残酷の沼 ★☆☆
(Torture Garden)

1967 UK
監督:フレディ・フランシス
出演:バージェス・メレディス、ジャック・パランス、ピーター・カッシング、ビバリー・アダムス


<一口プロット解説>
遊園地の片隅に建てられた怪しげな見世物小屋に何人かの見物客が入るが、その中にははさみを手にした奇怪な巫女人形が座っており、興行主はその巫女人形を見つめると自分の近未来の運命を知ることができるとのたまう。
<入間洋のコメント>
 フレディ・フランシスお得意のオムニバス・ホラー作品です。個人的に知る限りでは、彼はこのタイプの作品としてこの他にも「テラー博士の恐怖」(1965)、「魔界からの招待状」(1971)、「異界への扉」(1973)を監督しており、言ってみればこの手の作品のスペシャリストでした。もしかすると、他にもオムニバス・ホラーを撮っているかもしれませんが、いずれにせよこのタイプの作品に関してはこれら4本以外は見たことはありません。また彼はカメラマンとして多数の作品に関わっており、白黒映像が素晴らしいあの傑作ホラー「回転」(1961)も彼が撮影を担当しています。「回転」などの彼が撮影した作品を見ても分る通り、フレディ・フランシスという御仁はビジュアルイメージの提示の仕方が実に巧みであり、そのような彼の特徴が後のオムニバス・ホラーを監督するにあたって活かされているとも云えるように思われます。というのも、オムニバス・ホラーにおいては、一つ一つのエピソードが極めて短い為、如何に効果的に各エピソードをオーディエンスに「見せる」かが1つの大きなポイントであり、その際ビジュアル効果は大きな武器となるからです。またエピソードの短さに関連して云うと、この手の作品が小品であるにも関わらず時にそれに不釣合いな程豪華キャストになるのは、登場人物のパーソナリティを発展させる時間的な余裕がまったくないのでよく知られた俳優さんの出来合いのイメージを拝借せんとしたが為かもしれません。フレディ・フランシスが監督した4本のオムニバス・ホラーの内、「テラー博士の恐怖」と「異界への扉」に関しては既にレビュー済みなのでそちらを参考して頂くとして、ここではまだ取り上げていない「残酷の沼」と、それに加えて最後に少し「魔界からの招待状」についても紹介します。因みに、この記事を書いている現時点においては、国内では「残酷の沼」のみDVDで入手可能であり既に買われた方もかなりいることでしょう。アメリカでは、「残酷の沼」と「魔界からの招待状」がDVDで販売されていますが、他の二本は現在では恐らく中古ビデオでしか入手できない状況のようです。尚、「残酷の沼」という邦題に関しては多少疑問があり、この作品の中には沼などまったくどこにも登場せず原題を直訳すれば「拷問の庭」であるのに、何故「残酷の沼」なのでしょうか。隠喩的であるということかもしれませんが、それにしてもどうにも解せないところです。

 さて、この手の作品を見たことがない人もかなりいると思われますので、オムニバス・ホラー作品とはどのような作品であるかについて次に説明しましょう。一般にオムニバスと言えば、1つのテーマに基いてはいるけれども相互に独立したいくつかのストーリーを集めて統合した1つの作品のことを指します。似たような用語であるアンソロジーとどこが違うかというと、アンソロジーの場合には既存の一連の作品をたとえば同一作者などの共通の基準に基いて集成した作品集を云うのに対して、オムニバスの場合には1つの作品自体が異なる小さな独立したストーリーから構成されます。従ってアンソロジーはある特定の作者の死後などに何らかの記念を意図して回顧的に集成されるのに対して、オムニバスは最初からオムニバス作品として作成されます。若干誤解を招く危険はありますが昨今のIT用語を比喩的に適用するならば、アンソロジーはマッシュアップ的なバンドルであり、オムニバスはコンポーネントの集合たるライブラリであるということになるでしょう。オムニバス・ホラーという限りは、勿論内容はホラーであることになりますが、しかしながらフレディ・フランシスや同じくこの手の作品を何作か監督しており個人的にはオムニバス・ホラーの最高傑作と見做している「アサイラム」(1972)を監督したロイ・ウォード・ベイカーの作品は、通常のホラー映画とはやや異なるところがあり、場合によってはユーモアすら存在する場合もあります。すなわち、彼らの作品はホラーとは言っても決して亡霊や悪霊などというようなおどろおどろしい化け物を登場させオーディエンスをふるえあがらせることに主旨があるのではなく、むしろ一種の洒落たショートショートをホラー風味で味付けしたというような印象があります。また彼らの作品が通常のオムニバス作品とやや異なるのは、個別のエピソードを統括するマクロストーリーが存在し、作品全体がいわゆる入れ子構造(枠構造)により構成されていることです。「残酷の沼」の場合で言えば、遊園地内に設置された見世物小屋へ何人かの見物客がやって来て、彼らがバージェス・メレディス演ずる魔術師?の催眠術にかかって自分達の未来の悲惨な運命を幻視しますが、各見物客が幻視する各々のストーリーがそれぞれ独立した内枠のエピソード(以後これを内枠エピソードと呼ぶことにします)を構成し、見世物小屋におけるシーンが外枠(以後これを外枠マクロストーリーと呼ぶことにします)のストーリーを構成します。

 このような入れ子構造を持つ作品は、ジークフリート・クラカウアーの「カリガリからヒットラーへ」(みすず書房)によればホラー的要素を多分に含む1920年代のドイツ表現主義映画に早くも見出されるようであり(個人的にこれらの作品を見たことはありません)、その意味ではホラー作品に最も相応しい形式であるように考えられますが、実を言えば必ずしもホラー作品の専売特許というわけではなくそれ以外のジャンルに属する作品でもごくたまに見受けられます。しかし注意しなければならないことは、オムニバス・ホラーの場合にはたとえば「残酷の沼」の内枠エピソードは外枠マクロストーリーに登場する登場人物達が見た幻視であるという前提があるように、一般的には外枠マクロストーリーと内枠エピソードの間には時空間の設定に相違があり従って論理的にもこの2つの階層を分離することが容易であるのに対して、それ以外のジャンルたとえばシリアスドラマやコメディのオムニバス形式作品においては外枠マクロストーリーと内枠エピソードの間に時空間の差異はなく、論理的にこの2つの階層を分離することはできない場合がほとんどであるということです。後者の例としてマリリン・モンローが出演した初期の作品である「We're Not Married」(1952)を取り上げてみましょう。この作品は外枠マクロストーリーとして資格を持たない司祭が何組かのカップルを結婚させ何年か経過した後でそのことが発覚して各カップルに結婚が無効であったことが通知されるというストーリーが展開されます。内枠エピソードの部分においては、結婚無効を言い渡された各カップルがそれによってどのような反応を示すかというストーリーが個別に展開されます。従って、各内枠エピソード間は確かに全く独立していてしかも相互に同時的ですらあるかもしれませんが、いずれにせよ外枠マクロストーリーと内枠エピソードの間は、時空間的に連続しているのであり、外枠と内枠で語られるストーリー間で論理的な飛躍があってはならないことになります。もう1つ例を挙げるとニール・サイモン戯曲の映画化がいくつかオムニバス的な構成を取っており、「おかしなホテル」(1971)と「Last of the Red Hot Lovers」(1972)がオムニバスと呼んでも大きな間違いのない作品であり、「カリフォルニア・スイート」(1978)がオムニバスにかなり近い構成を取った作品だと云えます。まず「カリフォルニア・スイート」に関しては、入れ子構造は全く存在せず且つ個別のストーリーが交互に展開される特異な形式を取るのでここでは問題外とします。「おかしなホテル」はオムニバスであるとは言えども枠構造は存在せず、3つのストーリーの間は音楽で言えばアタッカのような接合方式により連結されています。しかも3エピソードともにウォルター・マッソーが主演しており、確かにウォルター・マッソーは異なるエピソードでは異なる人物を演じていますが、わざわざアタッカの接合部でこれら3つのエピソードは時間的に合い前後していることが示されています。いずれにせよ、別のエピソードが語られているとはいえこれら全てのエピソードが同一の時空間、同一の論理空間に属することは言わずもがなのことです。これに似たタイプの作品としてナサニエル・ホーソーンを題材としたホラーオムニバス「Twice Told Tales」(1963)が挙げられますが、この作品の場合3つのエピソードの連結は本の各章見出しページによって示されており(従って本というビジュアルイメージを通じて辛うじて外枠的な機能が存在するとも言えるかもしれません)、また3エピソードに共通してビンセント・プライスが主演しています。「Last of the Red Hot Lovers」は最もオムニバス・ホラーに近い入れ子構造を取っており、殊にアラン・アーキン演ずる主人公が欲求不満であることを考えれば、相当に想像力をたくましくしなければならないとは云え、3つの内枠エピソードは彼が見た一種の白昼夢のようなものとして解釈することが必ずしも不可能ではないので余計にそのように云えるかもしれません。しかしながら、一貫してアラン・アーキンが登場することは別としても、外枠で展開されるストーリーと各内枠エピソードは全て同じ生活空間を舞台としているのであり、従ってそれらが別の論理階層に属すると考えることには全くの無理があります。

 それに対して、オムニバス・ホラーでは外枠マクロストーリーと内枠エピソードの間は、時空間も全く異なれば、論理的にも全く異なります。論理的に異なるという意味は、そこに適用される映像やストーリーの構成様式に関する基準すら異なっていても構わないということです。たとえば外枠マクロストーリーでは超常現象が発生することは許されないけれども、内枠エピソードではそれが許される等です。「残酷の沼」の場合、見世物小屋で展開される外枠マクロストーリーの部分で超常現象が発生することはなく、従ってそこで行われる死刑執行ショーはフェイクでなければならないのであり、ラストで見物客の一人がバージェス・メレディス演ずる興行主をナイフで刺すのもフェイクショーです。ところが、各見物客が見る幻視であるという前提がある各内枠エピソードの中では超常現象が発生することは許可されるばかりではなく、それを語ることが目的ともなるのです。従って、後で紹介するように猫が念力で人間を殺したりピアノが嫉妬したりしても何ら可笑しくはないのです。このような外枠と内枠の論理前提の差異をより微妙に且つ巧妙に利用した例が、「アサイラム」や「異界への扉」であり、これらの作品では内枠エピソードは精神病患者が見た妄想であるという前提で語られます。殊に「アサイラム」は巧妙であり、最後のハーバート・ロムが登場する第4話は意図的に外枠マクロストーリーと内枠エピソードの間に存在する枠が取り払われており、内枠エピソードが外枠マクロストーリーと全く同じ時空間内で展開されますが、それによって一体どこまでが精神病患者が見た妄想でありどこまでが現実なのかが分らなくなるようなシュールリアリスティックな効果を挙げることに成功しています(しかしながらラストシーンのみには不満が残りますがそれに関してはそちらのレビューを参照して下さい)。尚、ホラー映画と極めて近い関係にあるとも云えるファンタジー映画もこのような入れ子構造が極めて有効に機能する分野であり、すぐに思い出せるところではグリム兄弟に関するマクロストーリー部分と彼らが編纂した童話を題材としたいくつかの内枠エピソードが見事に統合されている「不思議な世界の物語」(1962)などを典型例として挙げることができます。

 実は、このような入れ子構造はこの手のオムニバス・ホラー作品では極めて巧妙な装置として機能しています。何故かというと、前述したように外枠マクロストーリー部分に適用される論理基準と内枠エピソードに適用される論理基準は異なっていても構わないからであり、言い換えれば外枠で展開されるマクロストーリーに対するオーディエンスの見方と、内枠で展開される個々のエピソードに対するオーディエンスの見方に対するパースペクティブに関する要請が異なってもよいからです。演劇論的な言い方をすればメタシアター効果が得られると言い換えられるでしょう。と言っても何のこっちゃと思われるでしょうから、それについて詳しく説明しましょう。通常、我々が映画を見る場合、それがシリアスなドラマであろうがSFであろうがホラー映画であろうが、スクリーン上で展開されているストーリーは、それが作り話であるにしろ映画という虚構の中で展開される「現実のストーリー」であるものと仮定して見ているはずであり、そこにはある一定の規則があるものと前提されているはずです。それは画面上で展開されているストーリーが、「不思議の国のアリス」のような現実の世界ではとても考えられない非現実的なものであったとしても同様です。シュールレアリズム映画ならば別かもしれませんが、その仮定がなければ映画を見るという行為そのものが一般的には成立しなくなるのですね。従って、たとえばファンタジー映画にはファンタジー映画の決まりがある程度存在していて、いくらファンタジー映画であるからと云ってなんでもかんでも好き勝手な映像やストーリーを詰め込めるわけではありません。たとえば、「ハリー・ポッター」シリーズの中でハリー・ポッターが魔法を使えるからと云って、いじめっ子をひき蛙に変えることは許されても決して「不思議の国のアリス」に登場するハンプティダンプティに変えることは許されません。何故ならば、それではシリアスなファンタジーではなくスラップスティックコメディになってしまうからです。かくして、あるファンタジー映画がファンタジー映画として成立し得るか否かは、そこで展開されるストーリーがファンタジーのコードに従っているか否かにより判断され、その基準からはずれればはずれる程ファンタジー映画としてはお粗末であるものと見做される結果になります。ここでは単純にファンタジー映画と言いましたが、実際にはもっと細かいジャンル規定が意識的であるにせよ無意識的であるにせよ適用されるのであり、たとえば極端な例を挙げればハリー・ポッターには西洋の亡霊は登場してもよいけれども、お岩さんやろくろ首が登場してはならないなどという規定が無数に前提とされるはずです。しかしながら、そのように一次元的にフラットに判断されてしまうと、「残酷の沼」のような風変わりなストーリーをいかに洒落た語りで提示するかに主眼が置かれる作品は極めて不利な状況に置かれます。何故ならば風変わりであることが一次的にフラットに判断されてしまうと、それは本当に風変わりだと見なされ洒落た語りであるなどとは見なされなくなり、ともすると馬鹿げた下らないストーリーであると判断されざるを得なくなるからです。たとえば、この作品の3つ目のエピソードは、ピアノが嫉妬して世界的なピアニストの恋人を窓から突き落としてしまうという、それだけで提示されたならばとんでもなく馬鹿馬鹿しく下らないストーリーが展開されます。しかし、そのままで提示されたならば下らないストーリーであっても魔術的に洒落たストーリーに転換され得る方法があるのですね。それは、そのストーリーは映画という虚構の中で展開される現実のストーリーの中で語られる虚構のストーリーであるとして入れ子構造にしてしまい、それが語られる論理レベルを変えてしまうことです。そのような構成にすることにより、オーディエンスの視線に無媒介に晒されるのは外枠マクロストーリーのみとなり、内枠エピソードには外枠マクロストーリーに登場する登場人物が見た幻視というプリズムで屈折された視線が投射され、従ってオーディエンスが外枠に適用する読解コードと内枠に適用する読解コードでは全く異なったものが適用されることになります。これは何も幻視の中で展開されるのだからピアノが嫉妬しても可笑しくはないということだけを意味するのではなく、そのような判断基準そのものが論理階層の差異によって屈折させられるということをも意味します。このような理由によって、ピアノが嫉妬してピアニストの恋人を窓から突き落とすなどというような、それがホラー映画であることを考慮したとしても馬鹿げた展開が、入れ子構造として提示されることによりそれ程馬鹿げては見えなくなるのです。それが証拠に、この第3話のみを入れ子構造から抜き出して独立して見たならば、恐らく誰でもアホらしいと思うことでしょう。ホラー作品でもなければオムニバス形式でもありませんが、このような入れ子構造に由来する適用論理レベルの差異化から生ずるパワーを巧妙に利用した作品があります。それはシドニー・ルメットの「デストラップ」(1982)です。詳細に関してはそちらのレビューを参照して頂くとして、いずれにしてもここで言いたいことは、このような入れ子構造が取られると、入れ子の各層(映画では2階層以上の入れ子になるケースは滅多にありませんが複雑な構造を持つ小説などでは十分にあり得ます)に適用される読解のコードは違ったものになるということであり、しかもそのようなコードの変化をオーディエンスは意識せずとも自動的に自然に受け入れるということです。

 とは言いつつも、やはり内枠エピソードとして展開されるストーリーはどんなに滅茶苦茶であっても構わないかというと勿論そのようなことはなく、一般的にこの手のオムニバス作品では、エピソード間での完成度にムラが生じがちであることは否定できません。「残酷の沼」は4つの内枠エピソードから構成されますが、どれも出来具合は平均的であり完成度のムラはあまり感ぜられません(因みにレオナルド・マルチン氏は第1話と第4話はよいがそれ以外はそうとは言えずムラがあると評しています)。但し、ムラはないと言っても個人的にこの手の傑作であると考えている「アサイラム」や後で紹介する「魔界からの招待状」の第4話、第5話などと比較すると内容的にはやや低調であるような印象があります。それでは、以下に4つのエピソードを簡単に紹介しましょう。ここまで辛抱強く読んで頂いた読者への特別大サービスとして各エピソード毎に説明に続いて画像を付加しておきました(右のスタイダーバーで下に下げないと見られませんので、ここまで読んでいない読者の多くは画像の存在に気が付かないでしょうね、ウケケケ!何と意地悪な!)。括弧内の星は5段階評価であり、★5つが満点です。

◎第1話(★★★☆☆):マイケル・ブライアント演ずる主人公(画像左)は心臓発作を起こした叔父(画像右)を見殺しにして遺産を横領するが、叔父が密約を交わしていた謎の念力猫に取り憑かれ最後は刑務所の独房でこの猫に殺されてしまう。

◎第2話(★★★☆☆):ビバリー・アダムス演ずる女優志願の主人公はルームメートを欺いて彼女のボーイフレンドとデートするが、そこで不老不死の如く見える俳優と出会う。やがて、不老不死の如く見えた俳優を始め関連するスタッフは実はサイボーグであることを知り、その秘密を知った彼女も不老不死のサイボーグにされ女優としてのデビューを果たす(画像はサイボーグにされた後のお人形さんのようになった主人公)。

◎第3話(★★★☆☆):主人公の女の子(画像右:私めの知らない女優さんが演じています)は、ジョン・スタンディング演ずる世界的なピアニスト(画像左)と知り合い、恋人同士になる。しかしながら、この世界的なピアニストと彼が弾くピアノも恋人同士であり、やがてピアノが嫉妬に狂って主人公の女の子を窓からつき落としてしまう。

◎第4話(★★★☆☆):ジャック・パランス演ずるエドガー・アラン・ポー愛好家(画像左)は、ピーター・カッシング演ずるポー愛好家(画像右)に出会い、アメリカにある彼の邸宅を訪れる。その邸宅の地下には、何と墓から甦ったポーが新作を書き続けている。ポーは、永遠に生きながらえる責め苦から逃れる為に、主人公に火をつけさせるが、その火が主人公をも包んでしまう。


というように、この作品ではエピソード間に質の差はそれ程ないので全て評価は★3つになってしまいました。どれが一番かと敢えて問われれば、エドガ・アラン・ポーという思いもかけない題材を扱っている点で第4話を挙げるでしょう。これに対して「魔界からの招待状」では、以下に紹介するようにエピソード間の質の差が明確に現われており、完成度に関して大きなムラが見られます。尚、「魔界からの招待状」の外枠マクロストーリーは基本的には「残酷の沼」とほとんど同じであり、地下埋葬所(cript)に迷い込んだ5人の旅行者が、ラルフ・リチャードソン演ずる無気味な僧侶の魔法?にかかって自分の近未来における悲惨な死をそれぞれ幻視するというものです。

◎第1話(★★☆☆☆):ジョーン・コリンズ演ずる主人公はクリスマスの日に旦那を殺害するが、やがて精神病院から抜け出した危険な狂人がサンタクロースの扮装をして彼女の家の廻りを徘徊し、最後はこの狂人に首を絞められる(画像は旦那を殺した後クールにタバコを吸いながらクリスマスプレゼントを開ける主人公)。

◎第2話(★★★☆☆):愛人と駆け落ちしようとしたイアン・ヘンドリー演ずる主人公(画像左)は、愛人(画像右)の運転する車の中で、乗っていた車が谷底に転落し自分がゾンビになった夢を見るが、目を覚ますと夢と全く同じように乗っていた車が谷底に転落する。

◎第3話(★☆☆☆☆):ロビン・フィリップス演ずる主人公は、隣家に住むゴミ収集人(ピーター・カッシング)を毛嫌いし彼を自殺に追い込むが、埋葬されたゴミ収集人がゾンビとなって生き返り主人公の心臓を抉って殺す(画像はゾンビに殺された主人公)。

◎第4話(★★★★☆):リチャード・グリーン演ずる破産した主人公(画像左)の妻(画像右)は、香港で手に入れた3つの願い事をきいてくれるという言い伝えを持つ彫像(画像中央)に、お金がたんまり転がりこんでくるように1つ目の願をかける。すると、旦那が交通事故で死んで保険金がたんまり入ってくる。旦那を元に戻したい彼女は、事故の直前に彼を戻してくれと2つ目の願をかける。すると、旦那は心臓麻痺を起こして事故を起こしたので、心臓麻痺で死んだ状態で棺桶に入れられて戻ってくる。彼女は3つ目の願いとして、息をし手足を動かし話をするように彼を生き返らせて欲しいと最後の願をかける。すると、旦那はインバームされたまま生き返り苦痛の中で永遠に生き続けなければならなくなる。

◎第5話(★★★★★):盲人ホームにナイジェル・パトリック演ずる新しい所長がやってくる。猛犬を連れた彼は暴君ぶりを発揮して、盲人達を虐げる。やがてある患者が死んだのをきっかけとして盲人達は、パトリック・マギー演ずる盲人をリーダーとして叛乱を起こし所長と猛犬を別々の独房に閉じ込め、奇怪な工事を開始する。数日後に独房のドアが開かれるが、独房の外は狭い通路になっており両側の壁には剃刀の刃が一面に埋め込まれている。やがて、苦労して通路の反対側に到達した所長は、向いのドアが開かれ腹をすかせた猛犬が突進してくるのを見て、剃刀通路の中へ逃げようとする。その時明かりが消され悲鳴だけが成り響く(画像は狭い剃刀通路に閉じ込められた暴君所長)。


綺麗に★1個から★5個まで並びましたが、強引に意図して割り振ったわけではありません。簡単に何故そのような評価になったかについて、★1個のエピソードからコメントしましょう。まず★1個の第3話ですが、名優ピーター・カッシングが登場するとはいえこのエピソードには全くひねりも何もなくそれにも関わらず結構長く、箸にも棒にもかからないストーリーがだらだらと展開されているように見えます。またこのエピソードのホラー要素は抉られた心臓とゾンビというチープなビジュアルイメージにしか存在せず、洒落た感覚などどこにも存在しません。★2個の第1話は、旦那の殺害と精神病院から抜け出した危険な狂人の間に何の因果連関も設定されておらず、それによって全く纏まりのないエピソードに終わっています。但しバックに流れるクリスマスソングとフォアグラウンドの血腥い展開の対比が興味深く、また旦那の殺害と狂人との間に何らかの因果関係を設定しさえすればそれなりに面白いストーリーになっていたように思われるので★2個の評価としました。★3個の第2話は、ストーリー内容及びゾンビというモンスターを登場させる点に関しては★1個の第3話と大きな変わりありませんが、このエピソードには興味深い点が1つあります。それは、イアン・ヘンドリー演ずる主人公が事故を起こしてゾンビになった夢を見ますが、この夢の部分は言ってみれば内枠エピソード内の更に内枠のエピソードということになり、要するに三重の入れ子構造になっていることです。しかも、この第3階層の夢の中で見たストーリーが第2階層でも繰り返されるという面白い構成になっていて、ストーリー内容は凡庸でもストーリーの展開のさせ方自体に面白味があります。★4個の第4話は、パンチとひねりの効いた面白いストーリーが展開されます。教訓的な一面を持っているとすら言えるでしょう。しかしながら、死神ライダーを登場させたり、チープな内臓露出シーンがあったりと、なくてもよい、というよりもない方がより想像力に訴えるはずであるような余計なビジュアルシーンが挿入されているという欠点があります。★5個の第5話は、この手のエピソードでは最も神経が逆撫でされるようなエピソードでありシュールレアリスティクな雰囲気さえあります。私めは見たことがありませんが(というより聞いただけで気色悪すぎて見る気にもなれないのですね)、ダリとブニュエルの有名な「アンダルシアの犬」に挿入されている若い女性の眼を剃刀で切るシーンを彷彿させるかもしれません(何でも死んだ牛の眼球を利用して巧妙に映像を重ね合わせているそうですが、当のブニュエル自身撮影後気分が悪くなってしばらく寝込んだとか寝込まなかったとかいうような逸話もありますね)。「魔界からの招待状」のこのエピソードにおいては、「アンダルシアの犬」のように直接的に眼を剃刀で切るようなエグいシーンはありませんが、象徴的にそれが示されていることは明らかでしょう。というのも、盲人達が何故剃刀を使って復讐するかというと、明らかに盲人に欠けている能力である視覚に対する復讐であるという含みが背後に存在し(ここには視覚の行使=権力の行使というフーコー的ともいえる権力相関に関するテーゼも存在すると言えるかもしれません)、オイディプス劇の昔から存在する目をつぶすというテーマがそこには存在するからです。実はシュールレアリズムを含むセザンヌ以後の美術やアンリ・ベルグソンからジャック・デリダに至る現代の思想が、デカルト以来の内と外との二点照応的な視覚中心主義へのアンチテーゼとして成立していることはよく言われるところであり、このストーリーにはそのような思想的な背景すら読み取れるかもしれません。19世紀後半から生じてきた視覚中心主義へのアンチテーゼとしての芸術や思想の展開に関してはマーティン・ジェイやジョナサン・クレーリー或いはロザリンド・E・クラウスらの著作が滅茶苦茶に面白いので見かけたならば是非読んでみて下さい(クレーリーの著作など最近読んだ本の中でこれ程面白い本はありませんでした)。少し脇道に逸れましたがこの第5話はかくして色々な意味で興味深く、またナイジェル・パトリックとパトリック・マギーという両名優のパフォーマンスも楽しめます。

 ということでいずれにしても、イギリスを中心として1960年代から70年代にかけて製作されたオムニバス・ホラー映画はなかなか洒落た作品が多く、個人的にはスプラッターホラーなどよりも遥かに好きですね。

2007/09/25 by Hiroshi Iruma
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