第一巻 『天界の低地』 オーエン氏の母親 アストリエル霊
GVオーエン(George Vale Owen)著
近藤 千雄(こんどう かずお)訳
潮文社発行
推薦の言葉 ノースクリッフ卿
私はまだオーエン氏の霊界通信の全編を読む機会を得ていないが、これまで目を通した部分だけでも実に美しい章節を各所に発見している。
こうした驚異的な資料は霊媒自身の人格が浅からぬ重要性を持ち、それとの関連性に置いて考察さるべきであるように思われる。私はオーエン氏とは短時間の会見しか持っていないが、その時に得た印象は、誠実さと確信に満ちた人物を前にしていると言う事であった。ご自分に霊能があると言うような言葉はついぞ氏の口からは聞かれなかった。
出来るだけ名前は知られたくないとの気持ちを披歴され、これによる収益の受け取りを一切辞退しておられる。これだけ世界中から関心を寄せられた霊界通信なら大変な印税が容易に得られたのであろうと思われるのだが。
(ノースクリッフ卿Lord North cliffe―本名ウィリアムズ・ハームズワースAlfred Charles William Harms worth。アイルランド生まれの英国の新聞経営者で、有名なDaily Mail-デイリーメール-の創刊者。死後フリート街の法王と呼ばれたハンネン・スワッハーHannen Swafferがそれを「ノースクリッフの帰還」North cloffe,s Returnと題して出版、大反響を呼んだ)
序 アーサー・コナン・ドイル
永かった闘いにも勝利の日が近づいた。今後もなお様々な事が起きるであろう。後退もあれば失望もある事であろう。が勝利は間違いない。新しい霊的啓示の記録が一般大衆の手に入った時、それに典型的美しさと合理性とがあればかならずや全ての疑念、あらゆる偏見を一掃してしまうものである事は、いつの時代に置いても真理なるものに触れた者ならば断固たる確信を持つものである。
いまその内の一つ・・・至純にして至高、完璧にして崇高なる淵源を持つ啓示が世界の注目を浴びつつある。まさに主の御手ここに在り、の思いがする。
それが今あなたのすぐ目の前にある。そしてそれが自らあなたに語りかけんとしている。本分の冒頭を読んだだけで素晴らしさを評価してはならない。確かに劈頭から素晴らしい。が、読み進むに従っていよいよその美しさを増し、ついには荘厳さの域にまで達する。
一字一句に捉われたアラ探しをすることなく、全体を通しての印象によって判断しなくてはいけない。同時に、ただ単に新しいものだから、珍しいから、と言う事で無闇に有難がってもいけない。
地上のいかなる教説も、それがいかに聖なるものであろうと、そこから僅かな文句だけを引用したり、霊的である事を必要以上に強調し過ぎる事によって嘲笑の的とされる事が十分あり得る事を明記すべきである。この啓示が及ぼす影響力の程度と範囲を判断する規準は、読者の精神と魂へ及ぼす影響全体であり、それ以外にはあり得ない。
神は二千年前に啓示の泉を閉鎖された、と言う。一体何の根拠を持ってこんな非合理きわまりなる信仰を説くのであろうか。
それよりも、生ける神は今なお、その生ける威力を顕示し続けており、苦難により一段と浄化され受容力を増した人類の理解力の進化と威力に相応しい新たな援助と知識とをふんだんに授けて下さっている。と、信じる方がどれほど合理的であろうか。
驚異的と言われ不可思議とされた過去70年間のいわゆる超自然現象は、明々白々たる事実であり、それを知らぬ者は自らの手を持って目を蔽う者のみと言って良いほどである。現象そのものはなるほどとるに足らぬものかも知れない。
がそれは実は我々人間の注意を引きつける為の信号(シグナル)だったのであり、それをきっかけとして、こうした霊的メッセージへ誘わんとする意図があったからである。その完璧な一例がこの通信と言えるかもしれない。
啓示は他にも数多く存在する。そしてその内容は由ってきたる霊界の階層によっても異なるし、受信者の知識の程度によっても異なる。
通信は受信者を通過する際に大なり小なり色づけされる事は免れないのである。完全に純粋な通信は純真無垢な霊媒に対して始めて得られる。本通信における天界の物語は、物的人間の条件の許す限りにおいて、その絶対的純粋さに近いものと考えて良いであろう。
その内容は古き信仰を覆すものであろうか。私は絶対にそうでない事を断言する。むしろ古き信仰を拡大し、明確にし、美化している。これまで吾々を当惑させてきた空白の部分を埋めてくれる。そして一字一句に拘り精神を忘れた心狭き偏屈学者を除いては、限りない励みと啓発を与えてくれる。
真意を捉え難かった聖書の文字が本通信によって明確に肉づけされ意味を持つにいたった部分が幾つある事であろうか。
例えば、「父の家には住処多し」も、パウロの「手をもて造られたるにあらざる住処」も、本書の中に僅かに見られるところの、人間の知能と言語を超越した、かの栄光を見ただけで理解が行くのではなかろうか。
それはもはや捉え難き遠き世界の幻ではなく、この“時”に縛られた暗き人生を歩むにつれて前方に真実にして確固とした光として輝き、神の摂理と己の道義心に忠実に生きてさえいれば言語に絶する幸せが死後の待ち受けているとの確信を植え付けてくれる事によって、喜びの時はより一層その喜びを増し、悲しみの時には涙を拭ってくれるものである。
言葉即(イコール)観念の認識に固執する者はこの通信は全てオーエン氏の潜在意識の産物であると言うであろう。そう主張する者は、では他に多くの霊覚者が程度の差こそあれ同じような体験をしている事実をどう説明するのであろうか。
筆者自身も数多くの霊界通信を参考にして死後の世界の概観を二冊のささやかな本にまとめている。それはこの度のオーエン氏の通信とはまるで無関係に編纂された。オーエン氏の通信が私の二冊とは無関係に綴られたのと同じである。
どちらも互いに参考にし合っていない。にも拘らず、この度読み返してみて私のものより遥かに雄大で詳しいオーエン氏の叙述の中に、重要と思える箇所で私は誤りを犯したところは一つも見あたらない。もしも全体系が霊的インスピレーションに基づいていなかったら、果たしてこうした基本的一致があり得るであろうか。
今や世界は何らかのより強力な駆動力を必要としている。これまではいわば機関車を外されたまま古きインスピレーションの上を走ってきたようなものである。今や新しい機関車が必要なのである。
もしも既成宗教が真に人間を救う者であったのなら、それは人類史の最大の苦難の時にこそ威力を発揮した筈-例えば第一次世界大戦も起きなかった筈である。その厳しい要請に応え得た教会があったであろうか。今こそ霊的真理が改めて説かれ、それが人生の原理と再び渾然一体となる必要があるのは明々白々足る事実ではなかろうか。
新しい時代が始まりつつある。これまで貢献してきた者が、その立証に苦労してきた真理が世間から注目を集めつつあるのを見て敬虔なる満足を覚えても、それは無理からぬことかもしれない。そして、それは自惚れの誘因とはならない。目にこそ見えないが実在の叡智に富める霊団の道具に過ぎない事を自覚しているからである。
しかし同時に、もしも新たなる真理の淵源を知り、荒波の中を必死に邁進してきた航路が間違っていなかった事を知って安堵の気持ちを抱いたとしても、それが人間味と言うものではなかろうか。
(コナン・ドイルArthur Conan Doyle―言わずと知れた名探偵シャーロック・ホームズの活躍する推理小説の作者であるが、本職は内科医であった。其のシャーロック・ホームズ・シリーズによる知名度が最高度に達した頃にスピリチュアリズムとの出会いがあり、様々な非難中傷の中を徹底した実証主義で調査研究し、その真実性を確信してからは“スピリチュアリズムのパウロ”の異名を取るほど、その普及に献身した―訳者)
まえがき G・V・オーエン
この霊界通信すなわち自動書記または(より正確にいえば)霊感書記によって綴られた通信は、形の上では四部に分かれているが、内容的には一貫性を持つものである。いずれも通信を送ってきた霊団が予め計画したものである事は明白である。
母と子と言う肉親関係が本通信を開始する絶好の通路となった事は疑う余地がない。その点から考えて本通信が私の母と友人たちで構成された一団によって開始されている事は極めて自然なことと言える。
それが一応軌道に乗った頃、新しくアストリエルと名告る霊が紹介された。この霊はそれまでの通信に較べて霊格が高く、同時に哲学的なところもあり、そういった面は用語の中にもはっきり表れている。母の属する一団とこのアストリエル霊からの通信が第一巻『天界の低地』を構成している。
このいわば試験的通信が終わると、私の通信はザブディエルと名告る私の守護霊の手に預けられた。母達からの通信に較べると流石(サズガ)に高等である。第二巻『天界の高地』は全部このザブディル霊からの通信で占められている。
第三巻『天界の政庁』はリーダーと名告る霊とその霊団から送られたものである。その後リーダー霊は通信を一手に引き受け、名前も改めてアーネルと名告るようになった。その名のもとで綴られたのが第四巻『天界の大軍』で文字通り本通信の圧巻である。前三巻のいずれにも増して充実しており、結局前三巻はこの第四巻の為の手馴らしであったと見ても差し支えない。
内容的に見ても本通信が第一部から順を追って読まれるべき性質のものである事は言うまでもない。始めに出た事柄が後になって説明抜きで出てくる場合も少ないのである。
本通信の主要人物について簡単に説明しておくと―。
私の母は1909年に63歳で他界している。アストリエルは18世紀半ばごろ、英国ウォ―リック州で学校の校長をしていた人である。ザブディエルについては全然と言ってよいほど不明である。アーネルについては本文中に自己紹介が出ている。霊界側の筆記役をしているカスリーンは英国リバプール市のアンフィールドに住んでいた裁縫婦で、私の娘のルビーが1896年に僅か15ヶ月で他界するその3年前に28歳で他界している。
さて“聖職者というのは何でもすぐ信じてしまう”と言うのが世間一般の通念であるらしい。なるほど“信仰”と言うものを生命とする職業である以上、そういう観方をされてもあながち見当違いとも言えないかもしれない。が、私は声を大にして断言しておくが、新しい真理を目の前にした時の聖職者の懐疑的態度だけは、いかなる懐疑的人間にも決して引けを取らないと信じる。
因みに私が本通信を“信ずるに足るもの”と認めるまでにちょうど四分の一世を費やしいている。すなわち、確かに霊界通信と言うものが実際にある事を認めるのに十年、そしてその霊界通信と言う事実が大自然の理法に適っている事をはっきりと得心するのに15年かかった。
そう得心して間もなく、その回答とも言うべき現象が起こりだした。最初まず私の妻が自動書記能力を発揮し、やがてその手を通じで、お前も鉛筆を持って机に向かい頭に浮かぶ思念を素直に書き下ろしてみよ、という注文が私宛に送られてきた。
正直なところ私はそれが嫌で、暫く拒否し続けた。が、他界した私の友人達がしきりに私を通じて通信したがっている事を知るに及んで、私の気持ちにも大分変化が起き始めた。
こうした事実からも十分納得して頂ける事と思うが、霊界の通信者は通信の目的や我々に対する希望は述べても、その為に我々の都合や意思を無視したり強制したりするような事は決してなかった。結果論から言えば少なくても私の場合は強引に書かせた方が手間ひまが掛らずに済んだろうにと思われるのだが…。
が、それでも私はすぐには鉛筆を握らなかった。しかし、その内注文する側の真摯な態度に好感を覚え、多分に懐疑の念を抱きつつも遂に意を決して、晩課が終わってからカソック姿(法衣の一種)のまま机に向かったのである。
最初の4,5節は内容に統一性がなく、何を言わんとしているのか見当がつかなかったが、その内次第にまとまりが見えてきて、やがて厳とした筋が読み取れるようになった。それからというものは書けば書くほど筆が速くなった。読者がいままさに読まんとされているのがその産物である。