デストラップ ★★☆
(Deathtrap)

1982 US
監督:シドニー・ルメット
出演:マイケル・ケイン、クリストファー・リーブ、ダイアン・キャノン、ヘンリー・ジョーンズ



<一口プロット解説>
新しい劇が見事に失敗した劇作家マイケル・ケインは、自分の夏季セミナーの生徒の一人クリストファー・リーブが「デストラップ」というタイトルの素晴らしい劇を書いたことを知って、彼を殺してその劇を盗もうとする。
<雷小僧のコメント>
シドニー・ルメットという監督さんは、社会派といわれながらも時々舞台劇に基いた映画を製作していますが、この「デストラップ」も「ローズマリーの赤ちゃん」をものしたアイラ・レビンの手によるブロードウエイ舞台劇を基にしています。そもそも、彼の監督デビュー作「十二人の怒れる男」(1957)からしてかなり舞台劇的な映画であったと言えます。他にもユージン・オニールの戯曲をもとにした「Long day's Journey into Night」(1962)等がありますが、キャサリン・ヘップバーン、ラルフ・リチャードソン、ジェーソン・ロバーズ等のパワーパフォーマンスが素晴らしいとは言え、正直言ってこの映画はちょっとこの手の映画にしては長すぎる(3時間)ような気がします。そういうわけで、この「デストラップ」もある意味でルメットお得意のジャンルの1つに属する映画なのでかなり期待して見ることが出来るように思われます。
さてさて前置きはこれくらいにして、本題に入りましょう。まず最初に指摘すべき点は、恐らくこの「デストラップ」を見た人は必ず最後のシーンで頭が混乱するのではないかと言うことです。私目などもう10回はこの映画を見ているはずですが未だによく分かってはいません。どういうことかをこれから説明しますが、プロットをばらしますのでこれからこの映画を見ようと思っている方は、これ以上読まない方がよいでしょう。この映画のラストシーンでは、今までずっとマイケル・ケインやクリストファー・リーブ達が演じていた場面が途切れて、観客によって見られている舞台シーン(すなわち劇中劇)に突然切り換わってしまいます。そして最後に、これまでこの映画の登場人物の一人であった予言者のヘルガが書いた劇が「デストラップ」という劇であるということが示唆され彼女がその劇の大成功に歓喜するというシーンで終っています。こう書いただけでは、見ていない人は何のことか分からないかもしれませんが、実際それくらいややこしいのです。要するに、このラストシーンが、この映画の99%を締めるケインやリーブが演じていた部分の続きであるのか(すなわち最後に残った予言者のヘルガがその経験或はケイン達が残したスクリプトを基にこの「デストラップ」という戯曲を書いたということなのか)、それとも今までのシーンは全てヘルガという劇作家が書いた「デストラップ」という劇の劇中劇であったのかが全く分からなくなるのですね。前者であれば我々オーディエンスがそれまで見ていたシーンは、「デストラップ」という映画すなわち虚構世界の中で繰り広げられていた虚構の中の現実のドラマということになりますが、後者であればそれは虚構の中の虚構のドラマであったということになります。実に紛らわしいラストシーンですが、恐らく意図的にそういう効果すなわち複数の解釈が可能な曖昧性が狙われているのではないかと考えられるフシもあります。何故ならば、前者の連続説が製作者の唯一の意図であったとするならば、途中のいきさつを全て飛ばしていきなりそれまでのシーンが劇中劇に切り替わるのはいかにも不自然であるし、後者の劇中劇説が製作者の唯一の意図であったとするならば、切り替わった舞台上のシーンを演ずる役者もマイケル・ケインとクリストファー・リーブを起用しておけば何の曖昧さも残らなかったはずだからです。但し1つだけ考慮しなければならないことは、劇中劇説が製作者の唯一の意図であったとしても、切り替わった舞台上でもマイケル・ケイン、クリストファー・リーブをそのまま演じさせて今までのシーンが劇中劇であったことを明確化させることはしなかったかもしれないということです。というのは、そうしてしまえば今度は劇中劇であったなどという趣向を最後に付け加える必然性がどこにあったのかが問題化されざるを得ないからです。つまりそれこそ最近の映画によくありがちな、それまでのストーリーとは有機的関連性がほとんどない「驚愕のラスト」が、子供騙しのように付け加えられているのではないかという批判の対象にならざるを得なくなるということです。その点ルメット(それともアイラ・レビン?)は巧妙であり、劇中劇が本来の意図であったとしてもその意図が不確実であるように見えるような巧妙な仕方でそれを提示することにより、焦点を1つ前方にずらすすなわちストーリーの有機的な連続性に関する批判が確実には行なえないような仕方でプロットが展開されているようにも思われます。まあルメットほどの監督さんが、そのような低次元なレベルの問題で批判を受けるのを潔しとするとはどうしても思えないということです。
それでは、個人的にはどう思うかと言うと、恐らく今迄のシーンは全てヘルガという劇作家が書いた劇の劇中劇だと考える方が妥当ではないかと考えています。その理由として、この映画をよく見ていると、映画的ではないなと思われるシーンが余りにも多いこということが挙げられます。けれども、それらのシーンが実は演劇的なシーンであったとするとかなり納得出来るようになるのですね。まずプロットに関してですが、ケインがリーブを殺したと見せかけて、実はそれがケインの妻のダイアン・キャノンに心臓発作を起こさせる巧妙なトリックの1つであったという筋書きは、演劇的なコンテクストをはずれて映画的な現実の中で見ると余りにも馬鹿げているように思えます。私目はほとんど演劇は見たことがないのであまり自信はないのですが、要するに映画的なコンテクストと演劇的なコンテクストは全く違うのではないかと言うことです。どういうことかと言うと、我々が映画を見ている時、勿論映画が架空の出来事であるということは承知していたとしても、少なくともそこに描かれていることの背後には現実をリクリエートしようという意図が存在するという一つの前提が、掟(コード)としてあるように思われるのに対して(勿論たとえばシュールリアリズムに属する映画等はこの例外になるかもしれませんが、まさにシュールであるというそのこと自体がこのコードからの逸脱を意味しているのだと思います)、演劇を見る場合は必ずしもそういうコードに従っているわけではないのではないかということです。演劇を見る時は、舞台で行われているのが現実のリクリエートであるとして見ているというよりも、演劇的なるもののクリエートとして見ていると言ってもいいのではないかと言うことです。従って、演劇というコンテクストの中で見れば、先ほど述べたプロットであったとしてもさ程馬鹿げたプロットであるようには思えなくなるわけです。

※このレビューを書いた時点ではまだ読んではいませんでしたが、ジークフリート・クラカウアーの「Theory of Film」(Princeton University Press)には映画的コンテクストと演劇的コンテクストの決定的な相違について解説されていました。これに関しては「ジュリアス・シーザー」(1953)のレビューに詳述しましたのでそちらも参考にして下さい。(2008/03/01追記)
それから、この映画の前半のダイアン・キャノン、後半のクリストファー・リーブのパフォーマンス及び台詞まわしは明らかに映画的なコンテクストで考えると、あまりにも人工的且つわざとらしいように思えます。この辺りはたとえばVariety紙の評「Deathtrap comes across as a minor entertainment, cleverness of which cannot conceal its essential artificiality when blown up on the big screen (「デストラップ」は、わずかながらもエンターテインメント性を有していると言うことは出来ますが、銀幕という大画面に投影された時、その巧妙さを持ってしても本質的なわざとらしさを覆い隠すことは出来ないでしょう。」を見ても明らかです。けれども、Variety紙のこの評は正しいと同時に間違っていると言えます。正しいというのは書いてある内容は正しいということであり、間違っているというのはわざとらしさ故にこの映画の評価が下がるのではないということです。恐らくこのVariety紙の評者は、この映画をすべて映画的なコンテクストで捉えている(すなわち最初に挙げたこの映画の解釈の前者の見方を取っている)のだ思います。映画においてこういった映画的なコンテクストを破壊する方法の1つとして考えられるのが、呈示されている場面が実は劇中劇であったと示唆することです。私目は、この映画のラストシーンがまさにこの示唆であったのだと考えているわけであり、このラストシーンによってそれまでのシーンのわざとらしさを一気に自然というか理解出来るものに巧妙に変容させることに成功しているのではないかと思っています。余談になりますが、こういう映画的コンテクストと演劇的コンテクストの混交を通して思い切り笑いを誘っていた映画にピーター・ボグダノビッチの「カーテン・コール」(1992)という作品がありますが、いみじくもこの「デストラップ」に出演していたマイケル・ケインとクリストファー・リーブが揃って出演しています。この他にも、たとえば最後のシーン近くで徐々に部屋の明かりが消えていくシーン等、映画的コンテクストで考えると奇妙なシーンが色々あります。又、舞台セットもあまり映画的でない面が多々あります。たとえば、マイケル・ケインの住む家の壁を飾る斧や手錠等の小物類、或は部屋の天井の歯車のような奇妙な装置等です。
そういうわけで、このような映画的コンテクストと演劇的コンテクストの相違という側面が、舞台劇を基にした映画を成功させる場合における1つの大きなハンディキャップになると思われますが、このラストシーンがアイラ・レビンの原作にもあるのかどうかは別として、「デストラップ」はその点を巧妙に切り抜けることに成功しているのではないかと思います。いずれにしてもそういうことは除いても、この手の映画が好きな人は、その奇妙なプロットと奇妙な会話を楽しめることには間違いないと思います。それから、ダイアン・キャノンもなかなかチャーミングです。この人は、60年代の始めの頃は、あのケーリー・グラントの奥さんだった人ですが(何という年の差なのでしょう。親子以上ですね)、まだまだ衰えてはいないようです(でもさすがにちょっとおばちゃんになったなという印象はあります)。最後に50年代の映画ファンには注目してほしいのですが、名脇役ヘンリー・ジョーンズがマイケル・ケインの弁護士役で出演しています。

2000/07/16 by 雷小僧
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