第7章 天界の高地
第1節 信念と創造力
1913年12月19日 金曜日

「神はあなた方の信念に応じてお授けになる」・・・このイエスの言葉は当時と同じく今もなお生きている。絶対的保証をもってそう断念できる。まず必要なのは信念なのである。信念があれば必ず成就される。成就の方法は様々であろう。が、寸分の狂いもない因果律の結果であることに変わりはない。

さて、これは地上生活に限られたことではない。死後の向上した界層、そしてこれ以後も果てしなく向上していく界層においても同じである。

吾々が鋭意努力しているのは、実際に行為の中において確信を得ることである。確信を得れば他を援助するだけの霊力を身に付け、その霊力の行使を自ら愉しむことも出来る。イエスも述べたように、施されることは喜びであるが、施すことの方がより大きな喜びであり愉しみだからである。

が、信念を行使するにあたり、その信念なるものの本質の理解を誤ってはならない。地上においては大方の人間はそれを至って曖昧に・・・真実についての正しい認識と信頼心の中間に位置する。何やら得体のしれないものと受けとめているようである。が、何事につけ本質を探る吾々の界層においては、

信念とはそれ以上のものであると理解している。すなわち信念も科学的分析の可能な実質のあるエネルギーであり、各自の進化の程度に応じた尺度によって測られる。

その意味をより一層明確にするために、こちらでの私の体験を述べてみよう。
ある時私は命を受けて幾つかの施設を訪ね、各施設(ホーム)での生活の様子を調べ、必要な時は助言を与え、その結果を報告するようになった。さて一つ一つ訪ねて行くうちに、森の外れのこじんまりしたホームに来た。

そこには二人の保護者のもとで大勢の子供が生活をしている。お二人は地上で夫婦だった者で死後もなお手を取りあって向上の道を歩みつつある。彼らが預かっているのは死産児、つまり生まれた時すでに死亡していたか、あるいは生後間もなく死亡した子供たちである。こうした子供たちは原則として下層界にある〝子供の園〟にはいかず、彼ら特有の成長条件を考慮して、この高い界層へ連れてこられる。

これは彼らの本性に地臭がないからであるが、同時に、少しでも地上体験を得たもの、あるいは苦難を味わった子供に比べて体質が脆弱であるために、特殊な看護を必要とするからでもある。

お二人の挨拶があり、さらに二人の合図で子供たちが集まってきて、歓迎の挨拶をした。が、子供たちは一様に恥ずかしがり屋で、初めの内は容易に私の語りかけに応じてくれなかった。それと言うのも、ここの子供たちは今述べた事情のもとでそこへ連れてこられているだけに性格がデリケートであり、

私もそうした神の子羊に対して同情を禁じ得なかった。そこでアレコレと誘いをかけているうちに、ようやくその態度に気さくさがみられるようになってきた。

そのうち可愛らしい男の子が近づいてきて腰のベルトに手を触れた。その輝きが珍しかったのであろう。物珍しげに、しげしげと見入っている。そこで私は芝生に腰を下ろし、その子を膝に抱き、そのベルトから何かを取り出してみようかと言ってみた。するとはじめその意味が良く分からない様子であった。そして次に、ほんとにそんなことが出来るだろうかと言う表情を見せた。

が、私がさらに何か欲しいかと尋ねると、「もしよかったら鳩をお願いします」と言う。中々丁寧な言い方をしたので私はまずそのことを褒めてやり、更に、子供が素直に信じてお願いすれば、神様が良いことだとお許しになったことは必ず思い通りになるものであることを話して聞かせた。

そう話してからその子を前に立たせておき、私は一羽の鳩を念じた。やがて腰のベルトを留めている金属のプレートの中に鳩の姿が見え始めた。それが次第に姿を整え、ついにプレーターからはみ出るほどになった。それを私が取り出した。

それは生きた鳩で、私の手のひらでクークーと鳴きながら私の方へ目をやり、次にその子の方へ目をやり、どちらが自分の親であろうかと言わんばかりの表情を見せた。その子に手渡してやると、それを胸のところに抱いて、他の子供たちのところへ見せに走って行った。

これは実は子供たちをおびき寄せるための一計に過ぎなかった。案の定それを見て一人二人と近づいてきて、やがて私の前に一団の子供たちが集まった。そして何かお願いしたいがその勇気が出せずにいる表情で、私の顔に見入っていた。が、私はわざと黙って子供から言いだすのを待ち、ただニコニコしていた。と言うのは、私は今その子たちに信念の力を教えようとしているのであり、そのためには子供の方から要求してくることが絶対必要だったのである。

最初に勇気を出して皆の望みを述べたのは女の子であった。私の前に進み出ると、その可愛らしくくぼみのある手で私のチュニックの縁を手に取り、私の顔を見上げて少し臆しながら「あの、できたら…」と言いかけて、そこで当惑して言いそびれた。そこで私はその子を肩のところまで抱き上げ、さあ言ってごらん、と促した。

その子が望んだのは子羊であった。

私は言った。今お願いしてあるからそのうち届けられるであろう。なにしろ子羊は鳩に較べてとても大きいので手間が掛る。ところで、本当にこの子に子羊が作れると信じてくれるであろうか、と。

彼女の返事は至ってあどけなかった。こう答えたのである。「あの…皆で信じてます」私は思わず声を出して笑った。そしてみんなを呼び寄せた。すると翼の付いた鳩が作れたのだから毛の生えた子羊も作れると思う。と口々に言うのである。(もっとも子供たちは毛のことを毛と言っていたが)

それから私は腰を下ろして子供たちに話しかけた。まず、〝我らが父〟なる神を愛しているかと尋ねた。すると皆大好きです、この美しい国を拵え、それを大切にすることを教えてくださったのは父だからです。と答えた。そこで私がこう述べた。父を愛する者こそ真の父の子である。

子供たちが父の生命と力とを信じ、賢くそして善いものを要求すれば、父はその望み通りのものを得るための意念の使い方を教えてくださる。動物もみんなで作れるのであろうから私が拵えてあげる必要な無い。但しはじめてにしては子羊は大きすぎるから今回はお手伝いしてあげよう、と。

そう述べてから、子供たちに心の中で子羊のことを思い浮かべ、それが自分たちのところへやってくるように念じるように言った。ところが見たところ何にも現れそうにない。実は私は故意に力を抑えめにして置いたのである。暫く試みた後一息入れさせた。

そしてこう説明した。どうやら皆さんの力はまだ十分ではないようであるが、大きくなればこれくらいはできるようになる。ただし祈りと愛をもって一心に信念を発達させ続ければのことである、と。そしてこう続けた。

「あなたたちにもちゃんと力はあるのです。ただ、まだまだ十分ではなく、小さいものしか作れないということです。では私がこれから実際にやって見せてあげましょう。後はあなた方の先生から教わりなさい。あなたたちにはまだ生きた動物を拵える力はありませんが、生きている動物を呼び寄せる力はあります。このあたりに子羊はおりますか?」

この問いに皆んな、このあたりにはいないけど、ずっと遠くへ行けば何頭かいる。つい先ごろそこへ行ってきたばかりだという。

そこで私は言った。「おや、あなたたちの信念と力によって、もう、そのうちの一頭が呼び寄せられましたよ」

そう言って彼らの背後を指さした。振り向くと、少し離れた林の中の小道で一頭の子羊が草を食んでいるのが目に入った。その時の子供たちの驚きようは一通りでなかった。唖然として見つめるのみであった。が、そのうち年長の何人かが我に帰って、歓喜の声をあげながら一目散に子羊めがけて走って行った。子羊も子供たちを見て、あたかも遊び友達ができたのを喜ぶかのように、ピョンピョンと飛び跳ねながら、これまた走り寄ってきた。

「わぁ、生きているぞう!」先に走り寄った子供たちはそう叫んで、その後からやってくる者に早く早くと言う合図をした。そして間もなくその子羊はまるで子供たちが拵えたよう物のように、もみくしゃにされたのであった。自分たちが拵えたものだ、だから自分たちのものだ、と言う気持ちをよほど強く感じたものと察せられる。

さて、以上の話は読む者の見方次第で大して意味がないように思えるかも知れない。が、重要なのはその核心である。わたしは自信を持っていうが、こうして得られる子供たちのささやかな教訓は、これから幾星霜(イクセイソウ)を重ねた後には、どこかの宇宙の創造にまで発展するその源泉となるものである。

今宇宙を支配している大天使も小天使も、その原初はこうした形で巨大な創造への鍛錬を始めたのである。私が子供たちに見せたのが実に〝創造の〟一つの行為であった。

そして私の援助のもとに彼らが自ら行ったことはその創造的行為の端緒であり、それがやがて私がやって見せたのと同じ創造的行為へと発展し、かくして信念の増加と共に、一歩一歩、吾々と同じくより威力あるエネルギーの行使へ向けて向上進化して行くのである。

そこに信念の核心がある。人間の目に見えず、また判然と理解できなくとも、その信念こそが祈りと正しい動機に裏打ちされて、自らの成就を確実なものとするのである。貴殿も信念に生きよ。但し用心と用意周到さと大いなる崇敬の念も身に付けねばならない。

信念こそ主イエスが人間に委ねられた、そして吾々にはさらに大規模に委ねられた、大いなる信託の一つだからであり、それこそ並々ならぬイエスの愛のしるしだからである。
そのイエスの名に祝福あれ。アーメン†


第2節 家族的情愛と弊害
1913年12月22日 月曜日

子供の為の施設と教育についてはこの程度にして、引き続きその見学旅行での別の話題に移るとしよう。

そのあと私は数少ない家がそれなりの小さな敷地をもって集落を作っている村に来た。そうした集落が幾つかあり、それぞれに異なった仕事を持っているが、全体としてはほぼ同程度の発達段階にある者が住んでいる。その領土の長が橋のたもとで私を迎えてくれた。

その橋のかかった川は村を一周してから、すでに話の出た例の川と合流している。挨拶が終わると橋を渡って村に入ったが、その途中に見える庭と家屋がみなこじんまりしていることに気づいた。

私はすぐその方にその印象を述べた。

・・・その方の名前を教えてください。

Bepel(べぺル)とでも綴っておくがよい。先を続けよう。ところがそのうち雰囲気に欠ける一軒が目にとまった。私はすぐにその印象を述べその理由(わけ)を訪ねた。と申すのも、この界層においてなお進歩を妨げられるにはいかなる原因(わけ)があるのか判らなかったからである。

べぺル様は笑顔でこう話された。「この家には実は兄と妹が住まっておられる。二人はかなり前に八界と九界から時を同じくしてこの界へ来られたのですが、それ以来、何かと言うと四界へ戻っている。そこに愛する人達、特に両親がおられ、何かと向上させようという考えからそうしているのですが、

最近どうも情愛ばかりが先行して、やってあげたいことが環境のせいもあって思うに任せなくなってきています。両親の進歩が余りに遅く、あの調子ではこの界へ来るのは遠い先のことになりそうです。そこで二人は近頃はいっそのこと両親のいる界へ降り、一緒に暮らすことを許す権限を持つ人の到来を待ち望んでいるほどです。常時側に居てあげる方が両親の進歩の為に何でもしてあげられると考えているようです」

「お二人に会ってみましょう」・・・私はそう言って二人で庭に入って行った。

こうしたケースがどのような扱いを受けるか、貴殿も興味のあるところであろうともかくその後のことを述べて、みよう。

兄は家のすぐ側の雑木林の中にいた。私が声をかけ、妹さんはと尋ねると、家の中にいると言う。そこで中へ入らせてもらったが、彼女はしきりに精神統一をしている最中であった。第四界の両親との交信を試みていたのである。と申すよりは、正確に言えば援助の念を送っていたと言うべきであろう。なぜなら、〝交信〟は互いの働き掛けを意味するもので、両親には思念を〝返す〟ことはできなかったからである。

それから私は二人と話を交わし、結論としてこう述べた。「様子を拝見していると、あなた方がこの界で進化するために使用すべき力がその下層界の人達によって引き止められているようです。つまり進歩の遅い両親の愛情によってあなた方の進歩が遅らされている。もしもあなた方がその四界へ戻られ、

そこに定住すれば、少しは力になってあげられても、あなた方が思うほど自由にはならない。なぜかと言えば、いつでもあなた方が身近にいてくれるとなれば尚のこと、今の界を超えて向上しようなどと思う訳がないからです。ですから、そういう形で降りて行かれるのは感心しません。

しかし愛は何より偉大な力です。その愛がお二人とご両親の双方にある以上、これまで妨げになって来た障害を散り除けば大変な威力を発揮することでしょう。そこで私から助言したのは、あなた方は断じてこの界を去ってはならない。それよりも、これから私と領主のところへ行って、現在のあなた方の進歩を確保しつつ、しかもご両親の進歩の妨げにならない方法を考えて頂くことです」

二人は私について領主のところまで行った。まず私が面会してご相談申し上げたところ、有難いことに大体において私の考えに賛同してくださった。そして二人をお呼びになり、二人の愛情は大変結構なことであるから、これからは時折この界より派遣される使節団に加わらせてあげよう。

その時は(派遣される界の環境条件に身体を合わせて)伝達すべき要件を伝える。その際は特別に両親にもお二人の姿が見え声が聞こえるように配慮して頂こう。こうすれば両親も二人の我が子がいる高い界へ向上したいという気持ちを抱いてくれることにもなろう。ということであった。

これに加えて領主は、これには大変な忍耐力がいることも諭された。何故ならば、こうしたことは決して無理な進め方をすべきではなく自然な発達によって進めるべきだからである。二人はこうした配慮を喜びと感謝を込めて同意した。そこで領主はイエスの名において二人を祝福し、二人は満足して帰っていった。

このことから察しが付くと思うが、上層界においても、地上界に近い界層特有の事情を反映する問題が生じることがあるのである。また、向上の意欲に欠ける地上の人間がむやみに他界した縁故者との交信を求めるために、その愛の絆が足枷となりいつまでも地上的界層から向上できずにいる者も少なくないのである。

これとは逆に、同じく地上にありながら、旺盛な向上心をもって謙虚に、しかし聖なる憧れを抱いて背後霊と共に向上の道を歩み、いささかも足手まといとならぬどころか、かけがいのない援助(チカラ)となる者もいる。

これまでに学んだことに加えて、この事実を篤と銘記するがよい。すなわち地上の人間が他界した霊の向上を促進することもあれば足手まといとなることもあり得る、否、それが必然的宿命ともいうべきものであるということである。

この事実に照らして、イエスがヨハネの手を通して綴らせた七つの教会の天使のこと(黙示録)を考えてみよ。彼ら七人の天使はそれぞれが受け持つ教会の特性により、あるいは罪悪性により、自らが責任を問われた。イエスが正確にその評価を下し、各天使に賞罰を与えたのである。

それは人の子イエスが人類全体を同じ人の子として同一視し、その救済をご自分の責任として一身に引き受けられているように、各教会の守護天使はその監督を委ねられた地域の徳も罪も全て我が徳、わが罪として一身に責任を負うのである。共に喜びともに苦しむ。我がことのように喜び、我がことのように悲しむのである。イエスの次の言葉を思い出すがよい。

曰く、「地上に罪を悔い改める者が居る時、天界には神の御前の手喜びに浸る天使がいる」と。私は一度ならず二度も三度も、否、しばしばその現実の姿を見ているのである。

そこで、それに私からこう付け加えておこう。・・・明るき天使も常にお笑いになっているのではない。高らかにお笑いになるし、よくお笑いになる。が、天使もまた涙を流されることがある。下界にて悪との戦いに傷つき、あるいは罪に陥る者を見て涙を流し苦しまれることがある、と。

こうしたことを不審に思う者も多いことであろう。が、構わぬ。書き留めるがよい。吾々がもし悲しむものが無いとすれば、一体何をもって喜びとすべきであろうか。†

第3節 霊界の情報処理センター
1913年12月23日 火曜日

神に仕える仕事において人間と天使とが協力し合っている事実は聖書に明確に記されているにも関わらず、人間はその真実性が容易に信じられない。その原因は人間が地上的なものに心を奪われ、その由って来たる起源に心を向けようとしないからである。物質に直接作用している物理的エネルギーのことを言っているのではない。

ベールの彼方においてあたかも陶芸家が粘土を用いて陶器を拵えるように、そのエネルギーを操って造化に携わっている存在のことである。それについては貴殿もすでにある程度の知識を授かっているが、今夜はベールのこちら側から見たその実際を伝えてみようと思う。

こちらのどの界においても、すべての者が一様に足並みそろえて向上するとは限らない。ある者は早く、ある者は遅い。前回の兄弟などはこの十界においては最も遅い部類に入る。ではこれより、それとは対照的に格別の進化を遂げた例を紹介しよう。

その兄と妹の住む村を離れてさらに旅を続ける途中で、私は他の居住地を数多く訪ねて回った。その一つに次の第十一界が始まる区域へ連なる山の中に位置しているのがあった。私が守護霊と対面した場所とは異なる。高さは同じであるが、距離的にはかなり離れた位置にある。

連山の中に開けた大地へ曲がりくねった小道を行ったのであるが、昇り始めた頃から緑色の草の鮮やかさと花々の大きさと豊富さとが目についた。

紫色の花は影に包まれた森の中を通るビロードのような道の周りには小鳥のさえずりも聞こえる。また多くの妖精たちが明るい笑顔で、あるいは戯れあるいは仕事に勤しんでおり、私の挨拶に気持ちよく応えてくれた。

そのうち景色が変わり始めた。樹木が彫刻のようなどっしりとした姿になり、数も少なく葉の茂りも薄くなっていった。花と緑の木陰に包まれた空地に代わって今度は円柱とアーチで飾られた堂々たる聖堂が姿を現した。光と影の織りなす美は相変わらず素晴らしかったが、その雰囲気がただの木陰とは異なり聖域のそれであった。通る道の両側の大部分は並木である。

その並木にも下層界のそれとは異なり、瞑想の雰囲気と遥かに強力な霊力が感じられる。

そして又、登りがけに見かけた妖精とは威厳と清純さにおいて勝る妖精たちの姿をみかけた。更に頂上へ近づくと景色が一段と畏敬の念を誘うものへと変わっていった。それまでの田園風の景色が消え、白と黄金と赤の光に輝く頂上が見えてきた。それは上層界から降下して来た神霊がその台地でそれぞれの使命に勤しんでいることを物語っていた。

かくて目的地に辿りついた。そこの様子を可能な限り叙述してみよう。目の前に平坦な土地が開けている。一D3四方もあろうかと思われる広大な土地で、一面に大理石(アラバスター)が敷かれ、それが炎の色に輝いている。その様子はあたかも炎の土地にガラスの床が敷かれ、その上で炎の輝きが遊び戯れ、

更にガラスを通して何百ヤードも上空を炎の色に染めている感じである。無論炎そのものが存在しているのではない。私の目にそのように映じるのである。

その中に高く聳える一個の楼閣がある。側面が十個あり、その各々が他と異なる色彩と構造をしている。数多くの階があり、その光輝を発する先端は周囲の山頂・・・遠いものもあれば近いものもある・・・の上空へ届けられる光をとらえることが出来る。

それほど高く、まさに天界の山脈に譬える望楼の如き存在である。その建物が平坦地の八割ほどを占め、各々の側面に玄関(ポーチ)がある。と言うことは十個の入り口が付いているということである。まさに第十界の中で最も高い地域の物見の塔である。が、ただ遠くを望むためのものではない。

実は十個の側面はその界に至るまでの十個の界と連絡し、係の者が各界の領主と絶え間なく交信を交えているのである。膨大な量の要件が各領主との間で絶え間なく往き来している。

資料の全てがその建物に集められ統一的に整理される。強いて地上の名称を求めれば〝情報処理センター〟とでも呼べばよかろう。地上圏と接する第一界に始まり、第二界、第三界と広がり、ついには第十界に至る途方もなく広大な領域内の事情が細大漏らさず集められるのである。

当然のことながらその仕事に携わる霊は極めて高い霊格と叡智を備える必要があり、事実その通りであった。この界の一般の住民とは違っていた。常に愛と親切心に溢れる洗練された身のこなしをもって接し、同胞を援助し、喜ばせることだけを望んでいる。が、

その態度には堂々とした絶対的な冷静さが窺われ、接触している界から届けられるいかなる情報に対しても、いささかの動揺も見せない。全ての報告、情報、問題解決の要請、あるいは援助の要請も完璧な冷静さをもって受け止める。普段とは桁外れの大問題が生じても全く動じることなく、それに対処するだけの力と誤ることの無い叡智に自信を持ってその処理に当たる。

私は第六界と接触している側面の玄関内に腰かけ、その界の過去の出来事、その出来事の処理の記録を調べていた。すると肩越しに静かな声で「ザブディエル殿、もしその記録書で満足できなければどうぞ中へお入りになって吾々のすることをご覧になられたら如何ですか」と言う囁きが聞こえた。振り向くと、物静かな美しいお顔をされた方が見つめておられた。私は頷いてその案内に応えた。

中へ入ると室内は三角形をしており、天井が高い。それが次の界の床(フロア)である。壁のところまで行ってみると床と壁とは直角になっている。案内の方が私にそこで立ったまま耳を傾けているようにと言う。すると間もなく色々な声が聞こえてきたが、その言葉が逐一聞き分けられるほどであった。

説明によると、今の声は五つ上の階の部屋で処理され得たものが次々と階下へ向けて伝達され、吾々のいる部屋を通過して地下まで届けられたものであるという。その地下にも幾つもの部屋がある。私がその原因を聞くとこう説明された。その建物の屋上に全情報を受信する係の者がいて、

彼らがまず自分たちに必要なものだけを取り出して残りをすぐ下の階へ送る。その過程が次々と下の階へ向けて届けられ、私のいる地上の第一階に至る。そこで同じ処理をして最後に地下へ送られる。各階には夥しい数の従業員が休みなく、しかも慌てることなく、手際よく作業に当たっている。

さて貴殿はこれをさぞかし奇妙に思うことであろう。が実際はもっともっと不思議なものであった。例えば私が言葉を聞いたと言う時、それは事実の半分しか述べていない。実際はその言葉が目に見えるように聞こえたのである。地上の言語でどう説明したものであろうか。こうでも述べておこう。

例の壁(各種の貴金属と宝石をあしらっており、その一つ一つが地上で言う電気に相当するものによって活性化されている)を見つめていると、どこか遠くで発せられた言葉が目に見えるように私の脳に感応し、それを重要と感じた時は聴覚を通じて聞こえて来る。

この要領でその言葉を発した者の声の音質を内的意識で感得し、更にその人の表情、姿、態度、霊格の程度、携わる仕事、その他、伝えられたメッセージの意味を正確に理解する上で助けとなるこまごましたものを感識する。

霊界におけるこうした情報の伝達と受信の正確度は極めて高く、特にこの建物においては私の知る限り最高に完璧である。そこで私が見たものや聞いたことを言語で伝えるのはとても無理である。なぜなら、全ての情報は地上からこの十界に至るまでの途中の全階層の環境条件の中を通過して到達しており、従って一段と複雑さを増しており、とても私には解析できないのである。そこで案内の方が次の如く簡単に説明してくださった。

例えば、あるとき第三界で進行中の建造の仕事を完成させるために第六界から援助の一行が派遣された。と言うのは、その設計を担当したのが霊格の高い人達であったために、建造すべき装置にその界の要素ではうまく作れないものが含まれていたのである。

これを分かり易く説明すれば、例えばもし地上の人間が霊界のエーテル質を物質へ転換する装置を建造するとなったら、一体どうするかを考えてみるとよい。地上にはエーテル質を保管するほど精妙な物質は見当たらないであろう。エーテル質はいわゆる物質と呼ぶ要素の中に含有されているいかなるエネルギーにも勝る強力かつ驚異的エネルギーだからである。

第三界においても幾分これと似通った問題が生じ、如何にすればその装置の機能を最大限に発揮させるかについての助言を必要としたのであった。これなどは比較的解決の容易な部類に入る。

さて、これ以上のことは次の機会に述べるとしよう。貴殿はエネルギーを使い果たしたようである。私の思う通りを表現する用語が見当たらぬようになってきた。貴殿の生活と仕事に祝福を。確信と勇気をもって邁進されよ。†

第4節 宇宙の深奥を覗く
1913年クリスマス・イブ

以上私は天界の高地における科学について語ってみたが、この話題をこれ以上続けても貴殿に取りましてはさして益はあるまい。何となればそこで駆使される叡智も作業も貴殿には殆ど理解できぬ性質のものだからである。無理をして語り聞かせてもいたずらに困惑させるのみで、賢明とは思えない。そこで私はもう少し簡単に付け加えた後別の話題へ進もうと思う。

あのあと私は次の階へ上がってみたが、そこではまた引きも切らぬ作業の連続で、夥しい数の人が作業に当たっていた。各ホールを仕切っている壁はすべて情報を選別するため、ないしはそれに類似した仕事に役立てられている。地上の建物に見る壁のように、ただのっぺりとしているのではない。

様々な色彩に輝き、各種の装置が取り付けられ、浮き彫り細工が施されている。全てが科学的用途を持ち、常に監視され、操作の一つ一つが綿密に記録され検討を加えられたうえで初期の目標へ送り届けられる。

案内の方が屋上へも案内してくださった。そこからは遠くまでが一望のもとに見渡せる。下へ目をやれば私が昇って来た森が見える。その向こうには高い峰が連なり、それらが神々しい光に包まれて、あたかも色とりどりの宝石の如くキラキラと輝いて見える。その峰の幾つかは辺りに第十一界から届く幽玄な美しさが漂い、私のような第十界の者の視力に映じないほど霊妙化された霊的存在に生き生きと反応を示しているようであった。

そうした霊は第十一界から渡来し、第十界の為の愛の仕事に携わって居ることが判った。それを思うとわが身を包む愛と力に感激を禁じ得ず、ただ黙するのみであった。それが百万言を弄するより遥かに雄弁に私の感激を物語っていたのである。

こうして言うに言われぬ美を暫し満喫していると、案内の方がそっと私の肩に手を置いてこう言われた。

「あれに見えるのが〝天界の高地〟です。あの幽玄な静寂にはあなたの魂を敬虔と畏敬と聖なる憧憬で満たしてくれるものがあるでしょう。あなたは今あなたの現時点で到達し得る限りの限界に立っておられます。ここへ来られて、今のあなたの力では透徹しえない境涯を発見されたはずです。

しかし私たちは聖なる信託として、そしてまた、思慮分別をもって大切に使用すべきものとして、ベールで被われた秘密を明かす力を授かっており、尋常な視力には映じないものを見通すことができます。如何ですか。あなたもしばしその間その力の恩恵に浴し,これまで見ることを得なかった秘密を覗いてみたいと思われませんか」

私は一瞬返事に窮した。そして怖れに似たものさえ感じた。なぜなら、すでにここまで見聞きしたものですら私にとってやっと耐え得るほどの驚異だったからである。しかし、暫く考えた挙句に私は、全てが神の愛と叡智によって配剤されているからには案ずることは絶対に有るまいとの確信に到達し、〝すべてお任せいたします〟と申しあげた。その方も〝そうなさるがよい〟と仰せられた。

そう言うなり、その方は私を置き去りにして屋上に設けられた至聖所の中へ入られた。そして暫し(私の推察では)祈りを捧げられた。

やがて出てこられた時はすっかり変身しておられた。衣装はなく、肩のあたりに宝石をちりばめた輪を着けておられるほかは何一つ身に付けておられない。あたりを包む躍動する柔らかい光の中に立っておられる姿の美しいこと。光輝はますます明るさを増し、ついには液体のガラスと黄金で出来ているような様相を呈して来た。私はその眩しさに思わず下を向き、光線を遮ったほどであった。

その方がすぐ近くまで来るようにと仰せられた。言われるままに前に立つとすぐ私の後ろへ回られ、眩しくないようと配慮しつつ私の両肩に手を置いて霊力を放射し始めた。

その光はまず私の身体を包み、更に左右が平行に延びて、それが遠方の峰からでている光と合流した。つまり私の前に光の道ができ、その両側も光の壁で仕切られたのである。その空間は暗くはなかったが、両側の光に較べれば光度は薄かった。

その光の壁は言うなれば私のすぐ後ろを支点として扇状に広がり、谷を横切り、山頂を超えて突き進み、私の眼前に広大な光の空間が広がっていた。その炎の如き光の壁は私の視力では突き通すことはできなかった。そこで背後から声がして〝空間をよく見ているように〟と言われた。見ていると、これまで数々の美と驚異とを見てきた、そのいずれにも増して驚異的な現象が展開し始めた。

その二本の光の壁の最先端が、針の如くそそり立った左右の山頂に当たった。するとまずその左手の山頂に巨大な神殿が出現し、その周りに、光の衣をまとった無数の天使が群がり、忙しく動き回っている。更に神殿の高いポーチの上に大天使が出現し、手に十字架を携え、それをあたかも遠くの界の者に見せるように高々と持ち上げている。その十字架の横棒の両端に一人ずつ童子が立っており、

一人はバラ色の衣装をまとい、もう一人は緑と茶の衣装をまとっている。その二人の童子が何やら私に理解できない歌を合唱し、歌い終わると二人とも胸に手を当て、頭を垂れて祈った。

次に右方向を見るように促されて目をやると、今度は別の光景が展開した。遥か彼方の山腹に〝玉座”が見えたのである。光と炎が混じりあった赫々たる光輝の中に女性の天使が坐し、微動だにせぬ姿で遥か彼方へ目をやっておられる。薄地の布を身にまとい、それを通して輝く光は銀色に見える。が、

頭上にはスミレ色に輝く者が浮いており、それが肩と背中のあたりまで垂れさがり、あたかもビロードのカーテンを背景にした真珠のように、その天使を美しく浮き上がらせていた。

その周りと玉座のたもとにも無数の男女の列の姿が見える。静かに待機している。いずれ劣らぬ高級霊で、その光輝は私より明るいが、優雅な落ち着きの中に座しておられる女性天使の輝きには劣る。

お顔に目をやってみた。それはまさに愛と哀れみから生じる緻密な心使い漂い、その目は高き叡智と偉力の奥深さを物語っていた。両の手を玉座の肘掛けに置いておられ、その両腕と両足にも力強さが漂っていたが、そこには母性的優しさが程よく混じっていた。

その天使が突如として動きを発せられた。そこを指さし、あそこを指さし、慌てず、しかし機敏に、てきぱきと命令を下された。

それに呼応して従者の群れが一斉に動き始めた。ある一団は電光石火の勢いで遥か遠くへ飛び、別の一団は別の彼方へ飛ぶ。馬に乗って虚空へ飛翔する一団もいる。流れるような衣装をまとった者もいれば、鎧の如きもので身を固めた者もいる。男性のみの一団もあれば女性のみの一団もあり、

男女が入り混じった一団もある。それら各霊団が一斉に天空を翔けてゆく時の様子は、あたかも一瞬のうちに天空にダイヤモンドとルビーとエメラルドを散りばめたようで、その全体を支配する色彩が、唖然として立ちすくむ私に照り返ってくるのであった。

こうして私の前に扇方に伸びる光が地平線を一周して照らし出してゆくと、何れの方角にも必ず私にとって新しい光景が展開された。その一つ一つが性格を異にしていたが、美しさは何れ劣らぬ見事なものであった。こうして私は、曽てみてきた神の仕事に携わるいかなる霊にも勝る高き神霊の働く姿を見せて頂いた。そのうち、その光が変化するのを見て背後にいた案内の方が再び至聖所へ入られたことを悟った時、私はあまりの歓喜に思わず溜息を洩らし、神の栄光に圧倒されて、その場にしゃがみこんでしまった。吾々が下層界の為に働くのと同じように、高き神霊もまた常に吾々を監視し吾々の需要の為に心を砕いて下さっている様子を目のあたりにしたのであった。

かくして私が悟ったことは、下界の全階層は上層界に包含され、一界一界は決して截然と区別されておらずどれ一つとして遠く隔離されていないということである。私の十界には下層界の全てが包含され、同時にその第十界も下層界と共に上層界に包含されているということである。

この事実は吾々の界まで瞭然と理解できる。が、更に一界一界進むにつれて複雑さと驚異を増していき、その中には、僅かずつしか明かされない秘密もあると聞く。私は今やそのことに得心が行き秘密を明かして頂ける段階へ向けての一層の精進に真一文字に邁進したいと思う。

さあ、吾らが神の驚異と美と叡智、私がこれまで知り得たものをもって神の摂理の一欠けらに過ぎぬというのであれば、その全摂理は果たしていかばかりのものであろうか。そして如何に途方もないものであろうか。

天界の低い栄光さえも人間の目にはベールによって被われている。人間にとっては、それを見出すことは至難の業である。が、それでよいのである。秘法はゆっくりと明かされて行くことで満足するがよい。なぜなら、神の摂理は愛と慈悲の配慮をもって秘密にされているからである。

万が一それが一挙に明かされようものなら、人間はその真理の光に圧倒され、それを逆に不吉なものと受け取り、それより幾世期にも亘って先へ進むことを恐れるようになるであろう。私はこの度の体験によってそのことを曽てなかったほど身に染みて得心したのである。

佳きに計らわれているということである。万事が賢明にそして適切に配剤されているということである。げに神は愛そのものなのである。†

第5節 霊格と才能の調和
1913年12月27日 土曜日

さてこうして私の界を遥かに超えた上層界の驚異を目の当たりにすることを許されたことは、実にあり難き幸せであった。私はその後いろいろと思いをめぐらせた。そして私にその体験をさせた意図と動機をある程度まで理解することができた。が、目の当たりにした現象の中にはどうしても私一人の力では理解できないものが数多くあった。その一つが次のような現象である。

二つの壁によって仕切られた扇形の視界の中に展開したのは深紅の火焔の大渦であった。限りなく深い底から巨大な深紅の炎が次から次へと噴出し、その大きなうねりが互いに激突し合い、重なり合い、左右に揺れ動き、光の壁に激突して炎のしぶきを上げる。世紀末的大惨事はかくもあろうかと思われるような、光と炎の大変動である。その深紅の大渦のあまりの大きさに私の魂は恐怖におののいた。

「どうか目を逸らせてください。お願いです。もう少し穏やかなものにしてください。私にはあまりにも恐ろしくて、これ以上耐え切れません」

私がそうお願いすると、背後からこういう返答が聞こえた。

「今しばらく我慢するがよい。そのうち恐ろしさが消えます。あなたが今見ておられるのはこの先の上層界です。その最初が第十一界となります。この光が第何界のものであるかは、後で記録を調べてみないことには、私にも分かりかねます。その記録はこの施設にはなく、もう一つ、ここから遠く離れたところにある別の施設にあります。今あなたが恐怖をもって眺めておられるこの光は第十三界かも知れないし第十五界かも知れない。それは私にも判りません。ただ一つだけ確かなことは、主イエス・キリストが在しますのは実にあの光の中であり、あなたの目に映じている深紅の光彩は主と、主に召された者との交わりの栄光の反映であるということです。しっかりと見つめられよ。これほど見事に見られることは滅多にありません。では私がその更に奥の深いところを見させてあげましょう」

そう言い終わるなり、背後からエネルギーが強化されるのが感じられ、私もその厚意に応えるべく必死に努力をした。が、空しい努力に終わった。やはり私の力の及ぶところではないことを悟った。

すでに叙述したもの以外に見えたものと言えば、その深紅の光の奥に何やら美しい影が動めくのが見えただけだった。炎の人影である。ただそれだけであった。私は目を逸らせてほしいと再度お願いした。もう哀願に近いものとなっていた。そこでようやく聞き入れて下さった。

(光が変化したと述べたのはその時である)。それ以後、何も見えなくなった。見たいと言う気持ちも起きなかった。あたりはそれまでとは対照的に、くすんだ静けさに一変している。

それを見て私はひそかに、あの世界へ行かれぬ自分、さぞかし美と生の喜びに満ち溢れていることであろう世界に生きる神霊の仲間入りができない自分を情けなく思ったことであった。それから次第に普段の意識を回復した。そして案内の方が至聖所から普段のお姿で出てこられた時には、私のような者にこれほどの光栄を賜ったことに厚くお礼を述べられるほどになっていた。

さて、その高い楼閣での仕事について述べられるものとして、他に一体なにがあるであろうか。と言うのは、貴殿もよく心得てほしいことであるが、吾々の仕事と出来事で人間に理解できることは極めて僅かしないのである。それ故貴殿に明かすものについては私は細心の注意を払わねばならない。

つまり貴殿の精神の中において何とか再現し、地上の言語で表現できる者に限らねばならないのである。

その驚異的現象が終わった後も二人は暫し屋上に留まり、下方の景色へ目をやった。遥か遠く第九界の方角に大きな湖が見える。樹木の生い茂った土地に囲まれそこここに島々が点在し、木陰に佇む家もあれば高く聳え立つ楼閣もある。岸に沿った森の中のそこここに小塔が聳えている。

私は案内の方にそこがいかなる居住地(コロニー)であるかを尋ねた。その配置の様子が見事で、如何にも一つのコロニーに見えたからである。

するとこういう返答であった。実はかなり昔のことであるが、この界へ到来する者の処遇にちょっとした問題が生じたことがあった。それは皆が皆、必ずしもすべての分野で平均的に進化しているとは限らない。

・・・例えば宇宙の科学においては無知な部門もある。・・・いや、どうもこういう説明のすっきりしない。もう少し分かり易く説明しよう。

魂に宿された才能を全てまんべんなく発達させている者もいれば、そうでない者もいる。もとよりいずれ劣らぬ高級霊である点に置いては異存はない。だからこそこの第十界まで上昇してきたのである。が中には、もし持てる才能をまんべんなく発達させておれば、もっと速やかにこの界へ到達していたであろう者がいるということである。

更に、そうした事情のもとでようやく到達したこの界には、それまでの才能では用をなさない環境が待ち受けている。それ故、何れは是が非でも才能をまんべんなく発達させ、より円満にする必要性が生じて来るのである。

先のコロニーの設立の必要性を生ぜしめた問題はそこにあった。あそこにおいて他人への援助と同時に自己の修養に励むのである。貴殿にはなぜそれが問題であるのか不審に思えるかも知れないが、そう思うのは、この界を支配する諸条件が地上とは比較にならぬほど複雑さを持った完全性を具えているからにほかならない。

あのコロニーの住民の霊格はある面ではこの十界の程度でありながら、他の面ではすでに十一界あるいは十二界の程度まで進化していることもある。そこで次のような厄介な問題が生じる。すなわち霊力と霊格においてはすでに今の界では大きすぎるものを具えていながら、さりとて次の界にはいかれない。

無理していけば発達の遅れた面が災いして大失策を演じ、それが原因で何界も下層へ後戻りせざるを得なくなるかもしれない。そこはそこで又、居づらいことであろう。

以上の説明で理解してもらえるであろうか。例えば魚が自ら出されて陸(おか)に置かれたら大変である。反対に哺乳動物が森から水中へ入れられたら、これまた死ぬに決まっている。両生類は水と陸の両方があって初めて生きていける。陸地だけでは生理に異常を来すし、水の中だけでもやはり異常を来す。

無論あのコロニーの生活者がこれと全く同じ状態であると言う訳ではない。が、こうした譬えによって彼らのおかれた特殊な境遇について大よその理解が行くであろう。彼らにとって第十界にいることは、あたかも籠に入れられた小鳥同然であり、さりとて上層界へ行くことは炎の中へ飛び込む蛾も同然なのである。

・・・結局どういう扱いを受けるのでしょうか。

自分で自らを律していくのである。私の信じるところによれば、彼らは今まさにその問題点に関する最高の解決策を見出しつつあるところであろう。首尾よく解決した暁には、彼らはこの十界に対しても貢献したことになり、その功績はこの後の為に大切に記録されることであろう。こうしたことが各種の分野において行われており、思うに、彼らは今でも自分の得意とする能力に応じて組み分けされ、一種の相互補完のシステムによって働くことが可能となっているであろう。

つまり各クラスの者が自分たちの所有している徳と霊力とを、それを欠く他のクラスの者に育ませるように努力するということである。全クラスが其々に沿う努力し、そこに極めて複雑な協調的教育が生まれる。

極めて入り組んだ教育組織となっているため、高地に住む者でさえ分析不可能なほどである。いずれそこから何ものかが生み出され、機が熟せば、この界の霊力と影響力とを増すことであろう。それも多分、極めて大規模な形で寄与することになるものと私には思えるのである。

かくして相互的な寄与が行われる。進化の真の喜びは自らの向上の道において同胞を向上の道に誘うことの中にこそ味わえるものである。そうではなかろうか。
では祝福とお寝みを申上げよう。