甘い抱擁 ★☆☆
(The Killing of Sister George)

1968 US
監督:ロバート・アルドリッチ
出演:ベリル・リード、スザンナ・ヨーク、コーラル・ブラウン、ロナルド・フレイザー

左から:スザンナ・ヨーク、コーラル・ブラウン、ベリル・リード

ロバート・アルドリッチといえば、たとえば「飛べ!フェニックス」(1966)、「特攻大作戦」(1967)、「北国の帝王」(1973)、「ロンゲスト・ヤード」(1974)など、野郎主体の映画(野郎しか出演していないものすらある)を得意としていましたが、「甘い抱擁」は、それとは大きく異なり何と!主人公はレズビアンなのです。しかしながら、どこかのオヤジの如く汚い口をたたきまくるベリル・リードと、お人形さんと一緒にお寝んねする幼児症的なスザンナ・ヨークという組み合わせは、レズビアンというよりも漫才コンビのようで、モノホンさんから見ればありゃなんだということになるかもしれません。「The Killing of Sister George」はもともと大きなヒットを飛ばした舞台劇だったそうですが、ヒットした舞台劇の映画化としてはイマイチであるように思われます。確かに見所はないこともないとはいえ、舞台でも主演を張ったベリル・リードのファウルマウスばかりが矢鱈に目立ちすぎている印象を受けます。勿論個人的に、舞台劇バージョンなど見たことはありませんが、仮に映画バージョンにおいても、成功した舞台バージョンに忠実にベリル・リードが演技していたとしても、「ジュリアス・シーザー」(1953)のレビューで述べたように、やはり舞台と映画とではメディアが決定的に違うのであり、舞台で成功した方法をそのまま映画でも踏襲すると失敗する場合すらあるのです。ではなぜ、気に入っているわけでもない作品をここにわざわざ取り上げたかというと、アービング・ゴフマンという社会学者の書いた「Frame Analysis」(Northeastern University Press)という著作の中でこの作品に関する言及があり、なるほどと思うところがあったからです。物議を醸したスザンナ・ヨークとコーラル・ブラウンのレズシーンに関して、ノーラ・エフロンが前者にインタビューした記事が「Frame Analysis」の脚注に取り上げられているのです。少し長くなりますが小生の訳で孫引きすると、

ノーラ・エフロン:「あなたは、利用されたと感じますか?」
スザンナ・ヨーク:「いいえ。あれは、ボブ(アルドリッチ)が考えたことです。彼もまた他の皆と同じように恐れていました。勿論私もです。あのようなシーンは、信頼なしには少なくとも私にはできません。酔っていたら別でしょうけど、酔ってはいませんでしたし。2日3日と経過してもなお、誰でも常に同じレベルの信頼を保っていけるというものではありません。非常に困難な期間であり、私は極端に不安でした。コーラル・ブラウンにとってもです。俳優であるということ以上に傷つきやすいことはないかもしれません。あなたが作家であれば、それはあなたが書く本であり、画家であれば絵です。けれどもあなたが俳優であれば、それはあなた自身であり、あなたの顔であり皮膚であり体です。だから、体や顔まで持っていかれてしまうのです。けれども、誰も心の中に侵入することはできません。私が恐れていたのは、このシーンを撮ることによって最早私が私のものではなくなるのではないかということでした。それは、魂が抜き取られるのではないかと思って写真に取られることを恐れたアラブ人のようなものです。あまりにも多くのことを棄てさらねばならないのではないかと思っていましたし、あのシーンは私の魂を切り売りするかのようにも思えました。自分自身を露出するという厳然たる事実。理性が何といおうが、何かが侵犯されたと感じざるを得ないでしょう。」

インタビューの途中から取り上げられているようで、正直いえばノーラ・エフロンの質問「あなたは、利用されたと感じますか(Do you feel you were taken advantage of?)」は、コンテクストが分からないので意味不明ですが、いずれにしても驚くべきことは、何でもありの昨今の映画を見慣れた目から見れば「何これ?」としか思われないであろうようなレズシーンに関してですら、スザンナ・ヨークのような無邪気そうな女優さんからまるで実存主義哲学者のような返答が返ってきたことです。アービング・ゴフマンがなぜこのインタビューを取り上げたかというと、映画というメディアが当時持っていた社会的枠組み(フレーム)から、このシーンが大きく逸脱していたが故に、映画というメディアの持つ枠組みの中だけでは位置決定できない曖昧な要素がこのシーンには含まれており、またその逸脱は映画というフィクションの世界を越えた現実世界の問題とも重なり得るということが主張したかったからだろうと考えられます。つまり、フレームの境界が侵犯され曖昧性と混交性が前面に露出した典型例として、またそれがそのような状況の真っ只中にいた個人の口から、しかも最もそのようなタイプの発言をしそうにない人物の口から発せられた典型例としてこのインタビューが取り挙げられているのです。それだけフレーム或いはその侵犯によって生み出されるパワーが強力である証拠になるわけです。これでは分かりにくいので、もう少し具体的に説明しましょう。たとえば60年代であろうがそれ以前の時代であろうが、俳優が殺人をスクリーン上で何度演じようが誰も彼或いは彼女が現実世界でも殺人鬼であろうとは夢にも思わないのに対し、レズビアンも含めたホモセクシャルを演ずる場合にはそれと同じことが当て嵌まらないのです。要は、ホモセクシャルの場合には、少なくとも60年代当時は現実と演技が明確に分離されてはいなかったということです。殺人に関して現実と演技の区別が明確であったのは、現実世界という社会的な1つのフレームの中で殺人という行為が占める位置が極めて明瞭であったのと並行して、映画というメディアが構成する1つのフレームの中で殺人を演ずるという行為が占める位置も極めて明瞭であったが故に、現実と演技が混淆される余地を生み出す可能性がまるでなかったからです。また、フレームを多層的に捉えるゴフマンの考え方によれば、映画というメディアが構成するフレームよりも現実世界という社会的なフレームの方がより本源的な位置を占めます。殺人の場合とは対照的に、ホモセクシャルに関する現実と演技の区別が曖昧であったのは、現実世界という社会的な1つのフレームの中でホモセクシャルが占める位置が極めて曖昧であったのと並行して、現実世界という1つの社会的フレームよりも高次の層に属し、その存在に依存する映画というメディアが構成する1つのフレームの中で、ホモセクシャルを演技することが占める位置も極めて曖昧であったが故に、層の異なる現実と演技の間の関係にも曖昧さが発生せざるを得なかったからです。すなわち虚構としての映画のフレームと現実世界のフレームの間の境界が、少なくともホモセクシャルというテーマに関しては当時極めて不明瞭であったということです。現代の映画においては、ホモセクシャルを扱うこと、及びホモセクシャルを演ずることに以前程の抵抗がないものと考えられますが、そのことは現実社会における変化抜きには考えられないのです。すなわち、より本源的な階層に属する現実世界というフレームでホモセクシャルが占める位置が明瞭にならない限り、虚構としての映画の中でホモセクシャルが占める位置も明瞭にはならないのであり、かくして曖昧さが残っている間は、俳優の方でもホモセクシャルを演ずることを敬遠するのが普通であろうし、オーディエンスの方でも、どのように反応してよいか分からないシーンなど見たくはないという次第になるわけです。そうなると、ホモセクシャルを演ずることが余計に、それを演ずる俳優に実世界でもホモセクシャルであるかのような刻印を押すことにもなり、一般的にかつての俳優は誤った印象を与える可能性がある為ホモセクシャルを演じたがらなかったとゴフマンは述べています。そのような60年代当時の事情が、「甘い抱擁」でレズビアンを演じたスザンナ・ヨークへのインタビューでは、よく分かるのです。というわけで、お薦め作品ではありませんが、60年代当時、映画の中で表現可能な範囲がどの程度であったかをある程度知ることができる作品ではあります。裏を返せば、現在の目で見ると、この程度の表現では、とても境界を逸脱しているような印象を受けないが故に、作品のインパクトそのものが薄れてしまったことになるかもしれません。尚、かつての物議の故か、凡そ売れそうには思えないこのタイトルに、不思議なことに既に国内版のDVDが存在します。


2002/12/20 by 雷小僧
(2008/11/06 revised by Hiroshi Iruma)
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