第1部 生前の生き方が、死後の行き先を決める
――天国霊・地獄霊の人生ケーススタディー

第3章 地獄で苦しむ霊
(1) エゴイスティックな霊への懲罰――ジョルジュ
一八六〇年一〇月、パリ霊実在主義協会において、ジョルジュという霊からメッセージが伝えられた。その中で、ジョルジュは、「罪のある者が霊界に還った場合、一般的にどうなるか」ということを報告している。

「意地悪な人間達、エゴイスティックで冷酷な人間達は、死ぬとすぐに、現在の状況、そして未来の運命に関して、凄まじい疑念に苛まれている。

彼らは周りを見回すが、まず最初は、意地悪をするいかなる対象も見つけられない為に、絶望の念に囚われる。というのも、悪霊にとっては、虐める対象を欠いた孤立と無為の状態は耐えがたいものだからである。

一方で、彼らは、浄化された霊達が住む領域に視線を向けることが出来ない。
周囲をじっくり眺めると、やがて、罰を受けている弱々しい霊達が見えてくる。やっと獲物を見つけたとばかり、彼らはその霊達に襲いかかる。

しかし、そんなことでは彼らの心は治まらない。そこで、飢えた禿鷹のように、地上に這いずり出てくるのである。人間達の中から、御し易そうな者を見つけ、憑依し、煩悩を掻き立て、神への信仰を弱め、完全に支配出来るようになった時に、この者に接触してくる人間達全員に対し、悪しき影響をふるい始めるのである。

こうした状態にある時、悪霊は殆ど幸福を感じていると言ってよい。彼らが苦しみを感じるのは、何もせずにいる時、或は、善が悪に勝っている時だけだからである。

だが、そうしているうちにも時間は経っていく。そしてある時、悪霊は、突然、闇に取り囲まれるのを感じる。そして行動範囲が狭まる。それまで麻痺していた良心が少しずつ目覚め、痛みと共に悔悟の気持ちが湧いてくる。じっとうなだれていると、渦巻きに運び去られ、聖書に書かれているように、恐怖のあまり身体中の毛が逆立つのを感じながら、彼は放浪を始める。

やがて、内部に、そして周囲にも、とてつもない空虚が生じる。ついに贖罪の時期がやってくる。

こうして、再び地上に生まれ変わることになる。地上で自分を待っている恐るべき試練が、蜃気楼のように視界に入る。退こうとするが、前進せざるを得ない。ぱっくりと口を開いた深淵に吸い込まれ、転げ落ちていくと、やがてヴェールが目の上にかかるのが感じられる。記憶が消されるのだ。

再び地上に生まれ、成長し、行動し、そして、また罪を犯す。『そうしてはならない』という、微かな記憶があるような気もするし、『こんなことをしたら大変なことになる』とも思うのだが、どうしても悪の道に入っていってしまう。

やがて悪にまみれ、力尽きて、死を迎える。祖末なベッドに横たわり、じっとしていると、忘れていた霊的な感覚が甦ってくる。目は閉じられているが、彼は一条の光を見、聞いたことのない音を聞く。手が痙攣して敷布にしがみつく一方で、魂は早く肉体から離脱しようと焦る。

周りを囲む人々に向かって叫ぼうとする。
『引き止めてくれ! 押さえてくれ! 嫌だ、行きたくない! 処罰が俺を待ち構えている! 』

だが、叫ぶことは出来ない。
やがて、唇が青ざめ、死が訪れる。すると、周囲にいる人々が言う。
『ああ、やっと逝ってくれたか』

彼には、それが全て聞こえる。肉体から離れたくないので、その周りに漂っている。

だが、何かの力に引っ張られて、否応なくそちらに引き寄せられる。そして、かつて見たことのある風景をまた見るのである。我を忘れて空間に躍り込み、隠れられる場所を探す。だが、もう逃げも隠れも出来ない。休むことも出来ない。他の霊達が、彼がなした悪と同じ悪を彼に対して行うからである。

こうして、彼を懲らしめ、あざ笑う。彼は恥じ入って逃げ惑う。

いつまでも逃げ惑っていると、やがて、頑な心に神聖な光が差し込み始め、あらゆる悪に勝利する神の姿が見えてくる。その神のお心に適うには、懺悔をし、償いをする以外にない」

意地の悪い人間の行く末に関して、これほど雄弁な、恐るべき、赤裸裸な説明は、かつてなされたことがないのではないか。こうした事実が示された以上、もはや地獄の業火や拷問という、伝統的なキリスト教がつくり出した幻影に頼る必要はないであろう。

(2) 容赦のない光に照らし出される生前の罪――ノヴェル
ノヴェルという霊が、生前知っていた霊媒に、次のように語りかけてきた。

「俺が死んだ時、どのように苦しんだかを、これから話してみよう。

死んだ時、俺の霊は、電子線で体に結びつけられていたが、これを切るのに、まず、えらい苦労をした。これが、最初の、耐え難い試練だった。俺は24歳で地上の生活におさらばしたが、この地上の命の影響は、俺が思っていたよりもしぶとく俺の中に残り続けた。

俺は地上での生活が諦められずに体を探し回っていたんだが、気がついてみると、周りを亡霊共に取り囲まれていたんで、びっくりし、恐怖に囚われた。

そして、段々、自分がどうなっているのかが分かってきた。自分が過去世で犯してきた罪が全て啓示のように意識に上ってきた。容赦のない光が射してきて、俺の魂の隅々まで照らし出した。一番恥ずかしいことまで明らかにされて、俺の魂が丸裸にされたような感じだった。俺は恥ずかしくて恥ずかしくてどうしようもなくなった。

そこから目を背けて、俺の周りにいる、前から知っている、しかし新たな獲物達に襲いかかることで、何とかそうした状況から逃げ出そうとした。
だが、エーテルの海に漂っている、光り輝く霊達が、俺には縁のない幸福ということを教えようとしているようだった。

影のような亡霊達がいて、ある者は絶望の淵に沈み、ある者は猛り狂っていたが、俺の周りに忍び寄ってきたり、地上を徘徊したりしていた。人間達は、いい気なもので、そんなこととはつゆ知らず、のんびりと動き回っている。

あらゆる種類の未知の感覚、或は既に知っている感覚が、同時に俺の中に流れ込んできた。抵抗し難い力に引きずられ、激しい苦悩から逃れようとしつつ、距離を超え、様々な領域を横断し、物理的な障害を乗り越えて移動していったが、自然の美しさも、天上界の輝きも、一瞬といえども、俺の引き裂かれた意識を安らかにすることは出来なかったし、永遠という観念が引き起こす恐怖を和らげることも出来なかった。

地上の人間も、物理的な拷問を目前にして体をおののかせることがあるかもしれない。しかし、地上では、どのような苦痛であっても所詮は一時的なものであり、そのうち、希望によって和らげられ、気晴らしによって緩和され、忘却によって消されるのである。

したがって、人間には、霊界にいる魂達が経験する、永遠に続くかと思われる、一切の希望を奪われた、悔い改めることさえ出来ない苦しみなど、到底理解することは出来ないだろう。

俺は、いつ終わるとも知れない永遠の間、時々かいま見る輝かしい高級霊達を羨みつつ、かつ俺を嘲弄し続ける悪霊共を嫌悪しつつ、また数々の愚行を犯す人間共を軽蔑しつつ、深い意気消沈と気違いじみた反抗の間を行ったり来たりしながら過ごしていたのである。

そうしているうちに、とうとうお前が俺を呼んでくれた。そして、初めて、俺は優しい気持ちになることが出来たのだ。俺は、お前の指導霊がお前に授けた教えを聞いた。そして真理を悟り、神に祈った。そうしたら、なんと! 神は聞き届けてくださった。死の瞬間に正義を示されたように、今度は慈悲を示してくださったのだ」

(3) 快楽の追及に人生を費やした、ある遊び人の後悔
一八六二年四月一九日、ボルドーにて。

「私を体に結びつけていた鎖が切れたらしく、前よりも辛さは薄らいだように感じられる。とうとう自由になったわけだが、罪滅ぼしをしなくちゃいけないのは合点がいかない。でも、これ以上、苦しみを長引かせたくなかったら、無駄に使った時間を埋め合わせなくてはいけないわけだ。誠実に悔い改めさえすれば、神がそれを見て私を許してくれるに違いない。

私の為に祈ってください。どうか、お願いします。

友人達よ、私は『自分さえよければいい』と思って生きてきた。そして今、贖罪をし、苦しんでいる。私が怪我をしたトゲで、あなた方もまた怪我をしないように、神の恩寵を祈るばかりだ。主に向かう大道を、どうか歩いていってください。そして、私の為に祈ってください。ああ、私は、神が[貸して]くださった財産を自分の為だけに使ってしまった。何ということだろう!

動物的な本能に従う為に、神が与えてくださった知性とよき感情を犠牲にした者は、まさしく動物と同じで、厳しい扱いを受けても文句を言えない。人間は、自分に[委託]された財産を、節度を持って使わなければならないのだ。

人間は、死後に自分を待っている永遠の観点から生きなければならない。したがって、物質的な享楽への執着から離れる必要がある。食事は活力を得る為であるし、贅沢は、社会的地位に見合った程度に留めるべきなのだ。生まれつき備わっている嗜好や傾向性も、理性によって統御されなければならない。そうでなければ、浄化されるどころか、ますます物質的になってしまうからだ。欲望は紐のように人間を締めつけるものだ。欲望を募らせて、その紐をさらにきつく締めてはいけない。

生きるのはよいが、遊び人として生きてはならない。霊界に還った時に、それがどれほど高くつくか、地上の人間達には決して分からないだろう。地上を去って神の前に出る時は、素っ裸にされて何一つ隠すことは出来ない。地上で何をしたかが、全て明るみに出されるのだ。

だから、つまらない欲望に振り回されることなく、ひたすら善行を積むことをお勧めする。思いやりと愛に満ちて生きてほしい。そうすれば、そちらからこちらに来る時も、楽に境界を超えることが出来るはずだ」

霊媒の指導霊からのメッセージ:「この霊は、正しい道に戻りつつあります。というのも、悔い改めを行っているだけでなく、自分が辿った危険な道を辿らないようにと、あとから来る者達に教えているからです。間違いを認めること自体、既に大したことですが、他者に奉仕することで、さらに善に向かって一歩進むことが出来ればもっとよいのです。

だから、この霊は、幸福とまでは言えないけれど、もう苦しんではいません。彼は悔い改めを行いました。あとは、もう一度、地上に転生し直して、償いを果たしさえすればよいのです。ただし、そこに至るまでには、まだ経験しなければならないことが沢山あるでしょう。

『自らの霊性のことなど考えず、ひたすら官能的な生活を送り、やることといったら新たな快楽を発明するだけ』という生活を送った人間が、霊界でどのような状況に置かれるか、あなた方には分かったでしょうか?

物質的な影響は墓の彼方まで付きまとい、死んだからといってすぐ欲望が消えるわけではないので、地上にいた時と全く同様に、自分の欲望を満足させる手段だけを探し続けるのです。霊的な糧を探したことのない彼らの魂は、霊的な糧しかない霊界にあって、果てのない砂漠の中を彷徨う人間と同じように、完全な空虚の中を、あてもなく、希望もなく彷徨い続けることになるのです。

肉体を喜ばせることばかりして、精神的なことに一切関わることがなかったので、当然のことながら、死後も、霊が本来果たすべき仕事には全く無縁となります。肉体を満足させることは当然出来ず、かといって、どのように霊を満足させればよいかも分からないのです。

したがって、絶望的な退屈に陥り、それがいつ果てるとも知れません。
そこで、それくらいなら、むしろ消滅した方がよいと思うのです。ところが、霊を消滅させることは出来ません。肉体は殺すことが可能ですが、霊は殺すことが出来ないからです。

したがって、彼らは、そうした状況に飽き果てて、ついに神の方に目を向けることを決心するまでは、そのような精神的な拷問の中に身を置き続ける他ないのです」

(4) 傲慢は、猛毒を吐く百頭の蛇――リスベット
一八六二年二月一三日、ボルドーにて。

苦しんでいる霊が、リスベットという名のもとにメッセージを送ってきた。

――今どのような状況にあるのか、そして、あなたの苦しみの原因について、語って頂けませんか?

「心から謙虚になりなさい。神の意志に従い、試練に耐えなさい。哀れな人々を思いやり、弱き人々に勇気を与えなさい。苦しむ人々を暖かい心で包んであげなさい。そうすれば、今私が耐えている苦しみを味わうことはないでしょう」

――あなたが教えてくださった生き方と反対の生き方を、あなたは地上でされたようですが、現在はそれを後悔しておられます。悔い改めによって多少は楽になったのでしょうか?

「いいえ、そんなことはありません。苦しいからという理由で悔い改めたとしても、そんなことには意味がないのです。悔い改めは、神の意志に反したことに自ら気づき、それを償おうと熱心に思ってこそ意味があります。残念ながら、私はまだその域に達しておりません。

苦しむ者を助けようと思っている人々に、どうか、私の為に祈ってくださるようお願いしてください。私には祈りが必要なのです」

ここには大いなる真実が見られる。
人は、苦しいが故に、時に悔い改めの叫びを上げることがある。だが、その叫びには、悪をなしたことへの真の後悔は含まれていないのである。こういう人間は、苦しみから解放されれば、また同じことを繰り返すに違いない。

悔い改めたからといって、直ちに解放されない場合があるのは、ここに理由がある。悔い改めは、解放への入り口に過ぎないのだ。

自らが犯した悪を償うという新たな試練を通り越すことによって、誠意ならびに決意の固さを証明してみせなければならないのである。

我々が紹介しているあらゆる霊示を詳細に検討してみるならば、それが最も境涯の低い霊からのものであったとしても、そこに大変重要な教訓を見出すことが出来るだろう。なぜなら、そこには、霊界での生活が実に赤裸裸に語られているからである。

それらのメッセージは、物事を表面的にしか見られない者にとっては、単なる面白おかしい話に過ぎないだろうが、誠実で、思慮深い人間にとっては、汲み尽くすことの出来ない智慧の源泉となるのである。

――分かりました。その通りにいたしましょう。
ところで、地上にいた時の様子を少し詳しく教えて頂けませんか? 私達にとっても参考になりますし、あなたにとっても悔い改めのよき機会となると思いますので。

(霊は、この質問、そして、以下になされた質問に対して、大いにためらいの様子を見せた)

「私は、よい家柄に生まれました。人間にとっての幸福の元と思われるものは全て備えていました。しかし、お金持ちでしたが、エゴイストでした。美貌に恵まれていましたが、ひたすら身を飾り、性格は冷たく、よく嘘をつきました。高貴な心性も、野心に取って代わられました。私に服従しない者達を、容赦なく冷酷に追い出しました。また、服従している者達さえ、さらに踏みにじりました。
まさか、神の怒りが、この昂然と掲げた額に落ちるなどとは夢にも思わなかったのです」

――いつ頃生きていたのですか?
「五十年前のプロイセンにおりました」

――それ以来、霊として、全然、進歩はなかったのですか?

「ありません。物質的な影響を脱することが出来なかったのです。霊と肉体が分離したにもかかわらず、霊が物質的な影響をこうむり続けるということがあるのです。

この恐ろしさはあなたには分からないでしょう。傲慢という怪物に心を餌として与えた人間に、傲慢は、青銅の鎖となって絡み付き、しかも、その鎖の輪の一つ一つがどんどん縮んでいくのです。

また、傲慢は、百頭の蛇なのです。その頭は常に再生し、そこから吐き出される息は猛毒が含まれているというのに、あろうことか、私はその息の音を天井の音楽と錯覚していたのです。

ああ、傲慢とは、また、あらゆるものに姿を変える悪魔でもあるのです。この悪魔は、あなたの精神のあらゆる錯乱にぴったりと身を寄せ、心のひだに見を隠し、血管の中に入り込み、あなたを包み込み、のみ尽くし、そして地獄の永遠の闇の中に引きずり込むのです。そう、永遠の闇の中にです」

この霊は、「いかなる進歩もしていない」と言った。というのも、むごい状況が全く変わっていないからである。

しかし、傲慢についての描写を読み、その帰結について嘆き悲しんでいる様を見ると、進歩がないわけではないことが分かる。というのも、生前、或は死の直後であったなら、そのように考えることは、到底出来なかったはずだからである。今では、何が悪であったのかが分かっている。それだけでも既に大したことであろう。
あとは、悪を犯すまいとする意志と勇気が生じるのを待つのみである。

――神は、自らが創造した者達を永遠に罰するはずがありません。どうか神の慈悲に希望を持ってください。

「確かに、この苦しみには終わりがあるかもしれない。けれど、それはいつなの?私はずっとそれを待っているのよ。でも相変わらず苦しみがあるだけ。ずっと、ずっと苦しみだけなのよ! 」

――どうして今日はここにいらしたのですか?
「私に付き添ってくれている霊が連れてきてくれたのです」

――いつからその霊に気づくようになりましたか?
「しばらく前からです」

――ご自分が犯した過ちに気がつき始めたのはいつからですか?

「(長い間考えてから)そう――、確かにあなたの言うとおりだわ。霊が側にいるのが分かったのは、自分の過ちに気がつき始めてからですから」

――あなたの悔い改めと、あなたに付き添ってくれる霊の出現との間には、はっきりとした因果関係があるのではないですか? それは神の愛の表れではないでしょうか?
また、それは、あなたに対する許しと、無限の慈悲を意味するのではないでしょうか?

「ああ、もしそうであったらどれほど嬉しいことでしょう! 」

――苦しみのうちにある我が子の叫びを聞かないということが決してなかった神の、聖なる名の元に、私はそれをあなたにお約束することが出来ると思います。どうか、悔い改めて、心の底から神の名を呼んでみてください。きっと聞いてくださいますよ。

「出来ません――。駄目です。不安で、とても出来ません」

――では、一緒に祈りましょう。そうすれば、きっと聞いてくださいますよ。

(祈りの後で)まだいらっしゃいますか?
「ええ、います。ああ、本当にありがとう。どうか私のことを忘れないでください」

――いつでもまた戻ってきてください。
「ええ、ええ、必ずそうします」

霊媒の指導霊である聖ポーランからのメッセージ:「霊人達の苦しみから得た教訓、そして、そうした苦しみの原因から得た教訓を、決して忘れないようにしてください。そうした学びをしっかり自分のものにすることによって、彼らと同じ危険を冒したり、彼らと同じ処罰を受けたりするのを避けることが可能となるでしょう。

心を浄化し、謙虚となり、お互いに愛し合い、お互いに助け合うのです。そして、あらゆる恩寵の源泉、あなた方一人一人がいくらでもそこから愛を汲み出すことの出来る、涸れることのない源泉に感謝するのです。渇きを癒すと同時に養ってくれる生命の水の源泉に感謝するのです。

信仰心を持って、その泉から水を汲みなさい。そこに釣瓶を投げてごらんなさい。その泉から数多くのよきことが得られるでしょう。

それを兄弟達に分けてあげるのです。ただし、その時に、彼らが遭遇する可能性のある危険についても教えてあげる必要があります。主から頂いたよきもの、恩恵を、広く分ち合ってください。それは絶えることなく湧き続けます。あなたが周囲の人々に分けてあげれば、それはさらに自己増殖していくでしょう。

神からの恩恵を手に持ち、兄弟達にこう言ってあげるのです。
『ほら、あそこに危険が潜んでいますよ。ほら、そこに暗礁がありますよ。私達についてくれば、それらを避けることが出来ますよ。どうぞ私達を見習ってください。私達はお手本になりましょう』

そうすることで、あなた方は、主から頂いた恩恵を、あなた方の言葉を聞く人々に配っていることになるのです。

あなた方の努力が祝福されますように。主は、清らかな心を愛しておいでです。主の愛に敵う者となりなさい」

(5) 祈りは死後の苦痛を和らげる――パスカル・ラヴィック
一八六三年八月九日、ル・アーブルにて。

この霊は、霊媒がその生前の存在も名前も知らないのに、自発的にコンタクトをとってきた。

「私は神の善意を信じています。神は、わが哀れな霊に慈悲をかけてくださることでしょう。
私は苦しみました、本当に苦しみました。私は海難事故で死んだのですが、私の霊は肉体に執着し、いつまでも波の上をさまよっていたのです。
神――」

ここで、いったん霊示が途切れたが、翌日続けて次のようなメッセージが降ろされた。

「神のおかげで、私が地上に残してきた人々が、私のためにお祈りを上げてくださり、その力を得て、私は困惑と混乱から救い出されました。彼らは長いあいだ私を探しつづけ、ついに私の遺体を発見しました。私の遺体は葬られ、私の霊はようやく肉体から離脱し、地上で犯した過ちを見つめることになりました。試練を通過した私は、神によって正当に判断され、その善意が、悔い改める心に降り注ぐのを感じています。

私の霊はずいぶん長いあいだ肉体のそばをさまよっておりましたが、それは私が償いをする必要があったからです。

もし、死んだときに、あなたの体から霊をただちに分離させたいのだったら、どうか、まっすぐな道を歩んでください。神を愛して生きるのです。祈るのです。そうすれば、ある人々にとっては恐るべきものである死も、あなたがたにとっては優しいものとなるでしょう。というのも、あなたがたは、死後にあなたがたを待っている生活がいかなるものであるかを、すでに知っているからです。

私は海で死にましたが、家族は長いあいだ私を待ちつづけました。私はなかなか肉体から離れることができませんでしたが、それは私にとって本当に恐ろしい試練でした。

そういうわけで、私にとってはあなたがたの祈りが必要なのです、信仰によって他者を救う力を身につけたあなたがたの祈りが――、まさに私のために神に祈ることのできるあなたがたの祈りが――。

私は悔い改めています。ですから、神が私を許してくださるだろうと思えるようになりました。

私の遺体が発見されたのは八月六日です。私は哀れな船乗りです。ずいぶん前に遭難しました。
どうか、私のために祈ってください」

――どこで発見されたのですか?
「この近くです」

一八六三年八月十一日の「ル・アーブル新聞」には次のような記事が載った。当然のことだが、霊が降りてきた日には、霊媒はこの記事を知り得るはずもなかった。

≪今月の六日に、ブレヴィルとル・アーブルのあいだの海域で、人体の一部が発見された。この遺体は、頭と両腕を欠いていたが、両足に履(は)いていた靴によって身元が確認された。それは、アレトル号に乗っていて、昨年の十二月、波にさらわれて死亡したラヴィックであった。ラヴィックは、カレ生まれ、享年四十九歳であった。残された妻によって身元が確認された≫

この霊が九日に最初に出現したサークルで、八月十二日、メンバーがこの事件について話をしていると、ラヴィックが再び自発的に降りてきて次のようなメッセージを送ってきた。

「私はパルカル・ラヴィックです。あなたがたのお祈りを必要としています。どうかご支援をお願いいたします。というのも、私が受けている試練は恐るべきものだからです。

私の霊と肉体の分離は、私がみずからの過ちに気づくまで行われませんでした。しかも、全面的に分離が完成したわけではなかったのです。私の霊は、肉体をのみ込んだ海の上を漂っておりました。

神が私を許してくださるよう、どうかお祈りをお願いいたします。神に祈って、私を休息させてくださるようお願いしてください。どうかお願い申し上げます。

『地上で不幸な人生(のちに悔い改めを必要とするような心境で生きた人生)を送った者が、どのように悲惨な最期を遂げることになるか』ということは、あなたがたにとって本当に大事な教訓となるでしょう。死後の世界のことに思いを馳(は)せ、神に慈悲を乞(こ)うことを忘れてはなりません。
私のために、どうか祈ってください。私には神の哀れみが必要なのです」