著者のジェラルディン・カミンズ(一八九〇~一九六九)は、厳しくも美しい自然に恵まれたアイルランドで、大学の先生をしていたアシュレー・カミンズ教授の娘として誕生した。カミンズは、英国に於ける今世紀最大の霊能者の一人として欧米のスピリチュアリズムに貢献した人物である。
その代表的著書として『不滅への道』(国書刊行会、世界心霊宝典第二巻)があり、霊界を語った白眉として尊重されている。(抄訳としては浅野和三郎訳『永遠の大道』が潮文社から出ている)
イエスの伝記というものは、正確な意味で何一つ存在していないと言ってもよい。新約聖書中の福音書は、元来イエスの受難物語(十字架上の死と復活)に重点を置いてかかれたものであるから、イエスの重要な背景をなす「生いたちの記」が完全に欠落していることになる。
カミンズは彼女の偉大なる霊能によって「母マリヤの背景」と「イエスの成育史」というもっとも重要な部分を提供してくれたのである。聖書にまったく見られない人物や、出来事をも加えながら、イエスの少年時代を中心に展開されている雄大なドラマは、読む者の魂を揺さぶり、救いに導く大切な霊的養分をふんだんに注入してくれる。
多感な少年イエスが、あらゆる苦汁をなめさせられても、真の救いを求めて修行をつんで行く姿には、感涙相むせぶ場面が幾度もあり、読む者の魂を浄化してくれる不思議な力がこもっている。
歴史的には、マリヤに関する解釈が二つに分かれていて、未だに決着がついていない。ひとつは、ヘルヴィディアン説で、イエスの兄弟はマリヤが生んだとするものである。それに対してエピファニアン説があり、イエスの兄弟は夫ヨセフの先妻の子であると主張する。
どちらの説にしろ、マリヤに関して明確なことは、第一に、処女懐妊であり、第二は、重労働に耐えた女であったということである。水汲み、洗たく、粉ひき、はた織りは女の仕事で過酷な労働であり、本書でのマリヤは多産(六人の子供)であるから、彼女はかなりがっちりとした体格の女性であったに違いない。
さて本書は一体何を言わんとしているのであろうか。イエスは最初期待していた神殿(ユダヤ教)には救いが無いことを知らされた。
ユダヤ教を代表する大祭司アンナスは、ローマの金権政治の犬になっており、ユダヤ教のラビ(教師)は徹底した教条主義者で、少なくともイエスにとっては腹黒い偽善者であり、稀にみる善人として登場するパリサイ人シケムでさえ、神殿という建造物にしがみついている臆病者であった。
結局イエスは、組織としての宗教や儀式的教条主義に救いが無いことを見抜いて、名もない異国の浮浪者ヘリを真の指導者と仰いで山野に於いて修行を続け、遂にアラビアの「流浪の部族」、もとをただせば皮肉なことに脱ユダヤ教の人々に兄弟として迎えられるのであった。では一体何が救いであっただろうか。
学者の高邁な哲理でもなく、組織的伝統的な宗教団体でもなく、・・・それは賢明なる読者にお任せするとしよう。
本書の中で、マリヤもイエスも「山野をよく歩く人」として描かれていることに気付いておられることと思う。ギリシャ語で歩くことを<ぺリパテオウ>と言い、しっかり生き抜くという意味を持っている。
人生は旅であることを暗示している。独りで歩くのである。何のためか。瞑想のためである。しかも日の出に瞑想した。神との出逢い。神と語り、霊の力を得た。これを基盤としていたからこそ、ミシュナ(ユダヤ教の細かな規程、例えば安息日など)など怖くなかった。逆にミシュナが少しでも差別や人間性無視の原因となったとき猛然と反対した。
第18「最初の受難で外国人ヘリをかばってリンチにあったように。
最後にこのようなすばらしい著書を進呈してくださり、翻訳に関するあらゆる御世話と忠告を与えて下さった近藤千雄氏に深甚の感謝と敬意を表したい。同氏は我が国における数少ないスピリチュアリズムの研究者の一人であり、その正しい発展のために全力を尽くしておられる方である。
更に拙い翻訳を出版までこぎつけて下さった潮文社の社長、小島正氏の御厚意にも心から感謝する次第である。このような一種の「幻の書」によって一人でも多くの方々が、霊的に豊かになっていただければ本当にうれしく思う。本書を読んだある英国人は、次のように述べている。
「予期せざる発想という列車に乗って、未知の国に向かい、此の世ならぬ旅をしているような美しい物語である」と。
新装版発行にあたって
この世は愛によって創られ、愛によってささえられているにもかかわらず、人間だけが、この重大な真理を無視した生き方を続けている。この事実を最も露骨にえぐり出してくれたのが「イエスの少年時代」である。
テロや憎しみが世界中に広がっている今日、一人でも多くの人たちがイエスの生き様を知って、愛に目覚めた生き方を始めてほしいと願っている。「イエスの成年時代と合わせて読んで頂きたい」