イブの三つの顔 ★★☆
(The Three Faces of Eve)

1957 US
監督:ナナリー・ジョンソン
出演:ジョアン・ウッドワード、リー・J・コッブ、デビッド・ウエイン



<一口プロット解説>
イブ・ホワイト、イブ・ブラック、ジェーンという3つの人格を持つ多重人格精神病患者の実話に基くストーリーが繰り広げられる。
<入間洋のコメント>
 「イブの三つの顔」は、いわゆる多重人格をテーマとする作品であり、作品冒頭で述べられるように事実に基いたストーリーのようです。因みに、DVDの音声解説によれば、実在のイブが多重人格を克服するのは当作品が公開されてから数十年後のことであり、また、彼女は21世紀になった現在でも自らの経験を振り返る著書を出版しているそうです。実際にとはいえ、映画の宣伝として事実に基いた作品であると述べられているからといって、必ずしも当作品には精神病の本質がありのままに描写されていることを意味するわけではない点に注意する必要があります。このように述べたからといって、事実に基いているとは真っ赤な嘘だろうと言いたいわけでは勿論ありません。そうではなく、後に述べるように精神病の本質を理解するカギの一つとして、精神病患者が外界の現実をどのように内的に構成し、自らがその中で生きる世界をどのように認識しているかを理解することが挙げられるはずですが、この点に関しては、当作品によって表現されているのは、患者が生きる内的世界の理解というより、正常であると見なされている我々正常人にとって、患者の外的な振舞いがどのように見えるかという、あくまでも外的立場に立つ見方が示されているにすぎないことに注意が必要であることを指摘したいだけです。
 実は、個人的に精神病、それも分裂症に関するテーマには興味があり、かつてベルグソン、ヤスパース、ハイデッガー、メルロ・ポンティのような哲学者から始まって、あまりこの方面に関心がない人はご存知ないかもしれませんが、ビンスワンガー、ブランケンブルグ、ミンコフスキー、ボス、テレンバッハ、R.D.レイン、木村敏といったような精神病理学者達の本を片っ端から読んでいたことがありますが、基本的にそこで何が問題にされているかというと、精神病患者がアブノーマルな世界を内的に構成する、あるいはノーマルな世界の構成に失敗するのは患者のどのような認識様式のゆえかということです。このことが何を意味するかというと、一般に正常だと見なされている人々が、他人の異常な行動を目にした際、それがどのように見えるかを問う外的な観察によってではなく、患者自身が彼らの住む世界を内的にどのように経験しているかを把握しなければならないということです。つまり、哲学用語を用いれば、現象学的な把握が必要だということです。実は、それを達成するのは非常に難しく、まず第一に我々が普段あたり前だと思っていることをあたり前として捉えるのではなく、どのような内的なメカニズムを通して、あたり前であると思われている事象があたり前であると認識されているかが問われねばならないのです。なぜならば、精神病患者の場合には、このあたり前を構成するはずのメカニズムが正常に機能していないのであり、何の欠如が精神病患者をして彼らのアブノーマルな行動を引き起しているかが理解されねばならないからです。たとえば、一つの例を挙げましょう。先に挙げた精神分析学者の一人ブランケンブルクは、「自明性の喪失」(みすず書房)という著書の中で、ある種の分裂症患者にとっては、来るべき次の一瞬が今この一瞬と同様な仕方で連続的に存続するはずであるとする保証が全く自明ではない世界の中で生きている点が指摘されています。具体的にいえば、たとえば今現在自分が立っている床が、次の一瞬には消失する可能性があるような世界で彼らは生きているということです。重要であるのは、そのような精神病患者の認識様式と、たとえば足元にブラックホールが瞬時に発生し足元の床が次の一瞬には消えてしまうことも論理的にはあり得ないわけではないなどとする正常人が行う論理的推論を混同してはならないことです。すなわち、精神病患者は論理的な推論を通じてそのように認識しているのでは全くなく、まさにそのような世界の中で生きているのです。この相違が果てしなく大きいことを、真に理解する必要があるのです。
 かくして、本来、精神病の本質を理解するには、患者の生きられる世界をそのものとして把握する必要があるわけですが、勿論、映画は精神分析でもなければ現象学の応用でもないないので、映画にそこまで要求することは土台無理な話です。しかしながら、その点を考慮の外に置いたとしても、「イブの三つの顔」は、内容的に不満が残ります。というのは、モラルの固まりのような淑女たるイブ・ホワイトと、モラルを全く欠いたイブ・ブラックが互いに(同一人物の)心の中で葛藤し、結局最後はジェーンという統合的な人格に統合化されるストーリー構成は、余りにも単純な弁証法的図式が展開されているように見え、精神病を題材とする作品としてはお気楽なイメージが強すぎるからです。たとえば、ジェーンという人格に最後は統合されて目出度し目出度しで終わるのはよいとしても、それではなぜ統合に成功したかが見ていてほとんど分からないのです。確かに、一見すると、精神的外傷(トラウマ)となる昔の体験を思い出せたためという回答が与えられているかに見えますが、実は問題はその手前にあるはずです。つまり、大人になるまで記憶の彼方に固く閉じ込められておくほどのパワーにより抑圧されてきた幼児期のトラウマティックな体験を、なぜ今まさに思い出せるようになったかが判然としないのです。しかしながら、このような不足を、マイナスに捉えるか否かは、作品の位置付けをどう捉えるかによって異なることもまた確かです。先に述べたように、当作品をあたかも精神病のケーススタディであるかのように考えると、どうにもそのような点がマイナスに見えざるを得ないとしても、後述するように精神病を素材とするドラマの中で繰り広げられる名人芸的なパーフォーマンスを楽しむというのであれば大きな問題は感じられないはずです。
 さて、ここまでは作品のネガティブな側面のみが強調される結果になりましたが、ある意味でそのような側面はプラスにも転じ得るのです。というのも、精神病がテーマであると聞くと、とんでもなく陰惨で暗い作品であるような印象を受けるはずですが、「イブの三つの顔」には、そのような陰惨さは存在しないからです。精神病ではないとしてとも、たとえば「失われた週末」(1945)、「酒とバラの日々」(1962)を代表とするアル中を扱う作品など、これ以上ないほど陰惨になる傾向があります。これらの作品を見ていると、見終わったあと意気消沈するためにお金を払っているような自虐的な気分に陥ることすら、ともするとありますが、少なくともそのような印象を「イブの三つの顔」から受けることはほとんどないはずです。それから、題材からしても、やはりジョアン・ウッドワードの演技に多くがかかっているのは間違いないところでしょう。その意味では、当作品でアカデミー主演女優賞に輝いた彼女の演技により、イブ・ホワイト、イブ・ブラック、ジェーンという三種三様のキャラクターがうまく演じ分けられており(上掲画像の左から右の順でイブ・ホワイト、イブ・ブラック、ジェーン)、ドラマ的な範囲においては、すなわち前述したような意味で当作品を精神分裂病のケーススタディのように捉えない限りにおいては、極めて説得的な名人芸パフォーマンスが味わえます。また、リー・J・コッブも、あいかわらず堅実で安定感のある印象をオーディエンスに与え、殊に家父長的な精神病医の役には、ピタリであるように見えます。デビッド・ウエインも役柄にマッチしています。派手さとは無縁の俳優ですが、イブ・ホワイトとという欲求不満の塊のような淑女から、イブ・ブラックというド派手でアンモラルなキャラクターが飛び出すきっかけにいかにもなりそうな、特色のない平凡な旦那を説得的に演じています(特色のないとは悪い評価ではなく、特色のないという特色を必要な時に巧みに演出できる俳優はそれほど多くはいません)。

2000/08/27 by 雷小僧
(2009/03/14 revised by Hiroshi Iruma)
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