第5章 天界の科学
第1節 エネルギーの転換
1913年12月2日 火曜日
今夜はエネルギーの転換に関連した幾つかの問題を取り上げてみましょう。ここで言うエネルギーとは上層界の意念の作用を人間の心へ反映させていく為の媒体として理解して頂きたい。吾々が意図することを意念の作用を利用して、いわゆるバイブレーションによって中間界を通過させて地上界へと送り届けるよう鍛錬している訳である。私がエネルギーと呼ぶのはこのバイブレーションの作用の事である。
さてこうして地上の用語を使用する以上は、天界の科学を正確に、あるいは十分に表現するには不適当な手段を用いていることになることを理解していただかねばならない。それ故、当然、その用語の意味を限定する必要が生じる。私がバイブレーションという用語を用いる時は、
単なる往復振動のことではなく、時には楕円運動、時には螺旋運動、更にはこれらが絡み合い、それに他の要素が加わったものを意味するものと思われたい。
この観点からすれば、最近ようやく人間界の科学でも明らかにされ始めたバイブレーションの原子的構造は、太陽系の組織、更には遥か彼方の組織と同一なのである。太陽を巡る地球の動きも原子内の素粒子の動きも共にバイブレーションである。その規模は問わぬ。つまり運動の半径が極微であろうが極大であろうが、本質的には同じものであり、規模において異なるのみである。
が、エネルギーの転換はいかなる組織にも変化をもたらし、運動の性質が変われば当然その結果にも変化が生じる。かくて我々は常に吾々より更に高級にして叡智に富む神霊によって定められた法則に従いつつ、意念をバイブレーションの動きに集中的に作用させて質の異なるバイブレーションに転換し、そこに変化を生じさせる。
これを吾々は大体において段階的にゆっくりと行う。計画通りの質的転換、大きすぎもせず小さすぎもしない正確な変化をもたらすである。
我々が人間の行為並びに自然界の営みを扱うのも実はこの方法によるのである。それを受け持つ集団は鉱物・動物・人間・地球・太陽・惑星の各分野において段階的に幾層にも別れている。更にその上に星たちの世界全体を経綸する神庁が控えている。
混沌たる物質が次第に形を整え、天体となり、更にその表面に植物や動物の生命がたんじょうするに至るのも、すべてこのエネルギーの転換による。が、これで判っていただけると思うが、いかなる生命も、いかなる発達も、すべて霊的存在の意志に沿った霊的エネルギーの作用の結果なのである。
この事実を掌握すれば、宇宙に無目的の作用は存在せず、作用には必ず意図がある。一定範囲の自由は赦されつつも、規定された法則に従って働く各段階の知的にして強力な霊的存在の意図があることに理解がゆくであろう。
さらに物質自体が実は霊的バイブレーションを鈍重なものに転換された状態なのである。それが今地上の科学者によって分析されつつあり、物質とはバイブレーションの状態にあり、いかなる分子も静止しているものはなく、絶え間なく振動しているとの結論に達している。
これは正解である。が、最終結論とは言えない。まだ物質を究極まで追跡していないからである。より正確に表現すれば、物質がバイブレーションの状態にあるのではなく、物質そのものが一種のバイブレーションであり、より精妙なバイブレーションの転換されたものである。その源は物質の現象界ではなく、その本性に相応しい霊界にある。
これで貴殿も、いよいよその肉体を棄てる時が到来した時、何に不都合もなく肉体なき存在となれることが理解できるであろう。地上の肉体は各種のバイブレーションの固まりに過ぎず、それ以上のもので無いのである。
有難いことに今の貴殿にも肉体より一層実体のある、そして耐久性のある別のバイブレーションでできた身体が備わっている。肉体より一段と精妙で、それを創造し維持している造化の根源により近い存在だからである。その身体は、死後、下層界を旅するのに使用され、霊的に向上するにつれて、更に恒久性のある崇高な性質を帯びた身体へと転換される。この過程は延々と限りなく繰り返され、無限の向上の道を栄光よりもさらに高き栄光へと進化していくのである。
そのことは又、死後の下層界が地上の人間に見えないのと同じく、下層界の者には通常は上層界が見えないことも意味する。かくて吾々は一界又一界と栄光への道を歩むのである。
まさしくそうである。貴殿もいつの日かこちらへ来れば、このことをより一層明確に理解するであろう。と申すのも、今述べたバイブレーションの原理も貴殿は日常生活において常時使用しており、他の全ての人間も同じく使用しているにも拘らず、その実相については皆目理解していないからである。
我らは持てる力を神の栄光と崇拝のために使用すべく、鋭意努力している。願わくば人間がその努力と一体となって協力してくれることが望ましい。一丸となれば、善用も悪用も出来るその力が現在の人間の知識を遥かに超えたものであることを知るであろう。蠅や蟻の知能を凌ぐほどに。
吾々は、ありがたいことに、知識と崇高さにおける進歩が常に対等であるように調整することができる。完璧とは言えないが、ある範囲内・・・広範囲ではあるが確固とした範囲内において可能である。もしも可能でないとしたら地上は今日見る如きものではあり得ず、また今ほどの秩序ある活動は見られないであろう。
もっとも、これも人類に対する吾々の仕事の一側面に過ぎない。そして人間の未来に何が待ち受けているかは私にも何とも言えない。霊的真理の世界へこれより人類がどこまで踏み込むかを推測するほどには、私は先が見えない。まだその世界への門をくぐり抜けたばかりだからである。
が、大いなる叡智をもって油断なく見守る天使によっても、こののちも万事よきに計らわれるであろう。天使の支配のある限り、万事うまくいくことであろう。
第2節 〝光は闇を照らす。されど闇はこれを悟らず〟
1913年12月3日 水曜日
昨日取りあげた話題をもう少し進めて、私の言わんとするところを一層明確にしておきたい。改めて言うが、エネルギーの転換についてこれまで述べたことは用語の定義であり本質の説明ではないことをまず知ってほしい。
貴殿の身の周りにある精神的生命の顕現の様子をつぶさに見れば、幾つか興味深いものが観察されるであろう。
まず人間にも感覚が具わっているが、これも外部に存在する光が地球へ向けて注がれなければ使用することはできまい。が、その光もただのバイブレーションに過ぎず、しかも発生源から地上に至るまで決して同じ性質を保っているのではない。と言うのも、人間は太陽を目に見えるものとしてのみ観察し、
各種のエネルギーの根源としてみている。が、光が太陽を取り巻く大気の外側へ出ると、そこに存在する異質の環境のために変質し、いったん人間が〝光〟と呼ぶものでなくなる。その変質したバイブレーションが暗黒層を通過し、更に別の大気層、例えば地球の大気圏に突入すると、そこでまたエネルギーの転換が生じて、再び〝光〟に戻る。
太陽から地球へ送られてきたのは同一物であって、それが広大な暗黒層を通過する際に変質し、惑星に突入した時に再び元の性質に戻るということである。
「光は闇を照らす。されど闇はこれを悟らず」(ヨハネ福1・5)この言葉を覚えているであろう。これは単なる比喩にはあらず、物質と霊のこの宇宙における神の働きの様子を述べているのである。しかも神は一つであり、神の王国もまた一つなのである。
光が人間の目に事物を見せる作用をするには或る種の条件が必要であることが、これで明らかであろう。その条件とは光が通過する環境であり、同時にそれが反射する事物である。
これと同じことが霊的環境についても言える。吾ら霊的指導者が人間界に働きかけることが出来るのはそれなりの環境条件が整ったときのみである。ある者には多くの真理を、それも難なく明かすことが出来るのに、環境条件の馴染まぬ者にはあまり多くを授けることができないことがあるのはそのためである。かくて物的であろうと霊的であろうと、物ごとを明らかにするのは〝光〟であることになる。
この比喩をさらに応用してお見せしよう。中間の暗黒層を通過して遥か遠方の地上へと届くように、高き神霊界に発した光明が中間の階層を経て地上へと送り届けられ、それを太陽光線が浴びるのと同じ要領で浴びているのである。
が、さらに目を別の方角に向けてほしい。地球から見ることのできる限りの、最も遠い恒星のさらに向こうに、人間が観察する銀河より遥かに完成に近づいた見事な組織が存在する。そこにおいては光の強さは熱の強さに反比例している。と言うことは、長い年月にわたる進化の過程において、熱が光を構成するバイブレーションに転換されていることを暗示している。
月は地球より冷たく、しかもその容積に比例して計算すれば、地球より多くの光を反射している。天体が成長するほど冷たくなり、一方光線の力は強くなってゆく。吾々の界層から見る限りそうであり、これまでの結論に反する例証をひとつとして観察したことは無い。
曽てそのエネルギーの転換の実例を私の界において観察したことがある。
ある時、私の界へ他の界から一団の訪問者が訪れ、それが使命を終えてそろそろ帰国しようとしているところであった。吾々の界の一団・・・私もその一団であった・・・が近くの大きな湖まで同行した。訪れた時もその湖から上陸したのである。いよいよ全員がボートに乗り移り、別れの挨拶を交わしている時のことである。
吾々の国の指導者格の一人がお付の者を従えて後方の空より近づき、頭上で旋回し始めた。私はこの時の慣習を心得てはいるものの、その時は彼ら・・・と言うよりは天使・・・の意図を測りかねて何をお見せになるつもりであろうかと見守っていた。この界においては来客に際して互いに身に付けた霊力を行使して、その効果を様々な形で見せ合うのが慣習なのである。
見ていると遥か上空で天使の周りを従者たちがゆっくりと旋回し、その天使から従者へ向けて質の異なる、したがって色彩も異なるバイブレーションの糸が放たれた。天使の意念によって放射されたのである。それを従者が珍しい、そして実に美しい網状のものに編み上げた。
二本の糸が交叉する箇所は宝石のような強力な光で輝いている。またその結び目は質の異なる糸の組み合わせによって数多くの色彩に輝いている。
網状の形体が完了すると、まわりの従者は更に広がって遠くへ離れ、中央に天使が一人残った。そして、出来上がった色彩豊かなくもの巣状の網の中心部を片手で持ち上げた。それがふわふわ頭上で浮いている光景は、それはそれは美しいの一語に尽きた。
さて、その綱は数多くの性質を持つバイブレーションの組織そのものであった。やがて天使が手を放すとそれがゆっくりと天使を突き抜けて降下し、足元まで来た。そこで天使はその上に乗り、両手をあげ、網目を通して方向を見定めながら両手をゆっくりと動かして所定の位置へ向けて降下し続けた。
湖の上ではそれに合わせて自然発生的に動きが起こり、ボートに乗ったまま全員が円形に集合した。そこへ網目が降りてきて、全員がすっぽりとその範囲内におさまる形で覆い被さり、更に突き抜けて網が水面に落ち着いた。そこでその中央に立っている天使が手を振って一団に挨拶を送った。するとボートもろとも網がゆっくりと浮上し、天高く上昇して行った。
かくて一団は湖上高く舞い上がった。吾ら一団もその周りに集まり、歌声と共にぢょう中の無事を祈った。彼らはやがて地平線の彼方へと消えて行った。
こうした持てなしは、他の界からの訪問者に対して吾々が示すささやかな愛のしるしの一例に過ぎないもので、それ以上の深い意味はない。私がこれを紹介したのは・・・実際には以上の叙述より遥かに美しいものであったが・・・強力な霊力を有する天使の意念が如何にエネルギーを操り質を転換させるかを、実例によって示すためであった。
目を愉しませるのは美しさのみとは限らない。美しさは天界に欠かせぬ特質の一つに過ぎない。例えば効用にも常に美が伴う。人間が存在価値を増せば増すほど人格も美しさを増す。聖は美なりとは文字通りであり真実である。願わくば全ての人間がこの真理を理解してほしい。
第3節 光と旋律による饗宴
1913年12月4日 木曜日
いささか簡略過ぎた嫌いはあるが、天界においてより精妙な形で働いている原理が地上に置いても見られることを、一通り説明した。そこで次は少しばかり趣を変えて話を進めようと思う。
本格的な形では吾々の世界にしか存在しない事柄を幾ら語ったところで、貴殿には理解できないであろうし、役にも立たないであろうが、旅する人間は常に先へ目をやらねばならない。これより訪れる世界についての理解が深ければ深いほど足取りも着実になるであろうし、到着した時の迷いも少ないことであろう。
しからばここを出発点として・・・物質のベールを超えて全てが一段と明るい霊的界層に至り、まず吾々自らがこの世界の真相を学ぶべく努力し、そしてそれを成就した以上・・・その知識をこの後の者に語り継ぐことが吾々の第一の責務の一つなのである。
他界後、多くの人間を当惑させ不審に思わせることの一つは、そこに見るもの全てが実在であることである。そのことについては貴殿は既に聞かされているが、それが余りにも不思議に思え予期に反するものである様子なので、今少し説明を加えたいと思う。
と申すのも、そこに現実に見るものが決して人間がよく言うところの〝夢まぼろし〟ではなく、より充実した生活の場であり、地上生活はそのための準備であり出発点に過ぎないことを理解することが何よりも大切だからである。何故に人間は成長しきった樫の木より苗木を本物と思いたがり、小さな湧水を本流より真実で強力と思いたがるのであろうか。地上生活は苗木であり湧水に過ぎない。死後の世界こそ樫の木であり本流なのである。
実は人間が今まとっている肉体、これこそ実在と思い込んでいる樹木や川、その他の物的存在は霊界にあるものに比して耐久性がなく実在性に乏しい。なぜなら、人間界を構成するエネルギーの源はすべて吾々の世界にあるのであり、その量と強烈さの差は、譬えてみれば発電機と一個の電灯ほどにも相当しよう。
それ故人間が吾々のことを漂う煙の如く想像し、環境をその影の如く想像するのであれば、一体そう思う根拠はどこにあるのかを胸に手を当てて反省してみよと言いたい。否、根拠などあろうはずがないのである。あるのは幼稚な愚かさであり、他愛なき想像のみなのである。
ここで私はこちらの世界における一光景、ある出来事を叙述し、遠からぬ将来にいずれ貴殿も仲間入りする生活の場を紹介することによって、それをより自然に感じ取るようになって貰いたいと思う。この光あふれる世界へ来て地上を振り返れば、地上の出来事の一つ一つが明快にそして生々しく観察でき、部分的にしか理解し得なかったこともそれなりの因果関係があり、それでよかったことに気付くことであろう。が、
それ以上に、こうして次から次へと無限なるものを見せつけられ、一日一日を生きている生活も永遠の一部であることを悟れば、地上生活が如何に短いものであるかが分かるであろう。
さて、すみれ色を帯びたベールの如き光が遠く地平線の彼方に見え、それが前方の視界をさえぎるように上昇しつつある。その地平線と今私が立っている高い岩場との間には広い平野がある。その平野の私のすぐ足元の遥か下手に大聖堂が見える。これが又、山の麓に広がる都の中でも際立って高く聳えている。
ドームあり、ホールあり、大邸宅あり、ことごとく周りがエメラルドの芝生と宝石のように輝く色とりどりの花に囲まれている。広場あり、彫像あり、噴水あり、そこは花壇を欺くほどの美しさに輝き、色彩の数も花の色を凌ぐほどの人の群れが行き交っている。その中に他を圧するようにひときわ強く輝く色彩が見える。黄金色である。それがこの都の領主なのである。
その都の外郭に高い城壁が三箇所に伸び、あたかも二本の角で都を抱きかかえるような観を呈している。その城壁の上に見張りの姿が見える。敵を見張っているのではない。広い平地の出来事をいち早く捉え、あるいは遠い地域から訪れるものを歓迎するためである。
その城壁には地上ならば海か大洋にも相当する広大な湖の波が押し寄せている。が、見張りの者にはその広大な湖の対岸まで見届ける能力がある。そう訓練されているのである。その対岸に先に述べたベールのような光が輝いており、穏やかなうねりを見せる湖の表面を水しぶきを上げて行き交う船を照らし出している。
さて私もその城壁に降り立ち、これより繰り広げられる光景を見ることにした。やがて私の耳に遠雷のような響きがそのすみれ色の光の方角から聞こえてきた。音とリズムが次第に大きくなり、音色に快さが増し、ついに持続的な一大和音となった。
すると高く聳える大聖堂から一群の天使が出て来るのが見えた。全員が白く輝く長服をまとい、腰を黄金色の帯で締め、額に黄金の冠帯を付けている。やがて聖堂の前の岩の平台に集結すると、全員が手を取りあい、上方を向いて祈願しているかに見える。実は今まさにこの都へ近づきつつある地平線上の一団を迎えるため、エネルギーを集結しているのであった。
そこへもう一人の天使が現れ、その一団の前に立ち、すみれ色の光の方へ目をやっている。他に較べて身体の造りが一回り大きく、身につけているものは同じく白と黄金色であるが、他に比して一段と美しく、顔から放たれる光輝も一段と強く、その目は揺らぐ炎のようであった。
そう見ていた時のことである。その一団の周りに黄金色の雲が湧き出て、次第に密度を増し、やがて回転し始め一個の球体となった。全体は黄金色に輝いていたが、それが無数の色彩の光からなっていた。それが徐々に大きくなり、ついには大聖堂も見えなくした。それから吾々の目を見張らせる光景が展開したのである。
その球体が回転しつつ黄金、深紅、紫、青、緑、等々の閃光を次々と発しながら上昇し、ついには背後の山の頂上の高さ、大聖堂の上にまで至り、更に上昇を続けて都の位置する平野を明るく照らし出した。気が付いてみると、先ほど一団が集合した平台には誰一人姿が見当たらない。
その光と炎の球体に包まれて上昇したのである。これはエネルギーを創造するほどの霊力の強烈さに耐えうるまでに進化した者にしかできぬ業である。球体は尚も上昇してから中空の一点に静止し、そこで閃光が一段と輝きを増した。
それから球体の中から影のようなものが抜けでてきて、その球面の半分を被うのが見えた。が、地平線上の例のスミレ色の光の方を向いた半球はそのままの位置にあり、それが私には正視できぬほどに光輝を増した。見ることを得たのは、スミレ色の光から送られるメッセージに応答して発せられ平地の上空へ放たれたものだけであった。
そのとき蜜蜂の羽音のようなハミングが聞こえてきた。そしてスミレ色の光の方角から届く大オーケストラの和音と同じように次第に響きを増し、ついに天空も平野も湖も、光と旋律とで溢れた。天界では、しばしば、光と旋律とは状況に応じて様々な形で融合して効果をあげてゆくのである。
既にこの時点において、出迎えの一団と訪問の一団とは互いに目と耳とで認識し合っている。二つの光の集団は次第に近づき、二つの旋律も相接近して見事な美しさの中に融合している。両者の界は決して近くはない。天界での距離を地上に当てはめれば莫大なものになる。
両者は何億マイル、あるいは何百億マイルも遠く離れた二つの恒星ほども離れており、それが今その係留を解いて猛烈なスピードで相接近しつつ、光と旋律とによって挨拶を交わしているのに似ている。
これと同じことが霊的宇宙の二つの界層の間で行われていると想像されたい。そうすれば、その美しさと途方もなく大きな活動は貴殿の想像を絶することが分かるであろう。
そこまで見て私はいつもの仕事に携わった。が、光はその後もいやがうえにも増し、都の住民はその話で持ち切りであった。この度はどこのどなたが来られたのであろうか。前回は誰それが見えられ、かくかくしかじかの栄光を授けてくださった。等々と語り合うのであった。
かくて住民はこうした機会にもたらされる栄光を期待しつつ各々の仕事に勤しむ。天界では他界からの訪問者は必ずや何かをもたらし、また彼らも何かを戴いて帰り住民に分け与えるのである。
それにしても、その二つの光の集団の面会の様子を何とかうまく説明したく思うのであるが、それはとても不可能である。地上の言語では到底表現できない性質のものだからである。実はこれまでの叙述とて、私にはおよそ満足できるものではない。
壮麗な光景のここを切り取りあそこを間引きし、いわば骨と皮ばかりにして何とか伝えることを得たに過ぎない。仮にその断片の寄せ集めを十倍壮麗にしたところで、なお二つの光の集団が相接近して会合した時の壮観さには、とてもお呼びも付かぬであろう。天空は赫々たる光の海と化し、
炎の中を各種の動物に引かれた様々な形態の馬車に乗った無数の霊(スピリット)が、旗をなびかせつつ光と色の様々な閃光を放ちつつ行き交い、その発する声はあたかも楽器の奏でる如き音色となり、それがさらにスミレ色の花とダイヤモンドの入り混じった黄金の雨となって吾々の上に降り注ぐ。
なに、狂想詩?そうかもしれない。単調極まる地上の行列・・・けばけばしい安ピカの装飾を施され、それが又、吾々の陽光に比すればモヤの如き大気の中にて取り行われる地上の世界から見れば、なるほどそう思われても致し方あるまい。が、心するがよい。そうした地球及び地上生活の生ぬるい鬱陶しさのさ中においてすら、貴殿は実質的には本来の霊性ゆえに地上のものにはあらずして、吾々と同じ天界に所属するものであることを。
故に永続性の無い地上的栄光を嗅ぎ求めて這いずり回るような、浅ましい真似だけは慎んでほしい。授かったものだけで満足し、世の中は万事うまくとり計らわれ、今あるがままに素晴らしいものであることを喜ぶがよい。ただ私が言っているのは、この低い地上に置いて正常と思うことを基準にして霊界を推し量ってはならないということである。
常に上方を見よ。そこが貴殿の本来の世界だからである。その美しさ、その喜びは全て貴殿の為に取ってある。信じて手を差し伸べるがよい。私がその天界の宝の中からひとつづつ授けて参ろう。心を開くが良い。来たるべき住処の音楽と愛の一部を吾々が吹き込んで差し上げよう。
差し当たってはあるがままにて満足し、すぐ前の仕事に勤しむがよい。授からるべきものは貴殿の到来に備えて確実に、そして安全に保持してある。故にこの仕事を忠実にそして精一杯尽くすがよい。それを全うした暁には、貴殿ならびに貴殿と同じく真理のために献身する者は、イエスのおん血(ヘブル書9)を受け継ぐ王としてあるいは王子として天界に迎えられるであろう。
聖なるものを愛する者にとってはイエスのおん血はすなわちイエスの生命なのである。なぜならイエスは聖なるものの美を愛され〝父〟の聖なる意志の成就へ向けて怯むことなく邁進されたからである。人間がそれを侮辱し、それ故に十字架にかけたのであった。
主の道を歩むが良い。その道こそ主を玉座につかしめたのである。貴殿もそこへ誘われるであろう。・・・貴殿と共に堂々と、そして愛をもって邁進する者もろともに。
主イエスはその者たちの王なのである。
第4節 第十界の大聖堂
1913年12月8日 月曜日
前回に述べた事柄について引き続き今夜も述べてみたい。
前回はスミレ色の光の一団と吾々の界の一団とが融合して繰り広げられた人間の想像を絶する壮麗な光景を叙述した。その栄光が都の上に降り注ぎ、建物も樹木も住民も、すべてがそのスミレ色と黄金色の雨の洗礼を受けて一段と輝きを増したのであった。
貴殿には理解が行くと思うが、その一団は吾らの界より一段と高い界からの訪問者であり、こうした際には例外無く贈り物として何らかの恩恵を残していくものなのである。かくして彼らが去った後吾らは更に一段と向上するための力を授かり、都全体がそれまでとはどこか異なる崇高さに輝くのであった。
さてその時私はたまたま大聖堂への用事があったので、山道を通って行った。長い上り坂となっていたが、私はこうした時の常として、これから向かう準備の為、瞑想しつつ一歩一歩ゆっくりと進んだ。
沿道の少し奥まったところに地上に見るのと同じような拝殿がそこここにあった。その一つ一つの前に少し離れて立ち、両手で目を蔽って瞑目し、主イエスの道を歩む者としての御力を授かるべく、主との霊的交わりを求めた。それが終わってふと振り返ると、一見して私の界の者ではなく、より高い界の者と思われる、光り輝く二人の人物を見た。私はすぐに頭を垂れ、目を地面に落とし、所要を言いつけられるのを待った。
ところが暫くしても何のお言葉もない。そこで思い切って顔をあげ、まず腰のあたりに絞められた帯へ目をやった。そして即座にそのお二人がその日の訪問団のリーダーに付き添った方であることを見て取った。貴殿らの言う将官付武官のようなものであった。
二人は尚も黙しているので、私はついにそのお顔に目を移した。笑みを漂わせた光り輝くお顔であった。愉しささえ感じられた。その時初めてしっかり見つめた。と言うのも、それまではお顔から発せられる光輝の為に顔立ちまで見極めることができず、従って自分の知っている方であるか否かの判断がつきかねていたのである。が、
こうした時の手段としてよく行うのだが、そのお二人から霊力をお借りして、ついにはっきりと見極めることができた。そこで判った。実はお二人は私が地上近い界層での仕事に携わった時の僚友であった。暗黒界から多くの魂を救出し光明界へと案内した時にお二人の補佐役として仕えたのであった。
私の目にその記憶が蘇ったのを見て、お二人は近づいて両脇からそれぞれ手を取って下さって坂道を登った。そして大聖堂へ近づく途中でまず両頬に口づけをし、続いて、それから同行と会話の為にさらに霊力を授けてくださったのである。
ああ、その道中の会話の喜びと愉しさ。曽て手を取りあって活躍した時の話題に始まり、その日私の界を訪れるまでの話、そして間もなく私が召れるであろう一段と明るく栄光に満ちた世界についての話を聞かせてくれるのであった。
やがて大聖堂についた。その道中はお二人の美しさと大いなる栄光の話に魅せられて、いつもよりはるかに短く感じられたことであった。
実はお二人はその大聖堂の管理者へのメッセージを携えていた。それは間もなく彼らのリーダーがその都の領主を伴って訪れ、大聖堂の表敬と礼拝を行い、同時に従者並びにこれよりしばし逗留する都の為に礼拝を捧げるというものであった。
・・・その大聖堂を説明していただけませんか。
私に駆使できる範囲の言葉で説明してみよう。
聖堂の前面と断崖との間には何の仕切りも見当たらない。それ故、都の城壁から少し外れた平地からでもその全容を拝することが出来る。岩場の平台に切り立つように聳え、アーチが下部から上方へ見事な調和(ハーモニー)を為し、その色彩が上部へ行くほど明るくなっていく。
中心的色彩は何と呼ぶべきか、地上に同じものが見当たらないために言うことが出来ない。強いて言えば、ピンクとグレーの調和したものとでも言うほかはない。それでも正確な観念は伝わらない。が、一応外観はその程度にして、続いて構造そのものの叙述に入ろう。
地上の大聖堂には大きな柱廊玄関が一つついているのが普通であるが、それには五つある。一つ一つの構造が異なり、色調も異なる。それには実は礼拝者への配慮があるのである。もし全員が一つの玄関から入れば、霊力の劣る者が礼拝の為のエネルギーを奪われる恐れがある。
そこで五つの出入り口を設け、拝廊において一旦霊力を整え、そこで最初の誓いと礼拝を行う。そのあと更に奥の聖殿の大ホールへと進み、そこで全員が合流する。その時はもはや霊力の弱い者も不快感を伴わなくなっているという次第である。
大ホールの上方は四角の塔になっており、天井がなく、空へ突き抜けている。そして上空には光輝性の雲状のもの、ユダヤ教で言うシェキーナつまり〝神の御座〟に似たものが動めいており、時折建物全体及び礼拝堂にキリストの生命と祝福を垂れる。
この大ホールの更に奥にもう一つ、特別のネーブが設けてある。そこは特別の招待を受けた者が天使の拝謁を受ける場所である。そこにおいて招待者は天使より上級の界の秘奥についての教えを受けるが、
それを許されるのは余程進化した者に限られる。なぜなら、そこで教わることは神の属性に関する極めて高度なものだからである。しかもそれは僅かずつ授けられる。無節操に炎を求める蛾が身を亡ぼす如く、神の高度な叡智は一度に多くを手にし、あるいは授かると、魂が危害を被ることにもなりかねないからである。
私自身はまだその聖殿の内部を覗いたことは無い。霊的進化がまだそこまで至っていないからである。その時が至ればいつでもお呼びがあることであろう。十分備えが出来るまでは召されぬであろう。が、次の界へ進化する前には是非ともそこで教育を受けねばならないし、それ以外にはないのである。目下私はそれに向けて鋭意奮闘しつつあるところである。
以上その巨大な神殿をいくらかでも描写したつもりであるが、それも大いなる躊躇をもってようやく為し得たことである。何となれば、その時実相は余りに荘厳過ぎて人間の言葉では到底尽くせないのである。黙示録のヨハネが同志たちに語り聞かせたのも同じ光景であった。が、彼が伝え得たのは宝石と真珠と水晶の光のみであり、それ以上のものは語り得なかった。今の私がまさにそれである。ためらいを禁じ得ぬのである。
そこで私は、残念ではあるが、これにて大聖堂の叙述は終わりとする。どう足掻いたところで、この第十界の山頂に聳える心理と叡智と霊力と祝福の大聖堂に漲る燦然たる壮観を述べ尽くすことはできない。そこはまさに、それらすべての根源であるキリストへ向けての進化において必ず通過しなければならない関門なのである。
・・・ザブディエル様、私はあなたによる連日の要請が些か苦痛となってまいりました。出来れば一日置きにしていただければと思うのですが、このまま毎日でもやって行けるでしょうか。・・・
貴殿の思うままにすれば良い。ただこのことだけは明記しておいてほしい。すなわち今は霊力が滞りなく働いているが、この後どうなるかは測り知ることが出来ない。私は許される限りにおいて貴殿の支えとなる所存であるが、それがもし貴殿の限界所以叶えられないことになれば、もはや何もなし得ない。が、
今の受容的精神状態を続けてくれる限り、この通路を可能な限り完璧なものに仕上げる所存である。しかし貴殿の思うようにするがよい。もしも毎日続けることに意を決したならば、その時は貴殿の教会の信者並びに関係者への必要最小限の書き物以外は控えてもらえたい。
必要と思えば運動と気分転換のために戸外へ出るがよい。後は私が力の限り援助を授けるであろう。が、受ける側の貴殿よりも与える側の私のほうが能力が大である。それ故、書けると思えば毎日、あるいは職務の許す限りにおいて、私の要請に応じてくれればよい。これまでは一日として計画が挫折したことは無い。そして多分この後も続け得ることであろう。