第6章 常夏の楽園
第1節 霊界の高等学園
1913年12月9日 火曜日

私の望み通り今宵も要請に応じてくれた。ささやかではあるが、これより貴殿を始めとして多くの者にとって有益と思えるものを述べる私の努力を、貴殿は十分に受け止め得るものと信じる。例え貴殿は知らなくても、貴殿にそれを可能ならしめる霊力が吾々にあり、それを利用して思念を貴殿の前に順序よく披瀝してゆく。いたずらに自分の無力を意識して挫けることになってはならない。

貴殿にとってこれ以上と思える段階に至れば、私の方からそれを指摘しよう。そして吾々も暫時(サンジ)ノートを閉じて他の仕事に関わるとしよう。

では今夜も貴殿の精神をお借りして引き続き第十界の生活に付いて今少し述べてみようと思う。ただ、いつものように吾々の界より下層の世界の事情によってある程度叙述の方法に束縛が加えられ、更には折角の映像も所詮は地上の言語と比喩の範囲にせばめられてしまうことを銘記されたい。

それはやむを得ないことなのである。それは恰も一リットルの器に10リットルの水は入らず、鉛の小箱に光を閉じ込めることが出来ぬのと同じ道理なのである。

前回述べた大聖堂は礼拝のためのみではない学習のためにも使用されることがある。ここはこの界の高等学院であり、下級クラスをすべて終了した者のみが最後の仕上げの学習を行う。ほかにもこの界域の各所に様々な種類の学校や研究所があり、それぞれに独自の知識を教え、数こそ少ないがその幾つかを総合的に教える学校もある。

この都市にはそれが三つある。そこへは〝地方校〟とでも呼ぶべき学校での教育を終えたものが入学し、各学校で学んだ知識の相対的価値を学び、それを総合的に理解していく。この組織は全世界を通じて一貫しており、界をあがる毎に高等となって行く。

つまり低級界より上級界へ向けて段階的に進級してゆく組織になっており、一つ進級することはそれだけ霊力が増し、且つその恩恵に浴することができるようになったことを意味する。

教育を担当する者はその大部分が一つ上の界の霊格を具えた者で、目標を達成すれば本来の界へ戻り、教えを受けた者がそのあとを継ぐ。その間も何度となく本来の上級界へ戻っては霊力を補給する。かくて彼らは霊格の低い者には耐えがたい栄光に耐えるだけの霊力を備えるのである。

それとは別に、旧交を温めるために高級界の霊が低級界へ訪れることもよくあることである。その際、低級界の環境条件に合わせて程度を下げなければならないが、それを不快に思う者はまずいない。そうしなければ折角の勇気づけの愛の言葉も伝えられないからである。

そうした界より地上界へ降りて人間と交信する際にも、同じく人間界の条件に合わせなければならない。大なり小なりそうしなければならない。天界における上級界と下層界との関係にも同じ原理が支配しているのである。

が、同じ地上の人間でも、貴殿の如く交信の容易な者もあれば困難な者もあり、それが霊性の発達程度に左右されているのであるが、その点も霊界において同じことが言える。例えば第三界の住民の中には自分の界の上に第四界、第五界あるいはもっと上の界が存在することを自覚する者もおれば、自覚しない者もいる。それは霊覚の発達程度による。自覚しない者に上級界の者がその姿を見せ言葉を聞かせんとすれば、出来るだけ完璧にその界の環境に合さねばならない。現に彼らはよくそれを行っている。

もとより、以上は概略を述べたに過ぎない。がこれで、一見したところ複雑に思えるものも実際には秩序ある配慮がなされて居ることが分かるであろう。地上の聖者と他界した高級霊との交わりを支配する原理は霊界においても同じであり、更に上級界へ行っても同じである。

故に第十界の吾々と、更に上級界の神霊との交わりの様子を想像したければ、その原理に基ずいて推理すればよいのであり、地上に置いて肉体をまとっている貴殿にもそれなりの正しい認識が得られるであろう。

・・・判りました。前回の話に出た第十界の都市と田園風景をもう少し説明していただけませんか。

良かろう。だがその前に〝第十界〟と言う呼び方について一言述べておこう。吾々がそのように呼ぶのは便宜上のことであって、実際にはいずれの界も他の界と重なり合っている。

ただ第十界には自らその界だけの色濃い要素があり、それをもって〝第十界〟と呼んでいる迄で、他の界と判然と区切られているのではない。天界の全界層が一体となって融合しているのである。それ故こそ上の界へ行きたいと切に望めば、いかなる霊にも叶えられるのである。

同時に、例えば第七界まで進化した者は、それまで辿って来た六つの界層へは自由に行き来する要領を得ている。かくて上層界から引きも切らず高級霊が降りてくる一方で、その界の者もまた下層界へ何時でも降りて行くことが出来るのであり、その度に目標とする界層の条件に合わせることになる。

またその界におりながら自己の霊力を下層界へ向けて送り届けることも出来る。これは吾々も間断なく行って居ることであって、すでに連絡の取れた地上の人間へ向けて支配力と援助とを放射している。貴殿を援助するのに必ずしも第十界を離れるわけではない。もっとも必要とあれば離れることもある。

・・・今はどこにいらっしゃいますか。第十界ですか、それともこの地上ですか。

今は貴殿のすぐ近くから呼びかけている。私にとってはレンガやモルタルは意に介さないのであるが、貴殿の肉体的条件と、貴殿の方から私の方へ歩み寄る能力が欠けているために、どうしても私の方から近づくほかないのである。そこでこうして貴殿のすぐ側まで近づき、声の届く距離に立つことになる。こうでもしなければ私の思念を望みどおりには綴ってもらえないであろう

では私の界の風景についての問いに答えるとしよう。最初に述べた事情を念頭に置いて聞いてもらいたい。では述べるとしよう。

都市は山の麓に広がっている。城壁と湖の間には多くの豪邸が立ち並び、その敷地は左右に広がり、殆どが湖の近くまで広がっている。その湖を船で一直線に進み対岸へ上がると、そこには樹木がおい繁り、その多くはこの界にしか見られないものである。その森にも幾筋かの小道があり、すぐ目の前の山道を辿って奥へ入っていくと空地に出る。

その空地に彫像がたっている。女性の像で天井を見上げて立っている。両手を両脇に下げ、飾りの無い長いロープを着流している。この像は古くからそこに建てられ、幾世期にも亘って上方を見上げてきた。

が、どうやら貴殿は力を使い果たしたようだ。この話題は一応これにて打ち切り、機会があればまた改めて述べるとしよう。

その像の如く常に上へ目を向けるがよい。その目に光の洗礼が施され、その界の栄光の幾つかを垣間見ることが出来るであろう。

第2節 十界より十一界を眺める
1913年12月11日 木曜日

前回の続きである。
彫像の立つ空地は実は吾々が上層界からの指示を仰ぐためにしばしば集合する場所である。これより推進すべき特別の研究の方向を指示するために無数の霊の群れを離れて我々を呼び寄せるには、こうした場所が都合が良いのである。そこへ高き神霊が姿をお見せになり、吾々との面会が行われるのであるが、その美しい森を背景として、天使のお姿は一段と美しく映えるのである。

その空地から幾筋かの小道が伸びている。吾々は突き当りで右へ折れる道を取り、更に歩み続ける。道の両側には花が咲き乱れている。キク科の花もあればサンシキスミレもあり、そうした素朴な花が恰もダリア、ボタン、バラ等の色鮮やかな花々の中に混じって咲いていることを楽しんでいるかのように、一段と背高に咲いているのが目に止まる。この他にもまだまだ多くの種類の花が咲いている。と言うのは、この界では花に季節がなく、常夏の国の如く、飽きることなく常に咲き乱れているのである。

そこここに更に別の種類の花が見える。直径が一段と大きく、それが光でできた楯の如く輝き、辺りは恰も美の星雲の観を呈し、見る者に喜びを与える。この界の美しさは到底言語では尽くせない。既に述べたように、すべてが地上に見られぬ色彩をしているからである。それは地上のバイブレーションの鈍重さのせいであると同時に、人間の感覚がそれを感識するにはまだ十分に洗練されていないからでもある。

このように・・・少し話がそれるが・・・貴殿の身の回りには人間の五感に感応しない色彩と音とが存在しているのである。この界にはそうした人間の認識を超えた色彩と音が満ち溢れ、それが絢爛豪華な天界の美を一段と増し、最高神の御胸において至聖なる霊のみが味わう至福の喜びに近づいた時の“聖なる美”を誇示している。

やがて吾らは小川に出る。そこで道が左右に分かれているが、吾々は左に折れる。その方角に貴殿が興味を抱きそうなコロニーがあり、是非そこへ案内したく思うからである。その川から外れると広い眺めが展開する。そこが森の縁なのであるが、そこに一体何があると想像されるか。ほかでもない。そこは年中行事を司るところのいわば“祝祭日の聖地”なのである。

地上の人間はとかく吾々を遠く離れた存在であるかに想像し、近接感を抱いて居ないようであるが、ツバメ一羽落ちるのも神は見逃さないと言われるように、人間の為すことの全てが吾々に知れる。そしてそれを大いなる関心と細心の注意をもって観察し、人間の祈りの中に一滴の天界の露を投げ入れ、天界の思念によって祈りそのものと魂とに香ばしい風味を添えることまでする。

このコロニーには地上の祝祭日に格別の関心を抱く天使が存在する。そうして毎年めぐり来る大きい祝祭日において、人間の思念と祈願を正しい方向へ導くべく参列する霊界の指導霊に特別の奉納を行う。

私自身はその仕事に関わっていない。それ故あまり知ったかぶりの説明はできないが、クリスマス、エビファーニー、イースター、ウィットサンデー(*)等々に寄せられる意念がこうした霊界のコロニーにおいて強化されることだけは間違いない事実である。
(*これらはすべて霊界の祝祭日の反映であり、従って地上の人間の解釈とは別の霊的意義がある。それについてはすティートンモーゼスの霊界通信『霊訓』が最も詳しい)

又聞くところによれば“父なる神”をキリスト教とは別の形で信仰する民族の祝祭日にも、同じように霊界から派遣される特別の指導霊の働きかけがあるということであるが、確かにそういうこともあり得よう。

かくて地上の各地の聖殿における礼拝の盛り上がりは、実はこうして霊界のコロニーから送られる霊力の流れが、神への讃仰と祈願で一体となった会衆の心に注がれる結果なのである。

貴殿はそのコロニーの建物について知りたがっているようであるが、建物は数多く存在し、そのほとんどが聳えるように高いものばかりである。その中でも他を圧する威容を誇る建物がある。数々のアーチが下から上へ調和よく連なり、その頂上は天空高く聳え立つ。祝祭日に集まるのはその建物なのである。その頂上はあたかも開きかけたユリの花弁が何時までも完全に咲き切らぬ状態にも似ており、それに舌状の懸花装飾が垂れ下がっている。

色彩は青と緑であるが、そのヒダは黄金色をしたような茶色を呈している。見るも鮮やかな美しさであり、天空へ向けて放射される讃仰の念そのものを象徴している。それは恰も芳香を放出する花にも似て、上層界の神霊並びに、すべてを超越しつつしかもすべての存在を見届け知りつくしている創造の大霊へ向けて放たれてゆく。

吾々はこの花にも似た美しい聖殿が恰も小鳥がヒナをその両翼に抱き、その庇護の中でヒナたちが互いに愛撫し合うかのような、美しくも温かき光景を後にする。そして更に歩を進める。

さて小川の上流へ向けて暫し歩き続けるうちに、道は登坂となる。それを登り続けるとやがて山頂に至り、そこより遥か遠くへ視界が広がる。実はそこが吾々の界と次の界との境界である。どこまで見渡せるか、またどこまで細かく見極め得るかは、開発した能力の差によって異なるが、私に見えるママを述べよう。

私は今、連なる山々の一つの頂上に立っている。すぐ目の前に小さな谷があり、その向こうに別の山があり、更にその向こうに別の山が聳えている。焦点を遠くへやるほど山を包む光輝が明るさを増す。が、その光はじっと静かに照っているのではない。あたかも水晶の海が電気の海にでも浸っているかのように、ゆらめくかと思えば目を眩ませんばかりの閃光を発し、あるいは矢のような光線が走り抜ける。これは外から眺めた光景であり、今の私にはこれ以上のことは叙述出来ぬ。

川もあれば建物もある。が、その位置は遥か彼方である。芝生もあれば花を咲かせている植物もある。樹木もある。草原が広がり、その界の住民の豪華な住居と庭が見える。が、私はその場へ赴いて調べることはできない。ただ、こうして外観を述べることしかできない。

それでも、その景色全体に神の愛と、えもいわれぬ均整美が行きわたり、それが私の心を弾ませ足を急かせる。なぜなら、その界へ進みゆくことこそ第十界における私の生活の全てだからである。託された仕事を首尾よく果たした暁には、その素晴らしき界の、さる有難きお方(*)からの招きを受けるであろう。その時は喜び勇んで参る事であろう。

(*ザブディエルの守護霊のこと。その守護霊にも守護霊がおり、そのまた守護霊がおり連綿として最後は守護神に至る)

が、このことは貴殿も同じことではなかろうか。私とその遥か遠き第十一界との関係はまさに貴殿と他界後の境涯と同じであり、程度こそ違え素晴らしいものであることにおいては同じである。

この界につきてはまだ僅かしか語っていないが、貴殿の心を弾ませ足を急かせるには十分であろう。

ここで再び貴殿を先の空地へ連れ戻し、あの彫像の如く常に目をしっかり上方へ向けるよう改めて願いたい。案ずることは何一つない。足元へ目をやらずとも決して躓くことは無い。高きものを求める者こそ正しい道を歩む者であり、足元には吾々が気を配りことなきを期するのであろう。

万事は佳きに計らわれている。さよう、ひたすらに高きものを求める者は万事は佳きに計らわれていると思うがよい。なぜなら、それは主イエスに仕える吾らを信頼することであり、その心は常に主と共にあり、何人たりとも躓かせることはさせぬであろう。

では、この度はここまでとしよう。地上生活はとかく鬱陶しく、うんざりさせられることの多いものである。が、同時に美しくもあり、愛もあり、聖なる向上心もある。それを少しでも多く自分のものとし、また少しでも多く同胞に与えるがよい。そうすれば、それだけ鬱陶しさも減じ、天界の夜明けの光が一層くっきりと明るく照らし、より美しき楽園へと導いてくれることであろう。

第3節 守護霊との感激の対面
1913年12月12日 金曜日

背後から第十界の光を受け、前方から上層界の光を浴びながら私は例の山頂に立って、その両界の住民と内的な交わりを得ていた。そしてその両界を超えた上下の幾層もの界とも交わることができた。

その時の無上の法悦は言語に絶し、賢覧にして豪華なもの、広大にして無辺のもの、そして全てを包む神的愛を理解する霊的な目を開かせてくれたのである。

ある時私は同じ位置に立って自分の本来の国へ目をやっていた。眼前に展開する光の躍動を見続けることが出来ず、思わず目を閉じた。そして再び見開いた時の事である。その目にほかならぬ私の守護霊の姿が入った。私が守護霊を見、そして言葉を交わしたのは、その時が最初であった。

守護霊は私と向かい合った山頂に立ち、その間には谷がある。目を開いた時、あたかも私に見え易くするために急きょ形体を整えたかのように、私の目に飛び込んできた。事実その通りであった。うろたえる私を笑顔で見つめていた。

きらびやかに輝くシルクに似たチュニック(首からかぶる長い服)を膝までまとい、腰に銀色の帯を締めている。膝から下と腕には何もまとっていないが、魂の清らかさを示す光に輝いている。

そしてそのお顔は他の箇所より一段と明るく輝いている。頭には青色の帽子をのせ、それが今にも黄金色へと変わろうとする銀色に輝いている。その帽子にはさらに霊格の象徴である宝石が輝いている。私にとっては曽て見たこともない種類のものであった。石そのものが茶色であり、それが茶色の光を発し、まわりに瀰漫する生命に燃えるような、実に美しいものであった。

「さ、余のもとへ来るがよい」ついに守護霊はそう呼びかけられた。その言葉に私は一瞬たじろいだ。恐怖のためでは無い。畏れ多さを覚えたからである。

そこで私はこう述べた。

「守護霊様とお見受けいたします。その思いが自然に湧いてまいります。こうして拝見できますのは有難い限りです。言うに言われぬ心地よさを覚えます。私のこれまでの道中ずっと付き添って下さっていたことは承知しておりました。私の歩調に合わせてすぐ先を歩いてくださいました。

今こうしてお姿を拝見し、改めてこれまでのお心遣いに対して厚く御礼申し上げます。ですが、お近くまで参ることはできません。この谷を下ろうとすればそちらの界の光輝で目が眩み、足元を危うくします。これでは多分、その山頂まで登るとさらに強烈な光輝の為に私は気絶するものと案じられます。これだけ離れたこの位置にいてさえ長くは耐えられません」

「その通りかもしれぬ。が、この度は余が力となろう。汝は必ずしも気付いておらぬが、これまでも何度か力を貸して参った。また幾度か余を身近に感じたこともあるようであるが、それも僅かに感じたに過ぎぬ。これまで汝と余とはよほど行動を共にしてまいった故に、この度はこれまで以上に力が貸せるであろう。気を強く持ち、勇気を出すがよい。案ずるには及ばぬ。これまで度々汝を訪れたが、この度、汝をこの場に来させたそもそもの目的はこうして余の姿を見せることにあった」

こう述べた後暫しあたかも彫像の如くじっと直立したままであった。が、やがて様子が一変し始めた。腕と脚の筋肉を緊張させているように見えはじめたのである。ゴース(蜘蛛の糸のような繊細な布地)のような薄い衣服につつまれた身体もまた全エネルギーを何かに集中しているように見える。両手は両脇に下げたまま手の平をやや外側へ向け、目を閉じておられる。その時不思議な現象が起きた。

立っておられる足元から青とピンクの混じりあった薄い雲状のものが湧き出て私の方へ伸びはじめ、谷を超えて二つの山頂に橋のようにかかったのである。高さは人間の背丈とほぼ変わらず、幅は肩幅より少し広い。それが遂に私の身体まで包み込み、ふと守護霊を見るとその雲状のものを通して、すぐ近くに見えたのである。

その時守護霊の言葉が聞こえた。「参るが良い。しっかりと足を踏みしめて余の方へ向かって進むが良い。案ずるには及ばぬ」

そこで私はその光輝く雲状の柱の中を守護霊の方へと歩を進めた。足元は厚きビロードのようにふんわりとしていたが、突き抜けて谷へ落ちることもなく、一歩一歩近づいて行った。守護霊が笑顔で見つめておられるのを見て私の心は喜びにあふれていた。が、

よほど近づいたはずなのに、なかなか守護霊まで手が届かない。相変わらずじっと立っておられ決して後ずさりされた訳ではなかったのであるが・・・

が、ついに守護霊が手を差し出された。そして、更に二、三歩進んだところでその手を掴むことができた。するとすぐに、足元のしっかりした場所へ私を引き寄せて下さった。見ると、はや光の橋は薄れていき、私の身体はすでに谷の反対側に立っており、その谷の向こうに第十界が見える。私は天界の光とエネルギーでできた橋を渡って来たのであった。

それから二人は腰を下ろして語りあった。守護霊は私のそれまでの努力の数々に言及し、あの時はこうすれば尚もよかったかも知れぬなどと述べられた。褒めてくださったものもあるが、褒めずに優しく忠告と助言をしてくださったこともある。決してお咎めにはならなかった。

またその時の二人の位置していた境界についての話もされた。そこの栄華の幾つかを話してくださった。更に、そのあと第十界へ戻って仕上げるべき私の仕事において常に自分が付き添って居ることを自覚することが如何に望ましいかを語られた。

守護霊の話に耳を傾けているあいだ私は、心地よい力と喜びと仕事への大いなる勇気を感じていた。こうして守護霊から大いなる威力と高き清純さを授かり、謙虚に主イエスに仕え、イエスを通じて神に仕える人間の偉大さについてそれまで以上に理解を深めたのであった。

帰りは谷づたいに歩いたのであるが、守護霊は私の肩に手をまわし力をお貸しくださり、ずっと付き添って下さった。谷を下り川を横切り、そして再び山を登ったのであるが、第十界の山を登り始めた頃から言葉少なになっていかれた。思念による交信は続いていたのであるが、ふと守護霊に目をやるとその姿が判然としなくなっているのに気付いた。とたんに心細さを感じたが、守護霊はそれを察して、

「案ずるでない。汝と余の間は万事うまく行っている。そう心得るがよい」とおっしゃった。

そのお姿は尚も薄れて行った。私は今一度先の場所に戻りたい衝動にかられた。が、守護霊は優しく私を促し、歩を進められた。が、そのお姿は谷を上がる途中で完全に見えなくなった。そしてそれっきりお姿を拝することはなかった。しかしその存在はそれまで以上に感じていた。

そして私がよろめきつつも漸(ヨーヤク)く頂上へ辿り着くまでずっと思念による交信を保ち続けた。そうして頂上から遠く谷超えに光輝溢れる十一界へ目をやった。しかし、そこには守護霊の姿は既に無かった。が、その場を去って帰りかけながら今一度振り返った時、山脈伝いに疾走して行く一個の影が見えた。先程まで見ていた実質のある形体ではなく、ほぼ透明に近い影であった。

それが太陽の光線のように疾走するのが見えたのである。やっと見えたという程度であった。そしてそれも徐々に薄れて行った。が、その間も守護霊は常に私と共存し、私の思うこと為すことの全てに通暁しているのを感じ続けた。私は大いなる感激と仕事への一層大きな情熱を覚えつつ山を下り始めたのであった。

あの光輝溢れる界から大いなる祝福を受けた私が、同じく祝福を必要とする人々に、ささやかながら私も界の恵みを授けずにいられないのが道理であろう。それを現に同志と共に下層界の全てに向けて行っている。こうして貴殿のもとへも喜んで参じている。自分が受けた恩恵を惜しみなく同胞へ与えることは心地よいものである。

もっとも私の守護霊が行ったように貴殿との間に光の橋を架けることは私にはできない。地上界と私の界との懸隔が今のところあまりにも大すぎるためである。しかしイエスも述べておられるように、両界を結ぶにも定められた方法と時がある。イエスの力はあの谷を渡らせてくれた守護霊よりはるかに大きい。

私はそのイエスに仕える者の中でも極めて霊格の低い部類に属する。が、私に欠ける清純さと叡智は愛をもって補うべく努力をしている。貴殿と二人して力の限り主イエスに仕えていれば、主は常に安らぎを与えてくださり、天界の栄光から栄光へと深い谷間を超えて歩む吾々に常に付き添って下さることであろう。

第4節 九界から新参を迎える
1913年12月15日 月曜日

さて私は、何れの日か召されるその日までに成就せねばならない仕事への情熱に燃えつつ、その界を後にしたのであったが、ああ、その環境並びに守護霊から発せられた、あのいうに言われぬ美しさと長閑(ノド)けさ。仮にそこの住民がその守護霊の半分の美しさ、半分の麗しさしかないとしても、それでもなお、いかに祝福された住民であることか。私は今その界へ向けて鋭意邁進しているところである。

しかし一方には貴殿を手引きする義務がある。もとよりそれを疎かにはしないつもりであるが、決して焦ることもしない。大いなる飛躍もあるであろうが、無為にうち過ごさざるを得ない時もあるであろう。然し私が曽て辿った道へ貴殿を、そして貴殿を通じて他の同胞を誘う上で少しでも足しになればと思うのである。

願わくば貴殿の方から手を差し伸べてもらいたい。私に為し得る限りのことをするつもりである。

私は心躍る思いの内にその場を去った。そしてそれ以来、私を取り巻く事情についての理解が一段と深まった。それは私が重大な事柄について一段と高い視野から眺めることが出来るようになったということであり、今でも特に理解に苦しむ複雑な事態に立ち至った折には、その高い視野から眺めるように心がけている。つまりそれは第十一界に近い視野から眺めることであり、事態はたちどころに整然と片付けられ、因果関係が一層鮮明に理解できる。

貴殿も私に倣うがよい。人生の縺(モツ)れがさほど大きく思えなくなり、基本的原理の働きを認識し、神の愛をより鮮明に自覚することであろう。そこで私に、今置かれている界について今少し叙述を続けてみようと思う。

帰りの下り道で例の川のところで右に折れ、森に沿って曲がりくねった道を辿り、右手に聳える山々も眺めつつ平野を横切った。その間ずっと瞑想を続けた。

そのうち、その位置からさらに先の領域に住む住民の一団にであった。まずその一団の様子から説明しよう。彼らのある者は歩き、ある者は馬に跨り、ある者は四輪馬車ないし二輪馬車に乗っている。馬車には天蓋はなく木製で、留め具も縁飾りも全て黄金でできており、更にその前面には乗り手の霊格と所属を示す意匠が施されている。

身にまとえる衣装は様々な色彩をしている。が、全体を支配しているのは藤色で、もう少し濃さを増せば紫となる。
総勢三百人もいたであろうか。挨拶を交わしたあと私は何用でいずこへ向かわれるかと尋ねた。

その中の一人が列から離れて語ってくれたところによれば、下の九界からかなりの数の一団がいよいよこの十界への資格を得て彼らの都市へ向かったとの連絡があり、それを迎えに赴くところであるという。

それを聞いて私はその者に、是非お供させていただいて出迎えの様子を拝見したく思うのでリーダーの方にその旨を伝えてほしいと頼んだ。するとその者はにっこりと笑顔を見せ、「どうぞ付いてきなさるが宜しい。私がそれを保証しましょう。と申すのも、あなたはそのリーダーと並んで歩いておられる」と言う。

その言葉に私はハッとして改めてその方へ目をやった。実はその方も他の者と同じく紫のチュニックに身を包んでおられたが何の飾りつけもなく、頭部の冠帯も紫ではあるが宝石が一つついているのみで、他に何の飾りも見当たらなかったのである。他の者たちが遥かに豪華に着飾り、そのリーダーよりも目立ち、威厳さえ感じられた。

その方と多くは語らなかったが、次第に私よりも霊格の高い方で私の心の中を読み取っておられることが判って来た。

その方は更にこうおっしゃった。「新参の者には私のこのままの姿をお見せしようと思います。と申すのは、彼らの中にはあまり強烈な光輝に耐えられぬ者がいると聞いております。そこで私が質素にしておれば彼らが目を眩ませることもないでしょう。あなたはつい最近、身に余る光栄は益よりも害をもたらすものであることを体験されたばかりではなかったでしょうか」

その通りであることを申し上げると、更にこう言われた。「お判りの通り私はあなたの守護霊が属しておられる界の者です。今はこの界での仕事を仰せつかり、こうして留まっているまでです。そこで、これより訪れる新参者が〝拝謁〟の真の栄光に耐えうるようになるまでは気楽さを味わってもらおうとの配慮から、このような出で立ちになったわけです。

さ、急ぎましょう。皆の者が川に到着しないうちに追いつきましょう」

一団にはわけもなく追いつき、一緒に川を渡った。泳いで渡ったのである。人間も、馬車も、ワゴンもである。そして向う側に辿り付いた。そこから私の住む都市を右手に見ながら、山あいの峠道にきた。そこの景色がこれまた一段と雄大であった。

左右に堂々たる岩がさながら大小の塔、尖塔、ドームの如く聳え立っている。遠く大地が広がっているのが見えてきた。そこにも一つの都市があり、そこに住む愉快な人々の群れが吾々のほうを見下ろし、手を振って挨拶をし、愛のしるしの花を投げてくれた。

そこを通り過ぎると左右に広がる盆地に出た。実に美しい。周りに樹木が生い茂った華麗な豪邸もあれば、木材と石材でできた小じんまりとした家屋もある。湖もあり、そこから流れる滝が、吾々がたった今麓を通って来た山々から流れてくる川へ落ちて行く。そこで盆地が終わり、自然の岩でできた二本の巨大な門柱の間を一本の道が川と並んで通っている。

その土地の人々が〝海の門〟と呼ぶこの門を通り抜けると、眼前に広々とした海が開ける。川がそのまま山服を落ちて行くさまは、あたかも色とりどりの無数のカワセミやハチドリが山腹を飛び交うのにも似て、様々な色彩と光輝を放ちつつ海へ落ちて行く。吾々も道を通って下り、岸辺に立った。

一部の者は新参者が到着を見届けるために高台に残った。こうしたことはすべて予定通りに運ばれた。

それと言うのも、リーダーはその界より一段上の霊力を身に付けておられ、それだけこの界の霊力を容易に操ることが出来るのである。そういう状態で吾々が岸辺に降り立って程なくして、高台の残った者から、沖に一団の影が見えるとの報が大声で届けられた。その時である。

川を隔てた海岸づたいに近づいて来る別の女性の一団が見えた。尋ねてみるとその土地に住む人達で、これから訪れる人々と交流することになっているとのことであった。迎えた吾々も、迎えられた女性たちも、共に喜びにあふれていた。

丸みを帯びた丘の頂上にその一団の長が立っておられる。頭部より足まですっぽりと薄い布で包み、それを通してダイヤモンドか真珠のような生命力あふれる輝きを放散している。その方もじっと沖へ目をやっておられたが、やがて両手で物を編むような仕草を始めた。

間もなくその両手の間に大きな花束が姿を現した。そこで手の動きを変えると今度はその花束が宙に浮き、一つなぎの花となって空高く伸び、さらに遠く沖へ伸びて、ついに新参の一団の頭上まで届いた。

それが今度は一点に集まって渦巻きの形を作り、グルグルと回転しながらゆっくりと一団の上に下りて行き、最後にぱっと散らばってバラ、ユリその他のさまざまな花の雨となって一団の頭上や身辺に落下した。私はその様子をずっと見ていたが、新参の一団は初め何が起きるのであろうかと言う表情で見ていたのが、最後は大喜びの表情へと変わるのが分かった。その花の意味が理解できたからである。

すなわちはるばると旅して辿り着いたその界では愛と善とが自分たちを待ち受けていることを理解したのであった。

さて彼らが乗って来た船の様子もその時点ではっきりしてきた。じつはそれはおよそ船とは呼べないもので筏のようなものに過ぎなかった。どう説明すればよかろうか。確かに筏なのであるが、何の変哲もないただの筏でもない。寝椅子もあれば柔らかいベッドも置いてあり、楽器まで置いてある。その中で一番大きいものはオルガンである。

それを今三人の者が一斉に演奏し始めた。その他にも楽しむものがいろいろと置いてある。その中で特に私の注意を引いたのは、縁の方にしつらえた祭壇であった。詳しい説明はできない。それが何の為に置いてあるのか判らないからである。

さてオルガンの演奏と共に船上の者が一斉に神を賛歌する歌を歌い始めた。すべての者が跪づく神、生命の唯一の源である神。太陽はその生命を地上へ照らし給う。天界は太陽の奥の間・・・愛と光と温もりの泉なり・・・太陽神とその配下の神々に対し、吾々は聖なる心と忠誠心を捧げたてまつる。そう唱うのである。

私の耳にはその讃美歌が妙な響きをもっているように思えた。そこで私はその答えはもしかしたら例の祭壇にあるかも知れないと思ってそこへ目をやってみた。が、手掛かりとなるものは何も見当たらなかった。私になるほどと得心が行ったのは、すっと後のことであった。

が、貴殿は今宵はもう力が尽きかけている。ここで一応打ち切り、明日またこの続きを述べるとしよう。今夜も神の祝福を。では、失礼する。昼となく夜となく、ザブディエルは貴殿と共にあると思うがよい。そのことを念頭に置けば、様々な思念や思い付きがいずこより来るか、得心がゆくことであろう。ではこれまでである。汝は疲れてきた。ザブディエル

第5節 宗派を超え
1913年12月17日 水曜日

前回に引き続き、遠き国よりはるばる海を渡って来た一団についての話題を続けよう。はるばるながい道程を辿ったのは、新しい界に定住するにあたっての魂の準備が必要だったからである。

さて、いよいよ一団は海岸へ降り立った。そして物見の塔の如くそそりたつ高い岬の下に集合した。それから一団の長が吾々のリーダーを探し求め、やがて見つかってみると顔見知りであった。以前に会ったことのある間柄であった。二人は温かい愛の祝福の言葉で挨拶し合った。

二人は暫し語り合っていたが、やがて我々のリーダーが歩み出て新しく来た兄弟たちへおよそ次のような意味の挨拶を述べられた。

「私の友であり、兄弟であり、唯一の父なる神のもとに置いては互いに子供であり、それぞれの魂の光によってその神を崇拝しておられる皆さんに、私より心から歓迎の意を表したいと思います。

この新たな国を求めて皆さんははるばるお出でになられましたが、これからこの国の美しさを見出されれば、それも無駄でなかったことを確信されることでしょう。私は一介の神の僕に過ぎず、私どもがお出迎いに上がった次第です。

これまでの永い修行の道ですでに悟られたこととは思いますが、あなた方が曽て抱いておられた信仰は、神の偉大なる愛と祝福を太陽に譬えれば、その一条の光ほどのものに過ぎませんでした。その後の教育と成長の過程の中でそのことを、あるいはそれ以上のことを理解されましたが、一つだけあなた方特有の信仰形態を残しておられる・・・あの船上の祭壇です。

ただ、今見ると、あの台座に取りつけられた独特の意匠が消えて失くなっており、また、いつも祈願の時に焚かれる香の煙が見えなかったところを見ますと、どうやら私には祭壇が象徴としての意義を殆ど、あるいは全く失ってしまったように思えます。これからもあの祭壇を携えて行かれるか、

それともそのまま船上に置いて元の国へ持って帰ってもらい、まだ理解力があなた方の及ばない他の信者に譲られるか、それはあなた方の選択にお任せします。では今すぐご相談をなさって、どうされるかをお聞かせいただきたい」

相談に対して時間はかからなかった。そしてその中の一人が代表してこう述べた。

「申し上げます。あなたのおっしゃる通りです。曽ては吾々の神を知り祈願する上で役立ちましたが、今ではもう私どもには意味を持ちません。いろいろと教えを受け、また自分自身の瞑想によって、今では神は一つであり人間は生れや民族の別なくその神の子であることを悟っております。愛着もあり、

所持しても邪魔になるものでもないとは言え、自と他を分け隔てることになる象徴を置いておくのはもはや意味のない段階に至ったと判断いたします。そこであの祭壇は送り返したいと思います。まだまだ曽ての自分の宗教を捨てきれずにいる者がおりますので。

そこで皆様のお許しをいただければ是非これよりお供させていただき、この一段と光輝溢れる世界及び、これより更に上の界における同胞関係について学ばせていただきたいものです」

「よくぞ申された。是非そうあって頂きたいものです。ほかにも選択の余地はあるのでしょうが、私も今おっしゃった方法が一番よろしいように思います。では皆さん、私についてお出でなさい。これよりあの門の向こうにある平野、そして更にその先にあるあなた方の新たなるお国へご案内しましょう」

そうおっしゃってから一団の中へ入り、一人一人の額に口づけをされた。すると一人一人の表情と衣装が光輝を増し、吾々の程度に近づいたように私の目に映った。そこへ更に別の女性ばかりの一団の長が降りてきて、吾々のリーダーと同じことをされた。女性の一団は吾々との邂逅を心から喜び、吾々もまた喜び、近づく別れを互いに惜しんだ。吾々が門の方へ歩み始めると長が途中まで同行し、

いよいよ吾々が門をくぐり抜けると、その女性の一団による讃美歌が聞こえてきた。それは吾々への挨拶でもあった。吾々は一路内陸へ向けて盆地を進んだ。

さて貴殿は例の祭壇とリーダーの話が気になることであろう。

・・・遮って申し訳ありませんが、あなたはなぜそのリーダーの名前をお出しにならないのですか。

是非にと言うのであれば英語の文字で綴れる形でお教えしよう。が、その本来のお名前の通りにはいかない。実はそれを告げることを許されていないのである。とりあえずハローレンHarolenとでも呼んでおこう。三つの音節から成っている。本当の名前がそうなのである。これで良かろうと思う。では話を進めよう。

一隊が盆地を過ぎ、川を渡り、その国の奥深く入り行くあいだ、ハローレン様はずっとその新参の一団のことに関わっておられた。その間の景色は私はまだ述べていないであろう。私がハローレン様と初めてお逢いしたのはそのずっと先だったからである。そのあたりまで来てハローレン様にゆとりが見られたので、私は近づいてその一団のこと、並びに海辺で話された信仰の話についてお尋ねした。

すると、一団は地上では古代ペルシァ人の崇拝した火と太陽の神を信仰した者たちであるとのことであった。

ここで私自身の判断によって、そのことから当然帰結される教訓を付け加えておかねばならない。人間が地上生活を終えてこちらへ来た当初は、地上にいた時とそっくりそのままであることを知らねばならない。いかなる宗教であれ、信仰厚き者はその宗教の教義に則った信仰と生活様式とをそのまま続けるのが常である。が、

霊的成長と共に〝識別〟の意識が芽生え、一界又一界と向上するうちに籾殻が人握りずつ捨て去られて行く。が、そのなかにあっても、いつまでも旧態依然として抜け切らない者もいれば、さっさと先へ進みゆく者もある。そうして、その先へ進んだ者たちが後進の指導のために戻ってくることにもなる。

こうして人間は旧い時代から新しい時代へ、暗い境涯から明るい境涯へ、低い界から高い界へと進み、一歩一歩、普遍的宇宙神の観念へと近づいて行く。同じ宗教の仲間と生活を共にしていても、すでに他の宗派の思想、信仰への寛怒の精神に目覚め、自分もまた他の宗派から快く迎えられる。かくしてそこに様々な信仰形態の者の間での絶え間ない交流が生まれ、大きく膨らんでいくことになる。

が、しかし、すべての宗派の者が完全に融合する日は遠い先のことであろう。あのペルシャ人たちも古いペルシャ信仰に由来する特殊なものの見方を留めていた。今後もなお久しく留めていることであろう。が、それでよいのである。何となれば、各人には各人特有の個性があり、それが全体の公益を増すことにもなるからである。

例の一行は海上での航海中にさらに一歩向上した。と言うよりは、すでにある段階を超えて進歩したことを自ら自覚したと言うべきであろう。私が彼らの船上での祈りの言葉とその流儀に何か妙な響きを感じ取りながらも、それが内的なものでなく形の上のものに過ぎなかったのはそのためである。

だからこそ、ハローレン様から選択を迫られたとき潔く祭壇を棄て、普遍的な神の子として広い同胞精神へ向けて歩を進めたのであった。こうして人間は、死後、地上では何ものにも変え難い重要なものと思えた枝葉末節を一つ一つかなぐり捨ててゆく。裏返して言えば、愛と同胞精神の真奥に近づいて行くのである。

どうやら貴殿は戸惑っているように見受けられる。精神と自我とがしっくりいっていないのが私に見て取れるし、肌で感じ取ることも出来る。そのようなことではいけない。よく聞いてほしい。いかなるものにせよ、真なるもの、善なるもののみが残る。そして真ならざるもの、善ならざるもののみが捨て去られて行く。貴殿が仕える主イエスは〝真理〟そのものである。

が、その真理の全てが啓示された訳ではない。それは地上で肉体に宿り数々の束縛を余儀なくされて居る者にはあり得ないことである。が、イエスも述べているように、いつの日か貴殿も真理の全てに誘われることであろう。それは地上を超えた天界に置いて一界又一界と昇って行く過程の中で成就される。

そのうちの幾つかがこうして貴殿に語り伝えられているところである。それが果たしていかなる究極を迎えるか、崇高な叡智と愛と力がどこまで広がっていくかは、この私にも分からない。

ただこの私・・・地上で貴殿と同じくキリスト神とナザレ人イエスを信じつつ忠実な僕としての生涯を送り、今貴殿には叶えられない形での敬虔な崇拝を捧げる私には、次のことだけは断言できる。すなわち、そのイエスなる存在はこの私にとっても未だ、遥か遥か彼方の遠い存在であるということである。

今もしその聖なるイエスの真実の輝きを目の辺りにしたら、私は視力を奪われてしまうことであろうが、これまでに私が見ることができたのは黄昏時の薄明かり程度のもの過ぎない。その美しさは知らないではない。現実に拝しているからである。が、私に叶えられる限りにおいて見たというに過ぎず、その全てではない。それでさえ、

その美しさ、その見事さはとても言葉には尽くせない。その主イエスに、私は心から献身と喜びを持って仕え、そして崇敬する。

故に貴殿はイエスへの忠誠心にいささかの危惧も無用である。吾々と異なる信仰を抱く者へ敬意を表したからと言って、イエスの価値をいささかも感じることにはならない。なぜなら、すべての人類はたとえキリスト教を信じないでも神の子羊であることにおいては同じだからである。イエスも人の子として生まれ、今なお人の子であり、故に吾ら全ての人間の兄弟でもあるのである。アーメン†

第6節 大天使の励まし
1913年12月18日 木曜日

吾々が通過した土地は丘陵地で、山と呼ぶほどのものは見当たらなかった。いずこを見ても丸い頂上をした丘が連なり、そこ此処に住居が見える。が、進みゆくうちにハローレン様の様子が徐々に変化し始めた。表情が明るさを増し、衣装が光輝を発し始めた。左手にある森林地帯を通過した頃にはもう、その本来の美しさを取り戻しておられた。その様子を叙述してみよう。

まず頂上に光の表象が現れている。赤と茶の宝石をちりばめた王冠のようなもので、キラキラと光輝を発し、その光輝の中に更にエメラルドの光輝が漂っている。チュニックは膝まである。腕も出ている。腰のあたりに黄金の帯を締め、それに真珠のような素材の宝石が付いている。色は緑と青である。帽子も同じく緑と青の二色からなり、露出している腕には黄金と銀の指輪がはめられている。

そうしたお姿でワゴンに立っておられる、そのワゴンは茶と金属でできた美しい二輪馬車でそれが白と栗毛の二頭の馬に引かれている。私が受けた感じでは全体に茶の色彩が強い。際立つほどではないが、ワゴンの装飾も、見えることは見えるが派手に目立たぬようにと、茶色で抑えられている感じである。

霊界では象徴性(シンボリズム)を重んじ、なにかにつけて活用される。そこで、そうした色彩の構成の様子から判断するに、ハローレン様は元来は茶色を主体とする上層界に属しておられ、この界では使命の為にその本来の茶を抑え、この界でより多く見られる他の色彩を目立たたせておられると観た。

使命達成のためにこの界に長期に滞在するには、そうせざるを得ないのである。が、その質素にしてしかも全体として実に美しいお姿を拝して、私はその底知れぬ霊力を感じ取った。その眼光には指揮命令を下す地位に相応しい威厳をそなえた清純さがあり、左右に分けたこめかみのあたりでカールした茶色の頭髪の間から覗く眉には、

求愛する乙女の如き謙虚さと優しさが漂っている。低い者には冒し難い威厳をもって威圧感を与え、それでいて心疚(ヤマ)しからぬ者には親しさを覚えさせる。喜んでお慕い申し上げ、その保護とお導きに満腔の信頼のおける方である。まさしく王者であり、王者としての力と、その力を愛の中に正しく行使する叡智を具えた方だからである。

さてわれわれは尚も歩を進めた。大して語り合うこともなく、ただ景色の美しさとあたりに漂う安らぎと安息の雰囲気を満喫するばかりであった。そしてついに新参の一団が環境に慣れるために休息しなければならないところまで来た。休息した後はさらに内陸へと進み、その性格に応じてあの仕事この仕事と、神の王国の仕事に勤しむべく、その地方のコロニーのいずれかに赴くことになる。

そこでハローレン様から〝止まれ〟のお声があった。そしてその先に見える丘の向こうに位置する未だ見ぬ都へ案内するに際し、一言述べておきたいことがあるので暫し静かにするようにと述べられた。

吾々は静寂を保った。すると前方の丘の向こうのある地点から巨大な閃光が発せられ、天空を走って吾々まで届いた。吾々は光の洪水の中に浸った。が、一人として怖がるものはいない。何となればその光には喜びが溢れていたからである。そしてその光輝に包まれたワゴンとそこに立っておられるハローレン様は、見るも燦爛たる光景であった。

ハローレン様はずっと立ったままであった。が、辺りを包む光が次第にハローレン様を焦点として凝縮していった。そしてやがてお姿がそれまでとは様相を変え、言うなれば透明となり、全身が栄光で燃え立つようであった。その様子を少しでも良い、どうすれば貴殿に伝えることが出来るであろうか。

純白の石膏でできた像に生命が宿り、燦爛たる輝きを放ちながら喜悦に浸っているお姿を想像してもらいたい。身に付けられた宝石と装飾の一つ一つが光輝を漲らせ、馬車までが炎で燃え上がっていた。

そのあたり一面が生命とエネルギーの栄光と尊厳に溢れていた。二頭の馬はその光輝に浸りきることなく、それを反射しているようであった。ハローレン様の頭部の冠帯はそれまでの幾層倍も光度を増していた。

私の目にはハローレン様が今にも天に舞い上がるのではないかと思えるほど透明になり、気高さを増されたが、相変わらずじっと立ったまま、その光の来る丘の向こうに吾々には見えない何ものかを見届けておられるような表情で、真っ直ぐにその光の方へ目を向けられ、その光の中にメッセージを読み取っておられた。

しかし、次にお見せになった所作に吾々は大いに驚ろかされた。別に目を見張るような不思議や奇跡を演じられたわけではない。逆である。静かにワゴンの上で跪かれ、両手で顔を覆い、じっと黙したままの姿勢を保たれたのである。吾々にはハローレン様がその光を恐れられる方ではなく、むしろそれを、否、それ以上のものを思うがままに操られた方であることを知っている。そこで吾々は悟った。ハローレン様はご自分より霊格と清純さにおいて勝れる方に頭を垂れておられるのである。そう悟ると、吾々もそれに倣って跪き、頭を垂れた。が、そこに偉大なる力の存在は直感しても、いかなるお方であるかは吾々には判らなかった。

そうしているうちに、やがて美しい旋律と合唱が聞こえてきた。が、その言葉も吾々には理解できない種類のものであった。尚も跪きつつ顔をだけあげてみると、ハローレン様はワゴンから降りられ吾々一団の前に立っておられた。そこへ白衣に身を包まれた男性の天使が近づいてこられた。

額の辺りに光の飾り輪が見える。それが髪を後頭部でおさえている。宝石はどこにも見当たらないが、肩の辺りから延びる数本の帯が胸の中央で交叉し、そこを紐で締めている。帯も紐も銀と赤の混じった色彩に輝いている。お顔は愛と優しさに満ちた威厳をたたえ、いかにも落ち着いた表情をされている。

ゆっくりと、あたかもどこかの宇宙の幸せと不幸の全てを一身に背負っておられるかのような、思いに耽った足取りで歩かれる。

そこに悲しみは感じ取れない。それに類似したものではあるが、私にはどう表現していいか判らない。お姿に漂う、全てを包み込むような静寂に、それほど底知れぬ深さがあったのである。

その方が近づかれたときもハローレン様はまだ跪かれたままであった。その方が何事か吾々に理解できない言葉で話しかけられた。その声は非常に低く、吾々には聞こえたというよりは感じ取ったというのが実感であった。声をかけられたハローレン様は、見上げてそのお方のお顔に目をやった。

そしてにっこりとされた。その笑顔はお姿を包む雰囲気と同じくうっとりとさせるものがあった。やがてその天使は屈み込み、両手でハローレン様を抱き寄せ、側に立たせて左手でハローレン様の右手を高々とお上げになり、吾々の方へ目を向けられ、祝福を与え、これから先に横たわる使命に鋭意邁進するようにとの激励の言葉を述べられた。

力強く述べられたのではなかった。それは旅立つ我が子を励ます母親の言葉にも似た優しいもので、それ以上のものではなかった。静かに、そしてあっさりと述べられたのである。が、その響きは吾々に自信と喜びを与えるに十分なものがあり、全ての恐怖心が取り除かれた。実は初めの内は、ハローレン様さえ跪くほどの方であることにいささか畏怖の念を抱いていたのである。

そう述べたままの姿で立っておられると、急にあたりの光が凝縮し始め、その方を包み込んだ。そしてハローレン様の手を握り締めたままそのお姿が次第に見えなくなり、やがて視界から消えて行った。光もなくなっていた。あたかもその方が吸収して持ち去ったかのように思えた。

そこでハローレン様はもう一度跪かれ、しばし頭を垂れておられた。やがて立ち上がると黙って手で〝進め〟の合図をされた。そして黙ってワゴンにお乗りになり、前進を始めた。吾々も黙ってそのあとに続き、丘を廻り、その新参の一行が住まうことになる土地に辿り着いたのであった。