アラン・カルデック(著) 浅岡 夢二(訳)
2006年2月 7日 初版第1刷
2011年7月17日 第8刷
訳者からのメッセージ
まず初めに、本書第二部の冒頭に収録されている、「死んでから二日たった霊」との対話の一部を引用してみましょう。
――招霊をおこないます――
「私はいま、約束を果たすために、こうして出てまいりました」
――あなたは亡くなる際にずいぶん苦しんでおられました。現在の状況と二日間のそれを比べると、どんな違いがありますか?
「現在はたいへん幸せです。もう苦しみはまったく感じられません。私は、再生し、回復しました。地上の生活から霊界の生活への移行は、当初は何が何だかよく分かりませんでした」
――意識がはっきりするのに、どれくらい時間がかかったのですか?
「八時間ほどです」
――ここにあなたの遺体がありますが、これを見ると、どのような感じがしますか?
「哀れでちっぽけな抜け殻にすぎません。あとは塵(ちり)になるだけです。
ありがとう、私の哀れな体よ。おまえのおかげで私の霊は浄化されました」
――最期の瞬間まで、意識ははっきりしていましたか?
「はい。私の霊は最後まで能力をしっかりと保持していました。もう見ることはできませんでしたが、感じとることはできました。
それから、私の一生が目の前に展開されました」
「スピリチュアル」ブームのもとにあるもの
十九世紀半ばから後半にかけて、このような霊的な現象を伴う精神運動が、欧米各地で巻き起こりました、そのフランスにおける中心人物となったのが、本書を書いたアラン・カルデック(1804年~1869年)です。
こうした「霊との対話」に基づいた彼の著作シリーズは、近代スピリチュアリズムの最も偉大な古典であり、十九世紀後半のヨーロッパにおいて、400万部を超える空前の大ベストセラーとなりました。その信奉者は、ラテン世界で、現在、2,000万人にのぼると言われています。
本書は、そのシリーズの中の一つ"Le Ciel et l'Enfer"(「天国と地獄」1865年刷)の、本邦初の訳書です。
いま日本において、「スピリチュアル」の大ブームが巻き起こっていますが、その最大の淵源は、実はアラン・カルデックの著作シリーズにあると言っても過言ではありません。それは、本書をお読みいただければ、充分、納得していただけるものと思います。
本書「天国と地獄」は、おもに、”つい先日”まで生きていた、人間味にあふれた霊たちからのメッセージをまとめたものですが、アラン・カルデックの他の著作は、人類史上に燦然と輝く、そうそうたる高級霊たちの高度な霊示をまとめたものになっています。
アラン・カルデックの言葉どおりであるとすれば、イエス・キリスト、ソクラテス、プラトン、福音書のヨハネ、聖アウグスティヌス、聖ルイ、スウェーデンボルグ、ベンジャミン・フランクリンなどが、彼のガイドをしていたことになります。
「交霊会」とは?
こうした霊たちとのコンタクトは、主として「交霊会」を通して行なわれたものです。
それでは、ここで、当時の交霊会を再現してみましょう。
パリ霊実在主義協会に属するメンバーの家のサロンに、今日は十二人の参加者が集まっています。部屋の真ん中に、アラン・カルデックと霊媒が向き合って椅子に座り、その横にはテーブルが置かれて、その前に速記者が座っています。アラン・カルデックと霊媒のやり取りを記録するためです。
それ以外の参加者はそのまわりにゆったりと座っています。
準備が整うと、全員で静かに数分のあいだ瞑想します。
その後、アラン・カルデックがお祈りをし、そして招霊を行います。
霊が降りてくると、アラン・カルデックがみんなを代表して質問し、それに対して霊が答えるというかたちで、交霊会が行われるのです。そのやり取りは、すべて速記者によって記録されます。
こうした交霊会が、当時、アメリカやヨーロッパの全域で頻繁に行なわれていました。そして、そこには、コロンビア大学のハイスロップ教授、アメリカ・サイ科学協会の会長であるリチャード・ホジソン、フランスのノーベル生理学賞受賞者シャルル・リシェ博士、バーミンガム大学の学長であり、かつ王立アカデミーのメンバーでもあるオリヴァー・ロッジ卿、当時の最も偉大な物理学者であるウィリアム・クルックス卿といった、綺羅星のごとき学者や科学者、さらに、「シャーロック・ホームズ」シリーズを書いた、あのコナン・ドイル卿も、真剣な面持ちで参加していたのです。
アラン・カルデックの人物像
アラン・カルデックは、本名をイポリット=レオン・ドゥニザール・リヴァーユといい、1804年10月3日、リヨンにおいて、代々、法律家を輩出してきた家系に生まれました。幼少時より、自然科学や哲学に関心を寄せる、非常に利発な子供でした。
十歳のときにスイスのペスタロッチ学院に入学し、そこで、科学、物理、数学、天文学、医学、語学、修辞学などを総合的に学びます。医学の博士号を取る一方で、六ヵ国語を自由にあやつるといった、極めて幅広く深い教養を備えた人でした。
冷静かつ理知的なタイプで、実証主義的な発想を体得しており、理性に裏づけられた懐疑主義こそが、彼の真骨頂であったと言えるでしょう。
フランスに帰ってからは、自宅で諸学問を教えるからわら、参考書や教育書を次々に出版しました、アラン・カルデック自身、教育学者として高い評価を受ける一方で、それらの書物は大変な評判を呼び、1840年代の終わりごろには、印税だけで暮らせるような状況になっていました。
そうやって実績を積むうちに、やがて、50歳でスピリチュアリズムに出会います。以後、アラン・カルデックは、自然科学的な手法を使い、霊的な世界を徐々に解明していきます。
そういう意味では、自然科学系の諸学問を極めた上で、あるときから霊的世界に参入していった、北欧の知的巨人スウェーデンボルグに似ていると言えるかもしれません。
「霊実在主義」とは?
アラン・カルデックは、霊界から受け取った膨大なメッセージに基づいて、spiritisme(スピリティスム)、すなわち「霊実在主義」あるいは「霊実在論」と呼ばれる、壮大かつ精緻な理論体系をつくり上げました。
この「霊実在主義」の基礎をなす原理は次のようなものです。
① 死というのは、肉体が機能を停止するだけのことであり、その人の本質、つまり霊(魂)は、エネルギー体として霊界で永遠に生きつづけている。
② 霊界で暮らしている霊は、ある一定の期間を経ると、肉体をまとって地上に転生してくる。
③ 転生輪廻の目的は、魂の向上、すなわち、より高い認識力の獲得と、より大きな愛する力の獲得である。
④ 魂は絶えず向上して神に近づいていく。神に近づけば近づくほど、悟りが高まり、魂は自由となり、より大きな幸福を享受できるようになる。
⑤ 霊界にいる霊人たちは、地上の人間にメッセージを送ってくることがある。
アラン・カルデック自身の定義によれば、「霊実在論とは、実験科学であると同時に哲学理論でもある。実験科学としては、霊とのあいだに築かれる関係に基礎を置いている。哲学理論としては、霊との関係から導き出されるあらゆる心の法則を含んでいる」、すなわち、「霊実在論は、霊の本質、起源、運命を扱う科学であり、また、霊界と物質界との関係を扱う科学である」ということになります。
アラン・カルデックは、一八五八年一月一日には月刊誌「霊実在主義」を刊行しはじめ、ついで、パリ霊実在主義協会を創立しました。このパリ霊実在主義協会は、霊実在主義を広めるたための機関として、その後、幅広い活動の拠点となります。
この本をより楽しむために
本書は、第1部が、軽い導入的な理論編、第2部が、死んで間もない”できたてほやほやの”霊たちから受け取った、生々しいメッセージがたくさん収録された実例編、第3部が、死後の世界に関する理論編という構成になっています。
第1部、第3部では、「霊との対話」をもとにして、アラン・カルデック自身が論を展開しています。
第2部に登場する妻たちは、実に多肢にわたっています。
無事、地上での使命を果たし、天国に還って無上の喜びにひたっている霊もいれば、間違った生き方をして地獄に墜ち、塗炭の苦しみをなめている霊もいます。また、自殺をした結果、深い悔恨にさいなまれている霊もいれば、生前のプライドを死後にまで持ち越し、自分が死んだことさえ分からずに、いばりちらしている霊もいます。
そうした霊たちからのメッセージの中には、訳者自身にとっても、「う~む、このままだと自分はかなりマズイかも」と感じさせられる個所がたくさんありました。
たとえば、ジョゼフ・ブレという、孫娘に招霊されたおじいさんの霊がいますが、この人は、生前は、人間の目から見て「ずっと正しい生き方をしていた」にもかかわらず、いざ霊界に還ってみると、神の目から見て「正しい生き方をしていなかった」ということが判明して、かなり悔やんでいます。
さらに、エレーヌ・ミッシェル嬢の死に方も気にかかります。二十五歳で亡くなったこの女性は、「よこしまなところはまったくなく、善良で、優しく、思いやりにあふれ」ていたにもかかわらず、「まじめなことがらに取り組むよりも、目先の楽しみに心を奪われて生活」していたために、死んだとき、なかなか肉体から離れることができず、かなりの混乱を味わっています。ついつい「目先の楽しみに心を奪われ」がちである訳者としては、人ごとと言って済ませるわけにはいきません。
また、フランスで暮らしていたインドの女王ドゥードの死後の様子も、すさまじいまでの迫力に満ちています。ここまで極端な傲慢さは持っていないと思うものの、慢心に決して無縁ではない訳者としては、「このままでは危ないぞ」と焦りを感じた次第です。
今回、この「天国と地獄」を訳してみて、これほど優れた古典がこれまで日本語に訳さされていなかったということに、大きな驚きを禁じ得ませんでした。いま、ようやく、その時期が到来したのかもしれません。