特攻大作戦 ★☆☆
(The Dirty Dozen)

1967 US
監督:ロバート・アルドリッチ
出演:リー・マービン、チャールズ・ブロンソン、アーネスト・ボーグナイン、ジム・ブラウン

左:リー・マービン、右:チャールズ・ブロンソン

トム・ハンクス&メグ・ライアンが主演したメロドラマ「めぐり逢えたら」(1993)の中で、トム・ハンクス演ずる主人公とその友人が、作品のベースの1つであるケーリー・グラント&デボラ・カー主演の「めぐり逢い」(1957)に関する言及に続いて、「特攻大作戦」について論評するシーンがあることを覚えている人も多いのではないでしょうか。「めぐり逢えたら」のビデオ或いはDVDが現在手元にないので、以下にIMDbから該当箇所をコピペして訳を付けておきました。Sam Baldwinがトム・ハンクス演ずる主人公であり、Gregが彼の友人です。

Sam Baldwin: Although I cried at the end of "the Dirty Dozen." 「俺は、「特攻大作戦」のラストで泣いたが」
Greg: Who didn't? 「泣かないやつがいるのか?」
Sam Baldwin: Jim Brown was throwing these hand grenades down these airshafts. And Richard Jaeckel and Lee Marvin 「ジム・ブラウンは、通気孔から手榴弾を投げ込み、リチャード・ジャッケルとリー・マービンは、」
[Begins to cry] [すすり泣きし始める]
Sam Baldwin: were sitting on top of this armored personnel carrier, dressed up like Nazis... 「ナチスのような服装をして、装甲車に座っているんだ・・・」
Greg: [Crying too] Stop, stop! [彼もすすり泣きしながら]「やめろ、やめろ!」
Sam Baldwin: And Trini Lopez... 「そして、トリニ・ロペスが・・・」
Greg: Yes, Trini Lopez! 「そうだ、トリニ・ロペス!」
Sam Baldwin: He busted his neck while they were parachuting down behind the Nazi lines... 「彼は、ナチスの前線の背後にパラシュートで降下した時に、首の骨を折っちまう」
Greg: Stop. 「やめろよ」
Sam Baldwin: And Richard Jaeckel - at the beginning he had on this shiny helmet... 「そして、リチャード・ジャッケル。最初彼は、ピカピカのヘルメットに・・・」
Greg: [Crying harder] Please no more. Oh God! I loved that movie. [激しく泣きながら]「もうやめてくれ。オーゴッド。俺はあの映画が好きだった」

因みに、ジム・ブラウンが、通気孔から手榴弾を投げ込むシーンでは、リー・マービンとチャールズ・ブロンソンは既にナチスのユニフォームを脱ぎ捨て、アメリカ軍の軍服を着ているので、主人公の記憶は誤っていることになります。但し、これは、シナリオライターが、記憶があやふやであるにも関わらず、「特攻大作戦」を見直して確認すらしなかったことを必ずしも意味するわけではありません。わざと、間違ったことを主人公に喋らせているかもしれないからです。いずれにしても、少なくとも我々日本人からすれば、上の会話はどうにも奇妙に思わざるを得ないでしょう。はっきり言えば、似たような邦題を持つ「戦略大作戦」(1970)ほどではないにしても、「特攻大作戦」は半ばジョーク的なところすらあるアクション戦争映画であり、それを見て泣くやつが世の中に存在するとはちょっと考えられないのです。それとも、よく見かける「全米が泣いた」という宣伝文句が示すように、アメリカ人はそこまで泣き虫だということでしょうか。そもそも、ジム・ブラウンが手榴弾を投げ込む地下壕には、ナチスの悪党どもばかりでなく、ゲルマン民族のそれはそれは麗しきお姉さま達も閉じ込められているのです(もしかするとアメリカの女優さんが化けているのかもしれませんが)。従って、このシーンは、泣けるどころかむしろ極めて残酷なシーンであり、普通の神経を持っていればフェミストならずとも「ななな何ということを!」と眉をしかめるのが当然のはずです。「めぐり逢えたら」の監督はノーラ・エフロンであり、また彼女は脚本にも関わっているので、もしかすると男どもの途方もないアホさ、というと問題があるかもしれないので男どもの無邪気さを描くつもりで、このようなセリフをトム・ハンクス達に吐かせているのではないかと深読みしたくなるほどです。しかしながら、エフロンと他の脚本担当の意図がどうであったかは別としても、上の一連のセリフには、ある一面の真理が浮き彫りにされているのも確かなのです。つまり、戦争映画というジャンルが一体いかなるジャンルであると見なされていたかが分かるということです。ここで、用語を明確にしておくと、「戦争映画」とはここでは第二次世界大戦を舞台にした作品に限定することにします。なぜならば、たとえば「ディア・ハンター」(1978)のようなベトナム戦争を舞台とする作品と、第二次世界大戦を舞台とする作品では、ジャンルという意味では全く別物であると考えるべきだからです。また勿論、第一次世界大戦を舞台とした作品も、第二次世界大戦を舞台とした作品とは大きく異なります。戦争映画とは、戦争を忠実に再現するドキュメンタリー映画などではないのであり、従って現実の戦争では有り得ない要素が数多く持ち込まれ、第一次世界大戦を舞台とした作品と、第二次世界大戦を舞台とした作品と、ベトナム戦争を舞台とした作品の間では持ち込まれるべき要素が大きく異なるのが普通なのです。たとえば、反戦要素は、第一次世界大戦を舞台とした作品とベトナム戦争を舞台とした作品には普通に見出せるのに対して、第二次世界大戦を舞台とした作品にはほとんど見出されません。その代わりに、第二次世界大戦を舞台とした作品には、まさにアメリカンヒーローと呼べるヒーローが登場するのが普通です。これは、第一次世界大戦やベトナム戦争を扱った作品には、アメリカンヒーローがほとんど全く登場しないのとは全く対照的です。或いは、特に40年代から50年代にかけての第二次世界大戦を舞台としたハリウッド産戦争映画には、たとえば白人が5人に、黒人が2人、イタリア系とスペイン系となぜかインディアンが1人などというエスニックな部隊編成による小隊が活躍する作品が極めて多いのです。イギリス映画に同様な作品がほとんど見出せないことを考えてみれば、そのようなハリウッド産戦争映画にいかに独自のバイアスがかかっていたかが分かるはずです。第二次世界大戦を舞台としたハリウッド産戦争映画のこのような特殊性については、Jeanine Basingerの「The World War II Combat Film」(Wesleyan Unversity Press)に、その特徴と具体例が豊富に紹介されていますが、当レビューではむしろそのような特殊性を徹底的に破壊しようとしたのが「特攻大作戦」であることを示したいので、この本の紹介は別の機会に譲ることにします。その意味で云えば、「めぐり逢えたら」における主人公と友人の会話は、実は40年代から50年代にかけての第二次世界大戦を舞台としたハリウッド産戦争映画ジャンルに固有のパターンを盲目的に心の中に取り込んで、それをそのまま「特攻大作戦」にも投影しているのです。要するに、彼らはリー・マービンをジョン・ウエインであると、或いは肌の色こそ違えジム・ブラウンをバン・ジョンソンであると取違えているのです。ところが、ジョン・フォードの「リバティ・バランスを射った男」(1962)でアメリカの良心と呼ぶべきジミー・スチュワートをさんざんいびり倒した実績を持つリー・マービンが、同作品で背後で密かにジミー・スチュワートをバックアップしていたジョン・ウエインといかに異なるかは、前者が「特攻大作戦」でしたように、後者が女子供を地下壕に閉じ込めて手榴弾で建物もろとも吹っ飛ばすことなど間違ってもあり得ないことを考えてみれば自ずと明らかになるはずです。そもそも、ジョン・ウエインが隊長であれば、たとえ相手が兵士のみであろうが、策を弄して敵を地下壕に閉じ込め、通気孔から手榴弾を投げ込み、無抵抗の相手を殺戮するなどという狡猾な真似は絶対にしないはずです。正々堂々と戦場で渡り合ってナンボの世界が、ジョン・ウエインワールドなのです。また、リー・マービン演ずる隊長の部下は、全員犯罪者です。60年代も後半になると当作品や「コマンド戦略」(1968)などのならず者部隊が登場する作品が増えますが、重要な点は「特攻大作戦」では、ならず者が更生したり、ヒーローになったりはしないことです。演習シーンでは、敵味方を区別する為のカラー腕章を都合の良いように付け替えて、まんまと敵の司令部を乗っ取るのに成功しますが、それが彼らのやり方であり、だから彼らは「The Dirty Dozen(汚い12人)」と呼ばれるのです。通気孔から手榴弾を投げ込んだ後、敵弾に倒れるジム・ブラウンはヒーローでしょうか?麗しきお姉さま達が一緒に閉じ込められた地下壕をぶっ飛ばせば、アメリカ人にとっての真のヒーローであったジョン・ウエインのファンから必ずやブーイングが浴びせられるのは勿論、ヒーローたる条件である自分以外の何かの為に行動する様は、彼に関しても或いは他のどの登場人物に関しても全く描かれていないのです。しかしそれよりも何よりも、「特攻大作戦」は、厳密にいえば戦争映画ですらないのです。そもそも、全体の3/5は訓練とくだんの演習シーンで占められ、実際に敵地に乗り込むのはそれ以後に過ぎません。しかも、その敵地というのが普通の城であり、そこで繰り広げられるのは最早戦争映画の戦争シーンではなく、アクション映画のアクションシーンなのです。その点では、「荒鷲の要塞」(1969)に近いかもしれません。つまり、「特攻大作戦」は、たとえ一部が第二次世界大戦のヨーロッパ戦線を舞台としていたとしても、40年代から50年代にかけての第二次世界大戦を舞台としたハリウッド産戦争映画とはあらゆる意味で異なるのであり、むしろそのパロディではないかとすら思われるほどです。半ばジョーク的なところすらあると述べたのは、「特攻大作戦」のそのような特徴を指してのことであり、泣けるシーンなどどこを探してもないはずなのです。ということは、「特攻大作戦」でアルドリッチが恐らく意図していたであろうことと、「めぐり逢えたら」の会話で言及される同作品のイメージの間には恐ろしいまでのギャップがあることになります。ノーラ・エフロン達は、「特攻大作戦」のそのような特徴に気付いていなかったということでしょうか。実際のところは本人に聞かないと分かりませんが、いずれにしてもエフロンとシナリオ担当がそれに気付いていたか否かは大した問題ではないのです。重要なのは、主人公達がそのような会話を交わしている事実であり、実は、トム・ハンクス達の会話では、典型的にアメリカ的なヒーロー神話が夢見心地に語られているのです。アメリカ的な神話とは、ジョン・ウエインの西部劇や戦争映画が代表するヒーロー神話であり、「めぐり逢えたら」で主人公達が言及するもう1つの作品「めぐり逢い」が代表するロマンス神話であり、そして「めぐり逢えたら」はもう一度その神話を語り直そうとしているのです。もし「めぐり逢えたら」で語り直そうとしているのがアメリカ神話であることにエフロン達自身が気付いていて皮肉な目でそれを見ていたとすれば、「特攻大作戦」への言及も意識的な皮肉であり、そのことに自分達でも気付いていなかったならば、「特攻大作戦」への言及はまさしくエフロン達自身がアメリカ神話に目を曇らされている証拠になるのです。ということで、半分「めぐり逢えたら」のレビューになってしまいましたが、「特攻大作戦」は基本的に戦争映画ではなくアクション映画であり、007シリーズなどイギリス映画には現代的な意味におけるアクション映画が既にいくつか存在していたとはいえ、アメリカ映画では、恐らく最も初期のものであると考えられます。


2008/11/13 by Hiroshi Iruma
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