北海道にいて「秘境」と言う言葉を聞いたら、真っ先に思い浮かぶのが知床半島。
北海道の北東に突き出た知床半島は、半島の中心を縦割りにして左半分が斜里(しゃり)町、右半分が羅臼(らうす)町に区分けされる。もっとも行政上の境界は、この知床半島では意味を持たないかもしれない。人が住んでいないどころか、半島の先端までは"道"さえ通じていないのだから。だから普通の人が普通の手段で陸路により、この半島の先端を目指すことは難しい。
この斜里町側と羅臼町側を結んでいるのが、名前もそのままの知床横断道路。半島のちょうど中間ほどを横切っているこの道路も冬季には閉鎖され、完全に斜里側と羅臼側が分断される。
まさしく北海道どころか、日本に残された数少ない秘境の地だと言えるだろう。
今回はこの秘境の地、知床を路線バスを乗り継いで訪ねる旅。これはまた秘境を目指し、そして挫折する旅でもあった(なぁ〜んてね。何だか、大げさな言い方だけど。まあ、この先を読んだら大した話じゃないということが分かってしまいます)。
乗客は私を入れて全部7、8人ほど。4人の年輩のおじさんグループが乗っていて、日帰りでウトロ温泉まで出かけるらしく、帰りの列車時間の話などを声高に話している。
斜里の町は私が思っていた以上に大きな町だった。10年以上前に列車の車窓からこの町を見ていたはずなのだが、記憶には全くない。この斜里の市街地を抜けて、やがて田園風景になったところでバスは左に折れる。まだ海は見えない。
やがて海沿いの道に出て、オホーツクの海が視界に入る。車窓から見た限りでも水は澄んでいて、ひょっとしたら泳いでいる魚が見えるんじゃないかと思えるほどだ(さすがにバスの車窓から見えるはずはないが)。
波がまったく立たない静かな海。岩にぶつかって弾ける波頭はまったく見えない。
しばらくそんな風景をぼんやりと眺めている内に、「オシンコシンの滝」に到着のアナウンス。だが下車する乗客はいない。オシンコシンの滝を車窓から眺める。水量も豊富でダイナミックな滝だ。
一瞬下車しようかとも思ったが、ここからウトロ温泉まではまだしばらくある。次のバスまで時間が空いてしまうし、お腹も空いているので車窓風景だけで我慢することにした。
滝の横のトンネルを抜けると前方にウトロの漁港が見えた。住宅も突然増える。
バス停のアナウンスも途端に増えるのだが、そのバス停の名前が面白い。地名ではなく、個人名だったりするのだ。「次は○○宅前」と言う具合。つまりは「次は山田さんの家の前だよ〜」というわけだ。他の地域で路線バスに乗っていて、こうした個人名が付いたバス停の名前を聞いた記憶がない。
バスを降り、とりあえず町を歩きながら、昼食を取るのに手頃そうなお店を探すことにする。
ウトロの町は思っていた以上に大きなホテル・旅館が建ち並んでいる。漁港もあるが、漁港自体はそれほど大きなものではない。関東周辺で言えば、西伊豆(正確には関東じゃないけど)の雰囲気だろうか。
バスセンターから温泉街方面に足を進める。
途中、観光みやげの店が建ち並び、いかにも観光地という雰囲気だ。
大通りを横切り、バスの中から見た巨岩に向かって歩く。この巨岩を見るついでに、その途中の店で昼食を済ませようと思ったのだ。見るとどの店の軒先にも「ウニ丼」とか「いくら丼」などの看板が出ている。
結局それらのお店の中の一軒、ネーミングに惹かれて入った「酋長の家」で食事を摂ることにした。
もちろん食べたのはウニ丼。肝心のウニの量はそれほどでもなく、ちょっぴり残念。まあ、相場から言って、こんなもんなんだろうなというぐらいの量だった。
それでもお腹は一杯になったし、一緒に頼んだビールで燃料も補給したというわけ(笑)で、元気だけはある。
この酋長の家のすぐそばにはゴジラ岩と言う名前の岩がある。確かに見るからにゴジラそっくりの形をしている。
このゴジラ岩の先が例の巨岩、オロンコ岩だ。
オロンコという呼び名は、昔オロンコ族と呼ばれる一族がこの岩で生活していたことによるものだそうだ。
そばまで来てみると、本当に大きな岩で岩の上は平らになっているようだ。この岩は高さが60mほどもあって、展望台にピッタリ。かなりの急傾斜だが岩の上まで階段も付いている。
高所恐怖症(苦手という程度だけど)のくせに、なぜか展望台などの高いところが好きな私は、もちろんこの階段を上り始める。
階段はところどころ段差が違っていたりするので、注意して歩かないと足を踏み外しそうになる。もちろん階段には手すりも付いているのだが、手すりの高さが少々低く、足下を見ていると直下が見えるのでなかなかスリリングだ。
途中一息ついて、もう一踏ん張りして岩の上に出た。
「どうせ、全部見られないのだから、今回は知床五湖だけを歩いてみようか」
そう考えて、結局知床五湖に向かうことにした。知床五湖を見て、あとは斜里駅まで戻ることにしよう。
知床で宿泊するつもりで出かけて来なかったことを、すでに後悔しているのだが、荷物を網走のホテルに残して来てしまっているので今日中に網走に戻るしかない。そのためには、知床五湖を出る最終のバス時間に予定を合わせれば、スムーズに網走まで戻ることが出来る。
「今度来るときは、最低でも2、3日時間を掛けて」と思いながら、ウトロのバスセンターに戻ることにした。
乗客の一人が、途中の岩尾別で下車した。かなり重装備の山登りスタイルだ。ここから単独行で、まだ雪の残る知床の山を目指すのだろうか。そう思うと、羨ましい気がしてしまう。山好きな私だが、北海道の山で自力で登ったことがある山は無い。ましてやこの知床は秘境中の秘境だ。羆に出会う心配もあるし、出会いたくない存在ではあるが、そんな心配を上まわる魅力がこの地にはある。
バスの中ではテープで知床の案内が流れている。
以前、この辺りにも農家が住み生活していたが、厳しい自然のために結局すべての人がこの地を離れたという案内が流れた。車窓から眺めると、確かに廃屋もいくつか見ることが出来る。冬ともなると、想像できないほどの厳しい土地なのだろうと思う。
そんなことを考えて車窓からの風景を眺めていると、突然、エゾ鹿が2頭、道路脇に現れた。
知床は動物たちにとっては当たり前の自然が残された、数少ない土地なのだなぁ・・・そんなことをあらためて思う。北海道では山間に入ると、「○○に注意」(○の中は羆であったり、鹿であったり)の看板をあちこちで目にすることが出来るが、そんな中でも知床は、野生動物に遭遇するチャンスが特に高い。
さて、知床自然センターで乗客を一人乗せて、バスは知床五湖に向かう。自然センターでの乗り込んだ乗客は車掌さんとは顔なじみの人らしく、挨拶を交わしている。
まもなくして知床五湖に到着。
ここで私と先ほど乗り込んできた人が降りたので、乗客が一人も乗せていないバスが終点の知床大橋に向かって走り去った。これから約1時間後にこのバスが折り返して来て、私もこのバスにまた乗り込むことになる。つまり、ここでもあまりゆっくりしていられないというわけで、何だかいつもの私の旅のスタイルではない。特に知床という場所には似合わないせわしさだなぁと、つい愚痴をこぼしたくなる。
もっとも、これは自業自得。行き当たりばったり旅では、しょっちゅうこういう失敗を繰り返しているのだ。そして、後悔する羽目になる。でも何回失敗しても、何回後悔しても、相も変わらず行き当たりばったり・・・私は経験を生かして成長しないタイプなのかも知れない(笑)
知床五湖は名前の通り、5つの小さな湖が点在した場所で、知床の山々を映し出した湖は、鏡のように静まり返っている。
案内板によると、知床五湖の周りには探勝歩道が付けられていて、一周すると約3Km、ゆっくり歩いて90分ということらしい。一湖、二湖だけで、約40分。一湖だけを見て戻ってくると約20分とある。
観光バスで訪れた観光客のほとんどが、時間の関係で一湖、二湖と二つの湖を見るぐらいで引き返すと言う話を聞いていたので、ぜひとも人の少ない三湖、四湖などまで足を延ばしたいと考えた。
だが帰りのバスまでは1時間もないので、これはなかなか時間繰りが難しいことになる。
「まあ、のんびり歩いて、時間が厳しくなったら引き返してくればいいさ」と思い歩き始めたら、いきなり一湖で行列の渋滞だ。「なんで、こんなところまで来て渋滞なの?」と思うのだが、仕方がない。その分、静かな湖面と知床の山々をたっぷりと見ることが出来るのだからと、思うことにする。
湖面はさざ波一つ立たない。「鏡のような」という例えそのままの湖面だ。その湖面には知床の山々をくっきりと写しだしている。何だか、あまりに美しい風景なので、作り物の風景のような気さえしてしまう。
やがて二湖まで来て、ここで事前に仕入れていた情報の通り、観光客のほとんどが別の道から引き返して行く。
突然、周りが静かになって「知床らしい」気分になって来た。
そのまま、いつもの歩きのペース(私は比較的歩くのが早い)で、気に入った風景の前では立ち止まり、写真を撮りながら先へ進む。
三湖、四湖の辺りまで来るとほとんど人影が見えなくなった。そうなったらなったで、今度はちょっぴり寂しくなってくる。羆が現れたら嫌だな(嫌で済まないけど)と、物音を立てて歩こうかとさえ思い出す。人間なんて、勝手なものだよなぁ・・・。
この辺りが駐車場から一番遠い場所で、時計を見てみるとまだ30分ぐらい時間がある。これから先は、人も多くないので、十分時間までに戻れるだろう。そう思うと、本当にリラックスした気分になって来た。出来れば、どこかに腰掛けてのんびり過ごしたいとも思うのだが、さすがにそこまでゆっくりする時間はない。
五湖まで来て、そこで座り込んで湖の写生をしているグループを羨ましいと思いつつ、そのまま駐車場まで戻ってきた。
五湖を離れてからは歩くペースが上がったせいか、駐車場に着いたときはまだバスの発車時間まで15分ほど時間を残していた。
さすがに最後は急ぎ足だったので少々疲れた。汗も掻いている。
売店で、有名なコケモモのソフトクリームを食べることにする。噂通り旨いのだが、かなり甘い。のどが渇いていたのだが、余計のどが渇いてしまった。
相変わらず次から次へと観光バスが到着しては、発車する。
「これでは、羆も現れたくても現れられないよな」と思うぐらい、大勢の人がここを訪れているのだ。
(だが、最近でも「羆を見た!」という報告があるそうなので、"朝夕は一人で歩かない"など、やっぱり注意は必要らしい。念のため)
やがて、私が乗る路線バスも到着し、この知床五湖を後にすることにした。
バスはまた同じ道を引き返す。
途中、岩尾別では、今度は脇道に入って行く。普通の車がすれ違うのもやっとのような狭い道だ。ガードレールもないこの細い道を、大型バスと車がすれ違うとしたらどうするんだろうと思っていたら、所々にすれ違いのための待避スペースが用意されていた。道の脇には岩尾別川が流れ、なかなか気持ちがいい道だ。
この道を行き着いた先には、ホテル地の涯(ちのはて)という一軒宿がある。確かに知床は「"地の涯"かもしれないなぁ」と思わせる場所ではあるけれど、なんとも凄いネーミングだ。実際のホテルはネーミングほど強烈なわけでもなく、少なくとも外見はごく普通のホテルのようだった。
さてバスは再びウトロ温泉のバスターミナルまで戻ってきた。ここでは10人ぐらいの乗客が乗り込んで来たので、このバス会社には縁もゆかりもない私まで何だか安心してしまう。あまりに赤字が続いてこの路線を廃止されてしまったら、もう路線バスでの知床探訪が出来なくなってしまうかも知れないなどと、余計な心配までしてしまうのだ。だから一人旅は疲れる(笑)
このバス路線とバス会社の未来に安心した私(笑)は、ここでようやくグッスリ眠ることが出来たのだった。
バスを降りて、汗で汚れたTシャツを着替えることにする。それから帰りの列車の時刻を確認すると、どうも着替えたりしている内に列車は出てしまったらしい。次の列車までは2時間半ほどの時間を待たなくてはならない。
それではと思い、他のバスを探すと網走行きのバスがこの斜里駅から出ている。
「今日は"路線バス尽くし"になるのも面白いよなぁ」と気楽な気分で、駅前の食堂に入って、とりあえず冷たいビールで燃料の補給をしながら時間をつぶすことにする。そろそろ私の体のエネルギーが切れ始めているのだ(笑)。
やがてかなり旧式のバスがターミナルに入ってきた。アイドリング状態で、車体全体が力一杯ブルブルと震えている。乗り込んでみると確かにかなりの振動で、このまま何時間も乗っていたら目眩を起こしそうな気さえする。もっとも走り出したら振動はそれほど感じられず、逆に適度な振動が「旅の雰囲気を盛り上げてるんじゃない?」などと思ったりもした。
バスは市街地を抜けて、やがてどこまでも続いていそうな畑と牧草地に出る。そんな風景を車窓から眺めていると、いきなり途中のバス停で「接続するバスが少し遅れているようなので、そのまま車内でお待ちください」と運転手さんの声。
斜里駅から乗り込んで来たこのバスは小清水駅行き(斜里駅から網走寄りのJR駅)で、網走行きのバスにはこの国道脇の、何にもない、ただのバス停で待ち合わせて乗り換えるというわけだ。なんとも面白い接続方法だと思う。
しばらくして小清水駅からのバスがやって来た。こちらは新型のバスで、乗り心地は数段上だ。
夕焼けが辺りの風景を染めている。来るときに寄った小清水原生花園駅の辺りにも、今は誰もいない。
赤く染まった濤沸湖とそのほとりの馬の姿が、なんだかこの辺りの象徴的な風景に思えて来る。
やがて網走ターミナルにバスが到着したときには、完全に陽が落ちていた。
「あれっ?、秘境を訪ねたはずなのに、どこで秘境を見たんだっけ? 人の姿は嫌になるほど見かけたけど・・・」
これはまた、敗者復活戦をする必要がありそうです・・・今度は真の秘境を見て来ようっと。今度は、ちゃんとたっぷりの時間を取って、失敗や後悔を生かしてね。そう、人は成長しなくては行けないのですよ(笑)