トータル・リコール ★★★
(Total Recall)

1990 US
監督:ポール・バーホーヴェン
出演:アーノルド・シュワルツェネッガー、レイチェル・ティコティン、シャロン・ストーン、ロニー・コックス

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<一口プロット解説>
ダグラス・クエイド(アーノルド・シュワルツェネッガー)は、「リコール」社に行って、秘密工作員になって火星を冒険する人工記憶を埋め込んでもらうおうとするが、精神分裂状態に陥って目覚め、次から次へと危機に遭遇する。
<入間洋のコメント>
 フィリップ・K・ディックの短編SF小説の映画化であり、彼のSF作品に啓発された映画としては、リドリー・スコットの「ブレードランナー」(1982)と並んで最も賞賛されるべき作品です。というよりも、ある意味で、これ程凄い映画はそう多く見掛けられるものではないとすら言い切れるかもしれません。フィリップ・K・ディックのSF小説は、学生の頃かなり読んだ覚えがあり、「トータル・リコール」の元となる「追憶売ります」も、当時既に翻訳が出回っていたならば必ずや読んでいるはずですが、読んだ記憶は残念ながら全く残っていません。いずれにしても、IMDbには「Philip K. Dick (short story "We Can Remember It For You Wholesale") (inspiration)」と記されているので、単に啓発されただけで、ストーリーは必ずしもフィリップ・K・ディックの短編には沿っていないのでしょう。ということで、原作についてはとりあえず忘れることにして、アーノルド・シュワルツェネッガーのような人気先行型のスターが主演し、60億ドルから70億ドルにのぼる空前の予算(「Variety Movie Guide」の記述による)が注ぎ込まれたメガロマニアックなハリウッド映画の典型であるにも関わらず、なぜ「トータル・リコール」がそれ程凄い作品であるかについてこれから徐々に明らかにしたいと考えています。結論を先取りすると、「トータル・リコール」には、カッコつけて言えば、現代のポストモダン的な様相が独特な視角から捉えられているがゆえに凄いのです。しかしながら、どのようなポストモダン的様相がどのように反映されているかを明確に述べるのは、それ程容易ではありません。そこで、いつもの通り困った時のひとさま頼りで、他人の業績をほどよく拝借することによって、その点をクリアにしてみようと考えています。さっそく、今回拝借する本を紹介しましょう。それは、「How We Became Posthuman」(The University of Chicago Press)という、デューク大学教授(執筆時はUCLA教授)のN.キャスリン・ヘイルズ(N.Katherine Hayles)が書いた極めて興味深い著書です。この本は、基本的には、20世紀におけるサイバネティクスの流れについて書かれていますが、著者のヘイルズは、サイエンスの分野のみではなく文学にも関心を持つ人であり、サイバネティクスの流れの中に見られる傾向と同様な傾向を、文学、それもSF作品の中に類比的に見出そうとしています。従って「How We Became Posthuman」は、かなり領域横断的な色彩の濃い内容を持っています。そのような意図の中で、サイバネティクスの流れと類比されるSF作品の例として取り上げられているのが、ウィリアム・ギブソンの「ニューロマンサー」などとならんでフィリップ・K・ディックの諸作品なのです。残念ながら「トータル・リコール」の原作である「追憶売ります」は、この本の中では取り上げられてはいませんが、「ブレードランナー」の原作である「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」や「ユービック」などの作品が分析の対象とされ、「トータル・リコール」を見る際に大いに参考になります。いずれにせよ、サイバネティクスのどのような展開の中でフィリップ・K・ディックの作品が位置付けているかがまず説明されねばなりませんが、その前にヘイルズの議論の前提を1つ述べておく必要があります。名前からも分かるようにヘイルズは女性であり、必ずしも「How We Became Posthuman」の中では自身がフェミニストであるとは述べていないとしても、たとえばリュス・イリガライやジュディス・バトラーなどのフェミニストが重要視する「身体性(embodiment)」という概念を、彼女も極めて重視しています。従って、「How We Became Posthuman」では、単にサイバネティクスの進展が説明されるのではなく、「身体性(embodiment)」という概念をキーワードとして、サイバネティックスの進展の中に典型的に見出される問題を抉り出そうとしています。つまり、彼女は、サイバネティクスの進展が、いかに「身体性」を無視する視点に結び付きやすかったかを示すことにより、現代のモダンそしてポストモダン文化に警鐘を鳴らそうとしているとも言えます。但し、1つ注意する必要があるのは、彼女は、サイバネティクスの進展は、「身体性」を無視する視点に結び付きやすかったと述べているのであって、決してサイバネティクス=身体性の無視であると主張することによってサイバネティクスを否定しようとしているわけでなく、人間が環境をコントロールする主体であるとする自律的な人間観にサイバネティクスが結び付いた時にそのような問題が発生すると述べている点です。サイバネティクスが必ずしも身体性を無視していなかったことは、後述するウンベルト・マツラナの例からも明白です。

 ここでまず、前段で何気なく述べた「身体性」に関する問題とは、一体どのような問題なのかについて説明しなければならないでしょう。それには、「How We Became Posthuman」冒頭の彼女の問題提起が参考になるはずです。そこで、彼女は次のように問い掛けます。すなわち、「ハンス・モラヴェクの著書「電脳生物たち」(岩波書店)の中に、コンピュータネットワーク上に人間の意識をダウンロードする可能性について書かれているが、そんなことは本当に可能なのか?なぜそのような考え方が生まれるのか?」とです。或いは、もっと卑近な例を挙げれば、「テレビシリーズ「スタートレック」の中で、カーク船長やミスター・スポックが、瞬間転移装置によって宇宙船エンタープライズ号から未知の惑星へと一瞬にして転送されるシーンがあるが、そんなことは本当に可能なのか?どこからそのようなアイデアが生まれてくるのか?」と言い換えてもよいでしょう。勿論、「スタートレック」のオーディエンスの中に、現代の技術レベルで、人間はおろかゴミのひとかけらすら電送可能であると思っている人はいるはずがないとしても、それは単に技術レベルの問題であり、そんな現在の夢物語も、たとえば西暦3000年にもなればきっと実現されるのではないかと何となく思っている人も少なくないのではないでしょうか。かく言う小生も、昔は何となくそう思っていた覚えがあります。ここで、よく考えてみましょう。「スタートレック」に登場する瞬間転移装置の実現可否は、単に技術レベルの問題に過ぎないのでしょうか?ヘイルズによれば、この問いにYesと答える人は、身体性を捨象する現代の病根に蝕まれていることになるのです。まず、モラヴェックや「スタートレック」のアイデアは、1つの大きな前提に基いていることに注意しなければなりません。それは、身体を持つことによって始めて周囲の環境の中を活動することのできる生身の人間について、意識のみを(モラヴェックの場合)、或いは身体&意識を(スター・トレックの場合)、どんな媒体によっても搬送が可能な情報に無傷で変えてしまうことができるはずだという前提です。情報という言い方が曖昧であるならば、ON/OFFのデジタル信号と言い換えても構わないでしょう。つまり、意識と生身の身体は別ものであり、後者から前者を情報として取り出し、「スタートレック」の瞬間転移装置のように再びそれを元の生身の身体に復元したり、モラヴェックの提唱するように別の媒体=身体に転写することが可能であるという前提がそこにはあります。そんなことが本当に可能なのでしょうか?その問いに回答する前に思い出す必要があるのは、ヤコプ・フォン・ユクスキュルの著書「生物から見た世界」(岩波文庫)にある動物や昆虫の目で見た世界に関する記述です。たとえば、ダニが住む世界は、明らかに人間が住む世界とは異なるのであり、人間にとって意識の中に存在する様々な事象は、ダニにとっては全く存在しません。ダニにとっては、生殖行動を除けば高所から下を移動する動物に飛び移って彼らから栄養を頂戴すればそれでよいのであり、それ以外の事象は存在する必要もなければ、存在すらしません。すなわち、ある生物にとっての世界とは、その生物に固有なものであり、特定の生物が構成する内的世界とは全く独立した絶対的に客観的な世界などは、存在しないか、或いは神様以外の誰にも知りえないのです。それに近い考え方は、哲学的には恐らくかのカントさんあたりから始まるのではないかと思われますが、20世紀に至るとモーリス・メルロ=ポンティの考え方などを通して身体性と結び付けられます。要するに、人間が自己の内部に構成する内的世界が持つ、すなわち人間の意識が持つ様々な特徴は、人間の持つ固有の身体性に強固に結びついているのであり、たとえ人間固有の身体から分離した何らかの意識がもし存在し得るとしても、それは最早人間の意識ではないということです。たとえば、痛いという意識を、神経のないロボットに転写することなど、そもそも無意味だということです。この考え方に間違いがなければ、身体を有する生身の人間を、意識のみ、或いは意識もろとも、無傷で情報に変えてしまうことができるとするモラヴェックや「スタートレック」流のアイデア(以後これをモラヴェック/スタートレック仮説と呼ぶことにします)は、単に技術レベルの問題によってではなく、そもそも根本的に成立し得ないことになります。フェミニスト達が強調する「身体性」の考え方の根底にもこのような思想史的な背景があるはずであり、ヘイルズもその流れに連なっているものと考えられます。ヘイルズは、「現代文化の際立った特徴として、異なる物質基盤の枠を越えて、変化を被ることなく情報を循環させることができるという信念が挙げられる(A defining characteristic of the present cultural moment is the belief that information can circulate unchanged among different material substrates.)」と述べていますが、勿論、彼女はここでそのような信念、すなわち身体性を無視して意識を情報として抽出できると見なす見方に対する批判を述べているわけです。「スタートレック」の瞬間転移装置が実現化されるのも時間の問題だろうとかつてお気楽に考えていた小生も、現在では意識を身体性から切り離して考えることは不可能であろうと考えています。

 また、後で「プラトンのフォアハンド」として説明するように、意識を身体性から切り離し、かくして抽象化された意識を、理性などの口当たりのよい用語によって理想化し、今度はそれが個々の具体的な身体性をコントロールすることを、さも当然であると考え始めるや否や、数々のトラブルが生み出されることは歴史が雄弁に物語っています。たとえば、最近読んだ本の中では、多木浩二氏の「戦争論」(岩波新書)に、「科学技術の進歩の結果、暴力を行使する側の身体性は消える方向をたどっている。少なくとも、アウシュヴィッツに勤務したSSの将校、下士官、さらに医者たちの罪の意識はぼやかされている。彼らの日記、手記のたぐいを見ても、罪の意識はほとんど見当たらない。ガス室送りの選別(特別行動)をする医者は、その日の日記に、手当てとしていい食事が出たことを楽しげに書いたりし、ヘスは自分の家をパラダイスだと書いている。アウシュヴィッツほどの暴力の行使であっても、誰も手を汚した意識なしに殺戮に加わったのだ」と述べられています。また、よく言われるように、核ミサイルのボタンを押すのは、目の前にいる他人をナイフで刺し殺すよりもたやすいかもしれません。これらの例に共通する問題は、具体的な身体に対する考慮を全く欠いている点であり、具体的な個人が持つ身体の存在が無視されると、管理と称して様々な抑圧が個人に加えられる結果に結び付き、それがさらに高じるとアウシュヴィッツにすら行き着く可能性があるのです。現在はハーバード大学の教授であるエレイン・スカリー(Elaine Scarry)は、引用されることの多い彼女の著書「The Body in Pain」(Oxford University Press)の中で、「なぜ、戦争の結果を、たとえば歌合戦で決めることができないのか?」というかなり挑戦的な問い掛けを行っています。「何を馬鹿な?」と思われる向きもあるかもしれませんが、ここには根源的な問題が存在するのです。そもそも、大量の死者や負傷者を出し、資産を無意味に食い尽くすくらいなら、歌合戦で戦争の結果を決めた方が、被害がゼロである上に、楽しくすらあるはずです。それなのに、誰も戦争の結果を歌合戦で決めようなどとはしません。なぜでしょうか?ここで彼女の論証を跡付ける余裕はありませんが、要するに、個々の兵士の持つ身体性とその破損(つまり負傷や戦死)を通じた掛け値なしのリアリティによる裏付けなくして、敗者が納得するようなかたちで勝者を決定することはできないのです。つまり、身体性を破壊するはずの戦争ですら、少なくともかつては身体性と無縁ではなかった、というよりもそれだからこそ身体性が大きな役割を果たしていたのです。因みに、それならば身体性に対する顧慮が全く消去されれば戦争がなくなるかといえば決してそんなことはなく、歴史家のホブズボームも述べるように、また多木浩二氏も上に述べるように、かつての戦争よりも身体性に対する顧慮が消失しつつあるはずの20世紀の戦争の方が、不思議なことに、殺傷能力の向上に帰される以上の残虐さ、罪の意識を免れた残虐さを増しているのです。これはどういうことかというと、20世紀の戦争には、単なる勝者敗者の決定のみではなく、他の様々な要素が付着するようになった結果ではないかと考えられます。たとえば、アウシュヴィッツで行われていたのは戦争ですらなくジェノサイドです。アウシュヴィッツでは、勝者は必ずナチスであり、敗者は必ずユダヤ人だったのであり、勝敗を決める必要など最初からどこにもなかったのです。また核ミサイルのボタンについていえば、核を使用すれば最早勝者と敗者の区別などなくなることは明瞭であり、従って、東西冷戦は、実際に戦争が起これば、最早それは勝者敗者を決定するための戦争たり得なかったのです。どうやら大きくわき道に逸れてしまったようなので話題を元に戻すと、それでは、なぜそのような根本的な問題を抱えているはずの身体性の捨象というアイデアを前提とするモラヴェック/スター・トレック仮説が登場するようになったかが問われねばなりません。次にヘイルズの著書を参考にしてそれについて考えることにしましょう。

 前述の通り、ヘイルズは、そのような考え方が生まれた背景としてサイバネティクスの進展を挙げ、サイバネティクスの発展段階を以下の3つのキータームによって区分けします。

「第1波(1945-1960):ホメオスタシス(Homeostasis)」
「第2波(1960-1980):再帰性(Reflexivity)」
「第3波(1980-   ):バーチャリティ(Virtuality)」

注意すべきは、各段階はそれぞれ相互排他であるというわけではなく、たとえば第2波の時代であっても第1派の特徴が痕跡的に残されているのが普通であり、段階間には重なりがかなりあります。ヘイルズは、このような重なりを「Skeuomorphs」などという恐ろしく衒学的な用語によって表していますが、常識的に考えてもこれらの段階が相互排他ではなかろうことは明らかです。彼女は、フィリップ・K・ディックのSF作品を、典型的に「第二波(1960-1980):再帰性(Reflexivity)」の時代の産物と見なしています。従って、当レビューにおいては、それ以後にあたるバーチャリティ(Virtuality)の段階に関する説明は、とりあえず直接の関係がないので割愛します。それではまず、意識をそれが宿る生身の身体から情報として無傷で抽出できると見なす考え方はどこに由来するかについて考えてみましょう。実をいえば、意識が外界の情報を身体の諸器官を通して拾い上げる際、必ず取捨選択が行われ、そこでは何らかの抽象化作用が働くことはよく知られた事実です。そうでなければ、意識は雑音を含めた様々なデータによってパンクするはずです。従って、意識は、ある規則に基いて抽象化された間接的な情報を扱う能力しか持たないことは自明の理であり、外界の多様性をある単純化された抽象物として抽出する働き自体は極めてノーマルなものです。また、そもそもそのような能力がなければ人間という存在は全く存続できません。ヘイルズは、このような抽象化の働きを洒落のめして「プラトンのバックハンド」と呼びます。ここまでであれば、人間のノーマルな機能が対象とされているのであって何の問題もないはずです。ところが、かくして抽出された抽象の方がまず始めに存在し、そのような抽象化されたモデルから、外界の多様性が発生したと、ベクトルを逆にして考え始めると、途端に数々の問題が発生すると彼女は述べ、これを「プラトンのフォアハンド」と呼びます。そして、「プラトンのバックハンド」+「プラトンのフォアハンド」の複合技によって我々が住む具体的な世界を説明しようとすると、具体的な実在(Presence)よりも抽象的なパターン(Pattern)が優先され(先に存在すると見なされ)、前者が後者に支配されると考えられるようになり、具体的な実在たる身体性から抽象的なパターンたる情報として意識を分離することができるとするモラヴェック/スタートレック仮説が最終的に生まれることになるわけですが、それを上に示したサイバネクスの進展段階に沿って後付けてみることにしましょう。

 まず、「第1波(1945-1960):ホメオスタシス(Homeostasis)」の段階について考えてみましょう。ここで登場するキーパーソンは、ノーバート・ウィーナーとクロード・シャノンです。彼らが、まず第一に考えたことは、「情報」という概念を、特定のコンテクストから切り離すことでした。すなわち、どんなコンテクストに置かれても、その持つ意味の同一性が失われないものに限って、それを「情報」と呼ぶことにしたのです。たとえば、CDに保存されているWAVファイルの「音声情報」は、別の媒体であるハードディスクにコピーしても同一性は失われません。というよりも、WAVファイルに含まれている「音声情報」には、媒体が変わっても同一性が失われない「情報」しか含まれていないと言い換えた方が正確かもしれません。端的にいえば、実在よりもパターンを重視するように観点を変更したのです。このような考え方が進行すると、殊に内部のからくりを知らない人々にとっては、パターンに過ぎない「情報」が、実在を表しているように見えてしまうのです。たとえば、WAVファイルを再生することによって、生の声を聴いているような錯覚を覚えるのは避けられません。勿論、音声であればそれがパターンに過ぎなくとも極めて有用であることに間違いはないとはいえ、実在よりもパターンを重視し、さらにそれを神聖化することによってモラヴェック/スタートレック仮説に至り、あまつさえそれに幻惑されるとすれば、問題なしとはしないはずです。要するに、ここにはパターンによって実在を代替しようとする「プラトンのフォアハンド」が、作用しているのであり、ある程度まではそれが有用であったとしても、度を越すと様々な問題が引き起こされるのです。殊に、ホメオスタシスの考え方を別の角度から見た場合、それは、外からは見えないブラックボックスであると見なされるシステムと外界のインタラクションにおいてやり取りされるデータを「情報」であると定義する「ブラックボックスモデル」であると考えられ、システムの内部の構成要素(IT用語を用いればシステムの実装)については全く不問に付されるため、そこに身体性の入る余地はどこにも存在しないのです。このようなホメオスタシスモデルとのかなり強引な類比が昂進すると、システムとシステムの間を、すなわちある身体と別の身体の間を、身体を離れた意識のみが情報として循環し得るとするアイデアが生まれるのです。「トータル・リコール」でもこのようなアイデアがこれ以上ないほど明瞭なかたちで現れています。主人公のダグラス・クエイド(アーノルド・シュワルツェネッガー)は、火星の叛乱軍(解放軍?)とコンタクトし、彼らを援助しますが、実はダグラス・クエイドというアイデンティティ、言い換えればダグラス・クエイドとしての意識は、人工的に埋め込まれたもの(implanted)なのです。それ以前は、彼は、火星の支配者であるコヘイゲン(ロニー・コックス)の手下として働いていたハウザーだったのであり、他人の心の中を読めるミュータント達に悟られないように叛乱軍のアジトにもぐり込むために、自ら志願してハウザーとしての記憶を消去し、ダグラス・クエイドとしてのアイデンティティを埋め込んだことが最後に明らかになります。「トータル・リコール」の場合、同一の意識を異なる媒体に対して転写するのではなく、同一の身体に対して異なる意識を刷り込んでいるとはいえ、いずれにしても、意識を情報として身体から無傷で抽出することが可能であるとするアイデアがその根底に存在することは明らかです。また、冒頭ダグラス・クエイドは、「リコール」と呼ばれる冒険旅行の記憶を埋め込む会社に行って、秘密工作員として火星を冒険旅行する記憶を埋め込んでもらおうとします。実をいえば、火星を冒険旅行する記憶を実際に埋め込んでもらったか否かは極めて曖昧であり、その点が「第2波(1960-1980):再帰性(Reflexivity)」での説明にも大きく関係しますが、とりあえずここでは、実際には経験していない記憶を自分の意識の一部として埋め込むことが可能であるという前提が、そのようなストーリーの裏には存在することだけを確認しておきましょう。ここにも、意識を情報として身体から無傷で抽出することが可能であるとするアイデアが前提とされているのです。

 ここで1点、誤解のないように付け加えておきます。それは、フィリップ・K・ディックやポール・バーホーヴェンは、SF作品を、すなわちフィクションを書いたり監督したりしているのであって、そこに未来の予言が意図されているわけではなく、SFとしてあり得ない状況をWhat Ifシナリオとして描いているに過ぎないという指摘はまことに正当であるとしても、いずれにしてもサバネティクスが出現する以前のSFでモラヴェック/スター・トレック仮説を彷彿とさせる作品は少なくとも個人的には思い出せないという点です。たとえば有名どころで映画化があるものとしては、ジュール・ヴェルヌの「気球に乗って五週間」、「地底探検」、「月世界旅行」、「海底二万リーグ」、「神秘の島」とその映画化(それぞれ「気球船探検」(1962)、「地底探検」(1959)、「月世界探検」(1964)、「海底2万マイル」(1954)、「巨大生物の島」(1961))や、H.G.ウェルズの「タイム・マシン」、「モロー博士の島」、「宇宙戦争」とその映画化(それぞれ「タイム・マシン」(1960)、「ドクター・モローの島」(1977)、「宇宙戦争」(1953))、或いは推理小説作家であるとともにSF作家でもあったアーサー・コナン・ドイルの「失われた世界」とその映画化(「失われた世界」(1960))などが古典的なSF作品として挙げられますが、これらはいずれも一貫したアイデンティティを持つ生身の人間が冒険旅行をしたり宇宙人に襲撃されたりするのであり、アイデンティティや意識が問題になることは全くありません。つまり、たとえSFのテーマであるとしても、意識をワンタッチで入れ替えるなどというアイデアが利用できるとは、かつては考えられておらず、サイバネティクス情報理論の登場を待って始めて、そのようなアイデアが生まれたのです。或いは、それが言い過ぎであれば、そのようなアイデアをマジに利用しても一般受けするであろうことが疑われなくなったのです。かくして、時代の流れに敏感なフィリップ・K・ディックのようなSF作家が、意識的にせよ無意識的にせよさっそくそのような最新のアイデア利用した次第なのではないかということです。敢えていえば、サイバネティクス登場以前であっても、SFよりはむしろホラーやファンタジージャンルに、モラヴェック/スタートレック仮説にやや接近するケースが見られるように思われます。彫像に人間の生命を吹き込んだとされるピグマリオンの神話に基いた一連の作品がそうです。しかし、このケースにおいては、たとえ元が彫像であったとしても、人間の生命を吹き込まれた瞬間に、彫像が人間の身体に変化したと解釈すべきなのでしょう。また、勿論、いかなる身体からも切り離された意識についてそこで語られているわけでもありません。因みに、詩人シェリーの嫁さんであったメアリー・シェリーが書いた「フランケンシュタイン」に登場する、フランケンシュタイン博士が創造した怪物(映画化の中には、怪物の方がフランケンシュタインと呼ばれているケースもあるようですが、勿論そうではありません)は、人間の死体から生み出されます。それから、ロバート・ルイス・スティーブンソンの「ジキル博士とハイド氏」の場合、同一の身体に複数の意識が宿っていることになるので、「トータル・リコール」のハウザーとダグラス・クエイドの関係にやや似ています。しかしながら、ジキル博士&ハイド氏のような多重人格者は、「イブの三つの顔」(1957)のイブのように現実世界にも存在するのであり、確かに19世紀に多重人格の主人公を登場させた点は斬新であったとしても、スティーブンソンの創作とハウザー&ダグラス・クエイドの大きな違いとして、ハウザー&ダグラス・クエイドの場合には、身体性を伴わない記憶として意識が保存され得ると想定されているのに対して、ジキル博士&ハイド氏の場合には、身体なくしては意識も存続できないはずであると想定されている点が挙げられるのは敢えて指摘するまでもないでしょう。そうであるからこそ、ハイド氏の悪行そのもの以上にジキル博士&ハイド氏の病理的な同一性障害の無気味さが取り沙汰され、またそれによって「ジキル博士とハイド氏」の今日に至るまでの作品としての名声が得られたのです。すなわち、ハイド氏としての意識が顕現している間、ジキル博士としての意識がどこへ行ったのか、あるいはその逆が、大きな関心の的になっているのです。このようにつらつらと考えてみるとハタと気がつくことがあります。それは、コンピュータネットワークに意識をダウンロードする(或いはアップロードと言いたい人もいることでしょう)などというアイデアは、実証主義にズブズブに浸かった現代人に対してよりも、むしろ「肉体は滅びても、魂は永遠である」と本気で信じている昔の(或いは現在の)霊魂不滅論者やアニミズム信奉者に対しての方が、受け容れやすいのかもしれません。ということは、実証主義の功罪に関する議論はとりあえず置くとして、モラヴェック/スタートレック仮説は、外見は科学的に見えながらも、その実、先祖返り的なところがあると見なせるかもしれません。そういえば、「スタートレック」の祭祀的な性格について述べられた論文をどこかで見かけました。

 ついでながら、もう1つ人間の意識の多数性を扱った興味深い例を挙げておきましょう。それは、黒澤明の「羅生門」(1950)やそのハリウッド版である「暴行」(1964)などの、全く同じ出来事を複数の人物の視点から描いた作品です。「羅生門」は、公開当時その斬新さからまさにワールドワイドな作品となり、黒澤明の名を世界に轟かせたことは周知の通りですが、同じ出来事を見ているはずでありながら各人の見た光景が全く異なるという斬新な展開を持つこの作品にしたところで、それぞれの光景は、嘘をついているか幻を見たかはともかくとして、特定の個人の身体にしっかりと結び付けられていることには違いがないのです。それならば、殺された本人が霊媒の口を借りて証言するシーンはどう説明するのかという疑問が湧くのは当然でしょう。つまり、殺された男の意識が、自らの身体から切り離されて霊媒に転送されたとすれば、ここにはまさしくモラヴェック/スタートレック仮説が見出されるのではないかという疑問です。表面上は確かにそう見えるかもしれません。しかし、実は話があべこべで、このシーンは、「羅生門」がまさにモラヴェック/スタートレック仮説とは無縁であることを逆に示していると考えるべきです。なぜならば、霊媒など持ち出さずとも、死者のナレーションを用いるなどして死んだ本人が見た光景をダイレクトに映像として提示することは、表現上は何ら不可能ではなかったはずなのにそうはせず、わざわざ霊媒という特殊な身体性が持ち出されているからです。つまり、オーディエンスの視点の基軸は男が殺された後の法廷に置かれ、各人の証言は記憶の内容としてフラッシュバックで提示されるため、霊媒という身体的な媒介を通さないで、殺された男が見たはずの光景をダイレクトに提示することは、記憶を、すなわち人間の意識の内容を、身体が欠如した状態で提示することになるがゆえに奇異に見えるはずだと考えられたからこそ、言い換えればモラヴェック/スタートレック仮説流に意識だけが浮遊しているかのように見える状況に陥るのを避けようとしたからこそ、わざわざ霊媒の存在が導入されねばならなかったのです。それならば、ビリー・ワイルダーの「サンセット大通り」(1950)のような、死者のナレーション−>フラッシュバックという構図を取る映画はどうなるのかという疑問が次に湧くことでしょう。キリがなくなるので、この疑問に対する回答で打ち止めとしますが、いずれにせよ1950年は既にサイバネティクス第1波の時代であったという点は別としても、「サンセット大通り」の場合には、冒頭のシーンは、単なる洒落たトリックとして付加されているだけであって、この作品を見るオーディエンスの視点がウィリアム・ホールデン演ずる主人公がプールで死んでいる冒頭の時点に基軸として固定されるようなことはないはずであり、その後のシーンに関していえば、確かに厳密に捉えればそれらはフラッシュバックシーンではあったとしても、決して記憶の内容としてストーリーが語られるわけではないので、オーディエンスの視点は、ストーリーの流れに沿って常に移動するはずです。従って、ウィリアム・ホールデン演ずる主人公は、冒頭を除けばオーディエンスの意識の中では死んではいないのであり、当然のことながら代替の身体性を提供する霊媒などどこにも必要とはされないのです。これに対して、「羅生門」の場合には、オーディエンスの視点の基軸が現在に固定されたまま、記憶の内容として過去に遡った映像が提供されるので、殺された主人公は、過去のフラッシュバックシーンの中であったとしてもオーディエンスの意識の中では常に死んでいることになり、だからこそ生きて身体性を保ったままでいる他者の証言の場合とは違って、当の殺された男の証言が語られる際には、記憶の内容が埋め込まれるべき代替的な身体性として霊媒の存在が導入されなければならなかったのです。一言でいえば、記憶の内容を画像として提示するには、記憶は必ず身体性と結びつけられねばならないと考えられていたからこそ霊媒の存在が必要とされたのであり、従って明らかにこれはモラヴェック/スタートレック仮説とは全く逆なのです。

 本論に戻って、次に、「第2波(1960-1980):再帰性(Reflexivity)」の段階について考えてみましょう。ここで登場するキーパーソンは、グレゴリー・ベイトソン、マーガレット・ミード、ウンベルト・マツラナ、フランシスコ・バレラです。前二者は夫婦であり、後二者は師弟の関係にあります。第2波が第1波と最も異なる点は、第2波に属する科学者達が観察者(オブザーバー)の概念を導入するところにあります。勿論、第1波に属する科学者にしろ観察者の視点の導入の可能性を全く考えていなかったわけではなく、考えはしてもそれを極力避けようとしていたのです。なぜかというと、ひとたびオブザーバーの概念を導入すると、それをシステムと外界の中間に位置する第三者であると見なしている間はまだよいとしても、必ずやオブザーバーの役割をシステムの側に取り込む必要が生じ、単純な「ブラックボックスモデル」では済ませられなくなるであろうことは明らかであったからです。つまり、オブザーバーは、ただの消極的な観察者ではなく、積極的な介在者とならなければそもそも意味はなく、そうなれば何らかの外界からのインプットを受け入れ、何らかのアウトプットを送り出す一連のインタラクションの中では、介在者もシステムの一部として機能するものと見なさざるを得ないのです。そうなると、システムは必ずシステムの外部に存在する外界環境とインタラクションを行なうとする図式から、システムは介在者を介して自システムともインタラクションを行うとする再帰的(reflexive)な関係を含む図式に移行せざるを得なくなります。第1波の科学者達は、そのような考え方は病理的(pathlogical)な状態を生み出すことにしかならないと考えていたがゆえに、観察者の導入を極力避けようとしていたのです。つまり、ナルシスになるのが恐かったというわけです。このような、再帰的な関係の可能性が取り込まれると、外界とは切り離されたシステムの内部のみで情報が循環するモデルが登場するのは時間の問題になります。かくして、第2波の草分けの一人であったグレゴリー・ベイトソンは、我々人間が知ることができるのは、我々人間の主観が構成する主観的な表象世界のみであると考え、主観と客観の区別を解消します。また、第2波の科学者達は、情報をデータやモノとしてよりも、アクションとして捉える傾向を持っていました。すなわち、情報とは受け手に何らかの影響を与える行為であると見なしたのです。J・L・オースティンのスピーチアクト理論をも想起させるこの考え方は、情報の持つ再帰的な性格をさらに強調する結果につながります。なぜならば、受け手も送り手同様に自律的なシステムであると見なすならば、情報が受け手に与える影響を考慮する際、送り手は受け手の反応を考慮する必要があり、そうなると今度は、自身が自律的なシステムたる送り手は受け手の反応を考慮に入れた情報を送らざるをえなくなり、さらにそうなると、受け手の反応を考慮に入れた情報を送り手が送ることを考慮した受け手の反応を、送り手は考慮せざるを得なくなりという具合に、論理的に無限後退する再帰的な連鎖の関係が生まれるからです。これは必ずしも非現実的な空想の物語などではなく、政治理論などにおいてもそのような考え方の応用が見出せます。たとえば、前英国首相トニー・ブレアの知恵袋と呼ばれた政治学者アンソニー・ギデンズは、そのような現代社会が示す様相を「高度な再帰性」と呼び、ソビエトの計画経済の崩壊理由の1つをそれによって説明します。つまり、上からの一方的な命令に依存した計画は、命令の受け手の反応が全く考慮されておらず、ソビエトの文化経済が完全に世界の文化や経済から隔離されているのであればまだしも、自由主義経済の文化が国内に浸透し始めるやいなや、もはやそのような単純な計画経済の図式は通用しなくなってしまったというわけです。

 かくして満を持して登場するのが、ウンベルト・マツラナ&フランシスコ・バレラの「オートポイエーシス(autopoiesis)理論」です。オートポイエーシス理論では、オブザーバーは、外部の観察者ではなく、システムに構造的に包摂されるものであると見なされ、ここでは詳細な説明はしませんが、そこから「自己組織化するシステム」というアイデアが導き出されます。端的にいえば、彼らは、第1波の科学者達のようにシステムをブラックボックスであると見なすのではなく、外界の方をブラックボックスと見なし、システムの自己再生産を可能にするシステム内部の再帰プロセスに注目したのです。第1波のホメオスタシスの考え方では、その本性上進化発展のプロセスを説明することは全く不可能でしたが、オートポイエーシス理論は、それを理解する道を開いたと言えるかもしれません。このような内部プロセスを重視する立場に立つマツラナは、身体性を伴わない情報は、オブザーバーの推論としてのみ存在し得ることを明確にし、彼自身はむしろ身体性を強調します。ところで、第1波のホメオスタシスの考え方においてはシステムと外界を区別する上で、境界(boundary)がどこに引かれるべきかという境界に関する問題が重要な意味を持つことは明白ですが、外界をブラックボックスと見なした上で、システムの内部で機能する再帰プロセスに注目するオートポイエーシス理論においては、境界に関する問題は全く存在しないのでしょうか?実は、オートポイエーシス理論においても境界に関する問題は大きな意味を持つのです。たとえば、細胞と、多数の細胞によって構成される器官の間にある関係を考えてみましょう。この関係においては、器官と呼ばれるより大きなシステムに、細胞と呼ばれるより小さなシステムが包摂される関係にありながら、器官と細胞はそれぞれ自律的なシステムを構成していることは明らかです。ということは、それら二つのシステムの間には、どこかにシステムの境界が引かれねばなりません。マツラナは、自分自身の自律的な機能を実行する目的のみを持つ上位システムをオートポイエーティック(autopoietic)であると呼び、自分自身の自律機能の他にも、自分よりも上位のシステムに奉仕する機能を持つ下位システムをアロポイエーティック(alopoietic)であると呼びます。勿論、オートポイエーティックであるかアロポイエーティックであるかが問題になるのは、境界を境として隣接する二つのシステムが包摂非包摂の関係にある場合のみです。ヘインズによれば、境界を巡ってどちらがオートポイエーティックな立場を占めるか、すなわち2つのシステムのどちらがどちらの外部(上位)を占めるかは、1つの争いの対象になり、このような境界を巡るシステム間の争いを類比的に描くSF作品をヘインズはいくつか挙げています。その一つは、フィリップ・K・ディックの「ユービック」ですが、実は同じくフィリップ・K・ディックが原作である「トータル・リコール」においても、そのような関係が見事に表現されているのです。次に、それについて説明しましょう。

 「トータル・リコール」を見終わった後、恐らく多くのオーディエンスは、何か腑に落ちない点があるように感じるはずです。というのも、この作品のストーリーは、明らかに2通りに解釈可能であり、どちらの解釈を取るべきかは、作品からは明確に決定できないからです。まず第一の解釈は、ストーリーを字義通りに取って、(物語における)現実世界には、火星の支配者コヘイゲンの手下ハウザーこそが実在するのであり、その彼が自らの記憶を消去してダグラス・クエイドのアイデンティティを人工的に埋め込み、(物語における)現実世界でストーリー中の一連の冒険を行うとする解釈です。この解釈を取る場合、ダグラス・クエイドが「リコール」という会社に行って火星冒険旅行の記憶を埋め込んでもらおうとするのは、単なる偶然の気まぐれからか、或いはせいぜいハウザーであった頃の昔の記憶が完全には消えておらず、心の中に何かが引っかかっていたからという程度になります。第二の解釈は、(物語における)現実世界には、ダグラス・クエイドこそが実在するのであり、秘密工作員として彼が火星で活躍する一連の展開は、「リコール」社でクエイドの記憶に埋め込まれた架空の人工記憶の内容であると考える解釈です。従って、第二の解釈を取った場合、「リコール」社でクエイドが目覚めた後の一連の冒険は全て、(物語における)現実世界で行われるのではなく、クエイドの脳に埋め込まれた一種の夢物語に過ぎないことになります。ダグラス・クエイドが「リコール」社に行き、火星旅行の記憶を埋め込むプロセスの途中で精神分裂症状をおこして目覚めた際、「リコール」の女性アシスタントの一人が、まだ記憶を埋め込んでいなかったとボスに言い訳するのは確かです。しかしながら、そのシーンをもって、それ以後のストーリーが、クエイドの脳に埋め込まれた架空の物語ではないことの絶対的な証拠であるとすることはできません。なぜならば、くだんの女性アシスタントが嘘をついて言い訳をしている可能性があることは別としても、このシーンそのものが既に人工的に埋め込まれた記憶の内容であると考えることは不可能ではないからです。第二の解釈が有効であるような印象は、もしかするとこれは全て夢ではないかとダグラス・クエイドが呟くラストシーンで更に強くなります。そもそも、「リコール」社という名前は、タイトルの「トータル・リコール」を想起させ、ダグラス・クエイドが「リコール」社へ行った点を軽く取る第一の解釈は、不適当であるようにも思われます。

 とは言いつつも、ここで主張したいのは、第二の解釈を取るべきだということではなく、「トータル・リコール」においては、まるで胡蝶の夢のごとく、夢が現実か、現実が夢かが判然としないような2つの世界を併置することにより、そのような2つの解釈がどちらも十分に可能であるように始めから仕組まれているということです。従って、「トータル・リコール」を見るオーディエンスは、単なる第三者の観察者としてのみではなく、2つの解釈のどちらを採用するかという点に関して、積極的な行為者として作品世界に参加することを余儀なくされるのです。ハウザーが現実でダグラス・クエイドがハウザーの夢=人工記憶なのか(第一の解釈:以下「ハウザー⊃ダグラス・クエイド」ワールドと呼びます)、或いはその逆にダグラス・クエイドが現実でハウザーがダグラス・クエイドの夢=人工記憶なのか(第二の解釈:以下「ダグラス・クエイド⊃ハウザー」ワールドと呼びます)という、二つのワールド(システム)の間の境界を巡る争いがここには存在し、その決定プロセス自体にオーディエンスが巻き込まれざるを得ないのです。かくして、「トータル・リコール」は、「ハウザー⊃ダグラス・クエイド」ワールドと「ダグラス・クエイド⊃ハウザー」ワールドがせめぎ合い、それらを分かつ境界は実はオーディエンスの頭の中以外には存在しないのです。ということは、第三者的に作品外部に位置を占める観察者たるはずのオーディエンスですら、作品内部の視点として取り込まれ、その視点が境界として機能することによって、「ハウザー⊃ダグラス・クエイド」ワールドと「ダグラス・クエイド⊃ハウザー」ワールドが分節化され、それと同時にどちらか一方のワールドがオートポイエーティックであるものとして確定され、他方が抑圧されるのです。そして、いずれのワールドが選択されるべきかに関する指標は作品内には全く存在せず、それはオーディエンスの恣意的な判断または無意識に委ねられているのです。或いは、どちらとも決められないで宙吊りの状態に置かれるかもしれません。というのも、どちらのワールドかの決定を困難にする曖昧なシーンがストーリー中にいくつか挿入されているからです。前述のラストシーンの他には、たとえば薬を手にした「リコール」社の社員?がクエイドの奥さん(シャロン・ストーン)をつれて突如ストーリーに介入してくるシーンがそれにあたります。このシーンは、よく考えてみるとどちらの解釈を取るにせよ矛盾が発生するので、オーディエンスを混乱させるためにわざと挿入されているようにも見えます。要するに、二つのワールドがメビウスの輪のように表になったり裏になったりしながらオーディエンスの心の中で繰り返し再分節化されるような仕掛けが散りばめられているということです。ところで、確かに二つのワールドが分節化されるとはいっても、必ずしもそれらが包摂の関係を形成することにはならないので、その点でオートポイエーシス理論とは異なるとしても、また、「トータル・リコール」は映画なのでオーディエンス自身が勝手に好きなストーリーを紡ぎ出すことができないのは当たり前田のクラッカーであるとしても、かくしてストーリーを解釈する上で極めて重要な決定プロセスに自身が巻き込まれているという意味では、オーディエンスですら「トータル・リコール」という1つのシステムの内部に包摂されざるを得ないのであり、「自己組織化するシステム」とまではさすがに言わないとしても、オーディエンスまでをも包摂し、何らかの自己決定をその内に含む一個の内部的に閉じたシステムがここには提供されているのです。大袈裟にいえば、映画を1つの情報であると考えた場合、「トータル・リコール」に見られるのは、ホメオスタシス的な情報伝達プロセスのモデルではなく、オートポイエーシス的な情報伝達プロセスのモデルなのです。カルト的人気を誇る「ブレードランナー」ですら、そこに描かれているワールドは、それがどんなに奇怪であったとしても極めてスタティックなものだったのであり、物語世界のリアリティ自体が揺らぐことは決してなく、またオーディエンスは常に外部の観察者の位置に置かれざるを得なかったのに対し、「トータル・リコール」では、オーディエンス自身までその中に包摂されることによって、物語世界のリアリティ自体が二つのワールドの間を揺れ動き、どちらのワールドをオートポイエーティックであるものとするかに従って、描かれるストーリーの意味が変化するのです。つまり、物語世界のリアリティは、絶対的な参照先を失い、もともと表象世界として成立している物語世界のさらなる表象世界として宙を舞い、いわゆるハイパーリアリティと化してしまうのです。それゆえに、見終わった後に、何か腑に落ちない不思議な感覚が残り、また同時に、それが、「トータル・リコール」の凄さの秘密でもあるのです。

 本論は以上で終わりですが、最後に、身体性の問題に関して余談として1つ付け加えておきます。それは、「トータル・リコール」同様、フィリップ・K・ディックの短編SFに啓発された「ブレードランナー」(1982)に関してです。同映画のレビューの中で、「deflation」マッピングと「inflation」マッピングに関して述べましたが、このように考えてみると、「deflation」マッピングは、まさに身体性を捨象するビジュアルマッピング様式であり、個別のオブジェの増殖にこだわる「deflation」マッピングは、身体性に焦点を当てたビジュアルマッピング様式であったことに気が付きます。「deflation」マッピングの草分け的な作品「スター・ウォーズ」(1977)では、主体的な動因に基く身振りに影響されない動力学的な運動が支配しているとそちらのレビューで述べましたが(詳細は「ブレードランナー」のレビューを参照して下さい)、これはまさに身体性の捨象そのものであったことが今や理解できるのではないでしょうか。一方、「ブレードランナー」を監督したリドリー・スコットの前作「エイリアン」(1979)に、エイリアンが宇宙飛行士(ジョン・ハート)の腹を食い破って出現する有名なシーンがありますが、身体性とその破損(つまり負傷や戦死)を通じた掛け値なしのリアリティが確かにそこには存在し、フィクションであるとは分かっていても強烈な印象を受けること必至です。ということで、今やカルト的な人気すらある「ブレードランナー」に比べると、「トータル・リコール」は、ハリウッドのメガロマニアックな映画の典型であるという受け取られ方をされる危険性を多分に孕んでいる作品であるとはいえ、現代的な観点を兼ね備えたスグレものの作品であることが分かったのではないでしょうか。

2009/03/09 by Hiroshi Iruma
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