第1部 生前の生き方が、死後の行き先を決める
――天国霊・地獄霊の人生ケーススタディー

第7章 厳しい人生の試練を経験した霊
(1) 自分がしてもらいたいことを他の人にせよ――スジメル・スリズゴル
スリズゴルは、ヴィルナに住む貧しいユダヤ教徒で、一八六五年に亡くなった。

三十年間、彼は、お椀を手に物乞いをして過ごした。街の至るところで、人々は彼の声を聞いたものである。

「貧しい者、寡婦、孤児達にどうぞ哀れみを! 」

一生を通じて、彼は九万ルーブルを施された。しかし、自分の為には一銭たりとも使わなかった。それらを病人達に与え、しかも、自分自身で彼らの世話をした。貧しい子供達の教育費を払ってやり、貰った食料品は、貧窮に喘ぐ者達に分け与えた。夜なべ仕事に嗅ぎタバコをつくり、それを売って自分の生活費とした。生活費が残れば、勿論、貧しい者達に分け与えた。

スリズゴルには家族がいなかったが、葬式の日には、街中の人々が葬列に加わり、街中の店が休業となった。

一八六五年六月五日、パリ霊実在主義協会にて。

――招霊します――
「地上での支払いは高くつきましたが、とうとう目的を達し、今は幸福の絶頂です。

今晩は、初めからこのセッションに参加させてもらっています。哀れな乞食の霊に関心を寄せてくださり、心よりお礼を申し上げます。喜んで、あなた方のご質問にお答え致しましょう」

――ヴィルナのお住まいの、ある方から頂いた手紙によって、あなたの、奇特な、素晴らしい人生のことを知りました。その人生に共感を持ち、こうしてお話させて頂きたいと思うようになったわけです。

招霊に応じてくださって、誠に有り難うございます。我々の質問にお答え頂けるということですので、「現在は霊としてどのように過ごしておられるのか」、また、「今回の人生はどのような理由でああしたものになったのか」という点についてお教え頂ければ幸いです。

「では、まず初めに、自分の本当の立場がどんなものであるかをよく理解している私に、あなたの考え方に対して、率直な意見を言わせてください。もしそれがおかしいと思われたら、是非忠告をお願い致します。

私のような、何の取り柄もない人間が、そのささやかな行為によって共感を呼び、その結果、このような大規模な形での公開セッションが開かれることになったのを、あなた方は不思議に思われたことでしょう。

今私は、あなた、すなわちアラン・カルデック氏に対して申し上げているのではなく、霊媒及び霊実在主義協会のメンバーの皆様に対して申し上げているのでもありません。私が今[あなた方]と言ったのは、まだ霊実在論を信じていない方々のことです。

さて、このような大規模なセッションが行われることは、何ら不思議なことではありません。というのも、善の実践が人類に及ぼす精神的な影響力は非常に大きい為に、普段どれほど物質的な生き方をしていようとも、人々は常に善に向かって進もうとするものだからです。人々は、悪への傾向性を持っているにもかかわらず、善なる行為を讃えるものです。だからこそ、多くの人々が集い、このような大規模なセッションが可能となったのです。

さて、それでは、先程のご質問にお答えしましょう。それは単なる好奇心からの質問ではなく、広く教訓となる答えを求めての質問でした。私はこれから、出来るだけ簡潔に、私の今回の転生における生き方を決めた原因について語ってみたいと思います。

私は数世紀前に、あるところで王として暮らしておりました。今日の国家に比べれば、いささか見劣りのする大きさですが、それでも、私はその国において、絶対的な権力を持ち、家臣達の運命を完全に手中に収めておりました。私は、暴君として――いや、むしろ死刑執行人と言った方がよいでしょう――生きておりました。

横暴で、気性が激しく、吝嗇で、色を好む王の下で、哀れな家臣達がどうなるかは、あなた方にもすぐ想像がつくでしょう。私は権力を濫用して、弱き者達を抑圧し、あらゆる人民を私の欲望の遂行の為に奉仕させました。

物乞いをして得たものにまで税金をかけたのです。どんな乞食も、私に高い税金を払わずに物乞いをすることは出来ませんでした。いや、それだけではありません。税金を払う乞食の数を減らさない為に、私は、友人、両親、家族等が、乞食の候補者達に、僅かな物品でさえ分け与えることを禁じたのです。親しい人間達から物を貰うことが出来れば、彼らは乞食にならないからです。

要するに、私は貧困の中にあって喘ぎ苦しむ人々に対し、最も無慈悲な人間であったというわけなのです。

やがて、私は、恐ろしい苦しみの中で、あなた方が命と呼んでいるものを失いました。この死は、私と同じようなものの見方や考え方をする人々にとっては、恐怖のよきモデルとなるでしょう。その後、私は二百五十年の間霊界で彷徨い続けました。そして、それだけ長い時間をかけて、私はようやく、地上に生まれ変わる本当の目的を理解したのです。

その後、私は、諦念、反省、祈りを通して、物質界にもう一度生まれ変わり、私が人民に味わわせたのと同じ苦しみを、或はそれ以上の苦しみを、耐え忍ぶという試練を与えて頂いたのです。しかも、神は、私自身の自由意志に基づいた、『精神的、肉体的な苦痛をさらに激しいものにしたい』という願いに対し、ご許可を下さったのです。

天使達に助けて頂きながら、地上で、私は『善を行う』という決意を貫きました。私は天使達に心から感謝しなければなりません。天使達の助けがなければ、私は、自分が企てた試みを、きっと途中で放棄してしまっていただろうと思うからです。

私はこうして一生を終えたのですが、その間に為した献身と慈悲の行為が、かつての転生の際の、残酷で不正にまみれた一生をかろうじて購ったということなのです。

私は貧しい両親のもとに生まれ、幼い頃に孤児となり、まだ年端も行かぬうちに、自分で生きることを学びました。たった一人で、愛も情けも知らずに生き、さらに、私がかつて他者に為したのと同じ残酷な仕打ちを受けました。私が為したのと同じだけの仕打ちを、同胞達から受ける必要があったのです。誇張も、自慢もせずに言いますが、まさしくその通りでした。

そして、私は、自分の生活を極度に切り詰めることによって、社会奉仕を行い、私が為す善の総量を多くしたのです。

私は、地上での償いによって天の蔵に積まれた徳の量は、おそらく充分なものであるだろうと考えながら、心安らかに地上を去ったのですが、霊界に還ってみると、私が頂いたご褒美は、密かに予想を遥かに上回っていたのです。私は今とても幸福です。

そして、あなた方に告げたいのは、『自らを高くするものは低くされ、自らを低くするものは高くされる』という真実です」

――今回の転生の前に、霊界ではどのような償いを行ったのですか? そして、亡くなって以来、悔い改めと決意の力で運命が転換するまで、一体どれくらいの年月がかかったのですか? また、何がきっかけで、そのような心境の変化が起こったのですか?

「ああ、それを思い出すのは、今でもとても辛いことです! どれほど苦しんだことでしょう――。しかし、嘆くのは止めて、思い出してみることにします。私の償いがどのようなものであったのか、ということでしたね。それはそれは恐ろしいものでした。

既に言ったように、あらゆる善き人々に対する[死刑執行人]であった私は、長い間、そう、実に長い間、腐敗してゆく私の肉体に、霊子線で繋ぎ止められたままだったのです。肉体が完全に腐敗するまで、私は、蛆虫達が体を食らうのを感じていました。ああ、何という拷問だったでしょう!

そして、ようやく霊子線が切れ、肉体から解放されたと思ったら、もっと恐ろしい拷問が待っていたのです。肉体的な苦しみの後には、精神的な苦しみがやってきました。しかも、この精神的な苦しみは、肉体的な苦しみよりももっとずっと長く続いたのです。

私は、自分が苦しめたあらゆる犠牲者の姿を、目の前にずっと見せられました。定期的に、何か分からない大きな力によって連れ戻され、私の罪深い行為の帰結を目の前に見せつけられたのです。私は、自分が人に与えた、肉体的な苦しみも、精神的な苦しみも、全て、ことごとく見せられました。

ああ、友人達よ、自分が苦しめた人々の姿をいつも目の前に見せられるということが、どれほど辛いか分かりますか?

以上が、私が二世紀半をかけて行った償いなのです。

やがて、神は、私の苦しみと悔悟の念をご覧になって哀れみを覚えられ、また、私の指導霊の懇願をお聞き入れになって、ついに、私に、再び地上で償いをすることを許可してくださいました。この償いについては、あなた方は既にご存知のはずです」

――ユダヤ教徒になることを選ばれたのは、何か特別な理由があったのですか?

「それは私が選んだのではなく、私は単に指導霊の忠告を受け入れたにすぎません。

ユダヤ教徒であるということは、私の償いの人生にとって、さらに一つの大きな試練となりました。というのも、ある国々においては、殆どの人がユダヤ教徒を見下しているからです。乞食ともなれば、尚更です」

――今回の人生では、何歳の時から地上での計画を実践に移されたのですか? どうして、その計画を思い出したのですか? そのようにして生活を切り詰め、慈悲の行為を行っていた時、何らかの直観によって、あなたをそのように駆り立てる理由に気づいていたのですか?

「貧乏だが知性が高く、吝嗇な両親のもとに私は生まれました。

幼くして、母親が亡くなり、私は母親の愛情と愛撫を失いました。父親が、口減らしの為に私を捨てたので、その分、母親を失った悲嘆が激しくなりました。兄達や姉達は、誰も私の苦しみには気がつかなかったようです。

別のユダヤ教徒が、思いやりからというよりも利己心から、私を拾い、仕事を覚えさせました。仕事はしばしば私の能力を超えていましたが、それによる収入は、私の生活費を補って余りあるものでした。

しかし、どこにいても、働いていても、休んでいても、私には、母親の愛撫の記憶が付きまといました。そして、大きくなるにつれ、その記憶はますます深く私の心に刻み込まれていったのです。私は、絶えず母親の世話と愛情を懐かしがっておりました。

やがて、私を引き取ったユダヤ教徒が亡くなり、私は家族と呼び得る最後の一人も失いました。その時に、『残りの人生をどのように過ごすか』ということが啓示されたのです。

私の兄達の内の二人が、孤児を残しておりました。その孤児達の姿を見て、自分の幼い頃のことを思い出した私は、その子達を引き取りましたが、私の仕事だけでは全員の生活を賄う収入を得ることは出来ませんでした。その時に、私自身の為ではなく、その子達の為に、物乞いをすることに決めたのです。

神様は、私が努力の成果を楽しむことをお許しになりませんでした。というのも、子供達が、やがて永久に私のもとから去ってしまったからです。私には、彼らが欲しかったものが分かりました。それは母性だったのです。

そこで、今度は不幸な寡婦達の為に慈善の行為を行うことにしました。というのも、彼女達は、自分の実入りだけでは子供達を育てられないので、極度に自分の食べるものを切り詰め、その為に命を落とすことがしばしばあったからです。そうして残された孤児達は捨て置かれ、私自身が味わったのと同じ苦しみを味わうことになったのです。

力と健康に溢れた三十歳の私は、こうして、寡婦と孤児の為に物乞いをすることになりました。最初は上手くいきませんでしたし、侮辱の言葉を何度も耐え忍ばねばなりませんでした。しかし、私が、物乞いで得たものを全て貧しい人々の為に差し出し、しかも、自分の仕事で得たものまでもそこに付け加えるのを見て、人々は徐々に私に対する見方を変え、そのお陰で私は大分楽に生きられるようになりました。

私は六十数歳まで生きましたが、自分に課した仕事をないがしろにしたことは一度もありません。また、こうした行動が、実は私の過去世の罪を償う為のものであるということを、良心が私に気づかせるようなことも決してありませんでした。

『人からされたくないことを、決して人に対して行ってはならない』

この短い言葉に含まれている深い意味に、私はいつも感じ入っていました。

そして、しばしば、次のように付け加える自分に気がついたものです。『自分がしてもらいたいと思うことを、人に対してしてあげなさい』と。

私の母親の記憶と、自分自身の苦しみの記憶に助けられて、私は一度歩むと決めた道を最後まで辿ることが出来ました。

そろそろ、この長い通信をおしまいにしましょう。どうもありがとうございました。私はまだまだ完全ではありません。しかし、悪因悪果ということを骨身に染みて学びましたので、今回の転生でそうしたように、これからも、善因善果の法則に基づいて、幸福を手に入れる為に善なる行為を重ねていきたいと思っております」

(2) 障害と貧困の生涯から学んだこと――ジュリエンヌ=マリ
ノゼの近くのヴィラト村に、ジュリエンヌ・マリという貧しい女性がいた。年老いて、肢体不自由で、村から施しを得て生活していた。

ある日、池に落ちたが、いつも彼女を援助していたA氏によって発見された。家に運ばれた時には、既に亡くなっていた。「自殺したのではないか」という噂が立った。

彼女が亡くなった当日、医者のB氏は――霊実在主義者で、且つまた霊媒でもあり、彼女が亡くなったということは知らなかった――、側に誰かがいるような気がしたが、その理由は分からなかった。彼女が亡くなったということを聞いた氏は、「あれは彼女の霊が来ていたのではないか」と思った。

B氏から事情を聞いたパリ霊実在主義協会のメンバーの一人が、B氏の為に、この女性を招霊した。何らかの意味で彼女の役に立てれば、ということでそうしたのである。

しかし、その前に、指導霊に伺いを立ててみたところ、次のような回答を得た。

「招霊してもよろしい。彼女は喜ぶでしょう。
しかし、あなたが彼女にしてあげたいと思っていたことは、彼女にとっては不要です。彼女は幸福で、彼女のことを思ってくれていた人々に対して、献身的に尽くすつもりでいます。あなたは彼女のよき友人でしたね。彼女は殆どずっとあなたの側におり、あなたが知らない間に、あなたと対話をしているのですよ。

今、彼女はあなたがしようとしている善なる行為を支援したいと思っています。イエスが仰った次の言葉を思い出してください。

『低くされた者は、高くされるであろう』

彼女からは多くの支援を受けることが出来るでしょう。しかし、それも、『あなたの行為があなたの隣人にとって有用である』という限りにおいて許されるのです」

――招霊します――

こんにちは、ジュリエンヌ=マリ。あなたが幸福だということを伺い、とても安心しました。そのことが一番気になっていたからです。

でも、いつもあなたのことを考えているのですよ。そして、お祈りの時は、必ずあなたのことを思っています。

「神様を信頼しましょう。あなたに関わりのある病人達に、敬虔な信仰をお勧めしなさい。必ず上手くゆくでしょう。

でも、見返りを求めてはいけません。天上界に還った時に、それはおのずと与えられるからです。その素晴らしさに、あなたはきっと驚くことでしょう。神様は、同胞の為に尽くした者には、必ずご褒美をくださいます。そして、その奉仕が完全に無私のものとなるように導いてくださいます。無私の心で為されない奉仕は、すべて幻、空想に過ぎないからです。

『まず何よりも信仰を持つ必要がある。信仰がない場合、全てが虚しい』

どうか、この箴言(しんげん)を覚えておいてください。きっと、その結果の素晴らしさに驚かれることでしょう。あなたが治してさしあげたお二人の病人が、そのよき証となるでしょう。ああした状況では、信仰なしに、単に薬を与えただけでは、決して治らなかったはずなのです。

病人を癒す為の生体エネルギーを下さるように神様にお願いしても、その願いが聞き届けられないような場合、それはお祈りに込めるあなたの熱意がまだ充分ではないからなのです。私が申し上げた条件の下に為されて初めて、お祈りは熱意溢れたものになるのですよ。あなたが、先日、心の底から次のように祈った時に感じた、あの感激を思い出してください。

『全能なる神よ、慈悲溢れる神よ、無限なる善の神よ、どうか私のお祈りをお聞き届けください。そして、Cさんを癒す為に、天使をおつかわしください。Cさんをお哀れみください。そして、Cさんが再び健康を取り戻せますように、よろしくお願い致します。あなたなしには、私には何も出来ません。あなたのお心から成就されますように』

あなたが、ああした下層の人々の為に働くのはとても善いことです。苦しみに満たされ、この世の悲惨さを忍んでいる人々の声は、必ず聞き届けられます。そして、あなたが既にご存知のように、奉仕の行為は必ず報われるのです。

さて、それでは、私のことを少々お話させて頂きます。そうすることで、私が今お話したことが本当であると確信出来るでしょう。

霊実在論を学んでいるあなたであれば、今こうして語っているのが霊としての私であることは、当然お分かりのはずです。したがって、そのことに関しては詳しく触れません。

また、今回の転生の前の転生についても触れる必要はないと思います。今回の私の生き方をご覧になったあなたであれば、その前の転生がいかなるものであったか、おおよそ見当がつくはずだと思うからです。私の過去世は、必ずしも満点ではなかったのです。

今回、私は、体が不自由で働くことが出来なかった為に、一生の間物乞いをして、悲惨な人生を送りました。お金を貯めることなど、殆ど出来ませんでした。晩年に至って、ようやく百フラン程貯まりましたが、これは、私の足が最早私の体を運べなくなった時の為のものでした。

神様は、私の試練と償いが充分に済んだことをお認めになって、ようやく私の人生に終止符を打たれ、私を苦しみに満ちた地上から引き上げてくださいました。

私は、人々が最初に思ったように、自殺したというわけではなかったのです。私が最後の祈りを神様に捧げている最中に、私は、突然、池のほとりで死を迎えたのです。そこが坂になっておりましたので、私の体は自然に池に落ちたというだけなのです。

苦しみは全くありませんでした。私は、じっと耐えながら、滞りなく自分の使命を果たすことが出来て、今、とても幸せです。私は、自分に許された力と方法が及ぶ範囲で、人々の役に立つことが出来、また、隣人に対して過ちを犯さずに済みました。

今、こうして、ご褒美を頂き、神様に――私達の主なる神様に――、心より感謝申し上げるのです。

神様は、地上での一生の間、私達の過去世のことを忘れさせてくださり、そのことで人生の辛さを和らげてくださいます。また、人生の途上に、思いやりに溢れた人々を配してくださり、私達が、過去世で犯した過ちという重い荷物を背負い続けるのを、助けてくださるのです。

私がそうしたように、どうか辛抱強く生きてください。そうすれば、必ず報われます。

色々と助けてくださり、そしてまた、お祈りをしてくださったことに対して、心より感謝申し上げます。このことは決して忘れません。

やがて再びお会いすることになるでしょうが、その時に、もっと多くのことをご説明致しましょう。今お話しても、お分かりにならないことが沢山あるのです。

どうぞ、私があなたに全面的に奉仕するつもりであることをご承知おき下さい。苦しんでいる人々を救おうとする時、もし助けが必要であるのならば、私は必ずあなたのお側に参ります」

一八六四年に再びパリ霊実在主義協会において招霊されたジュリエンヌ=マリの霊が、次のようなメッセージを送ってくれた。

「会長様、こうして再び招霊してくださり、誠に有り難うございます。

あなたが感じ取られた通り、私は、過去世においては、社会的に見て高い地位に就いていたことが多かったのです。そして、その時に、自惚れと慢心から、貧しく惨めな人々を拒絶するという過ちを犯した為に、今回はこうして貧しさという試練を受けることになったのです。[目には目を、歯には歯を]という応報の理に従い、私は、この国で最も悲惨な極貧生活を送ることとなりました。

それでも、神様の思いやりを教えて頂く為に、全ての人から拒絶されるということにはなりませんでした。

そういうわけで、私は、不平も漏らさずに、辛酸に満ちた、流謫(るたく)の地において、あの世での幸福を予感しつつ、どうにかこうにか過ごすことが出来たのです。

若々しい魂に戻って霊界に還り、愛する霊達に再び会えるということは、本当に嬉しいことです。

こうして感謝出来るのも、B氏が通信を受け取ってくださるからです。氏の助けがなければ、こうして感謝の思いを伝えることも出来ず、また、私が氏の善良な心から受けた影響を決して忘れていない、ということを言うことも出来ず、神聖な霊実在論の普及をお願いすることも出来なかったのです。

氏は、迷える魂達を正しい道に連れ戻すという使命を持っています。きっと私の支援が必要であることを感じられたのでしょう。そうです、私は、霊界の様子をこうしてお伝えすることで、生前、氏にして頂いたことを百倍にしてお返しすることが出来ます。

有り難いことに、主がご許可くださった為に、こうして霊達が通信を送ることが可能となっています。

どうか、貧しい人々は、苦しみを耐え忍ぶ勇気をそこから汲み取ってください。

そして、裕福な人々は、慢心に陥らないように注意してください。どうか、不幸な人々を拒絶することは恥であるということを知って頂きたいのです。さもないと、私と同様、再び地上に生まれ変わって、社会の最下層に属し、人間の屑と見なされながら、過ちを償うことにもなりかねません」

以上の霊示はB氏を通じて降ろされたものであるが、さらに、B氏が助言を求めると、次のようなメッセージが返ってきた。

――ジュリエンヌ=マリさん、霊実在論をさらに高度なものにする為に、霊界からご支援くださるということでしたが、私自身にもご忠告をお願い致します。あなたの教えを役立てる為に、可能なことは全て行うつもりでおります。

「これから申し上げることをよく覚えておいて、常に実践するようにしてください。

まず、自分に可能な範囲でよろしいですから、常に慈悲を実践してください。あなたは慈悲が何であるかをよく理解していますので、地上生活でのあらゆる側面で、慈悲を実践することが可能なはずです。したがって、このことに関しては、特に申し上げることは致しません。良心の声に従って、最も正しい判断を行ってください。良心の声に忠実に耳を傾ける限り、あなたが過つことはありません。

次に、霊実在論を普及させるという使命を遂行する上で、どうか過ちに陥らないようにしてください。小さい人は小さい使命を、偉大な人は偉大な使命を持っているのです。私の使命は、既に申し上げたように、大変辛いものでした。しかし、それは過去世で犯した過ちに見合うものであったのです。

パリ霊実在主義協会に多くの人が集うことになるのは、あなたが考えているほど遠い将来のことではありません。霊実在論は、数多くの妨害を受けてはおりますが、大いなる歩幅で進んで行くでしょう。

したがって、皆様、決して恐れることなく、情熱を持って突き進んでください。あなた方の努力は、勝利の王冠によって必ず報いられるでしょう。

人が何と言おうと関係ありません。つまらぬ批判など問題にする必要はありません。正しい人に対する間違った批判は、批判した人のところに返っていくのです。

傲慢な人々は、自分を強いと思い、あなた方を簡単に打ち倒せると思っています。しかし、友人達よ、常に穏やかでありなさい。そして、彼らと戦うことを恐れてはなりません。彼らを倒すのは、あなた方が考えているよりも遥かに容易だからです。

彼らの多くは、実際には、真理によって自分達の目が潰れるのを恐れているにすぎません。ですから、恐れることなくじっくりと待ちなさい。そうすれば、やがては彼らも仲間に加わり、霊実在論という大聖堂の建設に協力するのです」

以上の事実は大変示唆に富んでいる。この三つの通信に含まれる言葉をじっくり味わえば、多くのことを学ぶことが出来るだろう。霊実在論の中心的な原理が全て含まれているからである。

最初の通信から、既に、ジュリエンヌ=マリの霊は、その見事な言葉遣いによって、霊格の高さをはっきりと感じさせている。まるで蛹が蝶に変身するように見事に変身し、今や燦然と光を放つこの霊は、ボロを纏って地上にいた時に彼女を虐めなかった人を、丁度情け深い妖精のようにしっかり守護しようとしている。
これは、聖書にある次の格言そのままである。

「高き者は低くされるであろう。小さき者は大いなる者とされるであろう。慎ましき者は幸いである。苦しむ者は幸いである。苦しむ者は慰めを得るであろう。小さき者を蔑んではならない。なぜなら、この世で小さき者は、あの世では、想像も出来ないほど偉大な者になるかもしれないからである」

(3) 生きたまま埋葬された男性――アントニオ・B氏
アントニオ・B氏は、才能に恵まれた作家であり、多くの人々から尊敬されていた。ロンバルディア地方における名士であり、清廉かつ高潔な態度で公務を果たしてもいた。

一八五〇年、脳卒中の発作を起こして倒れた。実際には死んでいなかったのだが、人々は――ときどきあることだが――彼を死んだものと見なした。特に、体中に腐敗の兆候が現れたために、その思い違いが決定的となったのである。

埋葬後二週間してから、偶発的な態度から、墓を開くこととなった。娘が大切にしていたロケットを不注意によって棺(ひつぎ)の中に置き忘れたことが判明したのである。

しかし、棺が開けられたとき、列席者のあいだにすさまじい衝撃が走った。なんと、故人の位置が変わっていたのだ。仰向けに埋葬した体が、うつぶせになっていたのである。そのため、アントニオ・B氏が、生きたまま埋葬されたことが明らかとなった。飢えと絶望に苛(さいな)まれつつ亡くなったことは間違いなかった。

家族の要請で、一八六一年に、パリ霊実在主義協会において招霊されたアントニオ・B氏は、質問に対して次のように答えた。

――招霊します――
「何の用事でしょうか?」

――ご家族の要請があってお呼びしました。ご質問にお答えいただけると、たいへんありがたいのですが、どうぞよろしくお願いします。

「よろしい。お答えしましょう」

――死んだときの状況を覚えていらっしゃいますか?

「ええ、覚えていますとも! よく覚えていますよ! しかし、どうして、あの忌(い)まわしいことを思いださせるのですか?」

――あなたは、間違って、生きたまま埋葬されたのでしたね。

「ええ、でも無理もなかったのです。というのも、あらゆる兆候から、本当に死んでいるように見えたのですから。体も、完全に血の気を失っていました。実は、生まれる前からああなることに決まっていたのです。したがって、誰も悪くないのです」

――こうした質問がぶしつけであれば、中止いたしますが。
「続けて結構ですよ」

――あなたが、現在、幸福かどうかを知りたいのです。というのも、生前、立派な方として多くの人に尊敬されていたからです。

「ありがとうございます。どうか、私のために祈ってください。では、答えることにいたしましょう。精一杯、頑張るつもりですが、うまくいかなかった場合には、あなたの指導霊たちが補ってくださることでしょう」

――生きて埋葬されるというのは、どんな気持ちがするものですか?

「ああ、本当に苦しいものですよ。棺に閉じ込められて埋葬される! 考えてもみてください。真暗で、起き上がることも、助けを呼ぶこともできない。声を出しても、誰にも届かないのです。そして、すぐに呼吸も苦しくなってくる――空気がなくなるのです――。何という拷問でしょう! こんなことは、ほかの誰にも体験させたくありません。

冷酷で残忍な人生には、冷酷で残忍な処罰が待っているということなのです――。私が何を考えてこんなことを言っているかということは、どうか聞かないでください。ただ、過去を振り返り、未来を漠然とかいま見ているのです」

――「冷酷な人生には冷酷な処罰が下される」とおっしゃいましたね。しかし、生前のあなたの評判は素晴らしいものだったではないですか? とてもそんなことは考えられません。もし可能なら、ご説明いただけませんか?

「人間の生命は永遠に続いているのですよ。
確かに、私は、今回の人生では、よき振る舞いを心がけました。しかし、それは生まれる前に立てた目標だったのです。

ああ、どうしても、私のつらい過去について話さなくてはならないのでしょうか? 私の過去は、私と高級諸霊しか知らないのですが――。

どうしても話せというのなら、しかたがない、お話ししましょう。私は、実は、今回よりも一つ前の転生において、妻を生きたまま狭い地下倉に閉じ込めて殺したことがあるのです。そのために、今回の人生で、同じ状況を引き受けたということなのです。〈目には目を、歯には歯を〉ということです」

――ご質問にお答えくださり、本当にありがとうございました。今回の人生に免じて、過去の罪を許してくださるように、神にお祈りいたしましょう。

「また来ます。エラスト霊がもう少し補って説明したいようです」

霊媒の指導霊であるエラスト:「このケースから引き出すべき教訓は、『地上におけるすべての人生が互助に関連している』ということでしょう。心配、悩み、苦労といったものは、すべて、まずいことを行った、あるいは、正しく過ごさなかった過去世の結果であると言えるのです。

しかし、これは言っておかねばなりませんが、このアントニオ・B氏のような、ああした亡くなり方は、そんなに多く見られるわけではありません。彼が、何一つ非難すべきことのない人生を終えるにあたって、ああいう死に方を選んだのは、死後の迷いの時期を短縮して、なるべく早く、高い世界に還るためだったのです。

事実、彼の犯した恐るべき罪を償うための、混乱と苦しみの期間を経たあとに、初めて彼は許され、より高い世界に昇っていくことができたのです。そして、そこで、彼を持っている犠牲者――つまり、奥さんのことですが――と再会を果たしたのです。奥さんは、すでに彼のことはずいぶん前から許しています。

ですから、どうかこの残酷な例によく学んで、あなたがたの肉体的な苦しみ、精神的な苦しみ、さらには人生のあらゆるこまごまとした苦しみを、辛抱強く耐え忍ぶようにしてください」

――こうした処罰の例から、人類はどんな教訓を引き出せばよいのでしょうか?

「処罰は、人類全体を進化させるために行われるのではなくて、あくまでも、罪を犯した個人を罰するために行われるのです。実際、人類全体は、個人個人が苦しむこことは何の関係もありません。罰は、過ちに対して向けられるものだからです。

どうして狂人がいるのか? どうして愚かな人間が存在するのか? どうして、死に際して、生きることも死ぬこともできずに、長いあいだ断末魔の苦しみにさらされる人がいるのか?

どうか、私の言うことを信じ、神の意志を尊重し、あらゆることに神の思いを見るようにしてください。よろしいですか? 神は正義です。そして、すべてのことを、正義に基づいて、過つことなくなさるのです」

この例から、われわれは、偉大な、そして恐るべき教訓を引き出すことができる。それは「神の正義は、一つの例外もなく、必ず罪人に裁きを下す」ということである。

その時期が遅れることはあっても、断罪を免れるということはあり得ない。大犯罪人たちが、ときには地上の財物への執着を放棄して、心静かに晩年を送っていたとしても、償いのときは、遅かれ早かれ、必ずやってくるということなのだ。

この種の罰は、現実にこうして目の前に見せられることで納得できるものとなるが、それだけではなくて、完全な論理性を備えているがゆえに、また理解しやすくもあるのだと言えよう。理性に適(かな)ったものであるがゆえに信じることができるのだ。

尊敬すべき立派な人生を送ったからといって、それだけですべてを償うことができ、厳しい試練を免れることができるとは限らない。償いを完全に果たすためには、ある種の過酷な試練をみずから選び、受け入れなければならないこともあるのだ。それらは、いわば、借金の端数であって、それらをしっかり払い切ってこそ、進歩という結果が得られるのである。

過去幾世紀にもわたって、最も教養のある、最も身分の高い人々が、正規に堪(た)えない残虐な行為を繰り返してきた。数多くの王たちが、同胞の命を弄(もてあそ)び、権力をふるって無辜(むこ)の民を虐殺してきた。

今日、われわれとともに生きている人間の中に、こうした過去を清算しなければならない人々がたくさんいたとしても、何の不思議があるだろうか? 個別の事故で亡くなったり、大きな災害に巻き込まれて亡くなったりと、数多くの人々が亡くなっているのも、別に不思議なことではないのかもしれない。

中世、そして、その後の数世紀のあいだに、独裁政治、無知、傲慢、偏見などが原因で、数多くの罪が犯された。それらは、現在そして未来への膨大な量の借金となっているはずである。それらは、いずれにしても返さなければならない。

多くの不幸が不当なものに見えるのは、いまという瞬間しか視野に入らないからなのである

(4) 沸騰したニスを全身に浴びて亡くなった男性――レティル氏
パリの近郊に住んでいた家具製造業者のレティル氏は、一八六四年四月に、たいへん悲惨な死に方をした。

沸騰(ふっとう)していたニスの窯(かま)に引火し、そのニスがレティル氏の上にまともにこぼれかかってきたのである。氏は一瞬のうちに炎に包まれた。作業場には、氏以外に一人だけ見習い工がいたが、氏はその見習い工に支えられて、二百メートルほど離れた自宅に帰り着いた。すぐに応急手当がなされたが、体は焼けただれ、まるでぼろ布のようになっていた。体の一部の骨と、顔面の骨が露出していた。

その恐るべき状態で、死の瞬間まで、まったく意識を正常に保ったまま、仕事の指示をあれこれ出しながら、氏は十二時間のあいだ生きつづけた。このひどい苦しみのあいだ、氏は、ひとことも弱音を吐(は)かず、「苦しい」とも「痛い」とも言わず、最後は神に祈りながら亡くなった。

柔和(にゅうわ)で思いやりのある、立派な人であった。氏を知る人々は、みな、氏を愛し、尊敬していた。

霊実在論を熱烈に支持していたが、あまり熟考を重ねるタイプではなく、また、自分自身、霊媒の資質を持っていたので、数多くの霊現象に見舞われ、危うく翻弄(ほんろう)されそうになったこともある。しかし、最後まで霊実在論の信仰を捨てなかった。霊たちの言うことを信じる点においては、少々行きすぎもあるのではないかと思われるほどであった。

死後数日してから、一八六四年四月二十九日に、パリ霊実在主義協会で招霊された。まだ事故の生々しさが記憶から消えていなかったが、そうした状況で、次のようなメッセージが送られてきた。

「深い悲しみに襲われています。あの悲劇的な事故による恐怖がまだ消えておらず、いまだに死刑執行人が振り上げた刀の下にいるような気がします。

ああ、何という苦しみだったでしょう! まだ震えが止まりません。焼かれた肉のひどいにおいが、まだまわりに漂っているような気がします。十二時間にも及んだ断末魔の苦しみ! 罪ある霊にとって、何という試練だったことでしょう。それでも、ひとことも弱音を吐かず、苦しみに耐えたのです。それをご覧になった神は、きっと罪を許してくださるでしょう。

愛する妻よ、どうか泣かないでおくれ。苦しみは治まりつつあります。実際にはもう苦しんでいません。記憶が現実を作り出しているように思われるだけなのです。

霊実在論に関する私の知識が非常に役立ちました。もし、この尊い知識がなかったら、いまだに私は、死んだときの錯乱から抜け出せていなかったでしょう。

しかし、最後の息を引き取って以来、ずっとそばに付いてくれている存在があります。いまでは、すぐそばにいるのが見えます。最初は、苦しみのあまり錯乱して、幻覚を見ているのではないかと思っていましたが――。そうではなく、それは私の守護霊だったのです。静かに、優しく私を見守り、直接、心に語りかけて慰めてくれます。

私が地上から去るや否や、彼はこう語りかけてきました。

『さあ、こちらにいらっしゃい。朝がやってきたのですよ』

呼吸がずいぶん楽になり、まるで悪夢から抜け出したかのようでした。

私は、私に尽くしてくれた愛する妻のこと、そして、かの健気(けなげ)な子供のことを語りました。すると、守護霊は言いました。

『彼らは全員まだ地上にいて、あなたはこうして霊界にいます』

私はもといた家を探しました。守護霊が付き添って、連れていってくれました。みんなが涙に掻(か)き暮れているのが見えました。私が去ったばかりの家の中は、すべてが喪(も)の悲しみにひたされていました。

あまりのつらさに、その光景をみつづけることができず、私は守護霊に言いました。

「もうこれ以上、耐えられません。さあ、行きましょう」

『そうですね。そうしましょう。そしてしばらく休みましょう』と守護霊は言いました。

それから、私の苦しみは安らぎました。悲しみに暮れている、私の妻と友人たちの姿さえ見えなければ、ほとんど幸福だと言ってもいいくらいでした。

守護霊が、どうして私があれほど苦痛に満ちた死に方をしなければならなかったのかを教えてくれましたので、それを、これから、あなたがたの後学(こうがく)のために語ってみましょう。

いまから二世紀ほど前、私は、若い娘を火刑台で死刑にしました。年のころは十三歳、当然のことですが、純真で無実の娘でした。いったいいかなる罪を着せたのでしょうか?

ああ、教会に対する陰謀(いんぼう)の共犯者として彼女を捕えたのです。私はイタリア人で、異端審問官だったのです。死刑執行人たちは、汚(けが)らわしいと言って、娘の遺体に触ろうとさえしませんでした。私自身、審問官であり、かつまた死刑執行人でもありました。

ああ、正義、神の正義は偉大なり! 私はその神の正義に従って、今回の惨事を耐え忍んだのです。私は『人生最後の苦しみとの戦いの日に、ひとことも弱音を吐かない』と誓い、それを守り通しました。私は黙ってじっと耐え、そして、おお、神よ、あなたはそれをご覧になって私を許された!

あの哀れな娘、無実の犠牲者の思い出は、いつ私の記憶から消えるのでしょうか? その思い出が私を苦しめるのです。それが完全に消えるためには、彼女が私を許す必要があるのですね。

ああ、新たな理論、霊実在論を信じる子供たちよ、あなたがたはよくこう言います。『私たちは、過去の転生でやったことを覚えていない。もしそれを覚えていれば、用心して、数多くの過ちを避けることができるのに』と。

しかし、神に感謝しなさい。もしあなたがたが過去世での記憶を保持していたとしたら、地上において、一瞬たりとも安らぎを感じることができなくなるのですよ。悔恨(かいこん)や恥の思いに絶えず付きまとわれたとしたら、ほんの一瞬でも心の安らぎを感じられると思いますか?

したがって、忘却とは恩寵(おんちょう)なのです。記憶こそが、霊界では拷問なのですよ。

もう何日かすれば、苦しみに耐えた私の我慢強さに対する報いとして、神は、私から、過ちの記憶を消してくださるでしょう。それこそが、守護霊が私にしてくれた約束なのです」

今回の転生で、レティル氏が示した性格の特徴を見れば、氏がどれほど進化した魂であるかが分かるだろう。彼の生き方は、彼の悔い改め、そしてそれに伴う決意の結果であったのである。

しかし、それだけではまだ充分ではなかった。さらに、彼が他者に経験させたことを、みずから実際に経験する必要があったのである。そして、その恐るべき状況において耐え忍ぶということが、彼にとって最も大きな試練となった。しかし、幸いなことに、氏はそれを何とか乗り切った。

霊実在論を知ることによって、死後の世界への確信が生まれたことが、氏の勇気の源泉となったことは間違いない。「人生上の苦しみは、試練であり、償いである」ということを知っていたために、弱音を吐かずに素直に受け入れることができたのである。

(5) 知的障害があっても霊には正常な思考力がある――シャルル・ド・サン=G
一八六〇年、パリ霊実在主義協会にて。

シャルル・ド・サン=Gは十三歳の知的障害児で、知性がまったく発達しておらず、自分の両親が誰かも分からなかった。また、一人で食事をすることさえできなかった。体の発育も、小さいときにまったく止まってしまっていた。(訳者注:以下は、この生きている子供の霊を招霊したときの記録)

――(聖ルイの霊に対して)この子供の霊を招霊したいのですが、よろしいでしょうか?

「そうですね、死者の霊を招霊するのと同じように、この子の霊を招霊することは可能です」

――ということは、いつでも招霊が可能だということですか?

「そのとおりです。魂は霊子線で肉体と結びついており、いつでも招霊することが可能です」

――シャルル・ド・サン=Gの魂を呼びます――

「私は体を通して地上に縛りつけられた哀(あわ)れな霊です」

――霊体としてのあなたは、今世(こんぜ)、自分が知的障害を持った人間として地上に生きていることを、意識していますか?

「もちろんです。とらわれの身であることは感じています」

――あなたの肉体が寝ているとき、あなたは霊として肉体から離脱すると思うのですが、そのとき、あなたは、霊界にいたときのように、澄んだ意識でいられるのですか?

「私の哀れな肉体が休んでいるとき、私は自由になり、霊界へと上がっていって一息つくのです」

――現在のような不自由な肉体に宿っていることを、霊として、つらいと感じますか?
「もちろんです。これは罰なのですから」

――ということは、過去世についての記憶があるということですか?

「ありますとも。前回の転生で、現在の地上への追放の原因をつくったのです」

――どんな生き方をしたのですか?
「アンリ三世の治世下、私は若い自由思想家でした」

――あなたは「現在の境涯は罰である」とおっしゃいました。ということは、ご自分で選ばれたわけではないのですね?

「はい、私が選んだわけではありません」

――現在のような人生を送ることが、どうして進化に役立つのでしょうか?

「神が私にそれを課した以上、私にとってそれが役に立たないということはあり得ないのです」

――今回の地上の人生はいつまで続くかご存知ですか?

「分かりません。ただ、あと数年もすれば、故郷に還れるのではないかと思っています」

――前回の転生が終了し、今回の転生が始まるまで、霊界では何をしていたのですか?

「私は軽はずみなことをしでかしましたので、ある場所に閉じ込められて反省しておりました」

――通常の意識状態のとき、あなたはまわりで起こっていることを自覚していますか? 内的器官はあまり発達していないわけですが。

「霊としては、見ることも、聞くこともできます。しかし、私の体は何も理解できせんし、何にも見ることができません」

――あなたのために、私たちに何かできることはありませんか?
「何もありません」

――(聖ルイの霊に対して)肉体に宿って地上にいる霊のために祈った場合、肉体から離脱して迷っている霊に対するのと同じような効果はあるのですか?

「祈りは、神にとっては常によきものであり、神のお気に召します。この哀れな霊のために祈った場合、現状は変化しませんが、将来、必ず役に立ちます。神がそれを考慮に入れてくださるからです」

この招霊によって、知的障害児についてずっと言われてきたことが事実であるということが確かめられた。すなわち、彼らは肉体を備えた人間としては知的能力を欠いているが、霊としてはまったく正常で、その能力には何の欠陥もない。肉体器官に欠陥があるために、考えていることをしっかり表現できないだけなのだ。屈強な男が、縄(なわ)でがんじがらめに縛られているようなものだと思えばよい。

パリ霊実在協議会において、すでに亡くなって霊界にいる、霊媒の父親のピエール・ジューティから、知的障害児に関し、次のような情報が与えられた。

「優れた能力を地上において悪用した者が、次の転生で、知的障害児として過ごすことになる場合があります。彼らの魂は、欠陥のある肉体に閉じ込められ、自分の考えを自由に表現できないことになります。精神的、肉体的に不自由な、この状態は、地上における罰のうちで最も厳しいものです。こうした試練は、みずからの過ちを償おうとする霊にとって、しばしば選択されることがあります。

この試練には意味がないわけではありません。というのも、肉体に閉じ込められている霊自身は、あくまでも正常だからです。霊は、かすんだ目を通して見、弱った頭脳を通して考えるのですが、言葉や視線を使って、考えたことを表現することができません。

悪夢の中で「危険に遭遇し、助けを呼ぼうとしても舌が口の奥に張りついて声が出ず、逃げようとしても足の裏が地面に吸いついて足が動かない」という状況を体験したことがあると思いますが、ちょうどあのようなものだと思えばよいでしょう。

身体障害者の多くは、そのような状態で生まれなければならない、しかるべき理由を持っています。すべては理由を持っているのであり、あなたがたが理不尽な運命だと考えている当のものこそ、実は、至高の正義の表れであることを忘れてはなりません。

精神障害は、高い能力を濫用(らんよう)したことに対する罰です。精神障害に陥った人は、二重の意識を持っています。一つは、常軌を逸して行動する意識、もう一つは、それを知りながら、制御(せいぎょ)することのできない意識です。

知的障害児はどうかといえば、孤立して、物事を観照している彼らの魂は、肉体の楽しみからは無縁だとはいえ、普通の人々とまったく同じように、感じ、考えているのです。

中には、自分で選んだ試練に反抗している者もいます。そうした体を選んだことを後悔し、霊界に早く還りたいと激しく望んでいる者もいるのです。

精神障害者や知的障害児は、あなたがたよりもたくさんのことを知っており、無力な肉体の奥に、想像もつかないほどの強靭(きょうじん)な精神を潜ませていることを知らなくてはなりません。肉体が、怒り狂ったり、ばかな振る舞いをすることに対し、内部の魂は、恥ずかしく思ったり、苦しんだりしているのです。

同様に、人々から、あざけられ、侮辱(ぶじょく)され、邪険に扱われると――われわれはそういうことをしないでしょうか?――彼らは、自分の弱さ、卑(いや)しさをより強く感じて、苦しむことになるのです。犠牲者が抵抗できないことをいいことに弱い者いじめをする人々を、もしもそれが可能であれば、きっと彼らは告発したことでしょう」

(6) 主人への献身のうちに生涯を閉じた女中――アデライド=マルグリット
アデライド=マルグリットは、ノルマンディー地方のオンフルールという村の近くに住む、貧しく慎ましい女中だった。

十一歳のときに、裕福な牧場主のところに奉公した。しばらくたってから、セーヌ川が氾濫(はんらん)したために、家畜が流されたり溺(おぼ)れたりしてすべて死んでしまい、その結果、主人が破産してしまった。アデライドは、エゴの声を押し殺し、良心の声に耳を傾けた。そして、貯めていた五百フランを一家に差し出し、その後も、給料なしで働くことを誓った。

やがて主人夫婦が亡くなり、娘がたった一人残された。アデライドは畑を耕し、上がりをすべてその娘に渡した。しばらくして、アデライドは結婚したが、そうすると、今度は夫婦そろってその娘のために汗水流して働くこととなった。アデライドは、娘をいつまでも〈奥様〉と呼んでいた。

こうして、この尊い献身は、半世紀近くも続いたのである。

ルーアンの善行表彰協会は、この尊敬(そんけい)と感嘆(かんたん)に値する女性を忘却のうちに放置することはなかった。彼女に名誉のメダルと報奨金を与えて表彰した。フリーメーソンのル・アーブル支部もメンバーからお金を募り、「彼女の生活の資に」ということで差し出した。結局、村が、細かな配慮とともに、彼女の生活の保障をすることとなった。

やがて、彼女は突然、体の麻痺に襲われ、あっという間に、苦しみもなく、あの世に旅立っていった。葬儀は、簡単に、しかしきちんと行われた。村長代理が葬列の先頭に立った。

一八六一年二月二十七日、パリ霊実在主義協会にて。

――招霊します――。神よ、マルグリットの霊に通信をご許可ください。
「はい、ありがたいことに、神さまは、通信をお許しくださいました」

――地上にいらしたときに、素晴らしい生き方をなさったことに対して、心よりの賛辞を捧げます。こうしてお会いすることができて、たいへんうれしく存じます。きっと、あなたの献身は報いを受けたことでしょう。

「はい、神さまは、神さまの召使いに対して、愛深く、慈悲をもって接してくださいました。私がしたことを、あなたがたはほめてくださいますが、むしろあれは当然のことだったのですよ」

――後学のためにお伺いするのですが、あなたが地上で果たされた慎(つつ)ましやかな役割の理由は何だったのですか?

「私は、今回の転生に先立つ二回の転生で、ともに、たいへん高い地位に就いていました。したがって、そのときに善行を積むことは容易でした。裕福でしたので、何の犠牲も払わずとも、慈善を実践できたのです。

しかし、これでは向上が遅れると思いました。そこで、次には、『卑しい身分に生まれ、耐乏生活を送りながら善行を積む』という道を選んだのです。そのために、長いあいだ準備をしました。神さまは、私の勇気を買ってくださいました。

こうして、私は、自分で立てた目標に挑み、天使たちの援助を受けつつ、それを達成したというわけなのです」

――そちらに還ってから、地上での主人ご夫妻にはお会いになりましたか? 現在、お二人との関係はどのようなものになっているのですか? いまでも、彼らに仕える立場なのですか?

「はい、お二人にはお会いしました。私がこちらに還ってきたときに、出迎えてくださったのです。これは驕(おご)りから申すのではございませんが、お二人は、私をお二人よりもずっと上の存在として扱ってくださいました」

――他の人々に仕えずに、あの二人に仕えたのには、何か特別な理由があったのですか?

「特にありません。他のところでもよかったのです。ただ、お二人はかつてお世話になったことがありますので、それをお返ししたいと思ったのは事実です。ある過去世で、お二人が、私によくしてくださったことがあるのです」

――次の転生はどうなさるおつもりですか?

「次は、苦悩のいっさい存在しない世界に生まれてみたいと思っております。こんなことを申し上げると、きっと、うぬぼれの強い女だと思いになるかもしれません。でも、素直に思い切って本心を言ってみたのです。もっとも、すべては神さまにお任せしてありますが」

――招霊に応じてくださり、まことにありがとうございました。神さまのご慈悲がありますように。

「ありがとうございます。みなさまに、神さまの祝福がありますように。そして、みなさまがた全員が、こちらに還られたときに、私と同じように、本当に純粋な喜びに満たされますように」

(7) 四歳で肢体不自由となり、十歳で亡くなるという経験について――クララ・リヴィエ
クララ・リヴィエは、南フランスのある村に農民の子として生まれ、亡くなったときはわずか十歳であった。

四歳のときに体が完全に動かなくなっていた。しかし、ひとことも不満をもらさず、苛立ったことも一度もなかった。まったく教育を受けていなかったにもかかわらず、彼女は、あの世で待っている幸福についてよく語り、心を痛めている家族を慰めるのだった。

彼女は一八六二年の九月に亡くなった。四日のあいだ続けて痙攣(けいれん)に見舞われ、拷問のような苦しみに襲われたが、その間、絶えず神に祈りつづけた。

「死ぬことは怖くないわ」と彼女は言った。「死んだら幸福な生活が待っているのだもの」

そして、泣いている父親に向かって次のように言った。

「悲しまないでね、またパパのところに戻ってくるから。わたし、もうすぐ死ぬわ。それが分かるの。でも、死ぬときが来れば、はっきり分かるから、教えるね」

そして、最期が近づいたとき、家族全員を呼び寄せ、次のように言った。

「あと五分で死にます。手を握っていてね」

そして、そのとおり、五分後に息を引き取った。

そのとき以来、騒擾(そうじょう)霊がやってきて、家中をめちゃくちゃにした。テーブルをがんがん叩(たた)き、カーテンをはためかせ、食器をがたがた言わせた。

この霊は、当時五歳だった妹の目に、生前のクララの姿をとって映った。この妹によれば、クララの霊は、しょっちゅう話しかけてきたという。そのために、うれしくなって、ついつい、「ねえ、見て見て、お姉ちゃんはとてもきれいだよ」と叫んでしまうのだった。

――クララ・リヴェエの霊を招霊します――
「そばに来ています。どうぞ質問してください」

――あなたは、教育もなく、また、年もそれほどいっていなかったのに、どうしてあの世のことがあんなにはっきりと分かったのですか?

「前回の転生と、今回の転生のあいだに、それほど時間がたっていなかったのです。そして、前回のときには、わたしは霊能力を持っており、今回もまた、そのまま霊能力を持って生まれてきました。ですから、わたしは、いろいろなことを感じたり、見たりすることができ、それをしゃべっていたのです」

――六年間も苦しんだのに、しかもまだ子供だったのに、どうして、ひとことも不平をもらさずにいられたのですか?

「肉体の苦しみは、それよりも強い力――つまり守護霊の力――によって制御できるからです。守護霊がいつもそばに付いてくれていて、わたしの苦しみを和らげてくれました。守護霊のおかげで、わたしは苦しみに打ち勝つことができたのです」

――どうして、死ぬときが分かったのですか?

「守護霊が教えてくれたのです。守護霊は一度も間違ったことを言ったことがありません」

――あなたは、お父さんに、「悲しまないでね、またパパのところに戻ってくるから」と言いました。こんなに優しいことを言う子が、どうして、死後に、家中を引っかき回して、こんなふうにご両親を苦しめるのですか?

「試練、あるいは使命を持っているのです。わたしが両親に会いに来るとして、ただそのためだけに来ると思いますか? こうした物音、混乱、騒ぎは、ある意味での警告なのです。

わたしは、他の騒擾霊に助けてもらっています。彼らは騒ぎを引き起こすことができ、わたしは、妹の目に見えるように出現できます。こうしてわたしたちが協力し合うことによって、霊の実在を証明しようとしたのです。両親も、そこまでやらなければ分からなかったでしょう。

この騒ぎは、もうすぐやみます。でも、その前に、もっと多くの人々が、霊の存在をはっきりと知る必要があるのです」

――ということは、あなたが一人でこうした現象を起こしているのではないのですね。

「他の霊たちに助けれらて、一緒にやっています。これは、両親にとっては一種の試験であると言ってよいでしょう」

――現象を引き起こしているのがあなた以外の霊たちであるとすれば、妹さんは、どうしてあなたしか見えないのですか?

「妹には、わたししか見えないようにしています。わたしは、これからもしばしばやってきて、あの子を慰め、勇気づけるつもりでおります」

――どうして、あんなに幼いときに、肢体が不自由になったのですか?

「過去世で過ちを犯したので、それを償う必要があったのです。わたしは、今回の直前の過去世で、健康と美貌(びぼう)と才能を濫用し、そして楽しみすぎました。そこで、神さまがこう言われたのです。

『おまえは、法外に楽しみすぎた。今度は苦しんでごらん。傲慢だったので、今度は謙虚さを学びなさい。美しさゆえに驕(おご)り高ぶったので、今度は醜(みにく)い体に耐えなさい。虚栄の代わりに、慈悲と善意を学ぶのだ』

そこで、わたしは神さまのご意志に従うことにしました。それを、守護霊が助けてくれたのです」

――ご両親に何か言いたいことはありますか?

「両親が霊媒に対して、たくさんの施しをしたのは、とてもよいことだと思います。それは祈りの一種だからです。口先だけで祈るよりも、そのように、行為を通じて祈ったり、また、心の中で本心から祈ったほうがよいのです。困っている人に分け与えることとは、祈りであり、また、霊実在論を実践することでもあります。

神さまは、すべての魂に、自由意志を、すなわち進歩する能力を与えられました。すべての魂に、向上に対する憧(あこが)れを植えつけられたのです。

したがって、修道服ときらびやかな衣装のあいだの距離は、普通に考えられているほど遠いものではありません。慈善の行為によって、その距離を縮めることは可能となるのです。

貧しい人を自宅に招き、勇気づけ、励ましてください。決して、辱(はずかし)めてはなりません。良心に基づく、この慈悲の行為を、みんながあちこちで実践すれば、文明国をむしばんでいる種々の悲惨が――それは、神さまが、人々に罰を与え、目を開かせるために送り込んでいるのですが――少しずつ消えてゆくはずです。

お父さん、お母さん、どうか神さまに祈ってください。お互いに愛し合ってください。イエスさまの教えを実践するのです。人にされたくないと思うことは、人にしないでください。神さまのご意志は、聖なるもの、偉大なるものであることをよくよく納得して、そして神さまに祈ってください。あの世のことをよく考えて、勇気、忍耐とともに生きてくださいね。というのも、お二人には、まだまだ試練が残っているからです。あの世の、より高い場所に還れるように努力してください。

いつもおそばにいます。それでは、さようなら。また来ます。

忍耐、慈悲、隣人への愛、こられを大切にしてください。そうすれば、必ず幸せになれます」

「修道服ときらびやかな衣装のあいだの距離は、普通に考えられているほど遠いものではありません」という表現は美しい。これは、転生ごとに、慎ましい、あるいは貧しい生活と、豪華な、あるいは豊かな生活を、交互に繰り返している魂の歴史を示唆(しさ)しているように思われる。というのも、「神から与えられた豪華な贈り物を濫用しては、それを、次の転生で慎ましい生活を通して償う」といったタイプの転生をする霊は、けっこう多いからである。

同様に興味深いのが、国単位での悲惨が、個人の場合と同じく、神の法に違反したことに対する罰だとしている点である。もし、国民の多くが、慈悲の法を実践すれば、戦争も、悲惨な出来事もなくなるはずなのである。

霊実在論を深く学ぶと、当然、慈悲の法を実践せざるを得なくなる。だからこそ、霊実在論はこれほど多くの執拗(しつよう)な敵を持つのであろう。しかし、この娘が両親に対して語った優しい言葉が、いったい悪魔のものだと考えられるだろうか?

(8) 謙虚さは人格を測る試金石――フランソワーズ・ヴェルヌ
この女性は、ツールーズの近くの小作農の家に生まれ、生まれつき目が見えなかった。一八五五年に四十五歳で亡くなった。

初の聖体拝域を受ける子供たちに教理を教える仕事をずっと続けていたが、教理が変更されても、何の支障もなく教えることがきできた。新旧の教理を完全に暗記していたからである。

冬のある日、伯母と二人で遠出をした帰り、日の暮れはじめた森の中を通って帰ることになった。その道は、ぬかるんだひどい道で、しかも溝に沿っていたので、充分に注意して歩かねば溝に落ちる危険があった。

伯母が手を引こうとすると、彼女はこう言った。

「私のことは気にしないでください、落ちる危険はありませんから。肩のところに光が降りてきて、私を導いてくれるのです。ですから、心配なさらずに、むしろ私のあとについて歩いてください。私が先に歩きましょう」

こうして、事故もなく、無事に家に帰り着いた。目の見えない人が、目の見える人を導いたのである。

一八六五年に招霊が行われた。

――遠出の帰り道にあなたを導いた光について、説明していただけませんか? あれは、あなたにしか見えなかったのです?

「なんですって? あなたのように、常時、霊とコンタクトをとっている方が、そんなことの説明を必要とするのですか? 私の守護霊に決まっているではありませんか」

――私もそのように思っておりました。しかし、確かめたかったのですよ。あの当時すでに、それが守護霊であると分かっていたのですか?

「いいえ、あとで分かったのです。とはいえ、私は天上界の加護があることは確信していました。私は、とても長いあいだ、神さまに――善なる神さま、寛大なる神さまに――お祈りしたものです――。

ああ、目が見えないということは、本当につらいものですよ! ――。そう、本当に。でも、それが正義であると知りました。目で罪を犯した者は、目で償わなければならないのです。これは、人間が与えられているすべての能力についてそう言えます。せっかく恵まれた能力を間違って使うとそうなるのです。

ですから、人間たちを苦しめる多くの不幸について、因果律(いんがりつ)に基づく当然の原因以外の原因を探す必要はないのです。そう、それは償いなのです。しかし、その償いは、素直に受け止めて実践しないと、償いになりません。

また、お祈りによって、その苦しみを和らげることも可能です。というのも、お祈りに天使たちが感応して、地上という牢獄にいる罪人を守ってくれるからです。悩み、苦しむ罪人に、希望と慰めを与えてくれるのです」

――あなたは、貧しい子供たちの宗教教育に打ち込まれました。そして、目が見えないにもかかわらず、教理をすべて暗記しました。どうしてそのようなことが可能だったのですか?

「『一般に、目が見えない人間は、他の感覚が二倍になる』と言えば分かっていただけるでしょうか。彼らの記憶力は非常に強く、自分の好きな分野の知識を、まるで整理棚の引き出しに入れるようにして楽々と記憶できるのです。そして、いったん記憶された知識は決して消えることがありません。外部のどんな要素も、この能力を阻害することはできず、また、訓練によって、この能力はどんどん伸びます。

しかし、私は例外に属していました。というのも、私はそうした訓練を受けたことがなかったからです。子供たちに尽くすために、神さまがその能力を私に与えてくださったことに対しては、もう感謝するしかありません。

ただ、それはまた、私が前世でつくった罪に対する償いでもあったのです。というのも、私は、前世では、子供たちに対して悪いお手本となってしまったからなのです。

こうしたお話は、霊実在主義者にとっては、まじめな探究の主題になりますね」

――あなたのお話をお聞きしていると、あなたがそうとう進んだ魂だということが分かります。また、あなたの地上での行動は、精神的な卓越性を説明するものだということが感じられます。

「いいえ、私はまだまだ至らない存在で、勉強しなければならないことが山のようにあります。

ただ、地上では、その知性が償いのためのヴェールをかぶっているために、それほど知的だとは思われない人々が多くいることも事実なのです。しかし、死によってそのヴェールが剥ぎ取られると、実は、そうした人々は、彼らを軽蔑(けいべつ)していた人間たちよりもはるかに知性が高かった、という事実が判明することがしばしばあるのです。

よろしいですか。傲慢というのは、資金石みたいなもので、傲慢かどうかを見れば、その人がどんな人であるか分かるのです。お世辞に弱い人、自分の知識を鼻にかける人は、だいたい間違った道にいます。彼らはおしなべて誠実さを欠きます。そうした人々には注意なさい。

キリストのように謙虚であってください。キリストのように、愛とともに十字架を負い、やがては天の御国(みくに)に還るのです」

(9) 娘を亡くし、悲嘆に暮れて亡くなった父親のその後――アンナ・ビッテの父親
愛する子供を突然失うことほどつらい経験はない。しかしながら、「最も美しい希望となっていた、たった一人の子供、すべての愛情を注いでいた子供が、自分の目の下で、苦しむことなく、また、原因も分らずに、衰弱していくのを見る」ということは、科学的な知識を狼狽(ろうばい)させるに足る、最も奇妙な現象の一つであろう。

あらゆる医療的技術を駆使(くし)したにもかかわらず、いっさい希望がないことを思い知らされ、毎日、いつ終わるとも知れない苦悩に耐えつづけるということ、それは、まことに恐るべき、拷問にも似た苦しみであろう。

かくのごとくが、アンナ・ビッテの父親の立場であった。ゆえに、暗い希望がその魂をむしばみ、性格がますますとげとげしくなっていたとしても無理はない。

そうした様子を見て、家族の友人のうちの一人――この人は霊実在論を信奉していた――が、指導霊に事情を聞いてみようと思い立った。以下がその答えである。

「あなたがいま目にしている奇妙な現象を説明してみましょう。というのも、それは、あなたがこの子供に対して真摯(しんし)な関心を寄せているのであって、ぶしつけな好奇心から聞いているのではない、ということが分るからです。神の正義を信じているあなたにとって、それは大きな学びとなるでしょう。

神に打たれることになった者は、神を呪(のろ)ったり、反抗したりせずに、素直に神の意志に従う必要があります。なぜなら、神が理由もなく罰するということはあり得ないからです。

現在、神によって、どっちつかずの状態に置かれているこの娘は、もうすぐ、こちらの世界に還ってくることになっています。神がこの娘を哀れんでおられるからです。

この不幸な父親は、たった一人の娘を愛するがゆえに、今こうして苦しんでいますが、実は、自分のまわりにいる人々の心と信頼を弄(もてあそ)んだことがあるのです。神はそれを罰しようとしました。しかし、その心の中に悔悟(かいご)の気持ちが生じたために、神は、娘の頭に振り下ろそうとした剣をしばし止めることにしたのです。だが、また反抗の気持ちが戻ってきたので、ついに罰が下されたのです。地上で罰せられる者はむしろ幸いなり。

友人諸君、どうか、この哀れな少女のために祈ってあげてください。この子は、もう少しすれば、ようやく最後の息を引き取るでしょう。だいぶ衰弱しているとはいえ、この若木の中には、まだ樹液がたっぷり満ちているので、魂が離脱することは難しいと思われます。さあ、祈ってあげてください。

のちに、彼女の霊は、あなたがたを助け、また、慰めることとなるでしょう。なぜなら、彼女の霊は、あなたがたの多くよりも進化しているからです。

このようにしてお答えすることができたのは、主の特別なお計らいがあったからです。というのも、この霊が肉体から離れるためには、あなたがたの支援がぜひとも必要だからなのです」

子供を失った空虚感に耐えられずに、父親も、間もなく亡くなった。死後、娘とその父親から伝えられたメッセージを、以下に揚げることとしよう。

娘:「哀れな女の子に関心を示してくださって、どうもありがとうございました。さらに、指導霊のご忠告に従ってくださいましたことにも、深く感謝申し上げます。

ええ、あなたがたのお祈りのおかげで、比較的、楽に体から離れることができました。お父さんときたら、お祈りもせずに、呪ってばかりいましたね。もっとも、それを恨んでいるわけではありません。私を愛するがゆえに、そんなふうにしたのですから。

私は、お父さんが、死ぬ前に、早く目覚めることができるようにと神さまにお祈りしました。私は、お父さんを励まし、勇気づけました。私の使命は、お父さんの最期を苦しみの少ないものにすることだったからです。

ときには、神聖な光がお父さんを貫いたようですが、それは一時的なものにすぎず、すぐに、またもとの考えに後戻りしてしまいました。信仰の芽はあったのですが、世俗の関心に押しつぶされてしまいました。新たな、より恐るべき試練でも来ないと、その芽は育たなかったのでしょう。

私はといえば、もうすぐこちらでの償いも終わります。私の罪は、そう大きいものではなかったのです。だからこそ、また、地上での償いも、それほど苦しくも、難しいものでもなかったのですが。

私は、病気になっても、苦しくはありませんでした。私はむしろ、お父さんに試練を与える道具として使われたと言ってよいのです。私自身は苦しんでいなかったのですが、病気の私を見ることで、お父さん自身が苦しむ必要があったのですね。私は運命を甘受(かんじゅ)していましたが、お父さんはそうではありませんでした。

現在、私は充分に報われています。神さまは、私の地上での滞在の期間を縮めてくださいました。たいへんにありがたいことです。私は、天使たちに取り囲まれて、とても幸せです。私たちは、全員、喜びとともに仕事に励んでおります。天上界では、仕事をしないことは、まるで拷問を受けるようにつらいことなのですから」

死後一カ月して送られてきた父親のメッセージ

――現在、霊界でどのように過ごしていらっしゃいますか? もし可能であれば、ご援助申し上げたいのですが。

「霊界だって! 霊なんかいやしない。以前知っていた者たちが見えるだけだ。もっとも、彼らは私のことなど、これっぽっちも考えていないみたいだし、私がいなくなって残念だと思ってもいないようだが。むしろ、私が死んでせいせいしているようだ」

――いま、どんな立場にあるかお分かりですか?

「もちろんだ。少し前までは、まだ地上にいると思っていたが、いまでは、もう地上にいないことはよく分っている」

――それなら、どうして、まわりに他の霊たちが見えないのですか?
「そんなことは分からん」

――娘さんとはまだお会いになっていないのですか?

「まだだ。あの子は死んだ。だから捜しているんだが、いくら呼んでも応えがない。

あの子が死んだとき、地上に残された私は耐えがたい空虚を味わった。死ぬ段になって『これでようやくあの子に会える』と思ったのだ。だが、死んでみたら何もなかった。孤立があるばかりだ。誰も話しかけてくれない。これでは、慰めも、希望もないではないか。

それでは、さらば、娘を捜さねばならないのでな」

霊媒の指導霊:「この男は、無神論者でも唯物論者でもありませんでしたが、漠然とした信仰しか持っていませんでした。神のことを真剣に考えたこともなければ、死後のことに思いをめぐらしたこともなく、ひたすらに地上の俗事にまみれて生きたのです。

娘を救うためならば、何でも犠牲にしたでしょうが、しかし、一方で、自分の利益のためならば、他人を犠牲にしてはばからなかったのです。つまり、ものすごいエゴイストだったということです。娘以外の人間のことは、考えたことさえもありませんでした。

すでにご存知のように、神はそのことで彼を罰したのです。地上において、彼からたった一人の娘を取り上げ、それでも悔い改めなかったので、霊界においても、彼から娘を取り上げました。また、彼は誰にも関心を示さなかったので、こちらでは誰も彼に関心を示しません。それが彼に対する罰なのです。

実は、娘は近くにいるのですが、それが彼には見えないのです。もし、彼に娘が見えればそれは罰にはならないからです。彼はいま何をしているのでしょか? 神に向かっているのでしょうか? 悔い改めているのでしょうか? いいえ、文句を言うだけです。神を冒涜(ぼうとく)さえしています。要するに、地上でしていたのと同じことをしているのです。

お祈りをし、忠告をして、彼を助けてあげなさい。そうしないと、いつまでも、この盲目状態が続くことになります」