Twice Told Tales ★★☆

1963 US
監督:シドニー・サルコウ
出演:ビンセント・プライス、セバスチャン・キャボット、ジョイス・テイラー、リチャード・デニング

上:ラパチーニの娘(ジョイス・テイラー)

アメリカ文学のパイオニアとして思い浮かぶ名前として、グレゴリー・ペックが主演した「白鯨」(1956)の原作者ハーマン・メルビルとともに、ナサニエル・ホーソーンが間違いなく挙げられるでしょう。ニューイングランドを舞台としピューリタン世界を扱った彼の代表作「緋文字」も相当に独特且つある意味で異様な雰囲気を持つ作品ですが、彼の作品には幻想的でゴシック的とも呼べる作品が数多くあり、「Twice Told Tales」には、そのようなホーソーンの怪奇幻想趣味的色合いが殊に濃い3作品がオムニバス的に収録されています。順番にタイトルを挙げると、「Dr. Heideggar's Experiment(ハイデッガー博士の実験)」、「Rappaccini's Daughter(ラパチーニの娘)」及び「The House of the Seven Gables(七破風の家)」の3作品です(以後各エピソードのタイトルは日本語タイトルで記します)。但し実は注意しなければならないことがあります。それは、「Twice Told Tales」というタイトルは、この映画のタイトルであると同時に、ホーソーンの短編集のタイトルでもありますが、実際に「Twice Told Tales」という短編集に収録されている作品は最初のエピソードである「ハイデッガー博士の実験」のみであることです。それ以外のエピソードに関して云えば、「ラパチーニの娘」は別の短編集に収録されており、また「七破風の家」はそもそも独立した長編小説であって、個人的に持っているRandom House社の「The Modern Library Classics」バージョンのものでは270ページ程あります。「Twice Told Tales」というタイトルを付けながら、何故バラバラなソースから作品を収録したのかイマイチ理解に苦しむところであり、後述するように原作をほとんど見る影もない程に改竄してしまっている「七破風の家」を見ていると、「Twice Told Tales」というタイトルを折角つけたのならば、有名な作品であるからといって強引に長編小説をブッタ切って変形し短いエピソーソ枠に押し込むよりは、その代わりに有名ならずとも他の小粋な短編を持ってきた方が余程マシであったのではないかという印象すら避けられない程です。これについては、別の短編集からの収録とはいえファンタスティックな「ラパチーニの娘」の出来が極めて良好なので、余計にそう思えてしまうのですね。さて、「Twice Told Tales」という映画は、フレディ・フランシスをその代表とするイギリスのホラー映画でよく見かける、「オムニバスエピソード+それらのオムニバスエピソードが語られるコンテクストを統括するメタプロット」という入れ子構造に近い形式が取られています。このような入れ子構造に関しては、フレディ・フランシスの作品「残酷の沼」(1967)のレビューで詳しく述べたのでそちらを参照して下さい。「Twice Told Tales」の場合には、3つのエピソードの連結部分は各章毎の本の見出しページを模した静止画イメージによって示されておりメタプロットの部分が簡略化されています。とはいえ、もともと一般的にこの手のホラー作品のメタプロットの部分は、たとえば各エピソード部分の主人公となるべき人々が見知らぬ怪しげな洞窟に引きこまれ、そこで魔法使いに出会い魔法をかけられることによって見る夢が各エピソードを構成するというような単純なものになるのが普通です。それならば、メタプロットの部分はなくても作品として機能する、すなわち純粋なオムニバスとして提示されたとしても大きな問題はなかったのではないかと思われるかもしれませんが、実はこの手の作品では、それがいかに単純であったとしてもメタプロットの部分には重要な役割機能があります。すなわち、メタプロットによって作品全体の統一感が得られるという容易に予想されるような効果のみではなく、いわゆるメタシアター効果が期待できるのですね。ここで云うメタシアター効果とはどういう意味かについても、前述した「残酷の沼」のレビューを参照して下さい。このような統一感やメタシアター効果を得るには、「Twice Told Tales」の場合のように各エピソードが開始する毎に本の見出しページを模した静止画イメージを提示するというような最小限のトリックであってもかなりの程度に機能します。というのは、それによってこれから語られるエピソードは、ホーソーンのゴシック的な作品から収録されたものであるというコンテクストが大枠として規定されるからであり、殊にホーソーンの小説に詳しいオーディエンスであれば各エピソードを跨る1つの統一的なテーマを基本に据えて各エピソードを見ることができるからです。但し、それならばホーソーンの小説に馴染みのないオーディエンスについてはこの限りではないということになりますが、この作品は通常のこの手の作品とは異なり、主演のビンセント・プライスを全エピソードに主人公として一貫して登場させており、ホーソーンは知らずともビンセント・プライスというパーソナリティを良く知っていればある程度の統一感をそこに見出すことができるでしょう。ところで、「残酷の沼」のレビューでも述べたように、この手の作品が陥り易い欠陥として、出来不出来に関してエピソード間の差が生じ易いということが挙げられます。この作品もその例外ではなく、結論を先取して云えばいつもの3つ★レーティングで評価すると、「ハイデッガー博士の実験」は★★☆、「ラパチーニの娘」は★★★、「七破風の家」は作品レベルの評価であれば通常はつけることのない☆☆☆すなわち無星という評価になります(当ホームページにおいて作品レベルで無星の評価が存在しないのは、基本的にそのような作品であればもともと作品として取り上げるつもりはないからです)。従って、作品全体としては平均を取って★★☆とした次第です。それではまず「ハイデッガー博士の実験」からコメントしましょう。因みにハイデッガー博士とは、哲学博士ではなく永遠の生命のもとであるエリキサーを発見した医学博士ですね。ホーソーンの生きていた19世紀には、まだ20世紀の哲学者ハイデッガーは生まれていませんでした。念のため。実を云えばこの作品のみは原作を読んだことがありません。但し、英語版WikipediaのPlot Summaryから判断すると、ストーリー自体はかなり改竄されているようです。しかしながら、不老不死のエリキサーを巡って友人同士がいさかいを起こし、最後は不幸な結果が待っているというストーリーの大枠は変えられていないようです。ハイデッガー博士(セバスチャン・キャボット)が友人(ビンセント・プライス)に殺されるという映画における展開は原作とは異なるようですが、これは映画ではより扇情性が求められているからであるように考えられます。いずれにせよ、原作との比較を無視すればゴシック調のエピソード自体の魅力はストーリー面でもビジュアル面でもかなり維持されているものと考えられます。「ハイデッガー博士の実験」の場合には映画的な煽情性が致命的な結果に至ることはありませんが、それが最悪の結果を招いているのが3話目の「七破風の家」です。最初にこの作品を見た折には原作はまだ読んではいませんでしたが、それでも前の2つのエピソードに比べると恐ろしく展開が粗雑であるような印象がありました。原作を読んでしまうと、ピンチョン家の呪いという点だけを残してあとは滅茶苦茶に原作を改竄してしまったこのエピソードは、粗雑を通り越えてほとんどチンケなスプラッターホラーのように見えてしまう程です。原作には確かにゴシック的な要素は存在するとはいえ、映画のように骸骨が登場したり、家中から血が噴き出したり、肖像画や主人公の口から鮮血がしたたり落ちたり、極めつけはCGがなかったとは云えあまりにもチャチに見えるラストの七破風の家の崩壊シーン(ゴシックホラーなどではなく童話でお菓子の家が崩壊したようにすら見えます)などの安っぽく且つ扇情的としか云えないような超常現象は全く発生しません。それどころか、原作ではラストはいわばハッピーエンドであり、全体的にはホラー的な要素と同時にユーモアもあるのですね。また原作ではピンチョン家にかけられた呪いという死や老いに関するテーマと同時に、フィービーという生命感に溢れる少女も登場するのであり、死や老衰に対して生や再生というテーマも多分に含まれています。原作を読んだことがある人は、このエピソードはもしかすると見ない方がましなくらいのひどい内容であると云えるでしょう。いずれにしても、120分の映画作品の3つのエピソードの内の1つ(従って45分程度)の中に300ページ近い長編小説を押し込むとこのような結果になるというエヌジーの典型例であるようにも思われ、反面教師的な価値しかここには見出すことができないでしょう。それに対して素晴らしいのが「ラパチーニの娘」であり、一番原作に忠実であるのもこのエピソードです。勿論、原作に忠実であるから素晴らしいという意味ではなく、原作の持つ奇怪で幻想的なストーリーがビジュアル面で更に強化されて提示されている点にこのエピソードの大きな価値があります。とはいえ、女房に逃げられた天才科学者のラパチーニ(ビンセント・プライス)が自分の娘ベアトリス(ジョイス・テイラー)もそれと同様に見知らぬ男と駆け落ちできないようにする為に彼女の体内に毒を注入しエデンの園のような屋敷で二人で暮らしているところへ、ハンサムなパデュア大学の学生ジョバンニ(ブレット・ハルゼー)がやってきて彼女に求愛するけれども、それを見たラパチーニが手術によって彼の体内にも毒を注入するが、パデュア大学の教授から貰った解毒剤を飲んで二人とも死んでしまったのを見て絶望してラパチーニ自身も死ぬという映画のストーリーは以下の3点において原作とは異なります。

1.映画では、ジョバンニは、ラパチーニに手術されて毒人間にされてしまいますが、原作では、ラパチーニの屋敷に咲く毒の花や、ラパチーニの娘の近くに始終いることによって自然と毒人間となってしまいます。但し、勿論予めそうなるであろうことを見越しているという点ではラパチーニの邪悪さは原作でも同様であり、映画ではその点を明瞭に強調する為にラパチーニがジョバンニを手術するという展開にされているのではないかと思われます。

2.映画では、ベアトリスは、自分が毒娘であることを強く意識していて、ある範囲を越えてはジョバンニを決して近寄らせませんが、原作では自分が毒娘であることを知ってはいても夢見心地の彼女は毒が伝染することを知らず、知らない内にジョバンニを毒人間にしてしまいます。すなわち、映画ではラパチーニは既に罪の意識に目覚めているのに対して、原作では彼女の無垢性が殊更強調されています。

3.映画では、最後に主人公3人すなわちラパチーニ、ベアトリス、ジョバンニは皆死んでしまいますが、原作で死ぬのはベアトリスのみです。

それから原作では、全体的に行為の主体としてはラパチーニの登場する機会がほとんどないのに対して、映画では前述した手術シーンなどラパチーニは頻繁に登場します。これは恐らく、この映画の主演であるビンセント・プライスがラパチーニを演じている以上そうならざるを得なかったのであろうと考えられ、その結果として映画ではラパチーニの邪悪さにかなり力点が置かれる結果になっているように思われます。原作でも確かにラパチーニは邪悪な科学者であることに相違はありませんが、しかしながら強調点は行為者としての彼の邪悪さよりも、彼が生み出した逆立ちしたエデンの園的な庭、すなわち見た目は天国のようにビューティフルでありながら、内実はラパチーニの手により既に失楽の園と化していて、近付く生き物を全て邪悪な毒で殺してしまう恐ろしい庭と、そこで繰り広げられる一種の原罪の物語に強調があるように思われます。では何故逆立ちしたエデンの園なのでしょうか?それは、ラパチーニの庭は、既に邪悪なラパチーニの手によって創造された時点で失楽の園なのであり、その失楽の園に人知れず暮らすアダム(ラパチーニ)とイブ(ベアトリス)にとっては、生命の象徴そのものがマイナスに作用してしまうからです。従ってこの逆エデンの園に侵入する誘惑者である蛇(ジョバンニ)は、救いとして生命(解毒剤)をもたらそうとするにも関わらず、それが逆に作用してベアトリスの命を奪う結果になってしまうのです。ジョバンニは、邪悪な蛇どころか白馬の騎士として登場するにも関わらず、この逆立ちしたエデンの園では結果的に蛇の役を負わされてしまうのですね。考えてみれば原作のこのような展開は、殊にキリスト教的な立場からはかなり恐ろしい絵図のように見なせるのではないかとも思われ、このような罪にまみれた逆立ちしたエデンの園では、最も無垢であるはずのベアトリスが最後に犠牲にならざるを得ず、しかもそれは本来善であるはずの生命(解毒剤)によってそのような結果になってしまうことに鑑みれば、それでは一体救いはどこにあるのかという疑問が湧いたとしてもさ程不思議はないのではないでしょうか。考えすぎかもしれませんが、この逆立ちしたエデンの園が、実際に我々の住む罪にまみれた世界を象徴するのであれば、この世にはまるで救いがないかのようにも思われてしまいますね。などと言っているとドストエフスキー的な世界に引きずりこまれそうですが、さすがに映画では最後は解毒剤を飲んで死んでしまった娘とジョバンニを見て、ラパチーニも死ぬというストーリーになっており、勧善はなくとも懲悪の展開にはなっています。まあそれにしても、上掲画像を見ても分るようにラパチーニの娘ベアトリスを演じているジョイス・テイラーという女優さんは思わず「ヤンキー娘の本場アメリカにこんな女優さんおったんか!」と思わず唸らせる程(IMDbによれば「連邦警察」(1959)に出演しているようですが、はてどこに出ていたのかな)、超超ゴージャス且つエレガントであり、毒娘と分ってはいても何やら誘蛾灯に誘われるモスラのようにフラフラと彼女に惹き付けられるジャンバンニもむべなるかなという気がしますね。それはまあどうでも良いとして、「去年の夏突然に」(1959)のレビューでも述べたように、あちらの映画には庭が失楽の園を象徴するような作品が時折見かけられ、この作品はその典型であると見なせるでしょう。いずれにせよ、若干の変更はあるにせよ、映画では原作の持つイメージをビジュアル的に見事に補完するような内容になっており、このエピソードのみでも「Twice Told Tales」を見る価値はあると云えるかもしれません。以下に冒頭に載せた「ラパチーニの娘」の画像以外の2つのエピソードの画像を追加しておきます。上が、「ハイデッガー博士の実験」からの画像であり、下が「七破風の家」からの画像です。



2008/02/29 by Hiroshi Iruma
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