第1章 マリヤの誕生
ユダヤ民族がローマの支配下にあって大いに苦しんでいた頃、ある若い漁師と妻がガリラヤ湖の岸辺に住んでいた。

舟と網を操る男とその妻は、二人とも素朴な人間で、お互い同士のこと以外はなにも考えず、近所付合いもせず親戚の所にも行かなかった。二人だけで充分に満足していたからであった。

深い愛の結晶として女の子が授かり、〝マリヤ〟と名付けた。マリヤはこの夫婦を有頂天にさせたが、その後何年たっても子宝に恵まれず夫は悲嘆に暮れていた。それがもとで彼は仕事の張りをすっかり失くしてしまった。

ある日のこと、マリヤの居るところで、父は母及び父の実母ゼリータに彼の悲しみの原因をうちあけた。娘のマリヤは心を痛め、自分がなにか過ちを犯して父の大きな重荷になっているのではないかと恐れた。マリヤは祖母ゼリータに言った。

「私が男の子でないためにお父さんを悲しませています。どうしたらお慰めできるんでしょうか」祖母は答えた。

「おまえはどんなことをしても聖書に書いてあることを変えることは出来ないよ。お父さんはね、ローマの支配を粉砕し、神の民イスラエルを苦しみから解放し、地上の諸国を立ち上らせることのできる息子が欲しいと願っているんだよ」

更にマリヤが尋ねると祖母は預言者(1)の言ってることを教えてくれた。なんでも救いのために一人の男が現われ、聖なるエルサレムを征服者の手から奪還しユダヤ人を偉大な民族にするというのである。マリヤは言った。

「そんなら私はだめね、女なんですもの」

マリヤの表情は暗かった。ゼリータはマリヤを抱きよせて接吻し、微笑みながら言った。

「神様のなさることはとても不思議なもので、だれにもわからないんだよ。おまえが大きくなったら、ユダス・マカビ―(2)よりもっと偉い男の子を産んでちょうだいね。

立派な預言者になって異邦人を照らす光となり、イスラエルの神の前にすべての人がひれ伏すようにさせるのよ。ああ早くそんな日が来たらいいのにね」

マリヤは祖母が言ってることが殆どわからなかったが、とてもうれしかった。それからというものはガリラヤの湖畔で遊ぶ子供たちのだれよりも喜々として日々をおくった。マリヤは両親のしつけによく従い、他の子供たちとは遊ぼうとしなかった。

月日がたつにつれて漁師の心を痛めた悲しみは次第にうすれていった。彼は遂に男の子が授からないのは神の思し召しであると断言した。現在四人が仲良く暮らすことで満足した。

そのかわりに神は他の面でふんだんに恵みを与えたのであろうか、この漁師の家は栄えた。彼の網(あみ)さばきは絶妙で、銀色の魚が大量に取れ、飛ぶように売れたからである。

彼らは陽当たりのよい、沢山花が咲く所に住んでいた。冬の寒さにうたれることはなく、夏の日差しに庭の植物が焼かれることはなかった。その辺の土地は水利に恵まれていた。彼らは、望むものはすべて与えられた。

マリヤはすくすく成長し、花のような美しい乙女になって幸せな日々をおくっていた。マリヤの母は歌いながら家事に専念し、祖母は愛にあふれている家族のためにいつも感謝の祈りをささげていた。

大抵の男女は貧乏や争いごとのために苦労しているのだが、ゼリータの息子と嫁の二人は一心同体で何ひとつ心配の種はなかった。

初冬のある日のこと、太陽は顔を出さず強い風が吹いていた。風は山の方から湖を横切って吹き荒れていた。一瞬湖面に変化が起こった。恰も目に見えない農夫たちが湖の上を竿で叩きながら横切って行くかのように、泡がおどり狂ったようにシューシューと音をたて、怒り狂った波が天に向かってはね上る勢いであった。

ゼリータの息子の舟はとても古くて小さな穴があちこちにあいており、そこから水が侵入してくるのであった。漁師たちは勇敢に働いていた。

突然激しい突風が山側から吹いてきて、まるで獰猛(どうもう)な鷹のようにゼリータの息子の舟を襲った。あっという間に舟は荒れ狂った波の中にのまれてしまった。

空は真黒で黒ずんだ雨が湖面に降りそそぎ、岸からは漁師たちの舟は全く見えなくなっていた。重苦しい夜の帷(とばり)が唸り声をあげている地上におりてきた。

女たちは一カ所に集まって、湖上で右往左往している男たちのために嘆き悲しみ、真剣に祈っていた。月や星のない陰うつな時が流れた。

何の徴(シルシ)もないままに東の丘に夜明けの気配を感じる頃、微かな望みがわいてきて、女たちの真剣な祈りがきかれたのではないかと思えるようになった。

夜があけて風が静まり、漁師たちが岸辺に戻ってきたときはみんな感謝の祈りをささげた。しかし彼らは悲しい報せをもってきた。

ゼリータの息子の舟は前夜の夕暮頃波にのまれ沈んでしまったのである。太陽が天高く昇った頃、湖には再び静けさが戻ってきた。天空はまるで神がまたいで歩かれたようにキラキラと光り輝いていた。

世界が再び微笑みかける頃、五人の男たちがマリヤの住んでいる家に重い荷物を運んできた。彼らはひとことも語らずに頭をさげ、奥の薄暗い部屋へ進んで行った。祖母が床の上にひろげたリネンシーツの上に息子の傷だらけの亡骸(なきがら)を安置した。

マリヤの母は激しい戦慄におそわれた。娘のマリヤが見ていて恐ろしくなるくらい激しくふるえていた。

マリヤもふるえながら頭をたれていたが誰もマリヤが居ることに気付かなかった。なぜならば母が父の亡骸の側に卒倒して動かなくなってしまったからである。

この夫婦はガリラヤ中でこれほどまでに愛し合った者はいない位相思相愛の仲であった。生前すごしてきた二人の日々は、思いも心も全くひとつであった。彼らにとって天国は彼らの居る所であった。だからこそこの瞬間はマリヤの母にとって暗黒と絶望であった。

この二人は森の中の若樹(わかぎ)のように強かった。だが遂に二人は逝ってしまった。夫が他界した直後に彼女の霊も間もなく暗黒に閉ざされた肉体を離れ去ったのである。

祖母は突然逝ってしまった息子夫婦のために香料と亡骸を包む布の用意をととのえてやらねばならなかった。亡骸は岩を削ってつくられた墓の中に納められ永遠の休息に入った。

葬式が終ってからマリヤは祖母のところに行き、服の折り目の中に顔を埋めながら死んだ父母を生き返らせて欲しいとしきりに祈るのであった。祖母はマリヤを何度となく慰めてやり、これからは神様が父であり、祖母が彼女のお母さんになるんだよ、と言いきかせた。

(註1)
旧約聖書のイザヤ書7・14──〝それゆえ主はみずから一つのしるしをあなたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を生む。その名はインマヌエルととなえられる。〟(イザヤは紀元前八世紀に活躍した四大預言者の一人)

(註2)
紀元前一七五 ── 一六四、シリア王アンテオコス四世エピファネスは、ユダヤ人を迫害し、エルサレムの神殿に押し入り、異教の祭壇を築いてユダヤ人の怒りをかった。その時老祭司マタテアスが立ち上り義勇軍を結成し、息子ユダスはシリア軍を撃退してユダヤに勝利をもたらした。以来ユダスの名はユダヤ救済の英雄として語り伝えられた。


第2章 マリヤの悲願
ガリラヤ湖の岸辺にあった家を売って、ゼリータとマリヤはナザレにやってきた。(ナザレはガリラヤ湖の西方に広がる丘陵地帯で北部パレスチナに散在するガリラヤの町のひとつ。ルカ2・26参照─訳者註)

二人は野原に建っている羊飼いの小屋に住みついた。ガリラヤの人たちは皆親切で、たえ間なくゼリータのところに心暖まるものを運んできた。無花果(イチジク)や何匹かの魚をとどけたり、収穫のときなどには、小麦などをもってきた。

死んだ父親は布にかなりのお金をくるんで残してくれたので、祖母とマリヤが貧乏をしていても大いに役立った。ゼリータは年をとるにつれ外出もできなくなっていた。

真昼の日差しが小屋の中にさしこんでいてもゼリータは手探りで歩かねばならなかった。このような苦しみの中にあっても彼女は悲しむことがなく、以前の元気な頃のように彼女は多くの恵みを神に感謝するのであった。そんな祖母を見てマリヤはたずねるのであった。

「愛する者がとり去られた上、視力を失い、働くこともできなくなり、自分で家の入口のところまで歩いていくのにやっとのことだというのに、どうして賛美の祈りなんかできるんですか?」そこでゼリータはおだやかに言った。

「苦しみが与えられるには、必ず目的があるのです。苦悩から本当の喜びと勝利が生まれてくるのです。イスラエルの民は(1)エジプトによって随分多くの苦しみを受けたじゃありませんか。そのあとで乳と蜜のしたたる約束の地が与えられたのですよ」マリヤは祖母の話をきいておだやかになり、もっと先祖の話をして欲しいとねだった。

薄暗い小部屋の中で昔の偉大な人物について多くのことをマリヤは知ることができた。視力を失った祖母が聖書について語る内容があまりにもすばらしかったので、時々マリヤは目の前に本当の人物が現れて動きまわるように思えた。

少年(2)ダビデが、まる腰で彼女の前に立ちはだかり、手には石投げ器だけを持ち、暗がりの中からペリシテ人の巨体がぬーと現れたかと思うと少年ダビデの投げた石に撃たれて倒れてしまい、小さな住まい一杯に巨体を横たえるのであった。

マリヤはガリラヤからまだ一歩も外に出たことがなかったが、金色の屋根に輝くエルサレムの神殿などを真近かに感じることができた。彼女はまた、ペリシテとの戦い(3)や、バビロニヤによる攻撃によって民族全体がバビロニヤに捕囚となる悲劇や民族の嘆きなどを知ることができた。

さらに多くの預言者たちが一人ずつ目の前に現れては通りすぎて行った。イザヤ、エリヤ、エレミヤといった偉大な預言者や沢山のすばらしい人たちが、ゆったりとした衣を身にまとい、高貴な表情をうかべて語ったことは、〝乙女がみごもってイスラエルの救済者が生まれる〟ということであった。

ユダヤ人にとって忘れられないギリシャ人の征服についても詳しく語られた。

(第一章註2参照)そんなときは貧しい小さな部屋の中で祖母は珍らしく激しい口調で語った。

祖母が若い頃、村の律法学者(モーセの律法を解釈する聖書学者で法廷判事の顧問をつとめる上流階級・権力者─訳者註)から聞いた話が、そのままマリヤにも語り伝えられた。

こんな乏しい小屋の中でもマリヤにとっては、すばらしい夢を織りなす幻と喜びにあふれる場所となったのである。

今やギリシャ人にとってかわって、ローマ人が支配しユダヤ人の信仰心を堕落させようとしていた。〝シオン〟という聖都(エルサレムの別名)を汚そうとしていた。マリヤは祖母にたずねた。

救済者は何という町や村から出現するのか、そしてその方、即ちメシヤ(救世主)の母として誰が選ばれるのか、きっと預言者と言われた方ならば母となる人の名前や種族のこともわかっているのではないか。ゼリータはルーツに関することは全く知らなかった。

今でもエルサレムに於いてさえ、救世主に関する情報は全くないとのことであった。

マリヤはこのような祖母の言葉で満足しなければならなかった。父を亡くしてからというものは、まるで森の中にひそんでいるファウヌス(半神半羊)のように、同じ世代の者と付き合おうとせず、その上ゼリータと世間話をしようとやってくる年増の女たちと口をきこうともしなかった。

祖母から多くの話を聞いてから、彼女は壮大な幻を描き、殊にメシヤ到来の年代的核心をつかもうと努力し、ローマを征服してくれるイスラエル民族の救済者のことで頭が一杯であった。

ある日のこと、マリヤはゼリータに自分自身のことではなくユダヤ全体のために祈れば神はそれをかなえて下さるかどうかをたずねてみた。すると祖母は即座に答えてくれた。

「もしお前が毎日お祈りし、自分をいつも清らかに保ち、他人と交渉を断って願い続ければ、きっと神様はお前の願いをききいれて下さるだろうよ。昔の預言者たちも何か特別な恵みを求めるときには、一人で荒野に退いてお祈りしたものだよ」

マリヤは自分の夢を教えようとしなかった。他人に知られることによって夢が汚されやしないかと思ったからである。それからは、マリヤがたった一人で丘や野をさまよい歩き大きな声をはりあげながら神に祈った。近所の人たちは祖母に言った。

「マリヤはもう子供ではないんだから、そろそろ近所の娘たちと付き合って色んなことを勉強させたらどうだろうか。今のようにいつも独りでいるとだんだん世間知らずになってしまうよ」

冬が去り、春がやってきて、丘一帯に色とりどりの花が咲き乱れていた。葡萄の木は新芽をふき出し、木々の枝は緑の装いをまとっていた。鳥のさえずりが地上にひびき渡り、あらゆる生命の躍動が全面にみなぎっていた。

マリヤは祖母に挨拶してから毎日のように外出した。けれども友達をつくろうとはしなかった。

彼女はどこかに立ち寄ることもなく山の上に登り、ただ独りで過ごすのであった。木陰のもとでひざまずき、魂の底からわき上がる渇きが祈りとなって、昔父から聞かされた言葉がきっかけとなって芽生えた願いを神へぶつけた。

何回となく日の出を楽しみ、ほの暗い朝の静けさの中で鳥たちが射しこんでくる光の中を飛び回るさまを見つめていた。今や彼女の霊は喜びにみたされていた。

彼女はすでに自分が神の選びにあずかったこと、来るべき時に、メシヤの母となるべきことを信じられるようになっていた。

美しい春の季節に彼女の夢は陽光と花々とで織りこまれていった。幻はガリラヤの蒼々とした水面に映り、遥か北方にそびえる白雪をいだいた山々や、こぼれるように微笑をたたえる湖の岸辺からは、誰もが否定できない希望と確信が贈られてきたのである。

マリヤの夢が必ずかないますように、そして神は何ひとつ御出来にならないことはない・・・とマリヤは確信し、その度合いを増していった。彼女にとって周囲の人々はすべて影に等しいものであった。彼らは彼女の人生と何のかかわりを持つことはなかった。

彼女にとって、人生とは、暁に目覚め、透徹した素晴らしい生活を毎日おくることであった。

山々を散策し、神との交わりを続け、時として美しい花々を摘みとり、ひたすら祈りと夢に明け暮れていた。

(註1)
紀元前一二八〇年頃、イスラエル民族がエジプトの奴隷となり苦役に服した。預言者モーセが現れて民族をエジプトから解放し、シナイ半島を四〇年間放浪し、十戒を授かり、紀元前一二四〇年頃パレスチナに入ることができた。旧約聖書、出エジプト記に詳述されている。

(註2)
紀元前一〇〇〇年頃、イスラエルの黄金時代を実現させたダビデ王が、少年時代に敵方ペリシテ人の巨漢ガテのゴリアテという勇者を投げ石器ひとつで倒してしまったというエピソード。

(註3)
ペルシャの前身、バビロニヤが、紀元前五八七年にエルサレムを陥落させ、イスラエル民族を捕囚としてバビロニヤに連れていったという古事。旧約聖書、エレミヤ書に詳述されている。


第3章 神との出逢い
暫くすると町中にマリヤが毎日のように独りで森や丘に居ることが知れわたった。ある善良な女がゼリータを叱って言った。

「何か悪いことがマリヤの上に起こらねばよいがね。なにしろ若い娘がたった一人で人里はなれた所をうろついているんだからね。全く利口じゃないよ。どうだろうか、マリヤをうちの娘と一緒に働かせてみないかね。そうすりゃ少しはまともになろうというものだよ」

祖母はそれを聞いて心を痛め、マリヤに言った。近所の娘たちと仲良くして一緒に働き、少くとも嫁入り前の娘が妻となり男を識(し)るに必要なことを先輩たちから教わるようにと。けれどもマリヤは泣きふしてしまい、ゼリータはマリヤの妙な言動にただおろおろするばかりで、彼女の胸に抱きよせて祈るしかなかった。

「あたしね、丘の上の寂しい所で神様を呼び求めていたの」

「そうかい、それで神様はお答え下さったかね」

「はい、ちゃんとお答え下さいました。それがね、ただの御言葉だけでなく、野原で長い間祈り続けているときに二度も神様が顕(あらわ)れて下さったのよ。

そのとき私は試されていること知りました。もし私が昔の預言者のように断食をして真実に生きるならば、きっとイスラエルを救う男の子を生む母親に選ばれるでしょう」

これを聞いた祖母は大声をはりあげ、だまりこんでしまった。夜がきて鳥や獣(けもの)が寝しずまり、人の声や物音が全く聞かれなくなった頃、視力を失った祖母は誰よりも強い確信をいだいた。

「マリヤよ、きっとお前が選ばれるだろうよ、心の底から気高い目的のために続けて神様にお願いしてごらん。きっと主の天使があらわれて下さるだろうよ。

でもこんなことは誰にもしゃべっちゃいけないよ。今までのようにお前のやりたいようにやりなさい。決してまわりの人が言うことを気にすることはないよ」

そこでマリヤは今まで通りやってきたことを変えずに進めることができた。曲りくねった道を歩いていて例の善良な女(ひと)とばったりでくわしたとき、マリヤを家にさそい入れようとするのであるが、マリヤは見向きもしなかった。

彼女は腹を立て、マリヤに何にも注意を与えない祖母のことを責めた。そればかりか、マリヤが丘の上で何やら変なことをしているなどと悪口を言い始めた。それからは子供たちまでがマリヤのことを悪し様に言った。

「あの娘(こ)は私たちを馬鹿にしているのよ!」

彼らはマリヤが通りすがりに聞こえよがしに言った。

「ねえ、あの娘(こ)をからかってやろうよ」

「あんな高慢ちきな奴の鼻をへし折ってお辞儀させてみようじゃない」

子供たちや若い女の子たちは一緒になって口汚い言葉をあびせかけ、あげくのはてには泥や土をマリヤに投げつけるのであった。

マリヤはただ黙って不安な表情をたたえていた。マリヤが怖がっているのがわかると、ますます大胆になり、止まるところを知らない勢いであった。

突然若者の声がして静けさがもどった。ヨセフという若者が駆けよってきてこのさわぎを静めてから言った。

「この恥知らずめ! この娘は父もなく母もなく、どんなに心を痛めているかわからないのか。それなのにお前たちはこの娘をいじめ、たった一人で歩いていることをいいことにしてからかっている。この娘は本当は聖なる人なんだぞ!」

「えっ、聖なる人だって?」

「そうだ、僕の姉がちゃんと見とどけているんだ。彼女が独りで野を歩き、長い間祈り続け、聖なる御名(みな)につかえる道を探り、神様の御旨(みむね)にかなう在り方を求め続けているんだ。実に見上げたもんだよ。

彼女は崇高な目的に向かってつき進んでいるにちがいないんだよ」

ヨセフの言葉に女や子供たちは、きまり悪そうにいじめるのを止めてしまった。彼らは若い大工の威力に圧倒されてしまい、恥じ入るのであった。ヨセフの姉だけがマリヤの秘密の夢を知り弟に話していたのである。

それからというものは、だれが彼女に話しかけてもマリヤには苦にならなかった。マリヤは祈りに出かけるので、家に居る時間はとても短かかった。

ある日のことマリヤは朝早く外出したが、突然わが家に帰ってきた。それは祖母がいるはずのわが家が急に空っぽになったように思えたからである。

マリヤが敷居をまたいでわが家に入る時、誰か見なれない人が彼女の傍をすれちがった。彼女は確かにそれを感じたのであるが家の中にはだれも居なかった。

恐怖心が高まり、薄暗い部屋に集中した。そして命が脱け出るような脱力感を味わった。マリヤは急いで祖母のもとに駆けより、閉じられた目や、動かぬ手足にふれた時、即座に祖母が死んでいることを知った。

第4章 羊飼いの不思議な話
一人ぼっちになったマリヤには友だちもなく、ただ若者ヨセフと姉だけが暖かく声をかけ、寂しいときに慰めてくれた。

この兄弟は貧しかったので、なんとかマリヤを助けてやれる親戚はいないものかと探しまわった。一週間もたたないうちにヒゲもじゃの〝キレアス〟という男がナザレにいることをつきとめた。

彼は亡くなった祖母の従兄弟(イトコ)にあたる者で、マリヤをひきとってくれることになった。キレアスの妻は年をとっていて子供もなく、老夫婦二人だけでエルサレムへ通じる街道筋で旅館をやっていて、ちょうど家事全般の仕事を手伝ってくれる女中を必要としていた。

そんなわけでマリヤは遂になつかしい丘や、とても他人とは思えぬ程に親切にしてくれた二人の友ヨセフと姉とも分れを告げねばならなかった。

マリヤの新しい生活の場となったこの旅館は、エルサレムへ向かう旅行者や巡礼者が通る街道筋の谷の中にたっていた。

普段はあまり人通りがないが、大きな祭りなどがあるときには客でいっぱいになり、マリヤは朝早くから夜遅くまでこまねずみのように立ち働き、自分の部屋も客に提供して自分は隣接した馬小屋で寝る始末であった。

客の面倒から旅館全体を掃除するのがマリヤの仕事であった。そんなわけでマリヤは多くの客からよその土地のことや、とても珍しい冒険談などを聞くことができた。彼女はそれらをすべてを夢という布地に織りこんでいった。

暇(ヒマ)なときは主人のキレアスと妻の老夫婦だけになることが多かった。夕方になると羊飼いたちが丘のあちこちから集まってきて、楽しい歓談が始まるのであった。マリヤは野性的な労働者たちの世話をしながら彼らの話に耳を傾けるのがとても楽しかった。

羊の世話や毛を刈りとる作業のこと、彼らや番犬が狼と格闘したときのこと、ペストの流行や泥棒の災難にあったときの話などであった。

彼女はそれらをすべて心の糧(かて)として吸収した。ハープの名手がたった一本の弦(ゲン)でも大事に弾(ヒ)くように、マリヤにはひとつの話が心に深く刻みこまれていた。

それは預言者によって語られた一人の王様のことで、ダビデ王(1)の末裔(すえ)として生まれ侵入者ローマから救い出してくださる方のことであった。一人の若い羊飼いが目を輝かせながら言った。

「そりゃひどい風が丘のあたりを吹きまくっていた夜のこと、真暗だった空が突然明るくなってね、ぶったまげたもんだよ。たき火のまわりで縮(チジ)こまってブルブルふるえていてよ、どうなるのかと思っていただが、なんとも言えぬ喜びがいっぱいになってきただよ。

なんでだかさっぱりわからねえだが、おれたちは〝どうだ! 夜になったばかりだというのに、キラキラ光り輝く夜明けがきちまったぞ〟てなことを言ってただよ。

神様は時間をまちがえなすったのだろうか、この冬の真最中に、夜が世界の支配者として居すわっているときに、神様は東の空から太陽を呼び出しちまっただよ」

「おれたちはみんな物も言わず、小さくなったたき火に身をよせて、一睡もしねえでその光景にみとれちまっただよ。

それからよ、静々(しずしず)と光が丘のあたりから動き始めてよ、そりゃすげえ輝きの輪になってよ、暗やみをおしのけちまっただよ。みるみるうちにその輪が大きくなってよ、でっけい星のような形になっちまったで、まるで大空が真ぷたつにブチ割れたみてえに見えただよ」

「ところがよ、そのでっけい輝いた星がよ、ものを言い出したからおどろいちまっただよ。

〝わたしは神の天使だ、わたしはイスラエルに喜びの音信(おとずれ)をもってきた。見よ、お前たちの中から一人の女が選ばれた。その女は前から預言されていたように一人の男の子を生むであろう、その子はすべての人々を支配し、ローマ、ギリシャ及び異邦人をひざまずかせる者になるであろう〟てなことを言っただよ」

「おれたちはみんなきもをひやしただが、天使さまの様子がとってもおだやかだったので、おれたちは少し大胆になってよ、頭をさげながらその救世主(メシヤ)をみごもった乙女のところに案内してけれやってたのんだだよ。

したらよ、おれたちの声が終らねえうちによ、光はきえちまい、天使様も消えちまっただよ。そしてもとのひでえ風が吹きまわる真暗な夜になっちまっただよ」

最後の羊飼いが目を輝かせながら言った。

「あの夜からおれたちは何度も天使さまがおいでくだせえと祈って待っていただが、あらわれてもらえねえでよ、つかれちまっただよ。おれたちはどうしても救世主のおっかさんにあいてえだよ」

彼らの話には全く無頓着なキレアスは、うすめたまずい葡萄酒をのませていた。暫くして羊飼いたちは丘の方へと羊の群れのもとに帰っていった。

マリヤは羊飼いたちに現れた天使の御告げのことを心に深く刻みつけていた。夜になって一人きりになってから、以前よりも一層熱心に彼女の願いを神に祈り求めるのであった。

(註1)
イスラエル王国時代の第二代の王(紀元前一〇一二~九七二在位)で国民に最も愛された偉大な英雄であった。(旧約聖書サムエル記上、下を参照)


第5章 東方の星
さてこの旅館はエルサレムからあまり遠くない不毛の地に立っていた。このあたりは、まるで復讐の女神の祟(たた)りにでもあったように皺(しわ)くちゃで、禿頭のような格好(かっこう)をしていた。

ただ春のほんの一時だけ緑っぽくなる程度で、それもチョビチョビと生えるだけであった。しかもまたたく間に萎れしまうのであった。

夏になると、岩だらけの谷や断崖の丘には樹木も花もなく、むきだしの石は灼熱の太陽に焦がされて、行きかよう人々の足を痛めてしまうのである。

マリヤはこのような苛酷な自然の中で生きのびねばならず、すっかり痩せおとろえ、心が挫けてしまうこともあった。

そんなときには彼女はガリラヤ時代のことを思いだし、葡萄(ぶどう)の樹木で覆われた斜面の光景、美しい花畑、紺色に輝いている平和なガリラヤ湖を憧(あこが)れるのであった。しかし彼女は自分の願っている夢が次第に大きくなっていくのを感じていた。

収穫の季節がやってきて、この旅館の主人は大がかりな仕度を始めた。妻とマリヤには家全体の掃除を命じた。

彼の考えでは、〝仮庵(かりいお)の祭(1)〟(幕屋の祭ともいう)が近づいていたので多ぜいの巡礼の旅人がここを通ってエルサレムへ向かうと思ったからである。このときは多くのユダヤ人が聖なる都シオン(エルサレム)に熱い思いを向けるのである。旅館の主人の思惑(おもわく)は的中した。無数の旅人がこの前を通りすぎて行った。

妻もマリヤも朝早くから夜おそくまで旅人の世話に追いまくられていた。御客のなかに、遥か遠くのユーフラテス河の向こう側からやってきたユダヤ人がいた。彼らはマリヤに微笑みかけ、自分たちの世話をして欲しいと願い出た。彼らの様子は他の巡礼とはちがい、高価な衣服を身につけていた。

それで旅館の主人はこれらの珍客を丁寧にもてなした。マリヤは急いで食事の用意を始め、葡萄酒を髭を生やした人々の前に並べた。彼らが食事を終えてから互いに語り出した。

「私たちはエルサレムに行ってヘロデ王様(2)に逢おうではないか。彼に逢えば私たちの知らない部分を補ってくれるだろうよ」

そこで旅館の主人は、彼らに何の目的で旅をしているのかを尋ねた。しかも民衆から尊敬されていないヘロデから何をききだそうとしているのか尋ねた。一人の白い髭を生やした賢人が答えた。

「私たちは救い主が間もなく御生まれるになるということを知ったのです。私たちは救い主の到来を告げる星を見たのです。私たちはどうしてもその救い主を見つけ拝みたいと願っているのです」主人は尋ねた。

「その御方は何処で御生まれになるのでしょうか」

「預言者の言葉によりますと、その御方は、なんでもベツレヘムという所を誕生の地として御選びになったと言われています。〝ああベツレヘムよ、汝はユダヤの町々の中でいと小さき町ではない〟と記されているのです。そこで私たちはそこに行って救い主を探そうと思っています」別の髭もじゃの客人が言った。

「いやいや、ベツレヘムなんかじゃありませんよ、先生! あなたは賢い方でいらっしゃる。なぜイスラエルの王ともあろう御方がそんな辺鄙(へんぴ)な町でお生まれになるとおっしゃるのですか」

三番目の者が言った。

「その御方の誕生地については全く知られていないんですよ。とてもじゃないが、救い主の父君や母君のことさえわかっていないんですからねえ」更に別な客人が言い出した。

「そんなことはないですよ、その方の父君はダビデ王様の末裔(すえ)なんですからね」

賢者たちは互いにゆずらず、激しい口調で救い主の到来についての論争を続けた。かの白い髭の賢者が彼らの激しいやりとりを心配しながら、小声でマリヤを呼んだ。

「叡智というものは、得てして赤子や清い心の持主によって語られるものじゃ。どうかね、お前さんは救い主がそこで御生まれになると思うかね」マリヤは大胆に答えた。

「もちろんですとも、先生。主の御使いの方が丘の上の羊飼いに顕れて、メシヤの誕生を御告げになったそうですよ!!」

これを聞いた賢者は、とびあがらんばかりに驚いた。そしてマリヤにその件に関する経緯(イキサツ)について次から次へと質問し、彼女が救い主の誕生について語られた預言をよく知っていることに驚いた。この老人は、別れの挨拶を言う前に、マリヤをつかまえて、至高なる神の御子を見出した時は、黄金と宝石を持参して御子の揺籠(ゆりかご)の前に拝みに来ると言った。それを聞いた灰色の髭の賢者がきいた。

「もし救い主が卑しい身分の家にでも生まれたらどうなさるんですか」

「ああ、たとえ我が主、御民の王が星空の真下に生まれ、頭を覆(おお)うものが無くても、私はその方を拝みまするぞ! また、たとえその御方が羊飼いの帽子の中に寝かされていたとしても、私は拝みまするぞ! 実際のところ、誰が明日の偉大な出来事を知っているというのだろうか。

たとえ羊飼いの息子が救い主(メシヤ)の座にすえられようとも、私は驚きやせん。すべてが変えられていくのじゃ。此の世の誰が一体身分の卑しい者が民を治める座につかないなどと言えるであろうか。真実が語らんとしていることに耳を傾けてみるがよい! 先なる者は後に、後なる者は先になるのじゃ!」

マリヤはこの老賢者が語った一句一句を全部心に刻みつけていた。その夜、彼女が馬小屋の藁(わら)ぶとんの上に体をよこたえながら、もうガリラヤのことを回想することなく、自分が救い主の母となった夢を見る程に成長していた。

(註1)
「過越(スギコシ)の祭」、「ペンテコステ」と共にユダヤの三大祭のひとつ。昔イスラエル民族が四〇年間モーセに率いられてシナイ半島を流浪し、天幕(テント)生活をしていたことを記念する。殊に果物類、油、葡萄の収穫が終わったことを感謝する祝祭となった。九月~十月にかけてエルサレムの神殿で行われた。

(旧約聖書、出エジプト記23・16・、レビ記23・33~36、民数記略29・12~39、申命記16・13~17を参照)

(註2)
ヘロデ大王と言われたヘロデ王家の始祖。イエス誕生当時のユダヤ王で、性格残忍、血縁者も殺害する非道の人間で評判は悪かった。エルサレムに華麗な宮殿を建設し、紀元前20年同地に神殿の再建に着手した。赤子イエスを殺すためベツレヘム地域に生まれた嬰児(みどりご)を虐殺した。(新約聖書のマタイ伝2・1~18及び2・16以下参照)


第6章 受胎のしらせ
冬が過ぎ去った。旅館の住人とくにキレアス老夫婦は厳しい寒さに完全に参っていた。若いマリヤでさえ、憂うつな気分で過ごした厳しい冬であった。マリヤはいつもガリラヤ地方の暖かい微風(ソヨカゼ)を思い出していた。

ガリラヤの湖を覆う柔らかな空気、湖面から立ちこめる霧、そして周囲の山々は雪の帽子をかぶっていて丘から丘へと風が音をたてながら吹いていたのを思い出すのであった。

遂に春がやってきた。まるで森の中でじっとしている臆病な鹿のようにやってきた。一日一日が這い歩きでもしているかのようにやってきた。岩場でさえ、あちこちに緑の葉でかなでられる喜びの足音がきかれるようになり、石と石の間から春の挨拶をかわしていた。小さな灌木たちは緑の帽子をかぶり、燦々と春の陽が輝いていた。

春の訪れと共に、マリヤの魂も次第に目覚め、一刻一刻と神に近づいていった。このような季節には余りお客がなく、マリヤは昔ガリラヤで習慣となっていた瞑想をするために寂(しず)かな場所を探し歩いた。それからは彼女の夢は次第に膨(ふく)れあがり、全く現実のものとなっていくのを感じていた。

ある晩のこと、身体をよこにして眠りにつこうとしている時に、主の御使いがあらわれて彼女にその使命を告げられた。マリヤは恐れることも驚くこともなく、そのときの模様を後になってからヨセフの実姉マリヤに語ったことがあった。

「私は直ぐに大天使(1)ガブリエル様がやってきたことを知りました。私は跪(ひざまず)いて掌(て)を合せました。私が長い間熱望していたことを叶えて下さり、大天使様が神様の祝福を運んできて下さったのですから、ちっとも怖くなんかありませんと申し上げました。

そうしたら大天使様がおっしゃいました。〝神様に愛されているマリヤよ、あなたは女のうちで最も祝された御方です。

なぜならば、あなたは男の子を生むために選ばれたからです。その子にイエスと名付けなさい。彼は多くの人々の救い主(メシヤ)となるでしょう。そして先祖ヤコブの御座とダビデ王の御座にすえられるでありましょう〟」

夜は更けゆき、音ひとつきかれない静寂のなかで大天使ガブリエルは、跪いているマリヤのもとから離れ、閉まっている戸を通りぬけ、石だたみの上を音も無く歩き、立ち去ったのであった。彼女はもはや自分が望んだものが空しくならず、また夢で終ることもなく、現実のものになったことを強く自覚した。実に彼女は全世界の女のうちより選ばれ祝されたのである。

大天使ガブリエルが訪れた明くる日のこと、一人の若い男と女が谷こえ山こえ、曲りくねった道を通ってこの旅館にやってきた。旅館の主人は早速この二人のために食事の準備をするようにマリヤに命じた。その若い男とは大工ヨセフであった。彼が入ってきたときはマリヤがパンを拵えているところで、彼の方から「ヤー」と声をかけ挨拶をした。

後ろからついてきたヨセフの姉マリヤは、マリヤのところに駈け寄り、両方の頬に接吻し、両腕をまわして抱き合い、久しぶりの再会を喜びあった。

食事をすませるとヨセフは騾馬(らば)に水と草をやりに外へ出て行った。二人のマリヤは谷間の道を散歩しながらお互いに胸のうちを明かしあった。

「私ね、近いうちに商人のクローパスと結婚するのよ!」ヨセフの姉が言った。「彼ったら、何年も私のことを追いまわしたのよ。もうすっかり根負けしてしまったわ」

散々話し合ってからマリヤは大天使ガブリエルのことや、あの夜馬小屋の中で御告げを受けたことを話した。ヨセフの姉は遂にマリヤがイスラエルの救い主イエスの母となる約束を知って興奮した。二人の間に突然沈黙が流れた。そしてヨセフの姉の表情が硬張(コワバ)った。

「そんなことって本当にあるのかしら。だってあなたは肝心なこと何ひとつ知らないじゃないの! 赤子がどんなふうに生れてくるとか、どんなふうに神の御座から統治なさるとかそんなことぐらいは知っておくべきだわ」

「私はね、どんなふうに実現するのか知らないけど、神の御子を私が生むということは、太陽が東から上ると同じくらい確実に実現すると信じているのよ」

そこに突然ヨセフがやってきた。二人のマリヤは話題を変えてこのことについて話さなかった。暫くしてヨセフの姉はとても疲れたので少し休みたいと言いだした。そこでヨセフとマリヤの二人で散歩を続けることにした。

マリヤは、あちこちで美しい小花を摘みヨセフにあげた。又とても楽しそうに歌った。ヨセフは今でもガリラヤの丘や湖のことを思い出しては悲しんでいるのかをたずねた。

「とんでもないわ、私はもうなにも悲しいことなんかないわ。だって私は神様から選ばれた女なんですもの。こないだ主の使いがあらわれて教えて下さったのよ。だから私は毎日ばら色、夜は安らかな眠りが与えられ、昼間の労働もちっとも苦にならず、何ひとつ悩まずにすごせるの。

私には直接感じなくても神様はいつも私と一緒に居て下さるんじゃないかしら。だから私の心はとってもおだやかなのよ」

ヨセフはこのとき初めてマリヤが大天使ガブリエルと直接話しあったことを悟った。けれども大天使が語った御告げの内容についてはひとこともふれなかった。なぜならば今は御告げの内容にふれないほうが自分の心の秘密を知っているヨセフの姉を傷つけずにすむと思ったからである。

そうこうしているうちに陽が西の丘陵地帯に沈みかけたころ、ヨセフはマリヤに自分の望みをうちあけた。彼はマリヤをナザレに連れ返って結婚したいと願った。

マリヤは彼の突然の申し出をきいて驚き、手にしていた小花を道端に落とし足でふんづけてしまった。ヨセフはマリヤの前に跪き、手をあわせ、ぜひ自分の望みを聞いてほしいと哀願した。そしてマリヤを愛していること、そしてどんなことでもマリヤを守り抜いていくという強い意志をあらわした。

「ここでの生活は一日中辛い思いをするだけだよ、あなたの主人はとても苛酷な男だと思わないかね。あなたにはいつも荒々しい言葉をはいて、こき使っているじゃないか。一日中働きづめで、こんな寂しい所で一生辛い思いをさせられるだけだよ。ガリラヤに帰ろうよ。あなたの好きなガリラヤ湖にさ。

そうすれば僕はあらゆる悩みや苦しみからあなたを守ってあげられるんだが。僕の妻になってくれないか。ガリラヤでは今でも近所の人たちは、あなたのことを変人扱いをして本当に頭にくるよ。

でも僕の妻になれば、いくらなんでもそんなことは言わせやしないよ。僕の姉もクローパスと婚約しているから間もなく家を出ていくしね、そうしたら僕一人になるんだよ」

マリヤはその言葉を聞いているうちに突然泣き出して、それはとても出来ないことだと言った。マリヤはヨセフのもとから足ばやに駈けだして、暗くなった谷間を走り、一気に自分の寝る馬小屋に帰って、泣きじゃくりながら恐怖に身をふるわせていた。そこへヨセフの姉がやってきてマリヤを慰めいたわるのであった。

(註1)
へブル語で「神の強い人」という意味で、ミカエル、ラファエルと並ぶ三位の天使である。洗礼者ヨハネの誕生をその父ザカリヤに告知(ルカ伝1・11,19参照)、マリヤにはキリストの母となることを告知した。(ルカ伝1・26参照)旧約聖書のダニエル書8・16、及び9・21にも記されている。


第7章 大きな星
その夜は、まことに霊妙な輝きに覆われ、天空はあたかも神が無数の宝石をちりばめた衣をまといながら歩いておられるようであった。地上は青色の外套で覆われ、人々には平和なひとときが与えられていた。

雪解けの水は小川に溢れ、ごうごうという音をたてながら飛沫(シブキ)をあげ、その音は眠れる間中ひびき渡っていた。

マリヤは二人に別れを告げた。彼女は天から見放されたかのように、再び孤独な生活が始まった。馬小屋の中で寝るとき、破れた屋根の隙間(すきま)から空が見えるのであった。空を眺めているうちに、天空に輝く宝石(星のこと)がそれぞれペアになって楽しそうにダンスを踊ったり歌をうたったりし始めるのである。

暫くして彼女は眠りに入った。目覚めたとき空が急に変化しているのを感じた。ひとつの大きな星があらわれて、彼女の真上に輝いていた。腕を伸ばして挨拶をしようとするのであるが、彼女の口は固く閉ざされて動かず、喜びの言葉も発することができなかった。突然彼女はそれがあの白鬚の賢者が東方で見た星であることに気がついた。

暗い馬小屋の一帯が内側から光が照らし、一人ずつ東方の賢者が行列を作って通りすぎて行った。手には各々台付きの黄金杯、没薬(1)、乳香(2)などを持っていた。彼らはマリヤには目もくれず、飼葉桶(かいばおけ)の前に立ち止まり、跪いて頭を垂れ、捧げ物を桶のわきに置くのであった。

マリヤはただ黙ってこの光景にみとれていた。自分の息子が飼葉桶の中に寝かされているのを感じ取った。ガリラヤ湖の上を吹き抜けて行く微風のように、大天使ガブリエルの囁(ささや)く声が柔らかくひびいてきた。「至高なる救い主よ、ヤコブの御座に永遠にすえられるであろう」

(註1)
アラビア・アビシニアに産する樹からとる芳香の樹脂で、高価な香料。(旧約聖書、出エジプト記30・23参照)

(註2)
かんらん科に属する乳香樹で、樹皮を傷つけて出る分泌物を乾燥して得る香料。主として祭儀用として使われていた。(旧約聖書、イザヤ書43・23、及びレビ記24・7参照)


第8章 神秘の受胎
眠らずに過ごした夜が去り、朝がやってきた。陽は照らなかったが、地上はしごく御機嫌であった。花々は妙なる芳香を漂わせ、川の細流(セセラギ)はひかえめな歌を奏で、鳥のさえずりは荒野にひびいていた。

マリヤは家の中の汚れ物を川辺に運んできて、きれいなつめたい水で洗濯をしていると、彼女をとりまく大地が話し始めるのを聞いた。草や木々でさえ、沈黙に向かって静かな喜びの物語を話しかけているように思えた。春の生命が楽しい日々に、すべてのものを躍動させていたからである。マリヤの頭上には、鳥の胸に生える白灰色の羽毛のような雲が空一面に広がっていた。

すると柔らかな一条の光が神のもとから一瞬のうちに乙女に向けて発せられた。マリヤにとって、かつて味わったことのない喜びが胸いっぱいに広がっていった。

これですべてのものが完了した。マリヤは唯メシヤ到来の日を忍耐強く待たねばならないことを知った。マリヤはその夜、神の選びに与(あずか)ったことを知った。彼女はこれから起ころうとしていることを幻で見ることができた。

霊という種が、処女という土壌に蒔かれた。その霊が成長し、解放者となり、彼の魂に触発された人たちは、彼の前に頭を垂れるのである。頭上に生命の冠を被り、望む者すべてに救いをもたらすのである。

その日の高原は風もなく、谷間にひびく客足の音もなかった。旅館の主人は旅に出かけていた。おかみさんは家の中で昼寝をしていた。マリヤがたった一人で戸外で働いているうちに、夢見心地となり、幻を見ていた。

神の霊が彼女の魂に宿るのを感じた。恐怖どころかむしろ神の御子が彼女の魂の中で休息し眠っておられるという実感を覚え、彼女が此の世に生まれて以来、かつて味わったことのない喜びが全身にみなぎってくるのであった。

彼女が昔一人で丘や野を歩いたときに、暖かく導いて下さった神様に感謝の祈りをささげずにはおられなかった。

夕闇がせまる頃、空を覆っていた雲が西の方から切れてきて、黄金の冠のようなものが天から降りてきたかと思うとあたり一面を照らし、神の栄光の輝きを放つのであった。

岩の上に干しておいた洗濯物はすっかり乾いていた。マリヤはそれらを籠の中にとり入れ、夢心地でよたよたと歩き出した。谷間から吹き上げてくる暖かい春風は頬にあたって心地よく、かさかさと音をたてながら今日一日と共に去って行くのであった。

マリヤは途中で跪(ヒザマズ)き、何度も感謝の祈りをささげた。この日には二度と味わえない甘美な霊的体験を味わい、生涯消えることのない神の栄光に与(アズカ)った。人っ子一人いないこの瞬間に、マリヤは遂に彼女の魂に神の純霊(1)を宿したのである。

このような神秘的な出来事は、おそらく賢いと言われる人々や理解の乏しい人々に悟られず、かえって幼な子や心の清い人々に受けいれられるのであろう。

谷間はすっぽりと夜の帷(トバリ)に包まれていた。マリヤは旅館に帰り、衣類を始末しているうちに、おかみさんはやおら昼寝から目をさました。おかみさんは、主人キレアスの夕食の支度をすますと、パンと山羊の乳を平らげた。

それから窓側にローソクの火を点し旅から帰ってくるキレアスの目じるしとした。窓から馬小屋に目を向けたときには、マリヤはすでにその中で深い眠りについていた。その馬小屋には、苦しみを通して与えられたあらゆる思い出が留められていたのである。

(註1)
ドイツの神秘家マイスター・エツクアルト(一二六〇~一三二七)は、「マリヤは胎内に御子を宿す前に彼女の魂に宿していた」と記している。


第9章 死線をさまよう
ユダヤの丘陵地帯には、夏の強い日射しを避けるものが殆んど無かった。それで春が過ぎてから戸外での労働は、まさに疲労との戦いである。不運にも昼の間全く休めない連中の辛さといったら地獄の沙汰である。

年老いたおかみさんは病いに倒れ、死んでしまった。それでその分だけマリヤの仕事が増えてしまった。旅館全体の掃除はもちろんのこと主人やお客の世話までしなければならなかった。キレアスは年をとって気むずかしく、マリヤに対し口うるさく、朝から晩までのべつ小言を言い通しであった。

マリヤはもう夢を見るどころではなかった。彼女が一寸でも手を休ませようものなら、大声をだして彼女を責め立てるのであった。こんな状態が一年近くも続いたので、十七才という娘盛りのマリヤの頬はこけ、骨と皮となり、涙も乾いてしまうほどであった。ガリー船(1)を漕ぐ奴隷のようにこき使われていたのである。

一番悲しかったことは、夢がすっかり奪われてしまったことで、彼女の疲労はその極に達していた。神様の臨在感もうすれ、静かなひとときでさえ神様と話すこともできなかった。

マリヤは全く独りになることが出来ず、苦しみから逃れる術(すべ)もなかった。彼女は遂に馬小屋の入口に躓(つまず)いて藁(わら)の上に倒れてしまった。それでも主人に殴られるのではないかと思い、足をひきずるようにして仕事を始めるのであった。そんな状態で来る日も来る日も一日中牛馬のようにこき使われていたのである。

秋が近づいた頃、マリヤの体力は限界に達していた。妙な恐怖感が彼女の魂を襲った。夕闇がせまった頃、周辺の谷間には悪霊が行ったり来たりしているような気配を感じた。悪霊が彼女の耳元で囁いた。その悪霊はキレアスの下僕で、マリヤが馬小屋に居る間中見はるためにやって来たと言った。マリヤは一睡もできず、ひと晩中悩まされ続けた。

彼女は大声をあげて叫びたかった。悪霊が彼女のまわりをうろつき、棍棒で殴りつけるからである。彼女には、こんな恐ろしいときでも祈る力さえ与えられなかった。マリヤはひとことも口がきけなかった。神様は自分のことをすっかり忘れてしまったと思いこんでいたからである。


あくる日の夕方、ガリラヤ地方へ向かう旅人の一団がやってきて旅館にとまることになった。その中に〝ミリアム〟という女がいた。彼女は昔マリヤの家の隣に住んでいて、マリヤが丘で祈っていた頃マリヤのことをひどく嘲笑した張本人であった。マリヤがこの一団のため手早くもてなしている最中に、あやまって水差しを落としてしまった。

主人はマリヤを呪い出し、ありとあらゆる悪魔の名前を挙げながら彼女を罵った。ミリアムは目ざとく引きつっているマリヤと知ると大声で言い出した。

「これはこれは、マリヤじゃないか! 漁師の娘で、ナザレでは評判の悪い娘だったね。うちの娘がさ、この悪魔の娘とおしゃべりしても被害はなかったけどさ、本当に呪われているよ、この娘は! この家からおん出してしまいなよ。そうすりゃ、あんたも楽になるだろうよ」

ミリアムはしきりに自分の娘をヨセフと結婚させたがっていた。それなのにヨセフは、マリヤ以外の娘には目もくれないことをよく知っていたので、わざと大げさにマリヤの放浪ぐせを悪くののしったのである。マリヤはすっかり縮みあがり、まるで鋭い槍で胸を刺されたように呻き悲しんだ。ミリアムの亭主は旅館の主人に充分な金を払った。

この主人にミリアムの噂を信じさせるためであった。キレアスはミリアムを喜ばせようと思い、いきなり棍棒をふりあげ、マリヤを家の外へつきとばし、体中をめったうちにした。マリヤは気絶して石の上に卒倒してしまった。キレアスはそのようなマリヤに目もくれず家の中に入り、ガリラヤから来た連中の話に耳をかたむけていた。

夜になってマリヤは目を覚まし、体中に烈しい痛みをおぼえた。這うようにして馬小屋に戻った。翌朝目を覚ましたときには高い熱を出していた。

一週間が過ぎてようやくマリヤは藁の上に立ち上れるようになり、熱もさがった。しかし彼女には恐怖がおそった。もう自分にはキレアスに仕える力がない、そんな自分は家から放りだされ、野原で野垂れ死にするのではないかと思った。それ程キレアスという男は非情な人間であった。

その日の夕方、キレアスはパンと水を持ってきて言った。

「明日までに起きられなければ、おれはお前を野原にひきずり出してやる、そこで死んじまったらいいさ! もうおれは、ガリラヤで悪魔よばわりされていた奴の面倒を見てやるもんか」

キレアスが出ていくと、マリヤは立ち上がり、遂に舌のもつれが解けて神に祈り始めた。余りにも心細かったので、叫ぶように神をよばわった。どうか天使をつかわして窮地からお救い下さいと祈った。マリヤは荒野でジャッカルや狼の餌じきになったら大変だと思ったからである。

キレアスの脅迫に恐れおののいて叫び声をあげていると、耳元で「マリヤよ、マリヤよ」という声がきこえてきた。その声が非常におだやかであったので、天使のささやきであると思った。彼女の祈りがきかれたのだと思った。

ところが痛みは烈しさを増し、死の境を彷徨っていた。もう駄目かと思った。自分は見捨てられ、救い主の母になれないと思ったからである。また耳元でささやく声がした。目を覚まして彼女が見たものは天使ではなく、若い大工のヨセフの顔であった。そのとたん、彼女の心から死の恐怖、暗黒の荒野、独りぽっちの心細さが消えていた。

ヨセフは死の恐怖に追いこんだ地獄のようなこの家にマリヤをおいておくことには、もう我満ができなかった。彼はキレアスとかけあってマリヤは自分の許婚(イイナズケ)であるから今すぐナザレに連れて帰ると宣言した。

二人の男は散々ののしりあった挙句、キレアスはミリアムの話した醜聞(スキャンダル)や若い大工を怒らせるような下品な言葉を使い、彼女を苛酷に扱ったわけを弁明した。

実際マリヤの体には棍棒で叩かれた生傷が沢山あり、彼女の両足は苛酷な仕事で老人の足のようになり、食物もろくすっぽ与えられなかったのである。これを知ったヨセフは初めこの旅館の主人を徹底的にぶちのめしてやろうと思ったのだが、老人の頭の白髪を見て我慢をした。

「全くこいつは悪魔のとりこになってしまった。こいつを独りにしておけば悪魔の餌食になるだろう。これ以上の天罰はないからね」

と吐き出すようにヨセフは言った。はたしてこのことが、その年の冬がやってきたときに実現した。旅館の主人は悪魔の餌食になり、無残な最期をとげたのである。

(註1)
櫂(かい)のある古代・中世期の帆船で、奴隷や囚人に櫂をこがせた。最も苛酷な労役であった。


第10章 暖かい介抱
ヨセフはマリヤを連れて旅立った。彼は旅の最中に弱りきっていたマリヤが死んでしまうのではないかと心配した。

それで道沿いから離れた丘の上に休息できる場所を探し求めていた。するとそこに数人の羊飼いが火を囲んで夕食をたべているのに行きあった。早速挨拶をかわし、今までの経緯(イキサツ)を話したところ羊飼いたちは暖かく歓迎してくれた。一人の羊飼いが言い出した。

「キレアスって奴は、大分前から悪魔にとりつかれていたようだ。おれはあいつが女を叩いているところを見たんだが、奴にやめろと言えなかったんだよ。奴は金持ちのおれの主人と友達なんだよ」別な羊飼いが言った。

「マリヤはちっとも悪くはないぜ。おれたちは彼女が聖なる人と思っているんだよ」三人目の羊飼いが言った。

「彼女はきっと特別な目的が与えられているんだぜ!」

こんな会話がうとうとしていたマリヤの耳にきこえてきたので、彼女は一旦消えかかった甘美な喜びが芽生えてくるのを感じた。

彼女の体の傷跡の痛みでなかなか寝つかれなかったが、目をあけて星を見ているうちに、きらめく星が一層身近かに感じられ、再び彼女の心を明るく照らす輝きとなっていた。更にそれは、神の衣にぬいこまれた宝石の輝きでもあった。

彼女はあくる朝、陽がのぼるまですやすや眠り、その間に羊飼いたちは囲いから出した羊の群れを犬に追わせながら立ち去っていった。