INDEX|物語詰合せ    
 


◆目次◆

序 章
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
終 章

挿絵の間

 

【第三章】

 朝の陽射しの中、港町は、よい風を受け賑わっていた。
数え切れない艀が、港に着いた巨大な船達の合間を縫うように行き来している。
 桟橋では、男達が、景気のいい掛け声で荷を背に負った。
 港町の商人の束ねたる会頭は、満足げに肯く。その様子は。真に町の主であるかのようだった。


 町を見渡せる柱廊を渡り、建物の内部へと向かう。
 初めに目に入るのは、貧しい者の為の祈りの間だった。
 人々がひしめき合い、多くの供物…貧しいながらに、もてる最上の物が捧げられている。
 次には、もう少し豊かな者の為の、やや快適な間がある。貴族達の間は、瀟洒な飾り付けがなされ、さらに王侯には、贅を尽くした礼拝堂が個別に用意される。
 寺院の世俗的な感覚は不快だが、それを言い立てたところで、得るものはない。寺院の存在自体が茶番だと思っている以上、まるで無意味だ。
 寺院にとっても、余計なお世話というものだろう。
「こちらで、お待ちください」
 貴人の為の礼拝堂へ招かれた商人は、案内の少年に礼を言うと、いくらかの駄賃と菓子の包みを渡す。
 エリーティルは、王国で最も高貴な人…王の為の礼拝堂で一人になった。
 値踏みするように、豪勢な室内を眺める。
「なかなか…ありがたそうな装飾だな」
 王の祖先や、神話を描いた細密画に目を留めると、苦笑いとともに呟く。
 神が人々に遣わしたという聖母は、両腕の赤子達に慈母の微笑みを向けている。寺院の主たる者の祖先と、王城の主たる者の祖先だ。
 どこまでも優しく甘い顔立ちの、母たる女性の肖像である。
 彼女を見守る聖者達もまた、神の遣わした者として光輝を帯び、特に、悪魔と戦い凍土に封じたといわれる御使いは、まだ少年で、厳しく美しい容姿を与えられている。
 聖者の槍の先に醜悪な獣が描かれているが、これが、くだんの悪魔ということなのだろう。
「…見てきたように描く…才能だな。それとも、ここまで信じこめるというのが、信仰なのかな。役者絵ならともかく、何なんだ、この美女と美少年の集団は…」
 悪魔は、獣だし…。
 聖者がよってたかって、小さな動物をいじめてるように見えるぞ?それとも、そういう意味なのか?
 エリーティルは、生真面目な表情の裏で、埒もないことを考えていた。
 友にして異母弟のサルフィならば、この聖者の列へ加えられても違和感がないが、寺院の年老いた高僧達では、聖者に列せられても困るだろう。画家も本人も。
 小さな鈴の音が聞こえ、入り口の紗幕が巻き上げられた。
 商人の長は、不敵な微笑を見せてから、ゆっくりと頭を下げる。
 王は、自らの礼拝堂で毒蛇をみたかのように、顔を顰めた。
「久しいな」
「我が王には、ご機嫌も麗しく…」
 王は、手を振って口上を遮った。
「エリーティル。相変わらず、思ってもないことを、真情を込めて語るのが得意だな。我は、正直に申すぞ。いったい、この信仰の場で、何を企んでおるのだ。冒涜者め」
 エリーティルは、不遜にも肩を竦めた。
「王よ。私に、二心はありません。貴方の言葉をお聞きしようと、何者にも邪魔されぬ場を設えたまで。語りたい言葉をお持ちなのは、貴方様でございましょう」
「無礼者めが!その調子で、この哀れな王を笑い者にするか」
 王は、疲れたように笑うと、長椅子へ腰を降ろした。
 苛立たしそうに視線をさ迷わせ、商人の長と目を合わそうとはしない。
「私が、お嫌いか?王よ」
 エリーティルの声が、気安い笑いを含んで尋ねた。
 王は、眉間に皺を寄せると応える。
「お前を嫌えるのは、王の特権だな。誰も彼もが、お前を頼り愛す。お前こそが、王であればよかったのだ」
「これは、これは。王こそが、冒涜の言葉を、仰っておられるではありませんか。貴方様が王。それが、神の定めた運命というもの」
「よくいう。我が僭王であると、はっきり言えばよいのだ。あの若者のようにな」
 エリーティルの異母弟は、次期宰相として望まれた、名門貴族の子弟である。それこそ、王よりも由緒正しく古い血統を、祖母から受け継いでいた。
「サルフィは、まだまだ子供。物事を真っ直ぐにしか、とらえられない。貴方が王であることが、貴方の意思とかかわりないところで決められた事。また、王が貴方でなければ、この世が、いかに乱れていたであろうか…などという事に思い至らないほどに子供なのです」
 王は、唸った。
「お前は、口がうまい。とても誠実に聞こえる言葉を知っておる」
「商人とは、そうしたものです。会頭という立場にあれば、真実、誠実でなければなりません。人々が私に頼るというなら、私も応えます。王よ。私には、二心はございません。貴方様のお苦しみを、お聞きすることもできます」
 王は、手招きをして、商人の長を傍らに呼び寄せた。
「我は、お前のようでなければならなかった…」
「いいえ。貴方様は、よく国を治めておいでです。今まで何一つ、争いごとがなかった。私は、それをもって、貴方様が偉大な王であると言いましょう。それ以上に、必要なことなどないのです。今の私のようである必要があるのは、王ではなく…僧侶の方ですね。彼らは、貴方様の悩みに何をしてさしあげましたか。寄進をねだる以外に?」
 たわいなくも、王の心は、手の内に落ちていた。
 エリーティルは、寺院に皮肉を言いながら、探りを入れる。寺院の思惑は、いかなものなのか。
 王は、恨み言を言うべき相手に、頼ってしまいたい衝動を感じ戸惑っていた。
「正当な王の血筋…我が身にはない。それが、抜けぬ刺のような苦しみをもたらす。僧侶もまた…責める。正しくないという事は、罪なのだ」
「何を以って、正しいというのです。最初の王が、王国を神に託されたことと、貴方様が王になられたことに、何の差があるのですか。王の力量のないものが、王であることこそが罪です。貴方様は違う」
「エリーティル…お前は、いったい何者なのだ。何という物言いをする」
 王たる者の驚嘆の眼差しを受け、商人達の長は、悠然と微笑する。
「私は、一介の商人ですが、多くのものを見てまいりました。それこそ、世界の果て、氷の大陸までも」
「おお…その話は、真実なのか?お前は、悪魔が封じられた凍土へ上陸したのか?何という冒涜の罪を犯したのだ!」
「私は、神と悪魔と呼ばれたものを見ました。お信じにならなくてもよろしいが、彼らは寺院の教義とは、まるで違う存在なのです」
「おお…」
 エリーティルは、優しく微笑んだ。その眼差しの先にあるのは、聖者達の細密画だった。
「ええ。まるで違うものです」
「我には…わからん…。ただ、僭王であることが苦しいばかり…」
 血筋正しい若者を取りたてることで、その罪を少しでも贖おうとし、更なる苦しみを味わった。後は、人々の言葉の裏に猜疑が募るばかり…。
「それをサルフィに、言うべきでした。あの子は、貴方様を、心から案じて救おうとしたでしょうに」
 一介の商人の言葉は、今や天の御使いの言葉にも聞こえた。
「そうであろうか」
「サルフィの友として、保証します。あの子は、頑なに正しくあろうとする反面、とても優しいのです。いまからでも遅くはありません。もちろん、貴方様のお心次第なのですが」
 王は、エリーティルの手を取った。
「皆が、お前を頼り、愛す。なるほど、お前は、僧侶になるべきだったな。…いや、冒涜者だったか。これはまた、何と…訳のわからぬことだ」


 エリーティルは、王が疲れた足取りで、礼拝堂から出て行くのを見送った。
「お気の毒に…」
 王は、ついに口を割らなかったが、寺院によって圧力をかけられているのは、見え透いていた。
 しかし、ここは、王として踏みとどまってもらったほうが都合がいい。
 サルフィは、宰相になるにも、王になるにも、あまりに若い。
 だからこそ、王と祭り上げて操るも、いずれ邪魔者として除くも容易く見えるだろう。実際、あのまっすぐな子供が、身を守れるとは思えない。
 さて、誰が、野心を持ったのか?現王の代りに御しやすい王を選びたいのは、貴族か僧か?
 どのような可能性もある。
 触らぬ神に祟り無しとは言えど、王位を廻る陰謀に、サルフィが関わってしまった以上、見過ごすわけにはいかない。
 冒涜者は、最後に、聖なる祭壇へ不遜な眼差しを向け、王の為の礼拝堂を後にした。


 ふいに鐘が鳴り、人々の祈りの声が高まった。
 見るからに高僧であろう老人が、少なからぬ伴を引き連れ、柱廊を渡っていく。
 エリーティルもまた、神妙に頭を下げる。
 一行の中心、寺院の主らしき老僧が、柱廊の片隅でひっそりと佇む青年の姿に、大きく目を瞠った。
「何故…」
 かすれた言葉は、誰にも届かず、高僧の口の中で消えた。
 エリーティルは、哀れむような眼差しを、遠ざかる僧達に向ける。
 王国の王と、寺院の主は、等しく聖母から生まれた者の末裔。王は、武と智を以って国を治め、寺院の主は、祈りで人々を救った。
 今、寺院は、神が与えるべき祝福を自らのものと考えている。
 神が選ぶべき王を、自らの意図で選ぶ。
 寺院こそが、冒涜の罪を犯しているのだ。
 いずれ、寺院が王を選ぶ時代は、終わる…遠からず…。


「開いた口が塞がらないとは、この事だ」
 寺院の聖者に勝るとも劣らない美しい少年が、憤然として言った。
「まったくですぜ?」
 黒檀を思わせる肌をもった奴隷が、もっともらしく唸った。
 二人そろってため息を吐く。
「寺院から出てくるなんて!」
 エリーティルが冒涜の罪人とされたのは、遠い昔のことではない。
「相応の寄進はしたからね。丁重にもてなしていただいたよ」
 サルフィは、唇を尖らせた。
「貴方が思慮深い性だなんて、どうしてそんな事、信じられたのだろう…」
「どうしてだろうね?我が友サルフィ。ところで、何か用があるのでは、ないかな?」
 少年は、年長の友にして異母兄を見上げる。
「おばあさまがね。物語の続きを聞きたいと、おじいさまを説得されたんだ。今宵我が家へ、お招きしてもよろしいかな。エリーティル」
「喜んで。それでは、昼間のうちに、仕事を片付けてしまわなくてはね」
 エリーティルが異母弟の護衛につけた黒い巨漢は、こっそり呟いた。
「旦那様。それでも、仕事をお忘れでは、なかったんでごぜいやすね。商館に列を成している者たちも、喜びますぜ…でごぜいやす」
 エリーティルは、異母弟と、忠実な召し使いに笑顔を見せると、我が家へと踵を返した。
 その後を、小さな小姓が、一生懸命追っていく。
 人々は、港町の主の姿を見ると、それぞれ親愛のこもった挨拶を送る。エリーティルも、一人一人に応えているようだった。
「バハディース。皆が、エリーティルを好きだね」
「そこが、旦那さまの取り柄ですな」
 少年は、何やら寂しいものを感じていたが、黒い召し使いは、得意満面で笑った。

 その夜もまた、かの物語は語られた。


……追われし者へのさらなる呪いの物語 ……

 昔々、砂漠の果てに、ティンク・トゥンと称する小さな王国がありました。
 王国を継いだ若き王は、邪悪な魔女の誘惑を退け、これを砂漠へと追放したのだそうです。
 すべての魔力を剥ぎ取られたのにもかかわらず、邪悪な魔女は、再び王都へと向かいます。
 砂漠では、不吉な噂が囁かれるようになりました。
 ティンク・トゥンの魔女が、砂漠をさ迷っている。再び魔力を得ようと、哀れな犠牲者の血をすすり、精気を喰らって殺すのだと。
 初めの犠牲となった商人には、弟がおりました。兄を失った男は、復讐を誓って魔女を追います。
 人々は噂しました。
 弟もまた、兄のごとく、魔女に食い殺されるだろうと。
 そうでなければ、魔女の足跡を見失い、むなしく砂漠をさ迷うことになるだろうと…


 眉間に刻まれた皺は、日に日に深くなっていく。
 アーフィフは、駱駝に揺られながら、はるかにかすむ砂の地平を睨んでいた。
 人々の噂に反し、魔女を捕らえた男は、兄に代って隊商を仕立て、あろうことか、ティンク・トゥンへと向かっている。もちろん、兄もまた、豊かな王国を目指していたには違いない。
 しかし、この旅の目的は、商売だけではない。
 アーフィフは、魔女に殺されはしなかったし、魔女を殺しもしなかった。
 その美しい肢体に、誘惑されたわけではない。その千年を生きて、なお幼い性情に、驚き…呆れてしまったのだ。
 魔女が恩人である兄を殺してまで、ティンク・トゥンへ戻ろうとするわけが知りたくなった。
 しかし、それは、ばかばかしく愚かしい言訳にも思われ、舌を打ちたくなる。
 それにしても…。
「ティンク・トゥンの魔女か。誰も気づきもしない」
 元々の兄の隊商は、魔女を捕らえに砂漠へ入った時、宿場町で解散させたので、新たに募った人足や、集めた奴隷達は、何も知らず、娘もまた買われた奴隷なのだと、納得してしまっている。
 世慣れない子供のような娘は、いつのまにか、隊商へ溶け込んでしまっていた。


 日が高くなり、人々は、暑さを避けて天幕へ落ち着いた。
「おお、ご主人様。このように年老いた端女ではなく、若い娘をお望みにはならないのですか」
 女奴隷を束ねる為に隊商へ呼び寄せた女は、如才ない微笑みを見せた。暖かな肌の色をしている。
 アーフィフが生まれる前から、その母に仕えていたといい、けして若くはなかったが、その美貌は、衰えることを知らないようだった。
 しかも賢者のように賢い。
「意地の悪いことをいうものではないぞ。エンナ」
 エンナは、馨しい香木を細工した扇で、風を送りながら、若い主を睨んだ。
「アーフィフさま。私を置いて兄君と旅立たれたのは、もう私に飽かれたのだとばかり、悲しくお怨みしていました。このまま、儚い望みなど、持たせないでくださいましな」
「エンナが、旅立ちをよく思ってないようだったからな。生まれてから此の方、エンナに飽きたことなど誓ってない」
 アーフィフは、幼馴染の女奴隷を抱き寄せた。彼女の背を追い越したのは、いつだったろう。
「私のご主人様。では、エンナの言葉を聞いてくださいますの?」
「さて、どんな難題をいうつもりなのかな」
 エンナは、婉然と微笑む。
「簡単なことですわ。御用心の上にも御用心を」
 アーフィフは、もっともらしい顔を繕って肯いた。
「賢い女の言葉に従おう」
 エンナは、その腕に愛しい主を抱いた。


 ティンク・トゥンの魔女は、自分を捕らえた男と、美しい女奴隷が連れ立って歩いていくのを見た。アーフィフが、優しく微笑んでいる。
 思いがけない光景に、魔女の若草色の双眸が、見開かれた。
 アーフィフは、笑ったりしないように思っていたのだ。あんな風に優しくは…。
 エンナは、パンを焼くために粉を練っていた娘へ声をかけた。
「ムーナというの?」
「はい」
「その仕事には、向かないようね。おいでなさい」
 小さな娘は、美しい女奴隷の長に呼び寄せられた。いくつかの質問に答えさせられている。
 アーフィフは、黙ってその光景を眺めていた。
 エンナは、いつものように、見所のある幼い女奴隷を教育しようというのだろう…実は、千年も経た魔女であるが…それはそれで、ありがたいかもしれない。
 せめて見かけの年齢相応まで育ててくれれば…。
 新たな隊商の主は、こっそりため息を吐いた。


 女奴隷にあてられた天幕から、楽器の音が聞こえた。
「おかしな娘ね」
 エンナは、楽しそうに笑った。
「琵琶は、弾けるのかと聞いたのに」
 ムーナは、与えられた楽器を撫でながら、困ったように言った。
「この腕が、動くかどうかわからない…でもしばらく時をくれれば…」
「弾けるの?」
 エンナは、自分の琴をとると、かき鳴らした。美しい声音の詩句が、巧みな演奏に重ねられる。
 魔女は、嫋々と震える調べに魅入られたように、うっとりと目を閉ざした。最後の音が消えると、無邪気に微笑む。
「貴方のような名手にあえるとは、なんという幸運だろう。私の手が思うように動いてくれたとしても、とうてい及ばない」
「だめよ。ムーナ。お前は、王の後宮へ納められても不思議のない美しい子だわ。相応の教養は、身につけなさい」
 ムーナは、うな垂れた。
 王の後宮?アーフィフは、恋人に何も話してないのだろうか。ここにいるのは、ティンク・トゥンの追放された魔女なのに…


 月が砂漠を浩々と照らす。
 魔女の舞は、剣の修練にふさわしい、激しいものになっていた。
 毎夜、人々が寝静まった頃合いを見て、ムーナは、アーフィフに与えられた剣を手にする。
 今夜は、エンナから譲られた琴も携え、天幕を抜け出した。
 剣を鞘に収めると、琵琶を手にする。
 そっと弦に触れると、かすかな音が漏れた。楽器の胴に頬を寄せる。
「大好きだったのに…ああ、指が動くだろうか」
 ムーナは、眼を半ば閉じ、琵琶の調子を整えた。ほんの少し躊躇い、それを振り切るように歌い始める。
 動く。思うとおりではないけれど…剣ほどの修練はいるまい…
 ティンク・トゥン魔女は、微笑んだ。


 アーフィフは、少女が弾く琵琶の調べに聞き入った。
 若い清雅な音。
「アーフィフ様?」
「エンナ。何故、あの娘に琴を?」
 エンナは、笑った。
「アーフィフ様。何故、あの娘に剣を?」
「さてな…」
 女奴隷の束ねは、表情を引き締め、口調を改めた。
「ご主人様。あの娘は、どういった素性の者なのですか?琴の腕は、あのとおりで、剣は巧み。端女のすることは、慣れぬようですが、絹や宝玉…はては、この隊商が扱うありとあらゆる品に関して、どういったものが、どれほどの価値で、どういう風に取り引きされるものか、知っています。はっきりいいますと、貴方様より、よく…」
 アーフィフは、口の端を歪めるようにして笑った。
「さぁ…あれは、商家の娘だったかな?俺が商売に向かぬのは、しかたなかろう。稼業を継ぐのは、兄とばかり思っていたからな」
 千年生きたティンク・トゥンの魔女は、世間知らずの子供の上に、商売に詳しい。
 いったいこの奇妙な不均衡は何だろう。
 そして何故、自分を追放した王国へ戻ろうとするのだろう。
 ……復讐の為に?
「アーフィフ様…。ご自分のものにされるつもりはありませんの?善い娘ですわ」
 エンナは、若い主人が、苦虫をかみつぶしたような顔を背けるのを見た。
「本気か」
「お気に召さないのですか?でも…」
「善い娘?」
 兄を殺した魔女が?
「可愛い子です。賢いし美しい…何が不足なのです」
 美しい女奴隷は、弟を案じる姉の顔になっていた。
「お前がいるのに、あんな得体の知れない…」
「私は、貴方様には、年寄りですのよ。あの娘は、王の後宮にいてもおかしくない…」
 アーフィフは、長年の恋人を抱き寄せた。
「あれだけは、ごめんだ。さあ、もう遅い。少しでも休んでおこう」


 その時。
 地が割れた。
 砂が、天を覆うほど吹き上がり、隊商の宿営地に降りそそぐ。
 主の腕に守られたエンナは、悲鳴をかみ殺した。
 爆音と砂煙に遮られ、何も見えず、何も聞こえない。
 土砂の打撃と重みに耐え切れず、いくつかの天幕が、押しつぶされた。
 アーフィフが、忌々しげに叫んだ。
「魔女め」
「アーフィフ様!」
 アーフィフが、剣を鞘から抜いて駆け出す。
「エンナ。皆を連れて逃げろ」
 残された女の目が、恐怖に見開かれる。
「アーフィフ様!いけません…おお、神よ!」
 白濁した夜空に、醜悪な影が立ち上がる。
 黒い肉塊から、おぞましい触手が、獲物に向かって伸ばされた。
 ほっそりした腕が一閃して、粘液が滴る触手を断ち切った。
 魔女は、左手に琵琶を抱き、利き手で白刃を構えている。
「呪われた者が、さらなる呪いをかけたか。だがこれ以上、思う侭にはならぬ」
 視界を奪う砂煙の中、幼く美しい娘の白い顔が、ほのかな光を帯びて浮き上がって見えた。
「ムーナ!」
 隊商の長が、駆けつける。
 魔女は、琴を砂の上にそっと置いた。
「アーフィフ。逃げてくれ。これは、私の敵だ。私が倒す」
 華奢な娘が、生真面目な顔で言う。
 アーフィフは、笑った。
「逃げろだと?呪われた魔女め!こいつは何だ」
 おぞましい生き物の咆哮が、地を揺らす。
「呪われた秘術によって、生まれそこなった鬼神だ。目もなく鼻もなく耳もない。砂に潜み、ただ飢えて、すべてを食らい尽くす」
 魔女は、駆けた。鬼神の腕をかいくぐり、その一つを切り落とす。
 そう、生まれそこないの鬼神には、その巨体に十数本もの腕があった。しかも、蛇のごとく長くすばやい。
 そして、のっぺりとした顔には、ぬれたあぎとがあるばかり。
 アーフィフは、おぞましさに眉間に皺を寄せたが、躊躇せず剣を振った。骨を立つ衝撃が、腕に伝わる。
 黒い血が辺りに飛び散った。
「アーフィフ様!ムーナ!」
 矢が放たれた。隊商の男達が、土砂から這い出し、応援に駆けつけたのだ。その後ろに、エンナもいる。
 ムーナが、振り返った。
「アーフィフ。皆を逃せ」
「奴を倒すほうが先だ。おお、全能の神よ!忠実なる子らを、お守りください!」
 アーフィフの刃は鋭く、続けざまに鬼神の腕を落とした。
「どうすれば、倒せる?」
 魔女は、鬼神の腕を避けて飛びのく。
「首を刎ね、心臓を抉り出す。それで倒れなければ、神はこの世にいない!」
「災いの魔女め!どうやって首を刎ねるつもりだった?ええい!少しでもいい、奴の気をそらせろ!」
 止める間もない。アーフィフが、鬼神に向かって駆け出す。
「アーフィフ!」
 ムーナは、唇を噛むと動きを止めた。鬼神の腕が、魔女に巻き付く。
 エンナは、息を呑んだ。娘は、おとりになるために、わざと囚われたのだ。
 鬼神の残る腕は、三本。
「お願い。あの腕を縫いとめて!」
 射手に叫ぶ。だが、間に合わない。
 アーフィフは、巨大な肉塊に取り付いた。鬼神の赤黒い体毛を手がかりに、すばやくよじ登る。
 魔女を捕らえた触手を、あぎとへ運びかけていた鬼神は、邪魔者に気づいて咆哮した。宙を這う触手が、一転して襲い掛かる。
「遅い!」
 アーフィフの剣は、鬼神の首へ食い込んでいた。
 触手は、アーフィフの足首を捕らえ、引き絞る。さらにもう一つの触手が、男の体を這い登り、首を捕らえた。
「アーフィフ!」
 魔女が、自分を空中に捕らえた触手を断ち切り、地面に降り立つ。
 アーフィフの剣は、鬼神の首を断ちかけていたが、自身も首を絞められ、死地にいた。
 呪われた生き物の断ち切られた触手の断面は、腐臭を撒き散らしながら、再生を始めている。
 魔女は、鬼神の身体に剣を突き立てた。
 だが、まるで応えない。
 アーフィフの唸るような声が聞こえる。
「こ…こまでだ!」
 赤黒い血が吹き上がった。
「アーフィフ!」
 鬼神の首が落ちた。力を失った胴体も砂埃を上げて転がる。
 魔女は、投げ出された男に駆け寄った。
 いまだに纏わりつく触手を引き剥ぐ。アーフィフの首にも足にも、無残な跡が残っていた。
 魔女は、叫んだ。
「アーフィフ。お前まで死ぬな!」
 男の唇が歪んで、笑いを形作る。娘の腕が捕まれた。
「奴の心臓を抉り出せ!奴の死を確実にしろ」
 小さな魔女は、肯いて微笑んだ。
「よかった。お前には、神の加護があるのだな。少し待っていろ。すぐに手当てしてやる」
 アーフィフは、娘の背を見送ると、ため息をつく。
 災いの娘!
 いったい、どれほどの呪いを撒き散らす気なのか?
 そして、何故、異母兄を殺された自分が、助けたりなどしなければならないのか…。


 …そして、更なる呪いが、魔女を追っていた



 語り手は、口を閉ざした。
「おお…何ておそろしい…」
 ベール越しの細い声が震えている。
 エリーティルは、高貴な婦人に頭を下げた。
「申し訳ありません。貴方様の優しいお心を。傷つけてしまったのでしょうか。では、この物語は、これで永久に語られることは、ありますまい」
 夢中で聞き入っていた少年は、抗議の声を上げた。
「エリーティル!それは酷い。気になって眠れもしなくなる」
「本当に…おそろしい…でも、サルフィの言うとおり。続きをきいてしまわないと、休むこともできなくなってしまうでしょう…」
 商人の長は、高貴の人々へ、困ったように微笑んだ。
「ああ。それでは、この物語を語りつづけることを、許してくださるのですね。しかし、今宵はもはや、遠慮をするべきではないかと思えるのですが…」
 皺深い老人が、重々しく肯く。
「誠にそのとおりだ。お客人よ。夜もふけた。休んでいかれるといい」
サルフィと、その祖母は、ため息をついた。
「おじいさま」
「貴方…」
「次の機会に…それでよかろう」
 商人達の長は、慎ましく眼を伏せて従った。
「賢き智慧の師父よ。御心のままに」
 

 

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