡継ぎを得ないまま身罷り、後を継いだのは、后とその連れ子…まるで王家の血を引かぬ者達だったのだ。
だが、その子孫である今の王に、なんの咎があろう。
その役割を充分に果たし、国を守る父に何の非があるのだ?
何故、三代前の王妹の子孫に、ふさわしい地位を与えようとして、拒まれ恥をかかされねばならなかったのだ。
侍女が止めるまもなく、紗幕が跳ね上げられる。
幼い姫の双眸は、倣岸不遜な少年をまともに射抜いた。美しい榛の瞳は、涙にぬれている。
サルフィは、一瞬、貴婦人に対する礼を忘れた。
「貴方は…」
「僭王の姫では、偽姫とでもお呼びになるのかしら」
姫の言葉は、幼さに似ず鋭かったが、語尾は震えて消えた。
言葉につまった少年は、少女を見つめるばかりである。
長い沈黙の後、サルフィは、ゆっくりと頭を下げた。
「お許しを。姫様」
顔を上げた時は、その天使のようだと言われた容貌で、微笑んでいた。
高貴な少女は、ベールの下で頬を紅潮させ、少しだけ身を退く。
「何を許せと申すのです」
「嘘をつきました。宰相の栄誉をお断わりしたのは、王に不満があったからなどではありません。自由の身でいたかったのです。いつか船出できるほどに」
少女は、呆れたように少年貴族を睨んだ。
「正気の言葉とも思えません。私が幼いと、侮っておられるのですか。だいたい貴方様は、すでに、この世の果てまで船出をされた事がおありとか。それで足りぬとでも?」
「よくご存知なのですね。船出は例え。肝要なのは、自由の身であることなのです」
サルフィは、この幼い賢い姫とのやり取りが、存外楽しくなってしまった。
姫は、眉をひそめて、生真面目に言い募る。
「自由…ですか。無責任ということですね。地位も名誉も、その為の義務も、何も負いたくないと。なんという方なのですか。それは、威張れたことではありません」
「威張っていますか」
少女は、怒りのあまり少年に詰め寄った。
「御自覚がないようですわね。たくさんの責任を負って、義務をきちんと果たしているお父様より、偉そうだわ。そんなの間違っている」
慌てた侍女が、姫を抱き止める。
「姫様。はしたのうございますよ」
王国の唯一の姫君は、侍女にしがみ付いて泣き出した。
サルフィは、少女を宥めたかったが、その術を知らない。エリーティルだったら、あの異母兄だったら、泣いている子供を、どんなにかうまく宥めるだろうに。
立ち尽くす少年に、侍女が目線でこの場を去るよう懇願していた。
「姫様」
サルフィは、去り際に幼い姫君へ声を掛けた。
少女の榛色の瞳が、涙を溢れさせながらも、少年を見上げる。
「姫様。またお話ができますか」
幼い姫は、しゃくりあげながら応えた。
「次は…ちゃん…と話す…話すぞ」
「はい」
その日、サルフィは、思いの他楽しい心で、王城を後にする事ができた。
王の庭園から帰った少年を迎えたのは、祖父の雇った護衛と、異母兄が付けた黒い奴隷だった。
貴族達の豪奢な邸を横目に坂道を下ると、港へ出る。凶悪な海鳥の鳴声を聴きながら、町中を抜けた。
黒檀を思わせる肌の色を持った巨漢が、困ったように言う。
「若様。お邸へお帰りにならなくて、よろしいんで」
「せっかく外へ出られたんだ。少し遊びまわりたい。市場にだって、ずいぶん行ってないから」
バハディースは、頭を掻いた。それはまずい。
市場なぞに行かれては、護衛が万全にとはいかなくなる。ここは、主人にいさめて貰うか…。
「まず…商館で?」
「そうだな。エリーティルに会ってからか」
生憎エリーティルは、商館にはいなかった。商人達の束ねとして、気を配らねばならない処が、あちこちにあるのだ。
サルフィは、さほどがっかりした様子もなく、しかたないねと呟くと、市場へと向かう。
「何か珍しい奇麗なものを…」
あの幼い姫に何か…よいものを贈ろう。泣かせてしまったお詫びに。
威勢のよい商人達の呼び込みに耳を傾け、並べられた品を見定める。
王城の帰途にしては機嫌のよい少年に、お供の巨漢は、首をひねった。
いつだって、エリーティルが宥めねば、機嫌が直らないのに…。
一行は、人波に飲み込まれそうになりながら、市場を物色して歩いていた。
四つの門を持つ広壮な建物は、無数の丸屋根をいただき、無数の店舗がひしめき合っている。ここでは、貴重な高価な品が、豊富にそろっていた。
この建物の周囲には、小規模な店…屋台が軒を連ね、もう少し手頃な品が求められる。
サルフィは、時折、婦人が好みそうな装身具や香料などを手にとって見る。
だが、なかなか、これといった品がない。
そうしてどのくらい経っただろうか、人々の賑わいを、悲鳴が断ち切った。
何事かと顔を上げると、断続的な悲鳴が近づいてくる。
訳が分からず立ち尽くす人々へ、逃げ惑う人の波がぶつかった。罵声と悲鳴が、飛び交う。
とばっちりで、屋台を倒された小間物商達は、頭を掻き毟り、神の名を叫んだ。
ふいに人々の声が途絶える。騒ぎの元凶が、動きを止めて、誰の目にもあきらかになったのだ。
「獣…」
それは、鋭い牙を持つ獣だった。市場に送られた商品では、あったのだろう。
宝石のように美しい毛並みだった。だが、その瞳は獰猛に輝き、血を滴らせた咆哮が、港町を震わせた。
サルフィは、何とか、人込みに流される事なく踏みと止まったが、その為に獣と対峙する事になってしまった。
獣は、明らかに、取り残された少年へ狙いを定めていた。
優しげな水色の双眸が、脅えるでもなく、獣へ向けられたまま離れない。そのままの姿勢を大きく崩さぬよう、ゆっくりと傍らの商品の中から、一降りの剣を取る。
獣の唸りが、高まり、また低くかすれた。
「お前。人を食ったね」
囁くような声が、少年の唇から漏れる。
人々は、固唾を飲んで次にくる惨劇を待っていた。
食われてしまう。あんなに幼いのに!美しいのに!神よ!
だが、美しい子供は、微笑んだ。形のよい指先で獣を招く。
「おいで」
バハディースは、獣を刺激せぬよう、じりじりと動く。
人込みに流された場所から、少年の傍らへ戻らねばならない。獣などに殺させるわけには、いかないのだ。
だが、この子供は、なんという声で危険な生き物を呼ぶのだろう。
ぞくりと背筋が冷たくなる。
いつもと違う。先ほどまで、こんな風ではなかった。
多少わがままでも、美しく愛らしい少年だった。今は、その容貌が恐ろしく冷たい。
彎刀の鞘が、澄んだ音を立てて滑り落ちた。
獣が低く唸る。
「やめろ!」
人々の叫び声を圧して、命ずる声があった。
バハディースは、思わず海賊時代の呼び方で、主を呼ぶ。
「お頭!」
港町の主は、青褪めた顔をしていた。
サルフィは、何も聴かなかったように、危険な獣の前に一歩踏み出す。光をはじく刀身が、ゆっくりとした軌跡を見せた。
間に合わない。エリーティルが叫ぶ。
「やめてくれ……!」
エリーティルが呼んだのは、あろうことか、神の名ではなく、悪魔の名だった。
獣の血走った目が、少年からそれ、群集の中から飛び出した青年へ向けられる。
バハディースは、怒号を上げて駆け出した。
鋭い音が響き、四方から獣に縄が打たれる。荒縄が獣の首を捕らえ、後肢をすくった。
音を立てて横倒しになった獣を、市場の衛兵が数人がかりでねじ伏せる。
人々がいっせいに安堵の声を上げ、神に感謝の祈りを捧げた。
少年は、彎刀を鞘におさめ露台に戻すと、立ち尽くす異母兄へ声を掛けた。
「エリーティル?」
「友よ。サルフィ…。君は何をしようとしたんだ?」
友の声は、不思議なほど動揺で掠れていた。
「どうしたの?エリーティル。ただ身を守ろうとしただけだよ。それは…無理だったかも知れないけどね」
「違う…君は、一人であの獣を倒せるつもりだった。違うか」
「そんなばかな。あんな獣と一人で戦えるのは、聖者か悪魔だ。私では無理だよ」
少年は、屈託なく笑う。
エリーティルは、痛みをこらえるように目を伏せた。
「…強い獣の牙をとって、護符に…」
青年の不可思議な呟きは、誰の耳にも届かず消えた。
それは、古の民の風習だったが、それを伝えるのは、この世の果てと呼ばれる地で失われた物語だけだった。
獣と一人で闘ったのは、聖者ではなく、悪魔と呼ばれた男だった。
「旦那様」
忠実な黒い召し使いが、気遣わしそうに見つめている。
エリーティルは、夢から覚めたように、改めて周囲へ目をやった。
「ああ。サルフィ、すまないが、また後で」
港町の主として、事態の収拾を図らねばならない。常のとおり、落ち着いたはりのある声で、右往左往する人々へ指示を出す。
「獣の持ち主は、どこのものだ?怪我人はいるのか?確認を急げ。損害を受けたもの、市場の管理人へ、申し出るように。その獣は…」
サルフィは、異母兄の背を見送ると、ため息を吐いた。
「エリーティルは、当分忙しいね」
「ま、あれが、旦那様の仕事でして」
バハディースは、主の異母弟を、しげしげと見つめた。
こちらも、いつも通り。美しく無邪気な微笑みを見せている。先ほどの、冷たい横顔はなんだったのか。
あの主が、悪魔の名をとなえるほど動揺したのは、何故だろうか。幼馴染の主に、自分の知らない秘密があるのか。少々面白くない。
「バハディース。今日は、もう帰ろう」
「…ありがたいことで」
「エリーティルは、今日は、家へ来られないだろうね」
「そうでしょうな」
「では…お前に話してもらおうかな」
サルフィは、長椅子に気に入りのクッションを並べると、ゆったりと寝そべった。銅の盆には、美しい砂糖菓子が盛られ、異母兄から贈られた黒い奴隷は、薫り高い異国の茶をいれている。
自室でくつろいだ少年は、華奢な茶碗を受け取ると、満足げに目を細めた。
「エリーティルの話をして」
「若様…。そりゃ旦那様から、お聞きになった方が、よろしいんじゃないですかい」
「エリーティルは、忙しい。お前が代りに話してくれ」
バハディースは、肩を落とした。でも、目が悪戯に笑っている。
「旦那様の何を、でごぜいましょう」
「子供の頃の事」
「若様を前に何ですが、そりゃ何とも奇麗な子供で。お付きの身としちゃ、気が気じゃありやせんでした。しかもあの性格で…」
「思慮深くて、優しくて?」
バハディースは、わざとらしく舌を打った。
「そりゃ身贔屓ってもんです。若様。旦那と来たら、ある日突然、退屈だから海賊になるって言うなり、その日のうちに海賊船に乗り込むくらい、無鉄砲で突拍子もない子でしたぜ」
少年の優しい水色の双眸が、見開かれる。あのエリーティルが?
「想像つかないけど…」
「そらもう、誰も想像したりしやせんぜ。俺なんざ、置いてきぼりで、いざとなったら、海賊と戦って、旦那を救い出さなきゃって、覚悟決めて追っかけましたとも。で、船に上がったら…」
「戦ったの?」
黒い奴隷は、嗄れた声で笑った。
「んな事になってりゃ、生きてやしませんて。旦那が、海賊どもと、楽しそうに笑ってるじゃねぇですかい。そのまんま航海にでちまった。船長が、これまた凶悪なご面相と凶状持ちだったんですがね。旦那を跡取りにするって言う頃には、どこの好々爺だってな具合に人柄まで変わっちまって、正直、旦那様は、天性のひとたらしですな」
サルフィは、心配そうに呟いた。
「それって…」
「もちろん、色っぽい意味でのたらしじゃありやせんぜ。そんなんが船長になったら、海に叩き込まれてたでしょうな」
「なるほど」
バハディースは、片目をつぶって、少年を見た。
「若様だって、相当難しい方だと評判ですぜ。旦那が、どうやってたらしたか、取り沙汰されてるくらいで」
少年は、近頃遠慮のなくなってきた奴隷を睨み付けた。
「エリーティルは、私の異母兄だ」
「でも、それをお知りになったのは、ごく最近だったと思いやすがね」
サルフィは、虚を衝かれた。
「そういえば…そうだけど。会った時から、兄のような気がしたんだ。ひどく親しい感じで…何故かな」
エリーティルが、ようやく商館に戻ったのは、夜も更ける頃だった。
市場での損害は、いくつかの店舗の損壊と、転倒して怪我をした者、数名にとどまった。
騒ぎを起こした獣の持ち主は、いまだに見つからない。
飢えていた獣は、餌を与えられて、傷を手当てもらい、すっかり満足して大人しくなっていた。
「ずるいぞ、お前」
商館の主人は、檻の中へ腕を差し伸べた。金褐色の毛並みが、優しく手に触れる。巨大な獣は、愛らしい子猫さながらに喉を鳴らしている。
エリーティルは、囁いた。
「お前にサルフィの匂いを覚えさせて、市場に放ったのは、誰だい?」
事故に見えるように、サルフィを亡き者にしたかったのは、誰だろう。
いくつかの見当は、ついている。
王ではない。あの王は、不正はしない。
後宮…ならば、至極簡単な解決方法がある。
貴族達の誰か、彼らならば、金でいかようにもなる。
「問題は…」
寺院の上層部の総意だった場合、政治的な意味ではなく、宗教上のある危惧から出た行動だったら…。
「寺院を破滅させるしかないか」
夜の居間に、物騒な呟きがもれる。
港町の主は、真実冒涜者であった。
エリーティルは、昼間味わった恐怖…たぶん恐怖でいいのだろう…を、思い返した。あの瞬間、異母弟が、別の存在に変わった。
「お前、命拾いしたね」
市場の警備兵が間に合わなかったとしても、倒れたのは、この獣の方だったろう。何故なら、獣と対峙していたのは、サルフィという少年貴族ではなく……
手の下で、金褐色の毛皮が逆立った。
「大丈夫。お前は、もう安全だよ」
エリーティルは、苦笑し、獣を宥めた。
「ああ、そろそろ、物語の続きを、語らねばいけないだろうね」
その暇があればいいが。
この夜、物語は語られなかった。
エリーティルは、港町の主、商人の束ねたる事など忘れたかのように、そまつな粗布をまとい夜の町へ出た。
苛立ちが消えない。
険しい顔をしたならず者に見えるのだろう。誰も彼と気づくものはなかった。
それでいい。今は、穏やかに微笑む事などできそうにないから。
船員宿の食堂では、職にあぶれた船乗り達が、酒と博打に興じている。
「だ…旦那…?」
男は、やってきた青年を見るなり、脅えた声をあげた。
エリーティルは、立ち上がりかけた男の肩を押さえて、また座らせる。
「そうだ。久しぶりだな。このごろつきが。よくもまたこの町に、顔を出せたもんだ」
男は、つまらない盗みを働いて町を追放されていた。
指先の器用なごろつきは、いかなる鍵もなんなく解く。
本来、その場で腕を切り落とされていたところを、その特技を惜しんだ者が、致命的な刑から逃したのだ。
「勘弁してくれ。船に乗れりゃ、すぐこの町を出ちまうよ。それにしても、見違えちまいやしたぜ」
「おいておけ。こんなところへ、ぞろぞろした服でこられるか」
青年に押さえつけられた小男は、震える手で煙管を弄んだ。
「いったい何の用で…」
「お前、くだらない小遣い稼ぎしたな」
「獣のことですかい?ありゃ、檻の鍵を壊せと言われただけで。まずかったんで?」
エリーティルは、眉をひそめた。
「誰に言われた」
「さてね。女が使いに来た。金貨といっしょだ。断わる理由はねぇ」
「お前のような男が、雇い主の素性も確かめず仕事を受けたか」
小男は、黄ばんだ乱杭歯を剥き出した。
「旦那の手にゃのらねえよ。何もしゃべんねぇぜ」
「それはいいが、お前消されるぞ」
「何だって」
「お前が手を貸したのは、宰相候補の暗殺だ。しかも失敗した」
ならず者は、思わず叫んだ。
「あのガキが?冗談だろう」
「知らなかったのか?王城と寺院に関われば、先は知れたもの。明日の朝を見られると思うなよ」
エリーティルは、おそろしく静かに囁くと、立ち上がった。
「旦那!」
「逃してやってもいい」
小男は、いまいましげに舌を打つ。
「まったく旦那は食えねぇよ」
エリーティルは、ならず者から、獣を仕掛けた商人、依頼した貴族と陰謀を辿っていった。すべての手がかりは、王城を指している。
だが、本当にそうだろうか。
現宰相は、王の腹心の友であり、跡継ぎに恵まれぬ老人で、サルフィを宰相候補に上げた張本人であった。
彼は、サルフィに娘を差し出す事をしても、暗殺を企む理由がない。
残るは、財務長官か、後宮、若輩の貴族に出し抜かれたと思う者達…。
可能性はあるが、どうにも乱暴過ぎる。
彼らの常套手段は、誰も知らない毒物や呪い。致命的な噂話など、いたって静かな罠である。
「寺院でさえなければ…なんとでもしてみせるが…」
元海賊の商人は、嫌な予感と言うものが、当たってしまうものだということを知っていた。
港町の石畳を、音もなく走り抜ける者がいた。
振り向きざまに抜き放った彎刀が、忍び寄る影を断ち斬る。
エリーティルは、路地の闇に目を凝らした。
「何者だ」
港町の石畳に、切り落とされた腕と鮮血が飛び散っている。
屈強な男達は音も立てず、獲物を囲んだ。
聖杖を携えてこそいないが、高度に訓練された動きは、寺院の僧兵のものに違いない。
エリーティルは、肩をすくめる。
「名乗らないのか?さて、僧兵にたてつけば、冒涜者として断罪されようが、どうやらその心配だけはないようだ」
元海賊の長は、不敵に微笑んだ。
すさまじい剣戟に脅えた住人が、明け方、そっと路地を覗きこむと、石畳の上におびただしい血溜りだけが残されていたという。
役人は、その死闘の結果、出たはずの死人も怪我人すらも発見できず、上役からの命令で、探索を打ち切らされた。
「エリーティル!」
屈託のない少年の声が、異母兄を呼ぶ。
客間に招き入れられた青年は、何事もなかったかのように微笑む。いつも通りの、若いながらも泰然とした港町の主だった。
「おはよう。サルフィ。ご機嫌はよいようだね」
「よくない。何日も放っておかれて、いいはずがなかろう」
エリーティルは、甘やかすように言う。
「お詫びをしよう。どうしたらいいかな」
「もちろん。物語の続きを…おばあさまも、居間でお待ちだよ。それに…」
サルフィは、くちごもった。いまだ髭のない頬をかすかに上気させて、付け加える。
「少し相談したい事があったんだ」
港町の主は、美しい子供に手を引かれ、優しく応えた。
「お望みのままに」
……休日……
昔々、砂漠の果てに、ティンク・トゥンと称する小さな王国がありました。
王国を継いだ若き王は、邪悪な魔女の誘惑を退け、これを砂漠へと追放したのだそうです。
すべての魔力を剥ぎ取られたのにもかかわらず、魔女は、再び王都へと向かいます。
砂漠では、不吉な噂が囁かれるようになりました。
ティンク・トゥンの魔女が、砂漠をさ迷っている。再び魔力を得ようと、哀れな犠牲者の血をすすり、精気を喰らって殺すのだと。
初めの犠牲となった商人には、弟がおりました。兄を失った男は、復讐を誓って魔女を追います。
人々は噂しました。
弟もまた、兄のごとく、魔女に食い殺されるだろうと。
そうでなければ、魔女の足跡を見失い、むなしく砂漠をさ迷うことになるだろうと…
ティンク・トゥンの魔女の物語は、ご存知の通り。
砂漠を行く隊商は、魔女と災いを拾い、ティンク・トゥンの王国を目指していた。
「エンナ」
白銀の瞳と髪を持つ女奴隷は、振り返ると微笑んだ。
小さな娘が、すがるような眼差しを見せている。とても美しく愛らしい。王宮に献上できるほどに…。
「どうしたの。ムーナ」
「アーフィフがいない」
「まぁ。アーフィフ様は、もう起き出してしまったの?」
「すまない。まだ怪我は治ってないはずなんだが…」
少女は、しかられた小犬のようにうなだれている。
アーフィフが、鬼神の襲撃で負った傷は、けして軽いものではなく、しばらくの休養を必要としていた。
「アーフィフ様は、いつもそうなのよ。無茶ばかり」
隊商の長の恋人が笑うと、小さな娘は、消え入るような声で訴えた。
「アーフィフは、私が大嫌いなんだ。私に看病されるのが嫌で、天幕を抜け出した」
「あら?アーフィフ様ったら、ムーナから逃げ出してしまったの?」
エンナは、楽しそうに大きな声で尋ねた。ムーナは、いっそう身を縮める。
「だから、私では無理だといったのに…」
「それで?ムーナは、アーフィフ様が嫌いなの?」
「アーフィフが、私を嫌いなんだ。どんどん深くなる」
ムーナは、自分の眉間を指してみせる。
エンナは、たまらず吹き出した。
たしかに、不機嫌なアーフィフの眉間の皺は、深くなるばかり…。
だが、可愛らしい娘を傍らにおいて、不機嫌になる理由など知れている。エンナには、お見通しであった。
女奴隷の長は、新参の娘の頭を撫ぜると、優しく微笑んだ。
「では、近くにいなくてもいいから、琵琶を弾いてあげなさい。大人しくなるわ」
娘は、若草の双眸を潤ませてうな垂れた。
「アーフィフは、私の琵琶なんか嫌がる」
「まぁ。そんなことはないわよ。わざわざ、夜中にこっそり聴いていたくらいだから」
ムーナは、驚いて目を丸くした。
娘は、与えられた仕事を終えると、毎夜のように隊商を抜け出して、剣と琵琶の修練をしている。
隊商の長は、それを咎めることはせず、ただ黙って見守ってたという。
これ以上無いほど機嫌の悪い声が、女達の話に割って入った。
「何の話だ」
「アーフィフ様の…秘密…なのかしら」
「エンナ。頼むから、冗談はよせ」
アーフィフが、年上の恋人の肩を抱いた。
エンナは、美しく微笑むと、たしなめるように言う。
「もう二、三日は、お休みになってくださる約束ではなかったかしら?隊商の方は、ご心配ないようにしていますのに」
「充分休んだ。出立するぞ」
エンナの指先が、恋人の首筋を辿った。無残な痣が、はっきりと残っている。
「もう一日」
アーフィフは、ため息をついた。
「では、後一日」
隊商の長は、苦り切った様子で天幕に戻った。
琵琶を抱えた娘が、ついて行く。
「アーフィフ。エンナの方がいいんだろう」
「当たり前だ。災いの娘め。だが、エンナには仕事があって、お前を野放しにしたくなければ、こうなる。せっかくの隊商が、魔女の犠牲になるのはかなわん」
ティンク・トゥンの魔女は、ますますうな垂れた。そのうち啜り泣きが漏れてくる。
何故こんな小娘が、ティンク・トゥンの千年を経た魔女なんかであるのか。
アーフィフの眉間の皺は、ますます深くなった。
「琵琶を弾け」
無愛想な声で命じると、震える指先が弦の上を滑った。清雅な旋律に、美しい詩句が重ねられる。
ティンク・トゥンの魔女は、エンナに次ぐ琵琶の名手でもある。
ただの娘であったら…。
考えるだけ、ばかげている。その時は、兄の妻になっただけであろうに。
アーフィフは、横になると目を閉じた。エンナの言う通り、今日の出立は無理だったろう。鬼神に痛めつけられた身体が、痛みを訴えている。
魔女は、隊商の長が目を閉じたので、やっと緊張を解いた。
アーフィフほど恐ろしい人間に出会ったのは、初めてだった。
いや、人を恐れねばならない立場になったのが、初めてだったのかもしれない。
思い返せば、自分がどんなに怖いもの知らずだったか、いっそ恐ろしいほどである。
それにしても、アーフィフは、鬼神と戦って生き残った。神の加護は、兄にはなかったが、弟にはあったらしい。
ムーナは、目を閉ざしたアーフィフが、意外に若いのに驚いた。
あんなに眉間に、皺を寄せなければいいのだ。エンナには、優しく微笑んで見せることもできるのだから…。
魔女は、男の寝顔をそっと覗きこんだ。娘の指が、眉間に触れる。
「だから、これを…」
「ん?」
アーフィフの目が開いた。魔女の愛らしい顔が、ぎょっとするほど間近にある。
「なんだ?」
「あ…その…この…」
ムーナは、耳まで赤くなっていた。その上、指はまだ、アーフィフの眉間の上である。
「その指は何の呪いだ」
「私には、魔力はない。これは、その…」
ティンク・トゥンの王に魔力を剥ぎ取られた魔女は、琵琶を抱きしめてそろそろと後退した。
アーフィフは、怪訝な顔で、自分の眉間に手をやる。
「何かついているか」
「そうじゃなくて、のばせるかな…と」
「何が?」
娘は、これ以上無いほど小さくなって応えた。
「眉間の皺…」
「アーフィフ様。今日はお休みしてくださるのでしょう」
エンナがすました顔で、天幕を飛び出してきた主を引き止めた。
「エンナ…」
「今お食事を、お運びしますからね」
「お前が?」
「ムーナがします」
アーフィフは、あくまでも魔女を薦める恋人の顔を見つめた。
「エンナは、俺の恋人だよな」
エンナは、余裕で微笑んだ。
「ええ。でも、主にもう一人上等の妾がいるといいなぁとは、思ってますの。何しろ年上ですし、この先妙な女に引っかかってしまうよりは、ムーナは、とっても可愛いんですもの」
だから、あれ以上妙な女はいないというのに。アーフィフは、心の中で神に助けを求めた。
アーフィフがしぶしぶ天幕に戻ると、代りに、泣きべそをかいた娘が琵琶を抱えて出てきた。
「ムーナ。アーフィフ様にいじめられたの?」
エンナが抱き寄せると、小さな娘は頭を振った。
「私が悪い…でもアーフィフは怖い。エンナの側がいい」
魔女はすっかり、暖かな色の肌をした女奴隷の長に懐いている。
エンナは、娘の髪を手で梳いた。
「ありがとう。でも、お願い。私の代りにアーフィフ様の側にいて」
「アーフィフは、エンナがいいんだ」
賢い女は、小さく笑った。
「でもね。私は、そんなに長くあの方の傍らにいる事を、許されないのよ」
魔女は驚いて、エンナを見る。
「どうして?」
「昔々、ある王の後宮に占いをよくする女奴隷がいて、王の子供達について、占ったことがあるの。その時に、私は自分の運命を知ったと思うわ」
「王の子供達?」
「ないしょよ。アーフィフ様の母君はね、王の愛妾の一人だったの。ある商人に褒美として遣わされる前に、王の末子を身ごもっておられた。それを知っているのは、愛妾の侍女として、後宮からついていった私だけ…」
「アーフィフは、商人の子ではなく、王の子なのか?どこの…」
「秘密なの。アーフィフ様も知らない事。もう口にしてはだめよ。その占い通り、兄王子達が死に、アーフィフ様が、ただ一人の王の子として、見出されるまでは」
「何故、そんな秘密を私に?」
「この先、アーフィフ様を守るために必要なのは、非力な女奴隷ではなく、ティンク・トゥンの魔女なのよ」
賢い女奴隷は、主を託すことのできる娘を見出し、優しく微笑んだ。
…だが、更なる呪いが、魔女を追っていた
語り手が口を閉ざすと、老貴婦人は、ため息をついた。
「まぁ、可哀相に。エンナは、いったいどうなるというのでしょう」
「アーフィフは、王の子だったのか。なるほど、それで神の加護があったというわけだ。それで?」
少年が、身を乗り出して尋ねる。
語り手は、困ったように微笑んだ。
「すぐに続きを話して差し上げたいところですが、もう昼時になります。いかがでしょう。次の物語は、また後程ということでは」
実のところ、エリーティルは、疲れきっていて、もう語りつづけることができなかった。そんな状況を、習性となった穏やかな微笑みが、誰にも悟られないほど完璧に覆い隠している。
幸い、名門の老貴族は、重々しく肯いた。
「ああ…。それがよい。だが、あまり時の経たないうちにな」
サルフィは、肩を落とした。
「ああ、またか…。本当に続きが、気になってしょうがない。あまり気を持たせないでくれよ」
エリーティルは、優しい目で異母弟を見た。
「できる限り早いうちに、と約束しよう。ところで、何か、話があったのではないかな」
相談を持ちかけていたことを、すっかり忘れていた少年は、慌てて異母兄を居間から連れ出した。
「エリーティル。たいしたことじゃないんだ。また明日にでも…」
「おじいさまには、知られたくない事なのかな」
サルフィは、祖父母が追って来ないのを確かめると、頷いた。
「贈物を選びたいんだ。助けてくれる?」
エリーティルは、上気した少年の様子に目を細める。
「お望みのままに。ところで、どちらの姫君へだろう?」
サルフィは、驚いて目を丸くした。
「何故、知っているの?」
「そうだね…。知ってはいなかったけど、なんとなくわかってしまったよ」
この異母弟は、本当に可愛い。気難しいなどという者の気が知れない。
エリーティルは、少しだけ疲れを忘れることができた。
加えて、贈物の相手が、ゼラナ姫と知り、さすがの冒涜者も神の采配に感謝すべきか迷ったほどだった。
これほど、望ましい一対はない。
だが、望まぬ者もある…
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