イエスの弟子達
霊界通信 イエスの弟子達

パウロ回心の前後

ジェラルディン・カミンズ(著)
山本 貞彰(訳)

THE SCRIPTS OF CLEOPHAS
By Geraldine Cummins
First published February 1928
PSYCHIC PRESS LTD.
London, England

目 次
模範とすべき霊界通信の白眉
序文

第1章 ペテロの試練
第2章 選ばれた弟子の横顔
第3章 マッテヤが選ばれる
第4章 ペンテコステ(五旬節)
第5章 ペテロの奇跡
第6章 大慌ての大祭司とペテロの奇跡
第7章 アナニヤとサッピラの物語
第8章 弟子たちの逮捕
第9章 弟子たちの救出
第10章 ヤコブの活躍

第11章 聖賢ガマリエルの介入
第12章 ガマリエルの説得
第13章 霊視家ヨハネと聖賢ガマリエル
第14章 サウロ、ステパノに敗れる
第15章 教会の発展
第16章 教会の政策
第17章 ステパノの奇跡
第18章 ステパノの殉教
第19章 不吉な影が忍び寄る
第20章 サウロ三人の若者を殺害する

第21章 サウロの失策
第22章 サウロの回心
第23章 パリサイ派とサドカイ派
第24章 パウロの信仰告白
第25章 サマリヤの魔術師、シモン
第26章 パウロと大祭司
第27章 ドルカスの物語
第28章 パウロの試練
第29章 ローマ総督と魔術師エルマ
第30章 残虐な領主ヘロデ
第31章 ヘロデの挫折と死

訳者あとがき

模範とすべき霊界通信の白眉
近藤千雄

 霊媒のジェラルディン・カミンズと訳者の山本貞彰氏については『イエスの少年時代』の冒頭で私が必要最小限の紹介をさせていただいた。本書では、編纂者による<序文>と訳者による<あとがき>で霊媒カミンズについて必要かつ十分な紹介がなされているので駄弁は控えたい。

ただ、死角となりがちな観点から一言述べさせていただけば、カミンズがもしも心のどこかに慢心を宿し、名誉心と金銭欲とに駆られていたなら、きっと新興宗教の教祖となり下がって、きらびやかな神殿をうち建て、歯の浮くようなお説教をのたまっていたことであろう。

が、神の道具としての霊媒の身分を弁えていた女史は、終生その立場を忘れることなく、神の僕としての使命に徹した。モーリス・バーバネル、ハリー・エドワーズ、エルテル・ロバーツ、その他スピリチュアリズムの多くの霊媒・霊能者についても同じことが言えよう。

こうした真の意味での〝神の使者〟はその謙虚さゆえに、とかく目立たぬ存在となりがちである。そして一部の理解者を除いて、その真価を知る者はきわめてまれである。しかし真理とはそういう人たちの存在があってはじめて地上に根づき、後世へ引き継がれて行くものなのである。

さて本書を読んで、まず編纂者の顔ぶれとその格調高い「序文」に圧倒される。彼らはただの編纂者ではなく、この霊界通信の真実性の〝証人〟なのである。

先入観をひとまず脇に置き、事実は事実として、自動書記の行われる現場に立ち会い、綴られた文章の内容の信憑性を学問的に徹底的に検討し、その上で〝正真正銘〟の折り紙をつけたのである。

霊界通信はまさしくこうした率直さをもって理知的に分析する態度、俗な言い方をすれば〝疑ってかかる〟ことが大切である。もとよりそこに偏見や邪心があってはならないが・・・。

それに加えてもう一つ大切なのは、その内容が果たして霊から教わるほどの価値のあるものかどうか、という判断である。その点においても本書は、編纂者にも訳者にも〝なるほど〟と思わせる圧倒的な説得力をもった事実の連続のようである。謎とされてきた聖書の欠落部分がみごとに埋められているというのである。

霊媒が勝手にそう主張をしているのではない。キリスト教の牧師や聖書研究家、それに心霊研究家が、それもたった一人や二人ではなく実に二十数名も証言しているのである。

こうした専門的な学識と良識とを兼ね備えた人たちによる鋭い分析と理解、そして山本氏の達意の訳文が、クレオパスという、一般の日本人にはなじみの薄い初期キリスト教時代の霊からの通信を、興味深くしかも信頼のおける読み物としてくれている。

山本氏は大小合わせて数冊からなるクレオパスシリーズの中から三つの大きい通信を選び、その中でも最も大きい一冊を二巻に分けられた。本書はその前半である。

その中で使途パウロの回心に至るいきさつが語られ、後半でその伝道活動が語られる。これが第二巻で、さらに第三巻でジュリアス・シーザーへの直訴がテーマとなって展開し、そして第四巻では暴君ネロの悪業とローマの大火というクライマックスを迎える。そこには映画化してもよさそうな人間味たっぷりのドラマチックなシーンが展開する。

訳者の山本氏は以上の四巻でイエスの弟子たちの聖書時代の真実の行状をテーマとしたシリーズとし、他方、既刊の『イエスの少年時代』と、これから手掛けられる『イエスの成年時代』の二巻でイエスの実像に迫るという雄大な構想をたてておられる。

すでに形骸化してしまった在来のキリスト教に訣別された山本氏が奇しくもこうした霊界通信の翻訳によって真実のキリスト像とその教え、その弟子たちの行状を日本に紹介することとなった。これはまさしく山本氏の信仰的復活というべきであり、氏の仕事がこれからさらに他の大勢の読者を蘇らせていくことであろう。

この歴史に残る画期的な訳業の完成、成就の日の到来を、心から待ち望んでいる。


序文
これは、紀元一世紀ごろクリスチャンに改宗したクレオパスと名乗る霊から送られた通信をジェラルディン・カミンズ女史が書き綴ったものである。本書は三巻よりなるクレオパスの書と称するぼうだいな原稿群の最初の部分が収録されており、それ自体ほとんど独立した完ぺきなものである。

カミンズ女史は、アイルランド、コーク州に住む故アシュレイ教授の娘で、スポーツ界と文学界にその名が知られている人物でもある。彼女はアイルランドでホッケーの選手であり、テニスをよくする運動家である。

同時に彼女はアイルランドの農民生活を描いた『彼らが愛した大地』(マクミラン社、一九一九年発行)著者であり、更にスーザン・R・ディ女史と二人で著した二つの演劇『破壊された信仰』(ダブリン市、アベイ劇場にて上演された)及び『狐と鵞鳥』(ロンドン、コート劇場にて上演)の劇作家でもある。

カミンズ女史はまた演劇関係の新聞論説に貢献し、文壇で話題となる小説や演劇の書評を掲載した。本書の内容から察するに、さぞかし哲学、宗教に造詣深いと思われるであろうが、多読家の女子は、バーナード・ショー、ゴールズワージー、ウィリアム・イェーツなど現代作家の作品だけに限られ、神学、神知学、哲学、キリスト教関係のものは一切読んだことがないということを銘記していただきたい。

本書『クレオパスの書』の一語一語が綴られるにあたって、生き証人として、E・B・ギブス女史が立ち会った。彼女は、音楽、園芸、旅行に関心を持ち、すでにニュージランド、北米、南米、インド、ギリシャ、日本、スイス等を旅行していたが、エジプトやパレスチナには行ったことはない。

ギブス女史は一九二三年の始め頃カミンズ女史と知り合った。しかも初代教会の歴史には全く関心がなく、更に教会に行ったこともなく、ましてや入信などとは全く無関係であった。

ギブス女史立ち合いのもとに霊感書記が開始されたのが一九二三年の十二月で、このときにはカミンズ女史の書記能力は極めて低く、せいぜい一五分くらいで力つきてしまう程度だった。暫くすると次第に時間が延長されて、邪魔が入らなければ二時間ぶっ通すことができるようになった。

二年後の一九二五年十二月になって、二時間二〇分(一四〇分)となった。普段のカミンズ女史は、書き直しが多く、二日間でやっと六〇〇から七〇〇語を生み出す程度だった。自動書記が始まると、女子は左手で両目を被い、肘を机の上におき、右手で鉛筆を握り、フールスキップ判(日本のB4)用紙の束の上にもっていく。

暫く入神状態が続き急速に鉛筆が走り出すと、実に明瞭な書体で一字の誤りもなく知的な原稿が出来上がる。そばに居る者が書き終わる毎に原稿をめくって新しい用紙にする。次第に休むことなく正確に書き綴られていく。

普段の女史の書記能力と較べてみて遥かに速い速度で記述されているのがわかる。一九二六年二月十六日には一時間三八分もの間全く休みなしで、二二三〇語が記述され、同年三月十六日には四人の立会人の目の前で、一時間五分の間に一七五〇語が記述された。(平均一時間に一六一五語)

あるときなどは、詰め書きで二六〇〇語が一つの訂正もなく記述されたこともある。書く速さや執筆時間は、肉体的精神的条件によってまちまちである。通常は邪魔が入らない限り、おおよそ一時間半を少し超えるぐらいである。

編纂者一同は、カミンズ女史と、彼女の記述に協力したギブス女史の私心のない誠実な人間性を大いに買っていた。そもそもこの記述は、ドイツのオーガスチン女子修道院に所属するアンナ・カタリーナ・エメリック修女が啓示を受け、ローマ・カトリック教会が神聖なものとして広く容認した『主イエス・キリストの謙遜な生涯と苛酷な受難、及び聖母マリヤ』という霊感書記と比較されることが多い。

一八三三年にその内容が出版されて以来、ドイツ語による出版物が多く発刊され、英語、イタリヤ語、スペイン語などにも翻訳された。

著名なカトリック系神学者や聖職者は、記された内容が真に事実に基ずいてるか、そして啓示として主張し得るかどうかについて詳細に吟味した結果、これは全く疑う余地のない真正な啓示の書であるという判断を下した。

このような決断によって、本書への認識も一段と強化された。本書の至るところに散見されている内容は、実に正確であることが実証された。そのいくつかの例を後に挙げてみよう。とにかく吾々編纂陣は、エメリック修女によるドイツ語の啓示書が優れた神学者によって真正なることを証明されたのと全く同じもの、あるいはそれ以上のものがカミンズ女史によって生み出されたものと思っている。

ある観点では、本書の方が更に強力な実証力を持っているであろう。エメリック修女が受けた幻は、詩人クレメント・ブレンターノによって記述された。その方法はまず表題だけを記述し、後から回想しながら物語を埋めるというやり方であった。彼が書き終えてから修女に読んで聞かせるのではあるが、この方法では啓示の内容が多少歪められる可能性をもっている。本書の場合、このような媒介人物によって歪められることはない。

カミンズ女史も編纂者も全く口をはさむことがないからである。さらに本書は記述されたメッセージである。従って実に厳格な検査や調査を加えることが出来るメリットを持っている。

編纂者は本書に特別な権威を与えようなどとは考えていない。さらに又原本そのものについて論評するつもりもない。たしかモートン・プリンス博士とその一派が言っているように、カミンズ女史の潜在意識に関する調査の問題はあるが、前述したように女史の受けた教育や関心事を知れば殆ど問題にならないと思う。

求められているものは、写本が正確であるかという一点である。記述内容は、「使者」(メッセンジャー)と称する霊によっておくられてきたものであり、「使者」はあくまでも著者ではない。

カミンズ女史にただ忠実に受け取ってほしいと願っているだけである。ときどき彼は他人が送ってよこす言葉を書きとめる書記役を果たす場合があり、送信するときにねじまげられやしないかと文句を言うこともある。しかし送信される言葉は直訳的なものではなく、むしろ言葉を媒介とする思想であり、作者の記憶の中に蓄えられたイメージである。

「もし霊の手によって綴られたものであれば、それはまさに古代の出来事に関して真実を伝えるものである」と本文の中で語られているごとくである。

通信のすべては、一人のクレオパス霊(クローパスとも言う)の指令によって送られてきたものであるが、この霊は、人間界からは遥かに遠い高次元の方であると言われている。事実この霊界通信ではクレオパス霊の指示によって七人の書記が動員されていると言われている。

彼らの働きによってクレオパス霊の古代語の清らかさや誠実味が余すことなく現代思想によって表現されている。使者は、他の写本のほとんどが消滅してしまった初代教会から始められていると述べている。それと同時に彼はクレオパス霊が一つの記録だけではなく、色々な記録を自分で一本にまとめ上げたものから引用しているとも言っている。

使者が質問を始めると、クレオパス霊は、あらゆる知識がつまっている記憶の樹から必要なものを引き出してきて書記に与え、書記は使者にそれを伝え、使者は女史の思考の中に入っていく。

女史の思考の海に漂っている多くの言葉を集めて物語を綴っていく。それはまるでよく磨かれた鏡のように、反射されていく。しかし女史の中に使いたい言葉が見いだせない時は、とても困ることになる。彼女の記憶の中にない単語や固有名詞などを伝えることはとてもむずかしいことである。時としてこのような困難にぶつかることがある。

後になって、使者からの通信により興味ある情報がよせられた。即ちこの記録のオリジナル(原文)はキリスト降誕後六〇年乃至七〇年の出来事が集められているとのことである。記録の作者はキリストの弟子たちを直接目撃した人々であって、その大部分はエペソかアンテオケで執筆されており、主としてギリシャ語で記されている。

所々にアラム語やヘブライ語も使われている。いずれにしても、使者によって寄せられた一連の事実に関して編纂者が判断の基準を示さねばならない。

使者が言うには、在世中に特殊な専門知識を身につけ、殊に東洋の言葉に造詣が深かったそうであるが、現在自分の考えを伝達するためにいわゆる人間の固い頭脳なるものを利用することはめったにないとのことである。

彼は非常に多くの旅をし、南の島々に住む野蛮人を対象に説教をし、ローマにもしばしば行ったことがあると言っている。唯一の問題は、彼が余り地上の諸条件を知らないように思われている点である。

例えば印刷の技術が発明されていることを知らないので、書記が沢山のコピーを書かねばならないとか、書記が書いたものに多くの誤字がないかを注意深く見守るようにと心配しているのである。しかし彼について最も称賛に与えすることは、彼が次のように語っている点であろう。

「我々は師なるキリストを仰いで生き抜いた兄弟のように、悲しみ、危機、驚異、清純の生涯をもう一度やり直すべきである」と本書に収録されている記録について究極的にどんな説明が加えられようとも、これは実に興味津々たる内容が盛り込まれ、示唆に富む記録である。

本書の接し方について読者は提供されている内容の証拠性よりも、内面的確信と対決されんことを勧める。ある方々は、これが超現実(霊界)からの通信であるとみなすであろうし、又ある方々は、殊に現代心理学の立場から、純粋に人間自身の産物であり、無意識に働いているテレパシーのようなものによるものと考えるであろう。

いずれにしてもこの記録の最初の部分を発刊するにあたり、編纂者一同は本書が多くの異なった興味を提供し、あらゆる観点から調査研究されるであろうと確信するものである。

本書は、原稿に忠実に印刷されているが、まれに本文が不必要な古語が多すぎてフレーズが乱れている場合には手直しされている。あるいは又、内容そのものに直接関係のない、くどい文章や、前述されたものの繰り返しなどは削除してあるが、多少なりとも本文の意味と関係しているものにはついては一切手を触れず、そのままの文体を保存するように努めている。

本書の内容についていくつかの説明を添えておく。

この記録は新約聖書中の『使徒行伝』及びパウロの手紙を補うものとして記されている。

具体的には初代教会の様々な状況が語られ、更にキリストの死んだ直後からパウロがアテネに向かってベレヤを出発した頃までの弟子たちの状況が記されている。(新約聖書使徒行伝一七・一五参照)本書の中で新約聖書が別に存在していることをほのめかしているが、本書はそれとほとんど関係がないようである。

少なくとも使者と称する霊は、在世中に聖書なるものが存在していることを知らなかった。彼は「私は、この部分に関する聖書の記述は全く知らない」と言っている。本書はまさに我々が知っている新約聖書の足りないところを補いかつ説明する材料を含んでいるだけではなく、聖書では得られない情報をふんだんに提供してくれるのである。

パウロの劇的回心(ユダヤ教からイエスに帰依すること)の経験について新約聖書では余り多くを記していないので、パウロの生涯を研究する者にとっては、実に興味深い資料を本書から得られると同時に使徒行伝九章<回心の記述>について非常に丁寧に詳述された本書の記録とを比較研究することができる。

新約聖書について銘記すべきことは、使徒行伝の最初の一二章の内容が九年にわたる経緯を語るのに、たった三〇日分の記録しかのっていないことである。

これは新約聖書の編集者が明らかに膨大な聖書の歴史的資料を漏らしていることになる。本書の記録がもし本当に信頼し得るものであるならばそれは使徒時代に関する知識について、非常に重大な貢献をしてることになる。

もしも媒介者としてのカミンズ女史の生涯と精神構造を以って説明しようとするならば、本書を記述した人間の推測力について何と理解したらよいのであろうか。小アジアのアンテオケに在住するユダヤ人社会の首長の名称について、すぐれた研究によると、「アルコン」というタイトルが正しいことがわかってきた。

クレオパスが当時の記録を語っている頃の首長のタイトルは、紀元一一年、ローマ皇帝によって町全体の機構改革が実施され、「エスナルク」から「アルコン」(archon)に変わったばかりであった。従って当時の記録に、殊に、パレスチナ地方に住む人による記録に「エスナルク」と載っていても許さるべきミスであると言える。

それなのに、その当時の比較的新しい名称の変更「アルコン」が本書に記されているということは、これ以外の多くのこまかい部分についても、この道の権威者を驚かせる程の正確な知識を伝える一例である。

このような細部にわたる正確な知識以上にすぐれていることは、当時の時代的情況を示唆する鋭い洞察力である。

十二使徒(イエスの弟子)の性格についても、それぞれの人間性を深く理解し、暖かい眼を以って描き出している。ユダのことにいたっては、現代作家も面目を失う程の明晰なタッチで描かれている。

ごく一般にユダは、貪欲からイエスを裏切ったと言われている。福音書の関係記事(マタイ伝二六・一四・一五。マルコ伝一四・十,十一。ルカ伝二二・三‐六。ヨハネ伝一三・二、二七、三十。使徒行伝一・十六‐二十五)をよく吟味してみれば、この考え方が全く正しいものではないことがわかる。

貪欲説は後世の推定であって、貪欲であった理由は一つも説明されてはいない。事実、何が彼を裏切りに追いやったのか説明することは実にむずかしいことである。しかしクレオパスの記録が示しているように、野心が断たれた失望感が理由であるとすれば納得がいくのである。

何もユダに限らず、リーダー格の三人の使徒(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)もユダに劣らず野心的であったようである。ペテロはイエスの一番弟子たることを求め、更にゼベダイ兄弟ヤコブとヨハネは、神の王国の栄光を求めイエスの右と左に座を占めようと願い出た。

(マルコ伝一〇・三十五‐三十七)これを見ても解るように、ユダだけが野心的であったとは言えない。

この記録は確かに聖書の内容を補い、役立つ説明を与えてくれるが、聖書を制定した教会の基準によって作られたわけではない。素直な読者の中には、魔術の存在や魔術の物語が出てくることに驚かされ、聖書に示されている聖霊の働きではないと反対する者もいるかもしれない。

しかしこの記録自体は、高遠な霊的、哲学的レベルから記されたものではない。時として、反感をかうような世俗的レベルを露呈することもある。使者は次のように言っている。

「キリストのメッセージは、無学な人々に送られたものである。即ち大衆のためのものである。だから私が運ぶこの記録に当時のパリサイ人やサドカイ人は耳をかさなかっただろう」

本書のすべての物語は、クレオパス霊の素朴な喜びを特徴づける、奇跡の物語である。彼にとってキリスト教は偉大な霊の力の働きによって出現したものと見ている。しかも同志を容認しないものを殺してしまう程の力が「同志」掌中にあり、彼らだけが呪術を用いることが出来た。従って、純粋な霊性については余り問われず、すべての敵を粉砕してしまう突発的な力の方が優先していた。このような魔術は、もちろん非常に低次な宗教的展開と言える。

このような現象は、正典として認められている新約聖書の中にも、使徒たちの行為として収録されている。使徒たちの本来の仕事は、純粋な霊的真理を多くの人々の心に叩き込むことであったのだ。

確かにこのような形のものが本書の中に見られるとしても、これが本書の価値を損なうと反対する者がいれば、それは非常に人間くさい。時として非キリスト教的感情の露出がかえって心理的裏付けや歴史的価値を持っていることを知らないからであろう。本書は正典として認められているものではなく、その価値を計測することはできないかも知れない。

しかし編纂者が本書を新約聖書と同じレベルにおいて判断していると考えることは、余りにも軽率である誹りを免れない。初期のキリスト教文書は新約聖書よりも遥かに確かな標準を示している。

最も伯仲している文書は、(1)アポクリファ使途伝(経外典)とか、紀元二世紀ごろまでの伝奇小説的なものであろう。銘記すべきことは、使徒時代のキリスト教でさえ、異教の考えや信仰と混合することは避けられなかった事実である。新約聖書には、迷信や冷淡な策略が無数にのせられている。ある意味で歴史的ではないとされている、アポクリファ(経外典)は、初代教会のキリスト教社会の内情を知るうえで非常に有効な手掛かりを提供してくれる。

一例をあげれば、本書が非常に有名な初期キリスト教伝奇小説(2)『クレメンスの書』と酷似していることである。

ここでは残念ながら、宗教哲学、道徳律、教会組織などについて両者の類似点について詳しく触れることはできない。また、全体の調子から推測して、どちらが先に記されたのか、あるいはどちらが複製なのかを判断することは不可能である。

魔術、妖術への信仰、魔力を行使すること、使徒たちに与えられ行使されていた顕著な魔術的パワーは、両者にも等しく取りあげられ、しかも、それらは教会が否応なしに直面させられた社会的情況であったと言っている。

原始宗教に関する最近の研究によると、世界のどの宗教形態も魔術的信仰をいだいていたことがより明らかになっている。いかなる外観を呈しているにせよ、かかる基本的な信仰形態は教会が対決し論駁しなければならなかったものである。

従って本書において華々しく展開される魔術の記述があっても、真実性を損なう論拠と見なす必要はない。それよりもどんな作者でも迷信とか詭弁とか非難されることなく、初代教会を黄金時代として自然のままに表現できたことを多とすべきであろう。

更に本書と、真正なものとして知られている初期キリスト教の小説が、様式の上でも酷似していることにおどろかされる。クレオパス霊は、文学的に生き生きと表現することに並々ならぬ努力を払っている。読者がどれだけ汲みとることに成功するかは別として、彼は意図的にロマンチックな、情緒的な物語をふんだんにもりこんでいる。

物語を活気づけるために一度ならず、ほんのりとした興味をそそるものを導入しようとしている。第三巻一章に描かれている一七五〇文字で綴られた文章などは、まさに美麗そのものであり、なかには、誇張や冗長なところもある。

彼は人物描写を好む。怒り狂ったり、狼狽するピリピの首長などを至極ユーモラスに描いており、対話の術にも長けている。彼はまたエピソード(挿話)単位に本書を組み立てて読者の興味を先へ先へと引っ張っていく。

本書に関して非常に興味をそそられることは、通信のために選びぬかれた霊媒が小説家であり、使者は彼女(カミンズ女史)の心に浮かぶイメージを最大限に利用しなければならないので、勢い彼の語ることが多くの小説を読んで洗練された表現方法を身につけた女史の形態をとることになる。

それで物語全体は、終始変わらない現代的表現形式となっていることに着目していただきたい。例外として欽定訳聖書(一六一一年刊行された英訳聖書)や古語が用いられることがある。従って本書の大部分は現代用語に変えられているわけである。しかし個々の物語の様式は、いわゆる使者の人格を通して伝えられたものである。

一般的に言えば、あたかも家族関係のように、本書と聖書に付属する外典や偽書との間には極めて緊密な興味ある類似性がある。

最近そのことに貴重な注意を向けた研究が、英国のチャルス博士及びドイツのカウチェ教授によって進められている。それなのに教会の権威によって承認された諸文書に付随した重要性があることを主張しようとしない。これはキリスト教の教義よりも、初期の教会歴史を研究する資料である。

たいていは口伝によるもので、信頼すべき口伝の内容が急速に通俗化していった。しかし、これは当時の一般大衆の宗教を知る上で重要な手掛かりと証拠を提供してくれる。もしも、クレオパスの書と他の諸文書との比較研究が始められるならば、かなりの驚くべき暗示に富む類似性が発見されるであろう。

しかもエズラ書(旧約聖書)やユダヤ人キリスト教徒によって記された福音書やグノーシス(3)文書など及びもつかぬ程詳細に、価値ある研究がなされるであろう。奇跡的要素の流行についてはすでに触れたように、キリスト教そのものが奇跡から出発していることをすでに弁明しておりながら、最高の現代的論評では、奇跡がイエス自身によって行われたという疑う余地のない事実を放置している始末である。

更にその上に純粋なユダヤ教やキリスト教の宗教的要素が徐々に薄らいできて、世俗的思想が強く浸透してきた。

これらの傾向は本書の中でも見られることは、すでに指摘してきたとおりである。粗末で懲罰式色彩の濃い異教的要素や主情主義的基調は、あらゆる種類の外典にも共通しており、その必然的結果として、キリスト教も世俗化していくのである。

クレオパス霊の書について考察を加えていると、ちょうど外典の研究をしている篤信家が壁にぶつかるのと同様に編纂者は、霊感とは一体なにを意味するものであるかという難問にぶつかる。

そしてこの文書がもっている重要性とは、初期の頃のキリスト教が何であったかということよりも、初期の主唱者たちがキリスト教をどのように見ていたかを明らかにすることではないかと確信している。注意深い読者ならば、迷信や誤った熱情の背景及び使徒や後継者を悩ませていた無知に強い印象をいだかれるであろう。

本書に出てくる初期の改宗者で、教会の首脳や教師になった者は、教化するために過度な行為を発揮してはいない。彼らは、ある程度の理解力を持っており、識者としての証を持っている。それは地上の容器(肉体)に蓄えられた宝である。

最後に編纂者一同は、この記録を努めて公平な形で公開する。即ち立証を申し立てたり、個人的動機やくだらないもくろみをもって出版するのではない。印刷の原稿を用意するに当たって、全体的に変更を加えたり、組み替えたりしていない。この短い序文の中で、読者に対して率直に事実の説明を加え、偏見の余地を与えないように努めた。

本書によって提起される諸問題にある程度当惑するであろうが、われわれは、わざと憶測や説明をほのめかすことを差し控えた。本書は、注目や調査に与えする作品であり、初期キリスト教の歴史及び文学において、思想的変遷あるいは高次元からの通信に関する専門家の調査を受けることに躊躇しないであろう。

一九二七年十二月二十一日
編纂者一同


(注1)
ギリシャ語のアポクリュフォスからきたもので、「隠されたもの」という意味である。聖典として入れられなかった経外文書をさし、旧約聖書からもれたものである。「旧約外典」は十四巻、新約外典は約二十巻がある。

(注2)
ペテロの弟子、クレメンス(ローマの初代司教)が、コリントの信者にあてた書簡。

(注3)
初期キリスト教時代の神秘主義的宗教思想、即ち霊界の神秘を重視するグループによって記された文書。


編纂者一覧
モード博士(ロンドン、ケンシングトン教区主教)
エスタレー博士(キングス・カレッジ、ロンドン大学、名誉教授/ヘブル語、旧約聖書学の権威者)
パーシー・デァマー神学博士(司祭)

ジョン・ラモンド神学博士(司祭)
ビスカテス・オットレイ(カンタベリー大聖堂、司祭)
フリーマン(ブリッスル大聖堂参事、司祭)

A・H・リー(司祭)
ドレイトン・トーマス(司祭)
フィールデング・オールド(司祭)
アルフレッド・リトルヘール(司祭)

プリンス博士(元心霊科学協会、会長)
エドワード・ラッセル氏
R・カミング博士

J・G・ミラー博士
G・R・S・ミード氏
クレスピニー女史(作家)

セント・クレア・ストバート夫人
バーバラ・マッケンジー夫人
マーシー・フィルモア嬢

エドワード・アリソン夫人(元米国心霊科学協会秘書)
スザンナ・デイ嬢
N・トムギャロン嬢
アンダーヒル嬢

編纂者一同へ
編纂者の一人、故W・O・E・エスタレー博士の見解が序文の中で非常に良くとりこまれている。英国の新聞、ザ・タイムスに掲載された同氏の死亡記事欄に、同博士は知識の無限の貯蔵庫の持ち主と述べられている。彼は英国における代表的なヘブル学者と言われている。

一九二五年十二月にエスタレー博士は、キングス・カレッジのヘブル語及び旧約聖書注解の名誉教授としてロンドンのグロトリアン・ホールにて『クレオパスの書』に関する公開講座を開催した。そこで次のように言った。

「比較的新しい称号であった「アルコン」という言葉を使っていることは、記録を書く側に極めて正確な知識を持っていることの片鱗をのぞかせるもので、この記録作成者は実に驚くべき人物である。私が今選んだほんのわずかな例証は、諸君にこの文書がもっている真実性が全く偶然ではないことを示すためである。

しかしどうか信じていただきたいことは、もし私が今、この種の例を文書の中から十分の一だけでもよいから列挙しようとするなら、諸君を夜中まで止めておかねばならないだろう」

エスタレー博士が最後にこの講座を閉じる言葉は、次のようであった。

「初期の教会が、この新しい宗教を前進させるためには、特徴ある信仰を明確に述べ伝える必要があった。今やクレオパスの記録の中に、私は、我々の手元に伝えられた総ての初期キリスト教文献と共通の性格を見いだしているばかりではなく、当時教えられていた教理も一致していることを発見している」

神学博士W・P・パターソン主教

ダビット・モリソン教授及び有志一同