第1節 守護霊ザブディエル
1913年11月3日 月曜日
守護霊のザブディエルと申す者です。語りたい事があって参りました。
―御厚意有難く思います。
ご母堂とその霊団によって綴られてきた通信(第一巻)にようやく私が参加する段取りとなりました。これまでに授けられた教訓を更に発展させるべき時期が到来したと言う事です。貴殿にその意思があれば、是非ともその為の協力を得たいと思います。
―恐縮に存じます。私にいかなる協力をお望みでしょうか。
ここ数週間にわたってご母堂とその霊団の為に行って来られた如くに、私のメッセージを今この時点より綴って欲しく思います。
―と言う事は、母の通信が終わり、あなたがそれを引き継ぐと言う事でしょうか。
その通りです。ご母堂もそうお望みである。もっとも、時にはその後の消息をお伝えする事もあろうし、直接メッセージをお届けさせようとは思っています。
―で、あなたが意図されている教訓はいかなる内容のものとなりましょうか。
善と悪の問題、ならびにキリスト教界および人類全体の現在ならびに将来に関わる神のご計画について述べたいと思う。もっとも、それを貴殿が引き受けるか、これにて終わりとするかは、貴殿の望むとおりにすればよい。と申すのも、もとより私は急激な啓示によっていたずらに動揺を来す事は避け徐々に啓発していくようにとの基本方針に沿うつもりではあるが、その内容の多くは、貴殿がそれを理解し、私の説かんとする論理的帰結を得心するに至れば、貴殿にとってはいささか不愉快な内容のものとなる事が予想されるからです。
―私の母とその霊団からの通信はどうなるのでしょうか。あのままで終わりとなるのでしょうか。あれでは不完全です。つまり結果らしい結果はありません。
さよう終わりである。あれはあれなりに結構である。もともと一つのまとまった物語、あるいは小説の如きものを意図したもので無かったことを承知されたい。断片的かも知れないが、正しい眼識を持って読む者には決して無益ではあるまいと思う。
―正直言って私はあの終わり方に失望しております。余りに呆気無さ過ぎます。また最近になってあの通信を(新聞に)公表する話が述べられておりますが、そちらのご希望はありのまま公表すると言う事でしょうか。
それは貴殿の判断にお任せしよう。個人的に言わせてもらえば、そのまま公表して何ら不都合は無いと思うが…ただ、一言申し添えるが、これまで貴殿が受け取って来た通信と同様に、今回新たに開始された通信も、これより届けられる一段と高度な通信の為の下準備である。それをこの私が行いたく思います。
―何時からお始めになられますか。
今直ちにである。これまで通り、その日その日可能な限り進めればよい。貴殿には貴殿の仕事があり職務があることは承知している。私を相手とする仕事はそれに準じて行う事にしよう。
―承知しました。出来る限りやってみます。しかし正直言に申し上げて私はこの仕事に怖れを感じております。その意味は、それに耐えて行くだけの力量が私には不足しているのではないかと言う事です。
と言いますのも、今のあなたの言い分から推察するに、これから授かるメッセージにはかなり厳しい精神的試練を要求されるように思えるからです。
これまで同様に我らが主イエス・キリストの御加護を得て、私が貴殿の足らざるところを補うであろう。
―では、どうぞ、まずあなたご自身の紹介からはじめて頂けますか。
私自身の事に貴殿の意を向けさせることは本意ではない。それよりも、私を通じて貴殿へ、そして貴殿を通じて今なお論争と疑念の渦中にあり、あるいは誤れる熱意を持ってあたら無益な奮闘を続けているキリスト教徒へ向けた啓示に着目してもらいたい。
彼らに、そして貴殿に正しい真理を授けたい。それをさらに他の者へと授けてもらいたいと思う。その仕事を引き受けるか否か、貴殿にはまだ選択の余地が残されております。
―私は既にお受けしています。そう申し上げた筈です。私如き人間を使って頂くのは誠に忝い事で、これは私の方の選択よりそちらの選択の問題です。私は最善を尽くします。誓って言えるのは、それだけです。ではあなたご自身については何か。
重要なのは私の使命であり、私自身の事ではない。それはこれから伝えて行く思想の中に正直に表れることであろう。世間と言うものは自分に理解できない事を口にする者を疑いの目を持って見るものである。
仮に私が「大天使ガブリエルの顕現せる者なり」と言えば皆信じるであろう。聖書にそう述べられているからである。が、もし「“天界”にて“光と愛の聖霊”と呼ばれる高き神霊からのメッセージを携えて参ったザブディエルと申す者なり」と申せば、彼らは果たして何と言うであろうか。
逆に、ともかく私にそのメッセージを述べさせてもらいたい。私及び私の卒いる霊団についてはそのメッセージの中身、つまりは真実か否か、高尚か否かによって判断してもらいたい。
貴殿にとっても私にとってもそれで十分であろう。そのうち貴殿も私の有るがままの姿を見る日が来よう。その時は私についてより多くを知り、そしてきっと喜んでくれるものと信じる。
―結構です。お任せいたします。私の限界はあなたもご承知と思います。霊視力も無ければ霊聴力も無く、いかなる種類の霊能も持ち合わせていないと自分では思っております。
しかし、少なくともこれまで綴られたものについては、それは私自身とは別個のものであることは認めます。そこまでは確信しております。
ですから、あなたにその意思がおありであれば私は従います。それ以上は何も言えません。私の方から提供するものは何もないように思います。
それで良い。貴殿の足らざるところはこちらで補うべく努力するであろう。
今回はこれ以上述べない事にしよう。そろそろ行かねばなるまい。用事があるであろう。
主イエス・キリストの御加護のあらんことを。アーメン†
第2節 善と悪
1913年11月4日 水曜日
神の恵みと安らぎと心の平静のあらんことを。
これより述べていくことについて誤解なきを期するために、あらかじめ次の事実を銘記しておいてほしい。すなわち吾々の住む境涯においては、差し当たり重要でないものはしつこく構わず、
現在の自分の向上進化にとって緊要な問題と取組み、処理し、確固たる地盤の上を一歩一歩前進していくと言う事である。もとより永遠無窮の問題を心に宿さぬ訳ではない。
“究極的絶対者”の存在と本質及びその条件の問題をなおざりにしている訳ではないが、今おかれている界での体験から判断して、これより先にも今よりも更に大いなる恩寵が待ち受けているに相違ないことを確信するが故に、そうした所詮理解し得ない事は理解し得ない事として措き、そこに不満を覚えないと言うまでである。
完全な信頼と確信に満ちて修身に励みつつ、向上は喜ぶが、さりとてこれより進み行く未来についてしつこく求める事はしないと言う事である。それ故、これより扱う善と悪の問題においても、吾々が現段階において貴殿に明確に説き得るものに限る事にする。
それは、仮に虹を全真理に譬えれば、一滴の露ほどのものに過ぎぬし、あるいはそれ以下かも知れない事を承知されたい。
“悪”なるものは存在しないかの如く説く者がいるが、これは誤りである。もし悪が善の反対であるならば、善が存在する如く悪も又実在する。例えば夜と言う状態は存在しない。
―それは光と昼の否定的側面に過ぎない。と言う理屈が通るとすれば悪なるものは存在しない―実在するものは善のみである、と言う理屈になるかもしれない。が、
善も悪も共に唯一絶対の存在すなわち“神”に対する各人の心の姿勢を言うのであり、その一つ一つの態度がそれに相応しい結果を生むに至る必須条件となる。ならば当然、神に対する反逆的態度は其の反逆者への苦難と災害の原因となる。
神の愛は強烈であるが故に、それに逆らうものには苦痛として響く、流れが急なればなるほど、その流れに逆らう岩の周りの波は荒立つのと同じ道理である。火力が強烈であればある程、それに注ぎ込まれる燃料と供給される材料の燃焼は完全である。
神の愛をこうした用語で表現する事に恐怖を感ずるものがいるかも知れないが、父なる神の創造の大業を根源において支えるものはその“愛”の力であり、それに逆らう者、それと調和せぬ者には苦痛をもたらす。
この事は地上生活においても実際に試し、その真実性を確かめる事が出来る。罪悪に伴う悔恨と自覚の念の中でも最も強烈なものは、罪を働いた相手から自分に向けられる愛を自覚した時に湧き出るものである。
これぞ地獄の炎であり、それ以外の何ものでもない。それによって味わう地獄を実在と認めないとすれば、では地獄の苦しみに真実味を与えるものは他に一体何があるであろうか。
現実にその状況を目の当たりにしている我々は、神の業が愛の行為にあらざるものは無いと悟って悔恨した時こそ罪を犯した者に地獄の苦しみがふり掛かり、それまでの苦しみは本格的なものでなかったことを知るのである。
が、そうなると、つまり悪に真実味があるとなれば、悪人も又実在することになる。盲目はものが見えない事であるが、ものが見えない状態があると同時に、ものが見えない人も存在する。又ものが見えないと言う状態は欠如の状態に過ぎない。
つまり五感あるべきところが四感しかない状態に過ぎないが、それでもその欠陥には真実味がある。生まれつき目の見えない者は視覚の話を聞いて始めてその欠陥を知る。そしてその欠陥の状況について認識するほど欠如の苦しみを味わう事になる。罪もこれと同じである。
暗闇にいる者を“未熟霊”と呼ぶのが通例であるが、これは否定的表現ではない。“堕落霊”の方が否定的要素がある。そこで私は盲目と罪とを表現するに“無”と言わず“欠如”と言う。生まれつき目の見えない者は視力が無いのではない。欠如しているに過ぎないのである。
罪を犯した者も、善を理解する能力を失ったのではない。欠如しているに過ぎない。譬えてみれば災難に会って失明した状態ではなく、生まれつき目の見えない人の状態と同じである。
これは聖ヨハネが“真理を知る者は罪を犯すことを能わず”と述べた言葉の説明ともなろう。
但し論理的ではない。実際問題としての話である。と言うのは真理を悟って光と美を味わったものが、自ら目を閉じて盲目となる事は考えられないからである。
それ故に、罪を犯す者は、真理についての知識と善と美を理解する能力が欠如しているからである。
目の見えない者が見える人の手引きなくしては災害に遭遇しかねないのと同じように、霊的に盲目の者は、真理を知る者―地上の指導者もしくは霊界の指導霊―の導き無くしては罪を犯しかねないのである。
しかし現実には多くの者が堕落し、あるいは罪を犯しているではないか。―貴殿はそう思うかもしれない。その種の人間は視力の弱い者または不完全な者、言わば盲目にも似た者達でもある。つまり彼らはものが見えていても正しく見ることはできない。
そして何らかの機会に思い知らされるまでは自分の不完全さに気がつかない。色盲の人間は多かれ少なかれ視力の未発達な者である。そうした人間が道を誤らない為には“勘”に頼る他ない。それを怠る時、そこには危険が待ち受ける事になる。
罪を犯す者もまた然りであるが、貴殿は当惑するかもしれないが、一見善人で正直に生きた人間が霊界へ来て、自分を未発達の中に見出すことが実に多い。意外に思うかもしれないが、事実そうなのである。
彼らは霊的能力の多くを発達させることなく人生を終え、全てが霊的である世界に足を踏み入れて始めてその欠陥に気づく。知らぬこととは言え、永きにわたって疎かにしてきた事について、それから徐々に理解していく事になる。
それは盲目の人間が自分の視力の不完全さに気づく事無く生活しているのと同じである。しかも他人からもそうと知られないからである。
―何かいい例をお示し願いませんか。
生半可な真理を説く者は、此方へ来て完全な真理を説かねばならなくなる。インスピレーションの事実を知る者は実に多いが、それが神と人間とのごく普通の、そして不断の連絡路である事は認めようとしない。
こちらへ来れば、代わって自分が―資格が具われば―インスピレーションを送る側に回り、その時初めて自分が地上時代にいかに多くのインスピレーションの恩恵に浴していたのかを思い知る。
こうして彼らは自分に欠如した知識を学ばねばならない。向上とはそれからの事である。それまでは望めない。
さて悪は善の反対であるが、貴殿も知る通り双方とも一個の人間の心に存在する。そのいずれも責任をとるのはあくまで自由意思に関わる問題である。その自由意思の本質とその行動範囲については又の機会に述べるとしよう。
神のご加護のあらんことを。アーメン†
第3節 神への反逆
1913年11月8日 土曜日
これより暫しのあいだ貴殿の精神をお借りし、ひき続き悪の問題と善との関係について述べたいと思う。善と言い悪と言い、所詮は相対的用語であり、地上の人間の観点からすればいずれも絶対的と言う事はあり得ない。
双方の要素を兼ね備える者にはそのいずれも完全に定義することができないのが道理で、ただ単に、あるいは、主として、その働きの結果として理解するのみである。
又忘れてならないことは、ある者にとって善又は悪と思える事が必ずしも別の者からみて善又は悪とは思えないと言う事である。宗教的定義の違い、民族的思想や生活習慣の違いのある場合にはそれが特に顕著となる。
故に両者の定義の問題においてはその基本的真理の大要を把握することで足れりとし、そこから派生する細部の問題は地上生活を終えた後に託する事が賢明である。
さて、罪とは法則として働くところの神への反逆である。賢明なる者はその法則の流れる方角へ向けて歩むべき努力する。故意または無知ゆえにその流れに逆らう者は、たちまちにしてゆく手を阻まれる。そして、もしもなお逆らい続けるならばそこに不幸が生じる。
生成造化を促進する生命は破壊的勢力と相対立するものだからである。故に、もし仮にその強烈な生命の流れに頑強に抵抗し続けたとしても、せき止められた生命力がいずれは堰を切って流れ、そのものを一気に押し流す事になろう。
が、幸いにして、そこまで頑強に神に反抗する者、あるいは抵抗しうる者はいない。故に吾々神の子の弱さそのものが、実はそうした完全なる破壊を防ぐ安全弁であると言えるのである。
比較的長時間―往々にして地上の年月にして何千万年にも亘って頑固に抵抗し続ける者が居ないでもないが、いかなる人間も永遠にその状態を続け得る者はいない。
そこに父なる創造神が子等の内と外に設けた限界があり、一人として神より見離され永遠に戻れぬ羽目に陥らないようにとの慈悲があるのである。
そこでそうした神との自然な歩みから外れた生き方を見たからには、今度はその反対、すなわち全てが然るべき方向へ向かっている状態に目を向けよう。確かに悪は一時的な状態に過ぎない。
そして全宇宙から悪のすべてが拭いされるか否かは別として、少なくとも個々の人間においては、抵抗力を使い果たし時に悪の要素が取り除かれ、後は栄光より更に大いなる栄光へと進む輝かしい先輩霊の後に続くに任せる事になろう。
この意味において、いつかは神の国より全ての悪が清められる時が到来するであろう。
何となれば神の国も個々の霊より構成されているのであり、最後の一人が招き入れられた時は、今地球へ向けて行っているのと同じ様に別の天体へ向けて援助と救助の手を差しのべる事になろう。吾々の多くはそう信じるのである。
こうして地上に降り、今いる位置から吾々の世界と地上との間に掛るベールを透して覗いてみると、一度に大勢の人間が目に入る時もあれば、僅かしか見えない時もある。彼らは各々の霊格に応じてその光輝に差異がみられる。
神より吾々を通して地上界へ流れ来る霊的な“光”を反射する能力に応じた光輝を発していると言う事である。薄ぼんやりと見える者がいるが、彼らはこちらへ来てもそれ相応の、あるいはそれ以下の、薄ぼんやりとした境涯へと赴く。
それ故、そこにいる者は各自其の置かれた環境と雰囲気の中で極めて自然に映る事になる。そこがその人の“似合いの場所”なのである。例え話でもう少し判り易く説明しよう。
仮に闇夜に生きなり閃光が放たれたとしよう。暗闇と閃光の対照が余りに際立つ為に見る者の目に不自然に映る、閃光は本来そこに在るべきものではなかった。為に暗闇に混乱が生じ、全ての者が一瞬動きを止める。
暗闇の中を手探りで進みつつあった者は目が眩んで歩みを止め、目をこすり、暫くして再び歩み始める。夜行性の動物も一瞬ぎょっとして足を止める。
しかし同じ閃光が真昼に放たれたとしたらどうであろう。当惑する者は少なく、更にこれを太陽にむけて放てば陽光と融合して、そこに何の不調和も生じないであろう。
かくして強い光輝を発する高級霊はその光輝と調和する明るさを持つ高い境涯へと赴く。無論高級霊の間にもそれなりの差があり、各霊がそれ相応の界に落ち着く。
反対に霊的体質の粗野な者は、それに調和する薄暗い境涯へ赴き、その居心地良い環境の中で修身に励むのである。むろんそこが真の意味で“居心地良い”環境ではない。
ただ、より高い世界へ行けばその光輝と調和しない為に暗い世界より居心地が悪いと言うに過ぎない。そこに居心地良さを感じる為には、自分の光輝を強める他ない。
地上を去ってこちらへ来る者は例外なく厚い霧状の帳に包まれているが、その多くは既に魂の内部において高い界に相応しい努力の積み重ねがある。そうした者はいち早くより明るい境涯へ突入していく。
今遥か上方へ目をやれば、そこに王の道―地球の守護神の王座の坐(マシマス)聖都へ通じる道が見える。我らは其の道を一歩一歩進みつつある。そして一歩進む毎に光輝が増し、吾々も、そして我々とともに歩む同志達も、美と光輝とを増して行く。
其の中途において特別の許しを得て、それまで辿った道を逆戻りし、器官はその必要性によって異なるが、地上の者を吾々の辿って来た光と美の道へと導く仕事に携わる事が出来るのは、吾々の大いなる喜びとする所である。
貴殿の守護霊として私は、貴殿が現在に心の姿勢で臨んでくれる限り、吾々霊団と共にこの仕事を続ける所存である。
貴殿はそのつもりであると信じるが、よくよく心してもらいたい事は、勇躍この仕事に着手したものの、新しい真理の光に目がくらみ、猜疑心を抱いてより暗い道、つまりは己の魂の視力に相応しい段階へと逆戻りする者が多いことである。去る者は追わず。
我らはその者達を溜息とともに見送り、新たな人物、吾々の光輝に耐え得る人物を求める。惜しくも去れる者は、時の経過とともに再び目覚めて戻ってくるまで待つ他ないのである。
願わくば神の御力によって、貴殿が足を踏み外すことなく、又眼を曇らされる事もなく進まれる事を祈る。例え地上の言語で書き表せない事も、少しでも多くを綴ってもらうべく吾らとしても精一杯の努力をするであろう。
貴殿を通じて他の多くの者がそれを手中にし、そこに真理を発見し、なお勇気があれば自ら真理の扉を叩き、その光輝と栄光を手にする。其の縁となればと願うからである。†
第4節 統一性と多様性
1913年11月10日 月曜日
今この地上に立って見上げる私の目に、遥か上方まで、そして更にその向こうまでも、延延と天界が存在するのが見える。私はそのうち幾つかを通過し、今は第十界に属している。
これらの界は地上の“場所”とはいささか趣を異にし、そこに住む霊の生命と霊力の顕現した“状態”である。貴殿はすでにこうした界層についてある程度教示を受けている(第一巻六章)ので、ここではそれについて述べる事は控えたい。
それよりも私は別の角度からその光と活動の世界へ貴殿の目を向けさせたいと思う。これよりそれに入る。
善なるものには二つの方法によって物事を成就する力が滞在している。善人は、地上の人間であれ霊界の者であれ、自分の内部の霊力によって、自分より下層界の者を引きあげる事が出来る。
現実にそうしているのであるが、同時に自分より上層界の者を引き下ろすことも可能である。祈りによってもできるが、自分自身の霊力によっても出来ると言う事である。
さて、これは神の摂理と波長が合うからこそ可能である。と申すのも、神の創造した環境に自らを合わせる事が可能なだけ、それだけその環境を通しては働く事が出来る。つまり環境を活用して物事を成就することができると言う事である。
下層界を少し向上しただけの霊によってもそれは可能であり、その完成品がベールを通してインスピレーションの形で地上へ送り届けられた時、人間はその素晴らしさに感心する。
例を挙げよう。こちらには地球の存在自体を支える為の要素を担当する霊と、地上に繁茂する植物を受け持つ霊とがいる。ここでは後者の働きの説明となる例を挙げてみる。すなわち植物を担当する霊の働きである。
その霊団は強力な守護神の配下に置かれ、完全な秩序のもとに何段階にも亘って分担が存在する。その下には更に程度の低い存在が霊団の指揮のもとに、高い界で規定された法則に従って造化の仕事に携わっている。これがいわゆる妖精類(エレメンタル)で、その数も形態も無数である。
今述べた法則はその根源から遠ざかるにつれて複雑さを増すが、私が思うに、源流へ向けて遡れば遡るほど数が少なくそして単純となり、最後にその源に辿りついた時は一つに統合されている事であろう。
その道を僅かに辿ったに過ぎない私としては、これまでに見聞きしたものに基づいて論ずる他は無いが、敢えて言わせて貰うならば、全ての法則と原理を生み出す根源の法則・原理は“愛”と呼ぶのが最も相応しいものではないかと思う。何となれば吾らに理解の及ぶ限りにおいて、愛と統一は全く同一ではないにしても、差して相違がないと思えるからである。少なくても吾々がこれまでに発見した事が、私の属する界層を始めとして地上界へ至る全ての界層において、数々の地域と各種の境涯が生じていくそもそもの原因は最も厳格な意味における“愛”が何らかの形で欠如して行く事にある。
が、この問題は今ここで論ずるには余りに困難が多すぎる。と言うのは地上の環境に見る多様性の全てが、今述べた多様性の全てが、今述べた崩壊作用の所為(と私には思える)でありながら、尚且つ素晴らしくそして美しいのは何故かを説明するのは極めて困難である。それを愛の欠如と言う言い方をせず、統一性が一つ欠け二つ欠けして、次々と欠けていくと言う言い方をすれば、統一性が多様性と発展していくとする吾々の哲学の一端を窺い知ることができるかもしれない。
こうした下層界の活動の全てが法則によって規制されているのであるが、それなりの枠内における自由はかなりの程度まで存在する。これまた吾々にとって魅力のある事である。何となれば、貴殿も同意することと思うが、その多様性に大いなる美が存在すると同時に、植物的生命を活動させる霊の巧みさにも大いなる美が存在するからである。
精霊界及びその上あたりの界を支配する法則には私に理解しがたいものがまだまだ数多く存在する。中には理解し得るものもあるが、今度はそれを原語で伝える事が至難の業である。が少しばかり伝える事が出来るものがある。それ以上の事は貴殿自身こちらへ来てから、向上の道を歩みつつ学んでもらう事になろう。
その一つは、一旦ある植物群の発達の計画を立てた以上は、その主要構成分子と本質的成分はあくまでも自然の発達のコースを辿らねばならないと言う事である。群生する劣位種の影響もその不変の原則内に抑えなくてはならない。例えば樫の木が計画されると、あくまでも樫の木としての発達を遂げさせなくてはならない。亜種が発生するとことはあっても、樫としての本性を失ったものであってはならない―シダになったり海藻になったりしてはならないと言う事である。この原則はこれまで大体において貫かれている。
もう一つの原則は、いかなる霊も他の部門の霊に干渉し台無しにする事があってはならないと言う事である。足並みが揃わない事があるかもしれない。現にしばしばそういう事があるのであるが、なるべく一時的変異の範囲に留めるように努力し、多種の発達を完全に無視することがあってはならない。それは絶滅を意味する事になるからである。
故に、同じ科の二つの植物を交配すると、雑種又は混成種、あるいは変異種が出来るであろう。が別の科の植物と交配しようとしても成功しないが、いずれにしても絶滅と言う結果にはならない。
又樹木に寄生植物が絡みつく事がある。樹木はそれに抵抗し、そこに闘争が始まる。大抵の場合、樹木の方が痛められ敗北を喫するが、簡単に負けてはいない。延々と戦いが続き、時には樹木の方が勝つ時もある。が霊界において既成植物の概念を発想し、そして実施した霊が大局においては競り勝っていることが認められる。
こうして植物の世界においても闘争が続けられている訳であるが、これをベールのこちら側から観察していると実に興味深いものがある。
さてここで、先に少し触れたことで貴殿には受け入れ難いと見た事について述べておかねばならない。こうした生成造化における千変万化の活動の主な原則は全て私自身の界(第十界)より高い界において、高い霊格と強力な霊力を持った神霊が、さらに高い界の神霊の支配下に在ると言う事である。
私はいま“千変万化”と言う言葉を用い“対立的”とは言わなかった。これは高い神霊界においては対立関係と言うものが存在しないからである。存在するのは叡智の多様性であり、それが大自然の見事な多様性となって天界より下層界へと下り、ついに人間の目に映じる物的自然となって顕現しているのである。対立関係が生じるのは大源より発した叡智が自由意思を持つ無数の霊の存在する界層を通過する過程において弱められ、薄められ、屈折した界層においてのみである。
が、しかし、様々な容積を具え、幾つもの惑星を従えた星たちの世界を見て貰いたい。地球の自転と他の惑星の引力によって休みなく満ち引きする大海を見てほしい。また、その地表に押し寄せるエネルギーに反応して更に重い流動体を動かすところの、より希薄なエーテルの大気を見るがよい。更には、無数の形態と色彩をもつ草、植物、樹木、花、昆虫類、更に進化した小鳥や動物達の絶え間ない活動―他の種族を餌食としながらも互いに絶滅しないように配慮され、各種族が途上での役目を全うしていくその姿―こうした事や他の諸々の自然界の仕組みに眼をやる時、貴殿は創造神の配剤の妙に感嘆し、その感嘆は取りも直さずその配下の高い神霊の働きへの感嘆に他ならないことを認めずにはおれないであろう。
その神の御名において貴殿に祝福のあらんことを祈る。