第11章 悪女のたくらみ
ナザレにも秋がやってきた。樹々はすべて紅色、金色、銀色に変わっていた。秋の微風(ソヨカゼ)は清澄(セイチョウ)で肌寒く、砂漠やガリラヤ湖を越えて、真白で背の高い建物の立ち並ぶローマの街々にまで吹きぬけていくのである。全く始めの数カ月は、陽の光がマリヤの目をたのしませた。
丘から見おろす風景はすばらしく、どこを見てもすべてが懐かしかった。彼女は故郷に帰ってきたのである。その地は彼女に神々しい夢を与え、神と共に歩いていたという生きた証拠を与えてくれた所であった。騾馬に乗ってゆっくりと高台から降りていった。夕陽が長い影をつくっていた。
最初の暗闇が流れるように通り過ぎたと思うと、星屑や月の淡い光が射しこんできて、疲れている旅人の足元を明るく照らし始めた。喜びが胸にこみあげてくるので、ひとことも喋ることができなかった。
銀色に輝くガリラヤ湖を眺め、湖上に浮かぶ漁師たちの舟影を見ながら二人はただユダヤ教の規則(1)に従った挙式ができればよいがと考えていた。しかし明くる朝まで何も話さなかった。ヨセフはこの旅ですっかり参っていた。
二人は結婚したばかりのクローパスの妻、ヨセフの姉に助けを求めることになった。姉はマリヤのために食事の世話をし、体ちゅうに受けた打撲傷をきれいに洗浄し、オリーブ油で痛みを和らげた。
翌朝,早くからミリアムがやってきて戸を叩くのでヨセフが戸を開けた。ミリアムの顔付きはひきつっており、無情そのものであった。ミリアムは二人だけで話しあおうと目で合図した。家の外の庭までくるとミリアムは馬鹿なことを次から次へと捲(まく)し立てるのであった。
「漁師の娘のマリヤはね、おやじが死んでから野山をさまよって、野蛮人のような生活(クラシ)をしてたのさ。お前さんだってあの娘(コ)がガリラヤの丘でうろうろ歩きまわっていたのを知ってただろうよ! ありゃ、絶対悪魔の仕業にちがいないよ。従兄弟のやってた旅館にいたときも、同じことをしてたのさ。逐一旅館の亭主から聞いちまったんだ。
お前さんがいくら努力しても彼女から悪魔は追い出せっこないよ。お前さんあの娘を嫁さんにするなんて馬鹿なことはおよしよ! あの娘は本当に評判が悪いんだよ、今のうちにあの娘を追払っちまうんだね!」
これを聞いたヨセフは、かんかんに怒り、すんでのところでミリアムをぶちのめすところであった。愛するマリヤのためを思えばこそ、このお喋り者の口封じに挑戦した。
「あの娘はね、夜明けのしじまのように純情で潔い女なんだ。彼女は神と語り合い、丘の上を独り歩きするときは、いつでも神と共に歩いていたんだ。お前のように純情な心をふみにじる下衆(げす)の女にはわかるもんか。
さあ! とっとと出ていってくれ! しらがの生えた頭がぶちのめされないうちにな! これ以上おれの嫁さんになる娘のことを口にしたら承知しないからな。とっとと消え失せろ!」
ミリアムは無言でそこを立ち去り、家に帰ってから更に悪いたくらみを計画した。ヨセフはマリヤに惚れこんでいる、しかし式を挙げる様子も見られない、これは何かマリヤに他人に話せない罪を犯しているからだ。そうだ、マリヤの醜聞(スキャンダル)をばらまいてやるに限る、とミリアムは巧妙な企(たくら)みを実行した。
それでマリヤはガリラヤでは全く村八分にされてしまったのである。誰からもかまってもらえず、道を歩けばひそひそと私語(ササヤ)かれ、じろじろ見られるのであった。彼女に聞こえよがしに卑しいことが話されても、マリヤには何のことやらさっぱり解らなかった。
マリヤは本当に幼な子のように純粋で、汚れをしらなかった。ヨセフは自分の愛する人が散々貶(ケナ)され、傷つけられているのをじっとこらえていた。彼の顔付きは怒りでひきつっていた。姉のところへ行き、身も心も呑み尽してしまう疫病のような悪女どもをどうしたらよいか相談した。姉は言った。
「そんなことを言われたからといって、お前の愛が萎(しぼ)むわけじゃないでしょう。私がマリヤに話して、どんなことを言われても対抗できるように武装してあげるわよ」
姉は無垢なマリヤに、悲しみの背後に喜びがひそんでいることを話してきかせるのであった。
(註1)
トーラ(モーセの律法)──イスラエルの道徳律、礼拝儀式、民法を含む細則。殊に婚約中に他の男と関係した者は即刻死刑となった。
ヨセフは懐妊しているマリヤを妻として受け容れるのにどれ程悩みぬいたか、余人の想像を絶するものがあったに違いない。
第12章 赤子イエスに関する預言
ヨセフとマリヤは、ひっそりと結婚し、ナザレを出て見知らぬ所へ旅立った。旅の途中でマリヤは男の子を生んだ。それは恐ろしくもあったが、同時にうれしくもあった。赤ちゃんが死にそうになったので貧しい旅館を探し介抱した結果、死をまぬがれることができた。
衰弱しきったマリヤの体も日毎に回復し、ヨセフと口がきけるようになった。ヨセフはマリヤとの約束を守り、その子を〝イエス〟と名づけた。マリヤが懐妊する前に、大天使ガブリエルの御告げをうけていたからである。
マリヤが産後の潔めの式(1)に与(あずか)ろうとしている頃、大きな悩みごとで途方にくれていた。ヨセフは口数が少なくなり、すっかりふさぎこみ、目もよどんでしまった。彼らにはナザレに戻ってもそこに住むことができなかった。なぜなら町のおかみさんたちが二人のことをひどく中傷していたからである。
生まれた赤ちゃんは、ヨセフの子ではなく、見知らぬ男との間に生まれたという中傷であった。ヨセフとマリヤは、とある律法学者(2)と相談をした結果、エルサレムへ上京し、神殿にお参りして、その子に関する神様の御神宣をきいてくることになった。
聖都エルサレムを目にしたとき、マリヤは小躍りして喜んだ。太陽の光に輝く塔がそびえたつ神殿を目の当りに見て驚いた。神殿の入口からきこえてくる祭司たちの祈の歌声や、トランペットの高尚な響きにうっとりとするのであった。恰も胸に抱いている赤ちゃんに呼びかけているかのように思えた。
もうマリヤは当惑することはなかった。彼女は信仰によって強められ、彼女とヨセフの間に重くのしかかっていた闇が取り除かれる日が近くやってくることを信じていた。
彼らは雉鳩(キジバト)の番(ツガイ)を神殿に捧げ、帰ろうとするとき、早朝の祈のときに彼らに話しかけてくれた一人の老祭司とばったり出逢った。彼の名は〝シメオン〟と言い、高潔な人であった。彼の顔は霊の光に輝いていた。
シメオンは彼ら二人を呼び、古い偉大な神殿内の一室に案内した。そこで彼は朗々と神様を讃える美しい祈を捧げた。ヨセフとマリヤはそこに跪き、彼の口をついて出てくる感謝の詩篇や彼の気高い風貌に心をうたれた。間もなく彼らはこの老祭司が、マリヤのだいている赤ちゃんのことを言っていることに気がついた。
老祭司は大声でこの赤ちゃんをイスラエルの栄光である〝メシヤ〟と言って讃えるのであった。
疑いは晴れ、恥と苦悩はまるで夜鳥のように消え失せてしまった。ヨセフはもう投げやりになることもなく、又ガリラヤで近隣中から悪口を言われることに怖れをなすこともなくなった。ヨセフはマリヤの方を見て、にっこりと笑った。
その笑顔の中から、二人の仲には何の拘泥(コダワリ)も無く、暗い影が消えてしまったことを彼女は知ることができた。
更に驚いたことには、老祭司シメオンが赤ちゃんをマリヤから受けとり、だきかかえながら祝福した。そこへ老女アンナ(敬虔な女預言者-訳者)が入ってきて、いきなり大声をはりあげ、この赤ちゃんがメシヤとして来臨して下さったことを神様に感謝するのであった。老祭司が言った。
「この子は、イスラエルの多くの人々を立ち上らせたり沈めたりするであろう。見よ、鋭い刃がこの子故に、母マリヤの胸を貫き通すであろう」
この預言めいた言葉を聞いたヨセフは、シメオンに近より、彼の耳元で心配そうに話しだした。マリヤのことで近隣の者がふれまわっている中傷のことや、大天使ガブリエルがマリヤに御告げをしたとか、あらいざらい今までのことを話した。そして最後に、この子がメシヤなどと言いふらしたら、どんな非道(ヒド)い目にあわされるか分らないと言った。そこでシメオンはいい知恵を与えてくれた。
「このことは誰にも喋ってはならない。この子にも、物心がつくまでは教えてやらないがよかろう。ひっそりと暮らし、この子が少年になるまで見守ってやりなさい。きっと神様の使命を果たすときが来るであろう。いつ、どんなふうに立ち上るかはわからないが、彼はイスラエルだけではなく、外国人、否全人類の救いのために立ち上がるであろう」
この老祭司の知恵にあふれた言葉に心から感謝してヨセフとマリヤは神殿を立ち去った。彼らは貧しかったので、すぐにナザレへ引き返さなければならなかった。ヨセフはナザレにしか仕事をするところがなかったからである。蓄えたわずかなお金も全部使いはたしてしまったので、ヨセフは毎日夜おそくまで働かねばならなかった。
エルサレムに別れを告げてから、マリヤの心には大きな喜びが満ちあふれていた。ナザレに帰ってきてからは、マリヤはどんな女とも口をきかなかった。赤子をだいている姿を見せれば、きっと彼女たちの好奇心を刺戟し、口うるさくなると思ったからである。
たまさかであるが、ヨセフの仕事が休みで家に居り、近所の連中が祭りで出払っているときには、独りでこっそり野原へでかけて行き、小川のほとりに腰をおろし、そよ風にゆらぐ樹々の葉音や、せせらぎの音に耳をかたむけていた。
こんなひとときが、彼女の日頃の疲れをやわらげ、彼女の新しい人生に勇気を与えてくれた。とかくヨセフが他人の噂を気にするあまり、仕事がとれず苦しい思いをすることもあった。ヨセフはいつでも彼女には優しかった。しかし大天使ガブリエルやシメオンの啓示のことは、一切口にするなと命令した。
「今はとても辛く、危ないときだ。非難されないようになるまでがんばるんだ。本当にわかってくれるような友達ができるまで」とヨセフは言うのであった。マリヤも息子のイエスのことを思い、ヨセフの命令に従った。
このようにひっそりと身を縮めるような生活をしているにも拘わらず、大変なことが起きてしまった。赤子をだいて外出しているときを狙われて、数人の悪女共がマリヤのあとをつけ、しつこくからかったり嘲(アザケ)ったりした。マリヤは家に帰り、暫くの間ふるえがとまらず、泣きふしていた。
純真無垢なマリヤにとって、わけのわからぬ凶暴な言葉の嵐は大きな傷痕となったのである。
(註1)
旧約聖書のレビ記12・2の規程に従って、イスラエルの婦人は出産後、一定期間中(四〇日間)汚れているとみなされ、神殿内に入って礼拝に参列することが許されなかった。
これは男の子の場合で、更に女の子を出産したときは、八〇日間も汚れているとみなされていた。汚れの日があけてから、定められた捧物を持参して清めてもらうことを〝潔めの式〟と言っていた。
(註2)
モーセの律法を解釈する法律家のことで、現代の法廷判事顧問のような権威ある存在であった。当時のユダヤ人社会では、民衆から尊敬され、上流階級の意識が強く、〝ラビ〟(私の先生)と呼ばれることを好んだことから、第一世紀の終り頃から、ラビという称号は、律法学者を呼ぶのに用いられるようになった。
第13章 村八分の四年間
四年の年月が流れた。ヨセフの姉、マリヤ・クローパスが帰ってきた。彼女はナザレを離れている間、大工の弟から何の便りもなかった。そんな訳で、マリヤが昔のままであるか、それとも別人のようになってしまったか、あれこれと想像しながら帰ってきた。いざ会ってみると、二人とも幸せそうではなかった。
「あら、お前たら、長い顎鬚なんかつけちゃって、どうしちゃったのよ!あれからまだ四年しか経っていないのにね」彼女は大工の妻のことには全くふれなかった。
なぜなら、マリヤは以前のようなやせこけた娘ではなくなり、とてもふくよかで美しくなっていたからである。今ではもう立派な女となり、歳月が彼女の容貌を変えてしまった。手足もふっくらとなっていた。しかし彼女の額(ヒタイ)には悲しみの痕が歴然と刻みつけられていた。まるで昔の痩せこけたマリヤの席に全く別の女が座っているようであった。
三人の子供たちが土間で遊びまわっていた。彼女の手は休む間もなく、食事の支度をしたり、糸紡ぎの仕事に夫ヨセフと共に働いていた。彼女は布を織り上げ、堂々たる風格で立ち働いているので、マリヤ・クローパスは少なからず驚いてしまった。
「あなた、本当に変ったわね。マリヤ! 心まで変わってしまったの?」
「何も言えないわ!」、とマリヤは答えるだけであった。しかし返答の声には悲しみの響きがこもっていた。
「そう自棄(ヤケ)になるもんじゃないわよ! これからが花を咲かせる年代(トキ)じゃないか。ねえマリヤ! あなた今でも夢を見るの?」
「とんでもない!! 一日だってそんな日があるもんですか。うちにはね、食べなきゃならない口が五つもあるんですから。それに、夫は病気で長いこと寝ていたんですよ。だから借金だらけでね、全部返してしまうまでは、こうして休みなく働かなくちゃならないんですよ」
マリヤ・クローパスは、マリヤが本心をぶっつけていることを知った。そして弟がどんなに辛い思いでいるかも察知した。
「姉さん、マリヤの深い愛情が無ければ僕はとっくの昔に死んでいるよ!マリヤは一日中夜おそくまで働いて、僕が立ち上れるまで、一家が飢死にしないようにがんばっているんだよ」とヨセフが言った。
これを聞いて姉はとても悲しかった。素早くマリヤに目を向けてみると、たしかにマリヤの顔には苛酷な労働と苦労の痕が深く刻みこまれていた。
「じゃ、夢どころではなく、イスラエルの救世主になる息子のことも構ってやるひまはないわね!」と、姉はささやいた。
「お祈する間もないのよ、もう何カ月もの間ナザレの道を歩くのがやっとで、あの丘の上には行けないんですものね」
「だけど、この三人の男の子のうちの一人は確かに大天使から選ばれたんでしょう。あなたは大天使様の約束を忘れてしまったのかい。あなたの処にあらわれて下さったあの方の約束を!」
「いいえ! 忘れられるもんですか! でも此の頃は、こんなに不幸が重なっても大天使様は来て下さらないんです。この子たちを飢死にさせまいと思い、いやいやながらも、あの非道(ヒド)いミリアムの所にパンをわけてもらいに行ったりして・・・」
「それじゃ、大天使様の約束はもうだめだというの?」
「私の子供たちをよく見て下さい! そうすれば、ひとりでに答えはおわかりでしょう」
遂にマリヤ・クローパスは、マリヤの辛い答えの中にイエスの母親として、何かつかえるものがあるのではないかと察し、優しく話しながら、ひとことひとこと頷き、マリヤの心に潜んでいる悲しい記憶を引き出すように努力した。遂にマリヤが心に秘めていた心配事を彼女にうちあけた。
それは、まるで体につきささった槍を引きぬくときのように苦しみ、全身をふるわせながら告白するのであった。
「私たちは、初めの頃の生活はそんなに苦しくなかったわ。ひもじい思いもせず何とか食べられるだけで満足していたの。ところが、あのミリアムが、いやがらせの材料を見つけては、それは口では言えないようなひどいいじめ方をするの。ミリアムはヨセフを借りきって自分の家の大工仕事や庭仕事をやらせるんです。
ある日の夕方、とってもむし暑い一日でした。ヨセフが何も食べないで働いていることを承知の上で彼を呼び入れ、新しい葡萄酒をのませたの。彼はあまりお酒には強くないのと、おなかが空っぽだったので、頭がくらくらし、口が軽くなってしまったから大変、私のことや、大天使ガブリエルの約束によってイエスが生まれたことをペラペラと喋ってしまったのよ。それを知った仲間たちは、鬼の首でもとったように私のことを嘲けり、口汚くののしったの。
それからがもっと大変、それを伝え聞いた長老たちがかんかんになって怒り、神を冒涜(ボウトク)するも甚だしい罪悪、言語道断であるとののしって、よってたかってヨセフをミリアムの家から放り出してしまったんです。
彼はよろめきながら歩いているのを若者たちが見てヨセフをからかったので、彼はかっとなって若者たちを殴りつけてしまったの。夏も終りに近づいていたので、ミリアムの庭にあった井戸の水は枯れ、蓋もしていなかったので、酔ったヨセフはその中に足をふみはずして落ちてしまったんです。
地上に引き上げるのに随分時間がかかってしまい、引き上げてみると、もう自分では動けない程衰弱していました。背中は傷だらけで、まるで死人のようでした。
それからは、このあばら屋の中で何週間も手当てを続け、パンを買うお金もなく、子供たちは泣き叫ぶのです。おまけにその年は、収穫が思わしくなく、葡萄やオリーブが不作でね、いつも私たちに親切にして下さった近所の人たちも飢えてしまい、自分たちが餓死しないようにするのが精一杯なのよ。
そこで意を決してパンをもらうためにミリアムの家に行き、戸口の前に立ったの。ミリアムったら、まるで毒蛇が猛毒を唇の真下に溜めこんでいるみたいに、私やイエスのことを口汚くののしり、それをじっとこらえて聞いている私をめがけてパンを投げつけるのよ。くやしくって・・・」
そうこうしているうちにヨセフの体はよくなっていっても、大天使様やイエスのことで受けた心の傷は直らず、ヨセフはいつも白い目で見られるようになったの。彼の腕はたいしたもので、彼程の職人はガリラヤでも見つからないと言われていたのに、この辺の人たちはそんな彼を嫌って、職人をわざわざテベリヤから高い金を払ってまで連れてくるしまつなのよ。
最近は人々の気持ちもやわらいできたので、このまま私たちが何ひとつ喋らなければ、なんとか暮らしていけると思うわ。この冬も飢えなくてよさそうなのよ」
「そうだわよ! 口にはよくよく注意しなくちゃね。とくに約束されたメシヤのことは絶対喋っちゃだめよ!」
「はい、そうなんです。そんなことしたら、もう生きていけないわ。またミリアムがろくでもない事を言いふらすんだから。私は馬鹿だから、つい冒pめいたことを話してしまうんじゃないかと思ってびくびくしているのよ」マリヤは頭をたれて、嫉妬に狂った一人の女の恨みによって蒙ったあらゆる苦悩や心配事を顔にあらわしていた。
暫くしてマリヤ・クローパスが言った。
「何が冒pなもんですか! とんでもない。私はマリヤのことを信じるわ! 大天使様が夜中にあらわれて、あなたに約束された通り、きっと実現するわよ」マリヤは泣きながら言った。
「お姉さまが一緒に居て下されば私もとっても心強いんだけど、なんだか私自信がないの。私には学もないし、律法学者が来ておっしゃるのよ、私の信じていることなんか当てになるもんかって。それはきっと、悪魔の囁きにきまっているって、言うの」
ヨセフが庭から声をかけたので、姉は彼の所へ行った。そしてマリヤが若い頃体験した不思議な出来事を弟が信じなくなっていることを知った。むしろそんな忌まわしいことなんか消えてなくなってしまえばよいとすら思っていた。ヨセフは姉に言った。
「そのおかげでおれは殺されるところだった。やっぱりありゃ悪魔のしわざだよ!」
「じゃ、あの老祭司シメオンの預言はどうなの?」
「ありゃ偽預言者だよ! みてごらんよ、おれたちの抱いた馬鹿げた夢のおかげで散々な目にあったじゃないか。おれはそんなものに関わるなんて真平(まっぴら)だよ。この忌まわしいことを心の奥深くたたみこんでしまうか、それともこんな思い出を抹殺できなけりゃ、どんな罰でも受けるつもりだよ。
この地上から殺されたっていいよ。もう二度とこんな恥ずかしいことを誰にも言わないって約束するよ、姉さん。おれたちはひとこともそれに触れさえしなければ、きっと幸せになれると思うよ」
マリヤ・クローパスは実に賢い女であったのでマリヤを呼んで、もう一度だけやさしく諭すのであった。
「どんなに苦しくても、恥じたり怖がったりしたらだめよ。昔のことは誰にも言わないように用心しなくちゃね。でも初子(ういご)について与えられた預言は大事にしておいて、心の中でしっかりしまっておくといいわ。
一人になって静かになったときには、そのことを深く思いめぐらして、あなたが若いときに丘の上で神様がおさずけになった賜物(たまもの)が本当であったかどうかを考えてごらんなさいよ」マリヤは黙って聞いていた。
第14章 平和な七年間
ガリラヤの商人のもとで働いていたクローパスは、とても誠実な人であったのでエルサレムやエリコ(エルサレムより東方へ18マイル、死海の北端より5マイルの所にあり、ヨルダン川西域の最古の町)の地域まで仕事をまかされていた。妻のマリヤ(ヨセフの姉)も夫と共にナザレから遠くはなれて暮らしていたので、ガリラヤの丘や湖のことをすっかり忘れていた。そこに、旅人たちがヨセフとマリヤの消息をはこんできてくれたのである。
クローパスの親戚の者がやってきて、ナザレの大工は今とても幸せに暮らし、家の者も皆平和に過ごしていることを伝えた。二人は全く別人のようになっているという。崇高な幻のことは一切触れなかったので、忌まわしい迫害は二度とおきなかったという。
旅人の報せによると、彼らの家の戸口に潜んでいた苦悩と恐怖という化け物はすっかり消え失せてしまったようである。それから七年の歳月が流れた。時間はまるで雇われた人のように、喜びや悲しみの下僕となってあらわれた。
ヨセフとマリヤにとって、それは一瞬のように流れていった。彼らは七年の間、大天使ガブリエルの約束事とか、初子に関する預言や幻についてはひとことも喋らなかった。
ある一人の金持ちの魚問屋がいて、クローパスにナザレで働いてもらいたいと申し入れてきた。それでクローパス夫妻は、曲りくねった道を驢馬に乗ってエルサレムからナザレに向かって旅立ったのである。彼女はへとへとに疲れてしまった。
ふと、向かうから小さな子供たちが夢中で話しながらこちらに歩いてくるのが目に入った。彼らはこの暑い日に、勉強を終えて学校から帰る途中であった。その中の一人がヨセフの息子であることを知った。その子のふさふさした黒髪や、胴まわりのがっちりしているところ、そして熟した葡萄のような暗黒色の目をしていたからである。
<この子は、たしかに最初の子じゃないわ、でも変ね、初子は威風堂々として美しくなければならないのに、この子ったら、まるで半病人みたいに貧弱だわね>とマリヤはブツブツ呟いた。
がっちりしている子の側に、青銅色の肌をした少年が立っていた。その子の目は木陰の池のような薄茶色をしており、気難しい顔付きで、髪は枯葉のような色をしていた。青ざめた頬は、強さや気力のようなものが見られず、後ろ姿は何となく弛(たる)んでおり、ほっそりとしたスリムな身体つきは、まるで樺の木のようであった。
喋るときは全身をふるわせるので、強烈な霊にとり憑かれているようであり、自分では制御できないようであった。
マリヤ・クローパスは夫に言った。
「本当にこの子ったら、人の魂を揺さぶり、燃え上らせる力をもっているんだわ。しばらくこの二人の子をじっくり観察しなくちゃね」彼女は旅で疲れている驢馬を休息させた。
そのうちに薄茶色の目をした男の子が首をふってわめきだした。
「もうやめた! 丘の上に行って一人遊びさせてくれよ!」黒い目をしたがっちりした子が怒り、仲間をけしかけてその子をいじめだした。沢山の蜂がたった一匹の蜂をせめたてるように、その子を叩き罵った。
マリヤ・クローパスは見るに見かねて夫に止めさせるように頼んだのであるが、とりあわなかった。自分を呼んでくれた魚問屋の所へ急いでいたからでもあった。
夕方になってマリヤ・クローパスは大工の家に着いた。マリヤは愛想よく迎え入れた。彼女はすっかりガリラヤの女になりきっていた。顔付も以前のようでなかった。夕食をたべているところに二人の男の子が家の中に入ってきた。
ナザレに入る前に出逢った子たちであった。がっちりとして背の高い子の名は〝トマス〟と言い、最初に生まれた子ではないことを知った。エルサレムの神殿で告げられた老シメオンの言葉を以前耳にしていた彼女は安心した。
なぜなら、彼女が思っていた通り、この黒髪の男の子は群れの中の一人であったからである。彼は逞しく強そうな身体をしているのであるが、どことなく品が無く、目は虚(うつろ)であった。もう一人の痩せた薄茶色の髪の少年を見上げながらマリヤ・クローパスは彼の腕をとりながらマリヤに言った。
「ひと目でこの子が〝イエス〟だとわかったわ、あなたの若いときとそっくりじゃないの。普通の人間とはどことなく違った不思議なムードを持っているわね」イエスは伯母の手をとってにっこり笑った。彼はひとことも喋らなかったが、慈悲深い顔付きや星のように輝いている神秘的な目付きに、伯母の心は深い感動をうけた。
そのとき何か突発的な出来事が起こって、恰も此の世からあの世に移り住んだような錯覚をもったのである。驚きの余り、体中を震わせ、不思議な感銘から徐々に平常な心に戻ることができた。日が暮れると、子供たちは眠りにつき、母マリヤが仕事を終えてから庭にいる姉のところにきて言った。
「イエスは優しそうな顔つきで、きゃしゃな体をしているけど、トマスの方は一つ年下なのに強そうでハンサムで、仲間うちのリーダーなんだから本当に驚いちゃうわ。夫ヨセフが言う通り、トマスは偉くなるんでしょうね。どんな人になるのかわからないけど、きっとみんなから尊敬される人物になるんじゃないかしら」
「イエスはどうなの?」、とマリヤ・クローパスはすかさずきいた。
「ヨセフが言うのよ、あいつは駄目だってね。ときどきヨセフが心配して悪霊に欺されないように見張っているのよ。大きくなったらきっと私たちに恥をかかせることになるからってね。
イエスはね、独り歩きをして浮浪者や乞食と仲よしになり、同じ年頃の子とは遊ぼうとしないの。そして髭を生やした浮浪者の足元に何時間も腰をおろして彼らの話に夢中になっているのよ。あの子ったら。おまけに何も知らないくせに、ナザレにいる律法学者のことを貶(けな)すんだから、本当にあきれてしまうわ」マリヤ・クローパスはムッとして言った。
「イエスは人々の心を刺戟して、きっと多くの人に義憤を感じさせ立ち上らせるのよ。だから私はイエスが好きなのよ」
「そうなのねえ、あの子ったら早口で、しかも私が日頃気を使っている町のお偉方のことになると、目茶苦茶にこき下ろし、お偉方の怒りなんかは全く頓着しないでやっつけちゃうのよ。今にきっとあの子は、みんなをそそのかして逮捕されるようなことになるんじゃないかしら。とても心配だわ」
「だけどイエスはとても大人しいし、私には丁寧だったわよ。私がナザレに帰ってきたとき道ばたで見かけたんだけど、弟のトマスに口のあたりを殴られても彼の腕を掴まえて、軽蔑の眼で彼をじっと見上げるだけで殴り返そうとしなかったのよ」
「だからトマスはもっとひどく怒るのよ、弟にやられたら殴り返してやるといいのにね。あの子ったら他の子のようになれず、自分勝手なことをしたり、かと思うと急に怒りだしたり、私の心はいつも穏やかじゃないのよ」
「イエスは、あなたが若いときに祈り求めて咲いた花なのよ!! イエスを責めちゃだめよ。そんなことしたらあなたの幻が台無しになってしまうわ」
第15章 日の出の語らい
暫くの間マリヤ・クローパスは家事に忙殺されていた。子供はまだ幼く、毎日育児や家事に追われていた。彼女はイエスのことについて、とりわけ出生前の大天使の約束や誕生直後のことなどに注意深く思いを寄せていた。彼女は長男の幼いヤコブに言いきかせた。
「あなたの従兄弟のイエスと仲良く遊びなさい。そしてイエスのことを色々きかせてちょうだいね。イエスはね、自分の年令(とし)よりもずっと賢い子だから、お前の模範として真似るといいわ。でもイエスの悪口を言ったり、いじめたりする子とは遊んじゃいけないよ」
ヤコブは同じ年頃の子供の中では、平和を好む穏やかな性格であった。彼は喧嘩も言い争いもせず、とても謙虚であった。彼は母の約束を守り、イエスの言動をすべて記録した。マリヤ・クローパスが集めたイエスの物語は、すべてヤコブの報告に基づいたものであった。
ガリラヤ湖の北側は、なだらかな丘陵になっていた。何年かたつうちに、とても美しい森が丘の斜面に生い茂り、オリーブの木立や葡萄畑が丘一面に広がっていった。ナザレの北側には高原地帯があって、そこから山々を眺めることができた。
朝早くイエスはその高原に通じる険しい道をよじ登って丘の頂上へ行った。ヤコブもそっとイエスの後についていった。ヤコブは自分よりも年上の従兄弟に不愉快な思いをさせまいと思って、自分の心を開かないようにしていた。
イエスは後をふりむきもせず、目前に聳える丘を見すえながら前へ進んで行った。住宅地から遠くはなれ、誰の目からも見られない所に来るまでは休もうとはしなかった。目的地に着いたとたん、イエスの顔付きが変わった。静かに歌をうたい、花を摘み、草の上に寝そべって飛びかよう鳥たちを見守っていた。
静けさが心の中にみなぎったとき、彼はそこに跪(ヒザマズ)き頭を低く垂れた。ヤコブが見守っているうちにイエスの肩が大きく上下し、彼の体全体が心の嵐に出合ったように震えだした。その状態が去ると非常に静かになり、ヤコブがそっと近づいてみると、何と彼の顔は天を仰ぎ光り輝き、まるで天使の顔のようであった。
イエスは膝をついたまま上体を挙げ、両手を大きく開いて、二度か三度挨拶をかわした。大声をあげながら聖書の言葉を口にし、その言葉が真理に基づいているかどうかを質(タダ)し、更に神の御意志(ミココロ)を明確にあらわしている御言葉があるか否かを尋ねた。
その光景は、まるで律法学者を目の前にして大事な教えを授けているかのように見え、賢者どうしが話しあっているようにイエスは振る舞った。周囲にはイエスしか居ないのに、誰かと熱っぽく話したり相槌を打つのであった。
ヤコブはイエスのまわりを見回し、生い茂った森の中をのぞき、あちこちを丁寧に探しても律法学者らしき人は見当らなかった。ヤコブの目には、ただ森や足元に生えている草むらや天空の青空しか見当らなかった。ヤコブは静けさの中で呟いた。<彼は花や鳥と話しているんだろうか?>答えは得られなかった。
ヤコブにとっては、イエスが神の知恵の御言葉を空中に描いているようにしか思えなかった。話しては止め、空中に耳を傾けイエスの目付きからそうとしか思えなかった。人っ子一人住んでいない寂しい場所であった。ヤコブの悩みは大きくなっていった。彼は次第に従兄弟に恐怖をおぼえるようになった。
イエスは日の出に輝く空気に向かって語りかけ、遠い遥か彼方のカルメル山から吹いてくる微風(そよかぜ)に返事をし、ガリラヤ湖を横切ってきた風のように囁いていたからである。ヤコブはイエスが語り合っている相手のことよりも、イエスが口にしている言葉の方に注意してみることにした。
ヤコブはこのことを一部始終母に話した。母はヤコブにもっと接近して、イエスが石や草や空気と本当に話し合っているのかどうか調べるように言った。
「お母さん、イエスはね、石や草と話しているんじゃないよ。たしかに誰かが居るんだよ、もしかしたら悪魔かもしれないってナザレの律法学者が言うんだ。
悪魔はよく子供たちにあらわれて変なことを囁くんだってさ。僕にも気を付けろって言われたんだ。そんなときには指を両耳にさし込んで逃げろっていうんだよ。悪魔と言葉をかわしたら忽ち地獄につき落とされてしまうんだって」
「イエスは悪魔となんか話すもんですか! 何も怖がることはありません! 私が言った通りにイエスに近づいてごらんなさい。思いきって、イエスが誰と話しているかをきいてみるといいんだよ」
そこである曇った朝、空一面に雲が広がり、霧が湖の上を覆っているとき、ヤコブはイエスが跪いて静かに祈っている岩から数メートル離れた所にある樹蔭(こかげ)に隠れていた。静かなひとときが流れ、ゆっくりと光が射し込んできた。薄暗い所では東の空を見上げながら囁いている人の顔ははっきり解らなかった。突然イエスは立ち上り熱心に叫んだ。
「主よ、御話下さい! 私は此処に居ります」それから暫く沈黙が続き再びイエスが叫んだ。
「だから私たちは、すべて神の子なのですね! ハイ、ハイ、その通りです。・・・悪人でさえも迷(まよ)いの中に居る者も、そして・・・異邦人(ユダヤ人以外の民族を異邦人と称し、神の選びにあずからない罪深い民族と考えていた─訳者註)でさえ神の子なのですね、だからこそ神はすべての人々に憐れみをかけられるのですね」再び沈黙が流れた。
すると突然腹の底から絞り出すような声を出して、イエスの質問が確かな返事として返ってきたような感じがした。知恵ある御言葉に接した者が見せる喜びの色がイエスの顔全体にみなぎっていたからである。
日の出の太陽がイエスの顔を照らし、イエスは立ち上り、誰かと一緒にいるかのようにあちこちと歩き回った。このようにして一時間程経った頃、ヤコブはついに我慢しきれず、隠れていた樹陰からとび出して、ワナワナと震えながら叫んだ。
「誰と話しているんですか?」
イエスが従兄弟のヤコブだとわかると、厳しい口調で静かにするように命令した。イエスの声があまりに凄かったのでヤコブはその場で竦(すく)んでしまった。イエスは一緒に居た人と思われる方にお辞儀をしてからヤコブのもとにやってきた。
「私と話していたお方を見なかったかい?」
「いいえ、誰も見ませんでした」
「あの方は預言者だった方で、僕に話しているのを聞かなかったかい?」
「いいえ、なんにもきこえませんでした。律法学者は悪魔だけが子供の耳元で囁くとおっしゃってます」
「私と話しておられた輝くような御方が暗黒の王子ベルゼブル(1)だと思うかい?」
「とんでもありません。あの方が悪魔だと言っているんじゃありません、ただ、あの律法学者は何でも知っている学校の御方です、先生が律法学者の言う通りに従いなさいって言われたのです」暫くの間イエスは黙っていた。彼は草むらに生えている白い花を摘みとってヤコブに言った。
「律法学者はこの百合の花がどうして成長し、美しい花を咲かせるか知っているだろうか? 彼は生命の秘密を知っているだろうか? 彼は茎を伸ばし、葉をつけ、蕾をならせ、美しい花を咲かせる種の不思議な秘密をみんな知っているだろうか?」ヤコブは答えた。
「いいえ、彼はそんなことは知らないと思います。神様だけが、それをお創りになったのですから御存知です。学校の先生はそうおっしゃいました。」
「そんなら律法学者は何にも知らない訳だろう?」ヤコブは困惑した表情で頭をたてに動かし、イエスに同意した。イエスは続けた。
「この一輪の花のことすら解らない方が、それ以上の難しいことを解るはずがないじゃないか」
「そうですねえ」
「律法学者は何も知らないからこそ、悪魔が僕の耳元で囁いたなどと言ってるんだよ。静かな早朝に、輝ける預言者と話していることなんか解るはずがないじゃないか!」
「はい、それはそうですね。でも、律法学者は深く学問をした御方です。あなたがどなたと話していたかを言ってくれなければ、彼には分ってもらえません。それに、あなたは僕よりも年上の少年ですが、学問をおさめたわけではないので・・・」
「僕はね、丘の上で独りで居るときに、天におられる父上(神様)が私に直接話して下さったんだよ」
この言葉を聞いたとたん、ヤコブは地上に倒れ、がたがた震えだした。暫くの間頭もあげず、じっとしていた。彼は日頃長老たちから、至高なる神様の御名前を大声で口にしてはならないと厳しく教えられていたからである。
それは絶対に口にしてはならない神聖な御方であり、至聖中の聖なる御方であるから、賢者や祭司のみが口にできることと教わっていた。だからヤコブは、その御方のことを口にしたイエスは即刻撃たれて、地上に倒れ死んでいるのではないかと思った。
そっと頭をあげて見ると、驚いたことに、イエスは彼の目の前に立っていて、ほほえんでいるではないか。
「ヤコブ! お前は何をそんなにびくびくしているんだい」
「やっぱりあなたは悪霊にとり憑かれているんだ! ただ預言者や聖なる御方が至聖なる御方のことを口にできるって、律法学者の〝ベナーデル〟が言ってました」
「ベナーデルだって? こんな小さな花に隠されている秘密すら解らない方が! ねえヤコブ! そんな人の話をどうして信じているのかい、彼は年老いて白い髭を生やしているだけじゃないか。神様は僕の父上なんだ。
そしていつも僕の心の中に居て下さることを知らないのかい! だからこそ日の出の静かな頃、このあたりで父上の神様と話ができるんだよ。ヤコブ! お願いだからこのことは誰にも言わないでおくれ。特に律法学者のベナーデルにはね」
「もちろんですとも、僕は口がさけても言うつもりはありません、とっても恐ろしいことですから」ヤコブは目を地上におとしながら悲しそうに言った。
「僕は此処に来なければよかったんです。そうすればあなたの暗い秘密も知らずにすんだのですから」
「ねえ、これは決して暗い秘密でもなんでもないんだよ。僕にとって最もうれしいことなんだ。天の父上とこうして話ができるときが一番幸せなんだよ。お前もせめてその御声を聴くことができたらいいのだが。
夜明けの静けさの中から、あふれるような神様の御言葉が魂の中に流れこんできて、もう何も恐れるものが無くなり、喜びでいっぱいになれるんだよ!」ヤコブは小さな声で弱々しくささやいた。
「あなたは、まるで自分が神様にでもなったように話している。しかも天の父上と自分が全くひとつであるかのように」ヤコブの顔面は蒼白になり、ただイエスにあきれるばかりで、何とも言えない恐怖におそわれた。
「そうじゃないんだよ、僕はただ神様の子供だと言ってるんだ、子は父に似るように、僕は天の父上のようになりたいと願っているんだよ。預言者エリヤ(2)がこの丘の上で僕にあらわれて下さって、どうしたら神様と話し合えるかを教わったんだ。そのおかげで、こうして神様と出逢うことができるようになり、つとめて神様の御意志(ミココロ)を実践しようと努めているんだよ」
ヤコブはイエスの話に耳を傾けているうちに、不思議にも次第と恐怖心がうすれ、逆に畏敬の念が心の中に充満してくるのを覚えた。
「あなたこそ将来偉大な〝ラビ〟になられる御方です!!」
「いやいや、僕はラビなんかになるつもりはないんだよ。ただ僕は天の父上の御意志(ミココロ)を実践したいと思っているだけなんだよ」
その後、イエスは二度と口を開かなかった。彼は野原をどんどん歩いて行った。イエスの容姿は雲のようなものに包まれ、ヤコブから遠くはなれてしまった。
再び独りになったイエスは、瞳をきらきら輝せながら、ガリラヤ湖の風景や周囲の山々の間をぬうように流れる河を眺めていた。西の方には慈悲深いカルメル山が聳え立ち、その向こうにはギルボアの山々の峯がかすかに見えていた。その手前には、丸みを帯びた乳房のようなタボル山があった。
目を遥か東の方にやると、起伏の無い高原が果てしなく広がっていた。南の方に目をやると、サマリヤの向こう側にかくれている聖都シオン(エルサレムのこと)があって、胸をふくらませながらあれこれと想像をめぐらしていた。
赤子のときに行ったきりで、何ひとつ憶えていなかった。イエスは、父上の都エルサレムを見上げる日を待ちこがれていた。彼は近いうちに偉大なる神の都に行けることを確信していた。聖都を歩き回り、神殿の庭々をめぐりながら、神と交わることを夢見ていた。後日になってこの夢のことをヤコブに語ったのである。
(註1)
旧約聖書、歴王紀下1・3には、〝バアル・ゼブブ〟即ちエクロンの神と記されている。ゼブブとは地獄の神の意で、全体として神を冒pする汚神のことを指している。
(註2)
紀元前九世紀頃に活躍したイスラエル初期の預言者。ヤーヴェ(神の名)に忠実なあまり当時のアハブ王に追放された。救世主(メシヤ)の先駆者としてイスラエルの民衆から絶大な期待がかけられていた。イエスが布教をしていた頃には、洗礼者ヨハネという傑物が預言者エリヤの再生と思われていた。
第16章 ヨセフの悩み
マリヤ・クローパスがヨセフの家を訪ねると、ヨセフが腹をたてていた。彼女には直ぐイエスのことで腹をたてていることがわかった。イエスがしょんぼりしていたからである。イエスが何か悪いことでもしたということでもなさそうだった。
ヨセフとイエスはお互いに愛し合っているのであるが、根深い誤解が両者を苦しめていた。
彼女はまもなくいざこざの原因を知った。彼女にとっては実に馬鹿馬鹿しいことと思われた。それは学校で授業中にイエスが居眠りをしていたことを先生から聞かされたからである。年齢順からいうと、イエスはクラスで最年長であったが、成績はビリだというのだ。ヤコブの話などから察してマリヤ・クローパスがヨセフに言った。
「イエスは一寸変わってるのよ。他(よそ)の子とはちがう生き方をしているのよ、きっと。彼は偉大な底力を宿していると思うわ、ねえヨセフ、彼はきっとイスラエルの教師になる器かもしれないよ」
「冗談じゃないよ、姉さん、奴は今日にでも聖書を勉強し、ヘブル語の書き方を憶えないと、ナザレ中の大馬鹿者と言われるにきまっているよ」ヨセフは続けて言った。
「奴はいつもトラブルを起こしやがって、苦痛の種をばらまくんだ。おれは奴と弟のトマスに仕事を教えこむんだが、奴は仕事の最中にでも居眠りをやらかすんだよ、ちっとも役立とうとしないんだ。トマスの方が年下なのに学問もやるし手先も器用なんだよ」
「へえ、そうかねえ。でもイエスには知恵があるじゃないか」
「知恵っていうのは律法学者が持っているもので、あんな餓鬼にあるわけないじゃないか」
「そんなことないわよ。イエスの友だちに逢って聞いてみてごらんよ、どうしてどうして彼は知恵の宝庫だっていうじゃないか! 言葉の持っている偉大な力なんて、驚きだよ、奇跡だよ!」
「馬鹿言っちゃ困るよ。イエスはね、奴の無知と横柄のおかげで、おれたち両親に散々恥をかかせるんだよ」
「イエスはね、私にはとっても礼儀正しいよ。それにいつでも私のために井戸から重い水がめを家まで運んできてくれるのよ。イエスは一体どんな悪さをしたっていうのよ?」
「それじゃ、あのナザレの律法学者がね、・・・」とヨセフは言いかけたのであるが、姉の質問にはこれ以上逆らわないことにした。イエスの肩をもっている姉を、とんでもない方向に追いやってしまうのではないかと恐れたからである。
第17章 異邦人〝ヘリ〟の挑戦
律法学者という存在は人々から尊敬されていた。天使が彼らの学識を祝福していると考えられていたからである。
どんな事柄について語っても称賛された。彼らがモーセの律法について講じるときには、ガリラヤ地方では、彼にたてつく者は一人もいなかった。この地方の住人はみんな単純素朴であったからである。
彼らは知恵というものがただ律法学者の口によって語られるものと信じこんでいた。律法学者への道は狭き門であった。エルサレムに群がっている多くの教師たちは、まるで巣箱の蜂のように聖都に集まっていた。
彼らは単純なガリラヤ人を軽蔑していたので、ナザレにはたった一人の律法学者しか居らず、住民の尊敬を集めていた。彼は〝ベナーデル〟と言って、ガリラヤ湖周辺の人によく知られていた。彼はまめにナザレを歩き回り、町や村を訪問した。彼の地声は大きく、異邦の地テベリヤやピリポ・カザリヤの町々にもとどかんばかりであった。
その弁舌は短剣のように鋭く、ローマ人の英知をも切り刻んでしまうと噂されていた。彼は昔ピリポ・カイザリヤで熱心に腕をみがいていたという。ヨセフはそれをいつも得意そうに言っていた。<ナザレには誰にでも自慢できる律法学者がいるんだぜ。そりゃみんな頭をさげるし、彼の話はいつも立派なんだから>
最初の頃は、この町では噂通りの彼であった。ある日のこと、ナザレの旅館に旅人がやってきた。彼らは立派な見なりをした異邦人であった。その旅人の一人が律法学者に挑戦して、泉のほとりで話し合いたいと申しこんだ。
なぜなら、この律法学者が本当の知恵を持っているのはイスラエルの子等だけであると公言していたからである。ベナーデルが誇らしげに言いふらしていた。この申し出に対してベナーデルは、ギリシャ系の異邦人と自分の身をおとしてまで話し合う気はさらさらなかったのである。
言うことがふるっていた。<信仰の篤い者は、余程悲しい必要がない限り異邦人と食事をしたり話したりしないものである>と。
それを伝え聞いた異邦人はあざ笑って言った。<律法学者はびくついているんだ。ユダヤ人だけが知恵を持っているなんて証明できないことを承知しているんだ。知恵というものは、流浪(さすら)える鳥が到る所で木に巣を作るようなものであることを知っているのだ。彼は全く馬鹿なやつよ>
異邦人が言っていることを伝え聞いたガリラヤの人々は、そんなことを言われて黙っていることはない、直ぐにでも泉のほとりに行って話し合い、散々言いこめて恥をかかせ、ナザレから追い出してしまったらどうかと主張した。しかしベナーデルはその要求を容れなかった。
そのかわり彼は怒り狂った猛獣のように荒れ狂い、三日間もぶっ通しで妻にあたり続けた。律法学者に挑戦を試みた異邦人の仲間は立ち去って、彼一人だけ旅館にとどまった。
彼はガリラヤの湖や山々の美しさに魅せられて、暫くそこに滞在したかったからである。彼は〝ヘリ〟と言って、イエスと仲良くなり、ガリラヤの山々や湖畔をめぐり歩いていた。
ヘリはイエスの顔の輝きをいち早く悟り、この少年が丘の上でどんな不思議な体験をしたのか熱心に耳を傾けた。
ヘリはイエスに色々と質問をした。その度にはね返って来る返答は鋭い刃のようで、うれしいことに彼の魂が真に求めていたものであった。ヘリはイエスに自分のことを〝エジプトの人〟と呼ぶようにたのんだ。エジプトで生まれたからである。
「私の両親はギリシャ人であったが、エジプト生まれで、人生の土台を其処で築いたんだよ。だから私はギリシャ人ではあるが、エジプト人なのだよ。
私は随分あちこちと旅をしたんだが、ユダヤ人だけが住む所が変わっても自分の国籍や人種の名前を変えようとしないんだね。実にこの点は偉い民族だと思うよ。それで私は故郷に帰るまでにこのユダヤのことをうんと勉強しようと思っているんだよ」
「その理由はね、唯一の神様を拝んでいるから、どんな環境にいてもふりまわされないからなんです。ユダヤ人たちの信仰は、ガリラヤの山々にみられる岩のようにどっしりとしているのです」エジプトの人はイエスの言葉を聞いてとても喜んだ。彼はイエスの仲間たちと泉のほとりに集まって、熱心な知恵の交換会を開きたいと言い出した。
イエスは三、四人の仲間をつれてきて早速交換会を開いた。この異邦人は、平凡な人々と対等に話し合うことによって様々な知識が得られることを知っていたので、律法学者と話す機会を失っても、素朴な人たちから知識という宝物を手にしたことをとても喜んだ。
さてイエスは、自分が一人の偉大な賢者と話し合っているとは全然知らなかった。この人の話を聞いていると喜びがわいてきて、心の窓を開いて心中のすべての秘密をさらけ出したくなるような衝動をおぼえるのであった。
まるで本当の兄のように、何でも相談相手になり、優しく、忍耐強く話を聞いてくれるので、丘の上での一人歩きのことを話しても決して嫌な顔をしなかった。そんな訳で、この二人は互いに尊敬しあうようになり、真理探究意欲という確かな絆によってしっかりと結ばれていったのである。
今まで参加していた交換会の仲間たちは次第に来なくなってしまった。この異邦人の言ってることが全然わからなかったからである。イエスだけがこの英知の市場で、時代や民族を遥かに超えた知恵を交換することができた。
ところが弟のトマスは、間もなくイエスと異邦人のことを嗅ぎつけて彼らの集会のことを律法学者に告げ口した。
おまけに次のようなことを学校の先生に密告した。<イエスは夜になると、淫らな話やギリシャの猥褻(わいせつ)な物語に熱中して、ちっとも勉強をしていない>と。律法学者はヨセフの家にでかけて行った。ベナーデルは暗い表情で、息子イエスがとんでもないことをしていると話しだした。
「お前さんは我らの大切な律法を知っているだろう! 律法では、豚を飼ってはならぬとな。だから豚をたべているような汚れたギリシャ人の知識を学んではならぬというのに、お前さんの息子は悲しいことに、この戒めを破って大罪を犯しとるというじゃないか! 彼は罰せられねばならぬわい。とにかくじゃ、あの異邦人めとつきあわないようにさせるんだね」
律法学者ベナーデルは、ヨセフの家から帰る途中、イエスはきっと泉のほとりで例の異邦人と別れを惜しんでいるにちがいないと思い、道ばたの陰で異邦人が行ってしまうのを見とどけてからイエスに近より、烈しく怒り、イエスをののしったのである。
第18章 最初の受難
夕方になってナザレの人たちが泉のほとりにやってきた。群れの中にクローパスもいた。彼は正直な人間で、あの律法学者とは正反対であった。クローパスは妻からイエスのことを聞いていたので、よく承知していた。
目前で律法学者ベナーデルが猛(たけ)り狂った蛇のように猛毒をイエスに浴びせかけ、少年をののしっているのを見て、クローパスは仲裁に入り、どうしてこんな酷いことをするのかと質した。
クローパスは立派な商人で、ナザレでは幾らか財産も持っていたので、ベナーデルは彼に対しては一目も二目もおいていた。そこでベナーデルは、多勢の人が集まっていることを悪用して、いきなりイエスの悪口を並べたてたのである。
<イエスは律法を破った大罪人である。モーセに逆らい、神に逆らった>と言いふらした。なにも知らない人々はこれを聞いて恐れをなした。律法学者のひどい仕打ちを恐れたからである。居あわせた人々は、目の前で茫然と立ちすくんでいるイエスを眺めていた。イエスはそれに対してひとことも弁解しようとしなかった。
イエスには静けさと気高い雰囲気が漂っていた。これを冷静に観察できたのは、おそらくクローパスだけではなかったろうか。彼は商人として多くの異国の人々を相手に仕事をしてきたので、これはとても異常なことだと判断し、驚くばかりであった。
目前に立っているイエスの存在は、もうただの少年ではなく、ヨルダンの隠者とたたえられている灰色の髭の老人ベナーデルよりもはるかに偉大で清純に見えた。イエスは幼少の頃より、内なる霊の炎によって変容するのであった。
律法学者も群衆もそんなイエスには気付かず、ある者は棒切れをふりまわしながらイエスを脅し、他の者は腕をふりあげてイエスに襲いかかろうとした。しかしイエスをとりまく静けさには勝つことができず、怒り狂うベナーデルを不動のままにらみつけているイエスに近よることができなかった。
クローパスは体も大きく腕力もあった。彼は暴力をふるおうとしている群集をなだめ、静かになってからベナーデルに向かって言った。
「あなたは、この子が律法を破り、神にそむいたと言ってお責めになりましたね。もっと公正に事を進めてはいかがです? 彼にも弁明するチャンスを与えるべきではありませんか! 私たちは、すべてのことが明らかにならないうちに人を審(さば)いたり罰したりすることはできないんですよ!!」
聴衆はクローパスの主張に賛成した。そこでイエスとベナーデルが聴衆の面前でお互いに話し合うことになった。イエスはみんなの前に手をあげながら訴えた。
「僕は何の罪も犯してはおりません。もしこのラビが僕の質問に答えてくれるなら、僕が決して罪を犯していないことが解ってもらえると思います」
律法学者は小僧のような少年から挑戦されたので、更に大声でわめきたてた。<こいつはガリラヤ一の大馬鹿者で、わしと口のきける奴じゃない! こいつが犯した罪をみんなで懲らしめてやるんだ!!>クローパスが言った。
「あなたはこの子が正しかったと言われるのが怖いのですか?」
「とんでもない、そんなことがあるもんか!」
「そうですか、そんなら勇気をもってこの子の言い分をお聞きになったらどうですか?」
とりまく群衆も<そうだ! そうだ! それが公平なやり方だ!>と囁きあっていた。律法学者は仕方なくイエスと対面した。イエスはたずねた。
「あなたは僕が異邦人と話したということで神に逆らったとおっしゃいます」
「その通りだ、そりゃ大変悲しむべき大罪じゃ。お前はあいつらと仲良くしておったからじゃ、それも一度ならず、ひんぱんにつきあっていたではないか」イエスは答えた。
「ラビ、あなたは大変学問のある方でいらっしゃいます。そこで先生におたずねしますが、神様はこの世界とすべてのものをお創りになったというのは本当でしょうか?」
「おお、その通りじゃ、だがその御方の名前を妄(みだ)りに口にしてはならんのじゃ、だのにお前の汚らわしい口でその方を冒pしたではないか」イエスはめげずに続けた。
「それならば、この世界をお創りになった神様は、人類をもお創りになったはずですが?」
「あたりまえよ! 神は手始めに、アダムの鼻の穴から息を吹きこまれ、すべて生命(いのち)ある者とされたことは、イスラエルの赤んぼでも知っておるわい!」ベナーデルは嘲笑った。
「それならば僕と話した異邦人も神様の御手によって創られた方ではないでしょうか?」
律法学者はここで言葉がつまってしまった。彼の顔は歪み、イエスの質問の目的がわかりかけてきた。クローパスはすかさず言った。
「そうだとも、神はすべて生きるものをお創りになったのだ! あのエジプトの人もそうなのだ!」イエスは言った。
「神様がお創りになった方と僕が話しあったからといって、どうして僕が大罪を犯すことになるのでしょうか?」
聴衆はざわめきだした。その中に居合わせた旅の人が円陣の外側から叫んだ。
「よくぞ言った!! 本当にお前は勇敢な子だ!」聴衆もベナーデルも、熱気に包まれていたので誰が叫んだのか解らなかった。ベナーデルは完全にぶちのめされてしまい、この少年の知恵に腹を立てるばかりであった。彼も負けずに言いがかりをつけてきた。
「神の創られた者も堕落して、悪魔に魅入られる者だっているんだぞ! あの異邦人め、否、異邦人は全部だ! ベルゼブルの家来なんじゃ、だからあいつらはもう神の子ではないんじゃ。それなのにお前は、悪魔の血が流れている奴と話し合って大罪を犯したのじゃ」
「そうですか、もし異邦人があなたのおっしゃる通り悪魔の王子ベルゼブルに連れていかれてしまったというならば、連れ戻す努力をしたらいかがです? 異邦人もきっと神様の驚くべき御力によって立ち帰ることができると思うのですが、そうじゃないんですか? そのためにはどうしても彼らと話し合うことしかないと思うのですが。
羊の群れから迷い出た羊がいるときには、羊飼いは懸命に探し出そうとするじゃありませんか! あなたが上辺だけでなく、本当に知恵のある方ならば、異邦人から求められれば堂々と話し合って、彼の無知と堕落を改心させてあげられるではありませんか」
「いやあ、全くその通り! 私はみんなの前であなたと話し合えるチャンスが来たようだ」とエジプトの人が群衆をかきわけながらベナーデルの前にやってきた。
「もしこの論争に負けたら、私はあなたの教えや、おっしゃることに何でも従いますよ」
この言葉を聞いて律法学者はわなわなと震えだした。ベナーデルはとても臆病で、自分があまり才知に長けていないことを承知していたからである。ベナーデルは、形振(なりふ)り構わずまるで狂った狼のように、エジプトの人を罵りまくった。
「このギリシャ人を見ろ! こいつはこの子をすっかり駄目にしてしまったのだ。それだけではあきたらず、偶像を拝ませようとしているのだ。奴を直ぐに追い出してしまうんだ! こいつをナザレから追い出さなきゃ、もっとたくさんの子供たちが堕落して、預言者が言っている地獄になっちまうんだぞ!」
クローパスの努力も空しく、律法学者とイエスをとり囲んでいた群衆が騒ぎだした。この連中は途中からかけつけた野次馬で、始めからの経緯(いきさつ)を知らなかったせいもあって、ベナーデルがエルサレムから来た律法学者というだけで頭からベナーデルを盲信していた。
だから群衆は、ベナーデルの命令に従い、この異邦人をとりかこんで烈しく罵り、彼をめがけて石を投げつけ始めた。遂に異邦人はその場から逃げ出し、群集はまるで犬のように彼のあとを追いかけていったのである。
暫くして泉のほとりに残ったのは、律法学者とイエス、及びヨセフの三人であった。ヨセフは弟のトマスからイエスが律法学者につっかかって、散々侮辱(ぶじょく)していると聞かされて、急いでかけつけた。
彼はトマスの悪意とでたらめな情報を信じこんでいたので烈しく怒り、道にすてられている塵芥(ごみ)をやにわにひっつかんでイエスの頭に投げつけた。それだけでは気がすまず、イエスを殴りつけた。
ベナーデルはヨセフに命じた<イエスを棒でぶちのめし、絶食させ、一日中大工仕事をさせなさい>と。気の弱いヨセフは、ベナーデルの命令は必ずまもると約束し、頭をかがめながらイエスを連れて帰った。
家に帰ると、ヨセフは妻を呼び、家の中で遊んでいた子供たちを外に出してから、今日の出来事を詳しく話してきかせた。特に律法学者から散々非難された事を強調した。話が終ると母マリヤは哀れな目付きでイエスを見やり、悲痛な声で言った。
「まさか! この子が神を冒pするなんて! あなたはそんなに悪いことを本当にやったの? みんなの前で聖なる神様の御名を汚したのですか?」
「ちがいます、お母さま。律法学者はまちがっています。彼の言ったことは、ひとつを除いてみんなウソなんです。そのひとつというのは、僕があのギリシャ人と話し合ったということです。この方はとてもためになることを話してくれました。彼は賢い人で、本当にためになることを沢山話してくれたのです」
ヨセフが口をはさんだ。
「律法学者がまちがっていたのなら、なぜお前は抗議しなかったのか?」
「そんなことが役にたつと思いますか? お父さんだってあのベナーデルはウソをつかないと信じているんでしょう。いつもそうおっしゃっていましたね」
ヨセフはうらめしそうに言った。
「ああ、あの異邦人めが、すっかりお前を目茶苦茶にしてしまったんだ。お前はまどわされているんだよ」
イエスが言葉を尽して説明しても、単純なヨセフにはわかってもらえず、律法学者が彼に命じた通りにイエスがくたくたになるまで、イエスを棒でたたき続きた。この時からイエスはヨセフにびくびくするようになった。全身にうけた打ち傷は治っても、ヨセフに対する不信感は簡単にいやされなかった。
マリヤ・クローパスがヨセフの所を訪ねたとき、彼女はすばやくイエスが受けた災難の疵(きず)の深さを知った。イエスは、そのときまで、どれ程父母を慕っていたか彼女はよく知っていたからである。
両親ともイエスの言うことを信じないで、あの律法学者が並べたてたウソを信じてしまった。母マリヤは、隣近所で大恥をかくことになった。彼らの目は冷たく、不快感を表わし、子供たちにはイエスから遠ざかるように言ったので、イエスは暫くの間、全く一人ですごさねばならなかった。
クローパスは、あの大騒ぎがあった夜、のっぴきならぬ用事ができて、ピリポ・カイザリヤに行っていた。しかし帰ってくると、妻からイエスが律法学者から酷い仕打ちを受けて事態が悪化していたことを知った。
そこでクローパスは、直ぐヨセフのところへでかけて行き、あの時の経緯を詳しく話してきかせ、ヨセフとマリヤに、イエスが言っていることが真実であることを信じさせようとした。それに対してヨセフが言った。
「あの子の受けた心の疵(きず)はもうなおらないでしょうよ。律法学者がウソを言ったとしてもあれだけの尊敬を集めている権威者には歯がたちませんよ。私に仕事をくれた人たちも今ではそっぽを向いてしまうし、すっかり信用を失くしてしまいましたよ。ばんかいするには、よほど時間がかかるでしょうよ」
クローパスは言った。
「この世は無情だね。なんとかならんのかね」マリヤが言った。
「全然らちがあきませんわ」ヨセフが続いて言った。
「今の私たちにとって大事なことは、だれが子供たちをくわせてやるかなんですよ」
ヨセフの言葉が終わらないうちに、イエスが家の中に入ってきた。彼の顔には、ありありと悲哀が色こくあらわれているのをクローパスは見てとった。
母マリヤは彼をしっかりと抱きしめて、目に涙をいっぱいためながら、何度もイエスに接吻するのであった。この二人の母子は、ひとつ心になっていた。
第19章 聖都への旅行計画
長い辛い時期であったが、ヨセフは爪に火をともすような暮らしの中から小銭を貯めていった。わずかばかりであったが、これだけあれば何とか目的が達成されると思った。
彼の目的は、マリヤを連れて聖都エルサレムに行き、過越祭(1)に参加することであった。この二年間というものはその願いが果たせず、イエスの下に生まれた弟妹たちを養育するのに馬車馬のように働き通した。幸いなことに、彼が造った彫り物が例の異邦人の目にとまり、なにがしかのお金をもらったので三人分の旅費ができたのである。
イエスは体の傷もなおり、ようやく歩いて話せるようになったのでマリヤはイエスに語ってきかせた。イエスが生まれたとき、エルサレムの神殿に行き、そこで大いなる栄光を体験したことなどを語った。エルサレム行きが叶いそうになったので、彼女は言った。
「これは神様の思し召しよ。イエスが祝福を受ける年齢に達したからお前もいっしょにでかけましょうよ! そうしたらきっと隣近所の人たちもお前を見直して、もう白眼(しろめ)で見られなくなり、友だちができるかもしれないね」
ヨセフは反対してマリヤに言った。
「とんでもないよ、今度はトマスをエルサレムにつれていく番さ」
仕事場で木工作業をしていたトマスは、ヨセフが大声をはりあげているのを聞いていた。マリヤは言った。
「トマスは年下です。この次にしましょうよ」
「いいや、イエスは祭礼には連れていかないよ、おれは、その方が賢明だと思っているんだ。あんな馬鹿な子をつれていってみなよ、神殿で大恥をかかされるにきまっているよ。友人や親戚の者が見て、あの馬鹿な子は一体誰なんだってきかれたら、何と答えりゃいいんだい」
「でもあなたの姉さんが言ってたわ。あの子は鳥のように賢く、ナザレの井戸のように思慮深いってね、測りしれないとも言ってたわよ」
「笑わせるんじゃないよ。それはベタニヤの井戸のように水無しの井戸のことだろうよ。夏の終り頃に駱駝(らくだ)に水をのませようと井戸につれていって、一滴の水ものめず悲しませるようなもんだ。
あの子は本当に知恵なしもいいところよ、学校の先生が言ってたが、あの子は全然字も書けないというじゃないか。
聖書もひとことも読めないなんて情無(なさけ)ないやつだ。なんでも来週までに生徒の中から中央のお偉いさんがやってきたときに読んできかせる朗読者を選ぶんだそうだ。きっとトマスあたりが選ばれるんじゃないかって言ってたよ。
こんなにできる子をエルサレムに連れていかないてはないだろう。それにな、先生がとても心配していることは、イエスには相変わらず悪霊がとり憑いているから、あの子を旅にでもつれて行ったら最後、神殿の庭で悪霊が暴れだし大騒ぎになるかもしれないって言うんだよ」
「あの先生は腹黒い人だわ。そんなことあてにならないわよ。あの子が律法学者をやっつけたばっかしに、がんとしてイエスのことを受けいれないんだから」
「とにかくイエスはな、聖書が全然読めないんだぜ! どの子もみんなそう言ってるぜ!」
マリヤは内心とてもくやしかったが、やっつける材料がみつからなかった。
イエスは仕事場の工具の上に柳のようにもたれかかり、暴風のようなヨセフの言葉に傷ついていた。その悲しみがマリヤにも伝わりとてもつらかった。トマスの快感とは正反対にイエスの悲しみは深かった。ヨセフは強情な夫であったから、そう簡単には折れなかった。そこでマリヤは賢い姉のマリヤ・クローパスのところに行って相談することにした。
(註1)
イスラエル三大祭りのひとつ。ヘブライ語でPesach(ペサ)という。モーセの率(ひき)いるイスラエル人をエジプトから救出するため、神はエジプト人の長子と家畜の初子の生命をうばい恐怖を起こさせたとき、イスラエル人は、屠殺した子羊の血を家の門口の両側の柱と鴨居とにぬり、自分たちは死をまぬがれた。殺して回る天使は、血を門口にぬった所を「過ぎ越した」ということから過越祭と名付け、エジプト脱出の記念として毎年春に祝うようになった。
第20章 暁に預言者エリヤと語る
イエスと同じ年頃の子供たちは、律法学者を恐れて誰もイエスと遊んだり話したりしなかったので、彼は年下の子供たちとガリラヤの野辺で遊んでいた。年下の子供たちはこの大きな少年が大好きだった。
イエスは彼らには大変優しく振まい、花や葉や石などで色々なものをつくっては喜ばせていた。ある時には、小さな子をおんぶしてやったり、退屈している子の相手をしていた。
車座になって座り、子供たちは幻の中からとり出してくるイエスの話に夢中になっていた。マリヤ・クローパスは遂に子供たちが木の下にたたずんでいる光景を見つけた。彼女も熱心に楽しそうな話に耳を傾けていた。それは天国のことや、一人一人の子供たちを見守っている天使が危ない目にあわないように見守っていることなどが話された。
話が終り子供たちが帰って行ったあと、マリヤ・クローパスはイエスの腕をとって過去の忌まわしいことについて慰めようとしたが成功しなかった。彼はエルサレム行きを心から望んでいたが、母の約束もきっと実行されることはないと諦めていた。
「トマスをおしのけてまで僕が行きたいとは思いません。でもやっぱり巡礼の旅に行けないと思うと悲しいんです。お母さんが約束してくれたのですが、もう一人約束してくれた人がいるんです」
始めのうちはそれが誰であるか、その名前を明かさなかった。マリヤ・クローパスは、イエスがよく丘の上で瞑想するのを知っていることを彼に告げたので遂に打ち明けて言った。
ある夜明けのこと、一人の預言者が自分の前に現われて、来年は必ずエルサレムに行くであろうと言ったことを話した。しかし彼女には信じられないことであった。もう夜が明けようとしていたので、イエスは夢でも見ているのであろうと思っていた。
誰かの声がひびいている気配を感じた。声のする方へとゆっくり歩いて行った。声に吸いこまれるように進んで行った。声が止んだ地点に、細い小道があった。そこからは町が微かに見えた。間もなく彼女は誰かが歩いてくる足音に気がついた。それは少年が険しい道をよじ登ってくる足音であった。
彼女の心には疑いの雲は晴れていた。視界が開け、夜という衣の裾が次第に西の方へ転がるように消えていった。
そこには棒立ちになっているイエスの姿があった。一時間以上も身動きもせず、息づかいの音もきこえなかった。日の出の輝きが増してきて金色の光と濃い影とがイエスの周囲に広がっていた。
雲雀(ひばり)がさえずり、鶫(つぐみ)がイエスの肩に止まっては素早く飛び立って行き、周囲の草の葉にとび降りるのであるが、鳥の体がとても軽いのか草の葉は、この愉快な歌い手が止まっても折れなかった。亀があちこちと這い回り、小川はさらさらと音をたてて流れていた。そこに居たどんな生き物もイエスを怖がる様子は見られなかった。
みんなイエスの友だちのように振るまい、歌い、飛び回り、餌をとってきて雛鳥に食べさせ、少年イエスの静かな姿のまわりに不思議な喜びの空気が漂っていた。
突然彼女は大きな変化が起こったのを見た。鳥も花も、なにもかも消えてしまったのである。白い髭を生やした老人が少年の側に立っていた。二人は親しそうに話し合っていた。マリヤ・クローパスは、もしかしたらこの方は天使かと思ったり、大天使ミカエルか大天使ガブリエルの御使いの者かと思った。
いや、この方こそ預言者にちがいないとも思った。マリヤはもう疑う余地はなかった。彼女はイエスに関する真実を知った。かつてイエスが息子ヤコブに言ってたように、イエスは神の子であった。そうでなければどうしてこんな夜明けにイスラエルの昔の預言者と話し合うことができるだろうか。じっと見つめていたマリヤ・クローパスは手で顔を覆った。
そして再び二人を見ようとして顔をあげると、もはや預言者の姿はそこになかった。暫くの間彼女は、青い水をたたえたガリラヤ湖の光景を眺めていた。そして心の中で、イエスは選ばれた人として、今にきっとイスラエルの偉大な教師として大きな力をあらわすときが来るにちがいないと思った。