第1部 生前の生き方が、死後の行き先を決める
――天国霊・地獄霊の人生ケーススタディー

第5章 悔い改める犯罪者の霊
(1) 斬首刑の直後に見えたもの――ルメール
ルメールは、エーヌ県の重罪院で死刑の判決を受け、一八五七年十二月三十一日に死刑が執行された。

一八五八年一月二十九日に招霊

――招霊します――
「はい、ここにいます」

――私たちを見て、どんな気持ちがしますか?
「恥を感じます」

――最後の瞬間まで意識はあったのですか?
「ありました」

――死刑が執行された直後、自分が新たな状況にいるということは分かりましたか?

「とんでもない混乱に巻き込まれ、いまだにそこから出ていません。ものすごい苦しみを感じます。私の心が苦しんでいるのです。

何かが死刑台の足元に転がるのが見えました。続いて血が噴(ふ)き出すのが見えました。そして、さらに苦しみが増したのです」

――それは純粋に肉体的な苦しみですか? たとえば大怪我(おおけが)をしたときのような?

「いえ、違います。後悔ゆえの苦しみです。ものすごい、精神的な苦しみなのです」

――いつ、その苦しみを感じはじめたのですか?
「肉体から離れた直後です」

――死刑によって引き起こされた肉体的な苦痛を感じたのは、体なのですか、それとも霊なのですか?

「精神的な苦しみは霊が感じ、肉体的な苦しみは体が感じました。しかし、霊が体から分離すると、いっそう苦しみを感じるのです」

――頭を切断された自分の体は見ましたか?

「なんだか形のよく分からないものを見ましたので、まだ体から離れていないのだと思いました。でも、そのあと、完璧(かんぺき)になったように感じました。自分自身に戻ったような感じです」

――自分の体を見てどんな印象を持ちましたか?

「苦しみが大きすぎて、よく分かりませんでした。苦しみのせいで、われを忘れていたのです」

――頭部が切り離されても体はまだしばらく生きているものですか? その間、何か考えることはできるのですか?

「霊は徐々に分離していきます。物質への執着が多いほど、分離はゆっくり行われます」

――ある場合には、受刑者の表情に怒りが見られ、何か話したがっているように思われるということですが。それは単なる痙攣(けいれん)にすぎないのですか? それとも意志がかかわっているのでしょうか?

「意志がかかわっています。というのも、そのときにはまだ、霊は完全に離脱していないからです」

――新たな世界に入ったときの最初の印象はどのようなものでしたか?

「耐えがたい苦痛でした。理由のよく分からない後悔によって刺し貫かれるのです」

――同時に処刑された共犯者たちは、その後、一緒になるのですか?

「なります。お互いの姿を見ることが、これまた苦痛なのです。お互いに、お互いの犯罪を責め合います」

――犠牲者たちには会うのですか?

「合います――。
彼らは幸せに暮らしていますが、その視線が私に付きまとうのです――。その視線が、存在の内部まで私を刺し貫くのを感じます――。逃げようと思っても逃げられません」

――彼らを見てどう感じるのですか?

「恥と後悔を感じるばかりです。自分で彼らを天国に上げておきながら、なおかつ、いまでも彼らを憎んでいるのです」

――彼らはあなたを見てどう思っているのでしょうか?
「哀れみを感じているようです」

――彼らは憎しみを持っているのでしょうか? 復讐したいと思っているのでしょうか?

「いいえ、彼らは、私が償いを果たすことをひたすら願ってくれているだけです。
ああ、恩恵を受けていながら、その人を憎まねばならないということが、どれほど苦しいか、あなたがたには想像できますか?」

――地上での生活を後悔していますか?

「私が後悔しているのは、犯した罪だけです。同じ状況が起こったとしても、もう二度と罪を犯すつもりはありません」

――悪への傾向は、あなたに染みついていたのですか? それとも、環境が悪かったために、ああなってしまったのですか?

「犯罪への傾向は私の中にありました。私はまだ未熟な霊だからです。一気に進化したいと思ったのです。しかし、欲張りすぎました。自分が充分強いと思っていたので、過酷すぎる試練を選んでしまったのです。その結果、悪の誘惑に身を任せてしまったわけです」

――もし、ちゃんとした教育を受けていたとしたら、悪の道に入らずに済んだと思いますか?

「はい。でも、ああした家庭環境を選んだのは自分なのです」

――善人になることは可能だったのでしょうか?

「私は弱い人間なので、悪を行うことはできても、善を行うことはできませんでした。悪を矯正(きょうせい)することはできたでしょうが、積極的に善を行うところまでは行けなかったと思います」

――生前、神は信じていましたか?
「いいえ」

――しかし、「死ぬ前には悔い改めていた」と聞きました。それは本当ですか?

「復讐の神を信じていたのです――。復讐の神が下す正義を恐れていたのです」

――現在、誠実に悔い改めを行うことはできていますか?
「ああ、自分のしたことを見ているのですよ! 」

――神については、現在、どのように考えていますか?
「神の存在を何とか感じることはできますが、理解はできていません」

――地上で下された罰は正当だと思っていますか?
「はい」

――ご自分の犯罪が許されることはあると思いますか?
「分かりません」

――どのようにすれば罪を贖(あがな)うことができると思いますか?

「新たな試練を乗り越えることによってでしょう。しかし、そこにたどり着くまでに、無限の時間がかかるような気がしています」

――いま、どこにいますか?
「苦しみの中にいます」

――“この部屋のどこにいるのか”ということをお聞きしたのですが。
「それなら、霊媒の近くです」

――もし、われわれがあなたの姿を見られるとしたら、どのような姿を見ることになるのでしょうか?

「地上での姿です。つまり、頭と胴体が切り離された状態で見ることになるでしょう」

――姿を見せていただけますか?
「とんでもない。冗談はやめてください」

――モンディディエ監獄からどのようにして出てきたのですか?

「もう覚えていません――。あまりに苦しみがひどくて、犯罪を犯したということくらいしか覚えていないのです。もう、そっとしておいてください」

――何かお手伝いできることはありませんか?
「償いを開始できるように祈ってください」

(2) ある屋敷に二百年居座る地縛霊の正体――カステルノダリーの怪物
南フランスにあるカステルノダリーという町の近くにある家の中で、奇妙な音がよく聞こえ、色々な幽霊が目撃された。その為に、この家は、幽霊屋敷であると見なされた。一八四八年に悪魔祓いがされたが効果はなかった。

それでもそこに住み続けた持ち主のD氏は、数年後に奇妙な突然死を遂げた。

ついで、息子がそこに住んだが、ある日、家に入ろうとして、いきなり見えない手で激しく殴られた。その時、他には誰も人がいなかった為に、幽霊の仕業であることは明らかだった。その為に、息子は、ついにその家から出ることを決心した。

その地方には、「この家で重大な犯罪が犯されたことがある」という言い伝えがあった。

息子を殴った霊は、一八五九年にパリの霊実在主義協会にて招霊された。非常に荒々しい霊で、どんなふうにしてもなだめることが出来なかった。

聖ルイに聞いてみたところ、次のような答が戻ってきた。

「この霊は最悪の部類に属する霊で、文字通りの怪物です。彼をここに来させることは出来ましたが、彼に書記をさせることはどうしても出来ません。どんな霊にも自由意志はあるからです」

――この霊に、向上の余地はあるのですか?

「どうして、ないことがあるでしょうか? 全ての霊には向上の余地があります。とはいえ、相当な困難が予想されるのも事実です。

しかし、悪に報いるに善をもってすれば、必ず心に響く時が来るでしょう。今日はまずお祈りをしましょう。そして、一ヶ月後に、もう一度、招霊してみるのです。その時に、いかなる変化が生じたかを確かめることが出来るでしょう」

その後、招霊された時、この霊は随分扱い易くなっており、徐々に、素直に、また、しおらしくなっていった。

彼自身の説明、また、他の霊の説明によって、次のようなことが判明した。

一六〇八年のこと、この家に住んでいたこの男は、ある女性を巡る争奪戦から、嫉妬に狂い、弟を殺害する。弟が寝ている隙に喉を掻き切ったのである。ついで、数年後には、妻にしたその女性を同じく殺害している。時代が混乱していた為、このことは特に罪に問われることなく、この男は一六五九年に80歳でこの世を去った。

死んでから後、この男の霊は、この家で様々な障りを引き起こした。

最初の招霊の時に同席していた霊視の効く霊媒は、この霊に書記を行わせようとした時に、この霊が恐ろしい形相で書記霊媒の腕を揺さぶるのを見ている。血だらけのシャツを着ており、手には匕首(あいくち)を持っていた。

――(聖ルイの霊に対して)この霊には、どのような罰が与えられているのですか?

「彼にとっては大変むごい罰です。犯罪が行われた家に閉じ込められ、ずっと犯罪の行われた場面を目の前に見せられるというものです。他のことは全く考えられません。その為に、まるでこの拷問が永遠に続くように思われます。自分が弟と奥さんを殺害する場面を、繰り返し繰り返し見せられるのです。それ以外の記憶は禁じられ、また、それ以外の霊とコンタクトをとることも禁じられました。

地上では、この家以外の場所に行くことが出来ず、たとえ霊界に行ったとしても、そこには闇に包まれた孤独しかないのです」

――その家から抜け出すことは出来ないのですか?

「この霊の為に祈る人がいれば、抜け出すことは出来るのです。しかし、普通は、そうしてあげる人がいません。むしろ悪魔祓いの呪文によって追い出そうとするばかりです。そんなことは、彼を面白がらせるだけなのですが」

――この霊に関心のある人が祈り、そして、我々も祈れば、この霊は解放されるのでしょうか?

「そうです。ただし、注意してください。人から強制された祈りには効果がありませんから」

――この霊は、既に二世紀の間、そうした状況にあります。この時間の長さを、彼は生前と同じように感じているのでしょうか?

「もっとずっと長く感じているはずです。なぜなら、地上と違って、彼は眠ることが出来ないからです」

――「霊にとって時間は存在しない」と言われたことがあります。「霊にとっては、百年といえども、永遠の中のほんの一瞬にすぎない」と言われました。これは全ての霊に共通しているわけではないのですか?

「違います。高い境涯に達した霊達だけが、そのように感じるのです。未熟な霊達にとって時間は長く感じられることがあります。特に、苦しんでいる霊達にとってはそうです」

――この霊の出自を教えてください。

「今回の転生の前には、残酷で戦闘的な小部族の中に生まれていました。それ以前には、地球よりもはるかに劣った惑星にいたのです」

――この霊は、自らが犯した罪のせいで非常に厳しく罰せられました。もし彼が野蛮な部族に生まれていたとしたら、もっと残酷なことをしていたと思うのですが、その場合には、どのように罰せられたと考えられますか?

「今回程は厳しくなかったでしょう。というのも、その場合には、もっとずっと無知だったはずであり、その為に、理解できる範囲もおのずと狭かったと思われるからです」

――この霊が置かれている状況は、俗に言う[劫罰に処せられた状態]だと考えてよいのですか?

「まさしくその通りです。でも、もっと恐ろしい状況もあるのですよ。苦しみはそれぞれの霊によって違います。同じような罪を犯した霊達であってもそうなのです。霊が、どれくらいの期間で悔悟に至り得るかが、それぞれ違うからです。

今回の霊にとっては、自分が罪を犯した家それ自体が地獄となっているのです。

その他には、例えば、『自らの内に抱え持つ、どうしても満たせない欲望が、自分の内に地獄をつくり出す』という場合もあります」

――この霊は、大変未熟であるにもかかわらず、お祈りのよき効果を感じているようです。これ以外にも、同じように邪悪で、もっと荒々しい霊が、お祈りの効果を感じるケースもありました。

それに対して、もっとずっと知識のある、頭のよい、進化した霊が、よき感情の欠片さえ持っていないということがあるのですが、これは一体どうなっているのでしょうか? 聖なるものをことごとく嘲笑するのです。つまり、彼らは何に対しても感動しないのです。彼らが嘲りを止める時はあるのでしょうか?

「祈りは、悔い改めをしている霊にしか効果がありません。傲慢であるが故に神に反抗し、錯乱の中にい続ける霊にとって――悪霊達は、皆そうですが――、祈りは何の効果もありません。彼らの心の中に悔悟の光が射し始めるまでは、祈りはいかなる効果も発揮し得ないのです。

彼らの為に祈っても効果がないということは、それ自体が彼らの罰の一部をなしていると言っていいでしょう。祈りが効果を発するのは、頑であることを止めた霊達に対してだけです」

――祈っても無駄な霊を目の前にした場合、祈らずに放っておいた方がよいのでしょうか?

「いいえ、そんなことはありません。というのも、祈りによって、その霊が頑な態度を改める可能性が、全くないわけではないからです。そして、その後、『救われたい』と思い始める可能性はあるのです」

これは、丁度、長い間薬を投与し続けないと、その効果が表れない病人のようなものである。当面は、効いたかどうか分からない。一方で、薬がすぐに効く病人もいる。

つまり、「どんな霊でも必ずよくなれる。そして、永遠に、決定的に悪へと宿命づけられた霊など存在しない」ということが分かれば、「遅かれ早かれ、祈りは効果を発揮し、一見、無効だと思われた場合でも、実際には救いの種を蒔くことになっている」ということが納得出来るはずである。

したがって、直ぐに効果を収めることが出来ないからといって、決して諦めるべきではない。

――もし、この霊が再び転生するとしたら、どのような人間として生まれるのでしょうか?

「それは、彼がどのようにして自分の罪を購いたいと思うかによります」

さて、件の霊とやり取りするうちに、この霊の心境に著しい進展が見られた。以下に、そのやり取りを掲げる。

――最初に呼ばれた時は、どうして書かなかったのですか?
「書きたくなかったからだ」

――どうして書きたくなかったのですか?
「ぼーっとしていて、何を書いていいか分からなかったからだ」

――そうすると、今は、望みさえすれば、カステルノダリーの家から離れることが出来るのですか?

「それが出来るようになった。というのも、俺が、あんたらの忠告に従ったからだ」

――それでは、心が軽くなってきたでしょう?
「うん、希望が感じられるようになってきた」

――今、もしあなたを見ることが可能だとしたら、どのように見えるのでしょうか?

「ちゃんとシャツを着ている姿だ。匕首(あいくち)はもう持っていない」

――どうして匕首を持っていないのですか? どこへやったのですか?

「もう見たくなくなったのだ。神様が、見えなくしてくださった」

――もしD氏の息子さん(この霊が殴った人)が再びこの家に住んだとしたら、あなたはまた何か悪さをしますか?

「いや、もうしない。悔い改めたからな」

――もし、彼が挑発したら?

「いや、もうそんなことは聞かないでくれ。また暴れなくなって、抑えが利かなくなるからな。ああ、まだまだ哀れなもんだ」

――苦しみがいつ頃終わりそうか、分かってきましたか?

「いや、まだだ。だが、それがいつまでも続くものではないことは分かってきた。前にはそれすら分からなかったのだから、全くあんたらのおかげだ」

――最初にお呼びした時よりも前のことについて、色々と教えて頂けませんか?これは、面白半分で聞いているのではなく、そうすることが、あなたにとっていい結果をもたらすと思われるからなのです。

「既に言ったように、自分が犯した犯罪のこと以外には何も考えられなかった。家を離れたとしても、そこには闇と孤独しかなかった。それがどのような感じだったか、とても説明することは出来ない。自分でも、何がどうなっているのか、さっぱり分からなかったのだから。家から逃げれば、そこは暗黒で、全く何もなかった。それが何だったのか、今でも分からない。

今では、前よりもずっと後悔している。それに、もうあの忌まわしい家に閉じ込められていない。地上をあちこち見て回って、色々と勉強することも許されている。でも、そうすればそうする程、自分がやったことの重大さが分かってくるのだ。ある意味では苦しさはなくなってきたが、一方では、悔恨から来る辛さが酷くなってきている。だけど、少なくとも希望が出てきた」

――今度、地上に生まれ変わるとしたら、どんな人生を送るつもりですか?

「もっと色々見聞して、考えてから決めたいと思っています」

――長い間、一人きりであの家に閉じ込められていたわけですが、その間に後悔はしたのですか?

「いいや、全くしませんでした。だからこそ、長い間苦しんだわけです――。ようやく後悔を感じ始めた頃に――私は知らずにいたのですが――、私を招霊してくれる準備が整ってきたわけです。そして、私の解放が始まったということなのです。

その意味で、私を哀れみ、私に光を与えてくださった皆さんには、感謝、感謝です」

我々が今までに見てきたのは、次のようなケースである。

すなわち、黄金を見ては歯ぎしりする吝嗇家。彼にとっては、この黄金は悪夢と化している。

自分達には与えられず、他の人々に与えられる名誉に激しく嫉妬する傲慢な人間達。

生前、地上では、威丈高に命令していたが、死後、どうしても従わざるを得ない、見えない力に辱められ、また、もう彼らの言うことを聞こうとしない家臣達によって侮辱される王侯貴族達。

「何も信じられない」という苦しみに苛まれ、広大な空間の中で絶対的な孤独にさらされ、助けてくれそうな人にどうしても会うことの出来ない無神論者。

霊界においては、あらゆる美徳に対して喜びが与えられるのと同様に、あらゆる悪徳に対して苦しみが与えられる。人間の法律は逃れられても、神の法律を逃れられる者はただの一人もいないのである。

また、同じような状況で犯された、同じような過ちであったとしても、それを犯した霊の精神の発達段階に応じて、全く異なった形で罰が与えられる。

ここで扱った霊のように、未熟で粗野な霊の場合、精神的というよりも物質的な苦しみが与えられ、精神的に、また感性的に発達した霊であれば、反対に、物質的な苦しみではなく精神的な苦悩が与えられる。

前者の場合、彼らの境涯がどれほど大変なものであるかを理解させ、そこから逃れたいという気を起こさせる為には、彼らの荒々しい自我に見合った粗雑な罰を与える必要があるのだ。一方で、ほんの少し恥の感覚を味わわせるだけで、耐え難いほど恥ずかしさを感じるような、高度に発達した霊達もいるのである。

神が実施する刑法においては、どんな些細な点に至るまでも、智慧、善意、そして周到さが行き渡っている。全てがバランスよく配分されており、あらゆる面で、過ちを犯した人間が最も早く立ち直れるように配慮されている。魂の、善への憧れは、どのように些細なものであろうと、絶対に見逃されることはない。

一方、伝統的なカトリックの教義においては、刑罰は永遠に与えられるものとされており、地獄には、大犯罪人も、小犯罪人も、たった一度だけ罪を犯した者も、百回、罪を犯した者も、強情を張り通す者も、悔い改めている者も、全部ごちゃ混ぜになって入れられているのである。全てが、彼ら全員を地獄の底に閉じ込める為に仕組まれており、彼らが救われる可能性は全くない。たった一度でも過ちを犯せば、他にどのような善の行為を行っていたとしても、永遠に地獄に落とされるのである。

一体どちらに真の正義と真の善意があるだろうか?

したがって、この招霊は偶然ではなかったと考えられる。この霊を見守っていた高級霊達が、この霊が自らなした罪の重大さに気づき始めたのを見て取り、効果的な救いの手段として、この招霊の場を設定したのである。そうしたことは、今まで既に何度もあった。

このことに関して、「もし、この霊が招霊という機会を与えられなかった場合には、一体どうなったのか?」、また、「そもそも、こうした招霊の機会を与えられない霊は、どうなるのか?」ということを尋ねてみた。それに対して、「人間を救う為に神が講ずる手段は無限にある」という答が返ってきた。

招霊というのは、彼らを支援する為の有効な手段であるが、それだけが唯一の手段であるわけではない。例えば、悔い改める用意が出来た霊に対して、集合的な祈りは大いなる効果をもたらすことが出来る。

神は、苦しんでいる霊達の運命を、地上にいる人間達の知識と善意だけに任せているわけではない。我々が霊界とコンタクトを恒常的に取れるようになった時、まず教えられたのは、「高級霊達と協力することによって、苦しみの中にある霊達に救いの手を差し伸べることが出来る」という事実であった。神は、そのことによって、宇宙のあらゆる存在が繋がっているということを証明されたのである。

このようにして、慈悲の実践に新たな道を開くことにより、神は、それまで無知と迷信のせいで本来の方向から逸れつつあった招霊という現象に、真の有用で確かな方向性を与えられたのである。

いかなる時代においても、苦しみの最中にある霊達に、救いの手が差し伸べられないということはなかった。

招霊が、彼らに対して、新たな救いへの手段となったことは事実だが、肉体に宿って地上に生きる人間達にとっても、それは大変大きな意味があったのである。善を行う為の新たな道が開かれたというだけでなく、「地上でどう生きれば、死後どうなるか」ということが、極めて具体的にはっきりと分かるようになったからである。