第3章 月の寺

  ----Pura Panataran Sasih, pejeng.



 昼餐を終え、ワヤンの運転するジープで、美耶子と厚木はペジェンへ向かった。目的地は、プラ・プナタラン・サシー、日本語で「月の寺」という意味である。

 バリには、2万とも3万ともいわれる膨大な数のプラ、すなわち寺院がある。プラもしくはプリは、梵語で「城砦都市」を意味する同一語に由来する。現代のバリでは、寺院をプラ、宮殿をプリと呼び分けている。

 プラは、おおむね次の5種類に分類できる。第1は、地域社会に属する寺院で、村ごとに必ずある。これは3種類あり、

 (A)村の始祖を祀る起源の寺院プラ・プセー
 (B)村落会議場を有するプラ・デサ・バレ・アグン
 (C)未だ火葬されていない死者を祀るプラ・ダラム

である。名称や構成は統一性が無く、(A)と(B)とが合同し単にプラ・デサと呼ばれる場合もある。

 第2は、屋敷ごとにある家祠サンガーで、火葬を済ませ、カミとなった祖先の霊を祀る。

 第3は、狭小な地域社会を越え、ヌガラすなわち国の統一と繁栄のために建てられた国家寺院プラ・プナタランである。ペジェンのプラ・プナタラン・サシーやムンウィのプラ・タマン・アユン、バンリのプラ・ケヘンなどが有名である。

 第4は、全島から参詣者が集まる六大寺院サド・カヤンガンである。いわば大本山格の寺院であり、バリ=ヒンドゥー教の総本山とされるプラ・ブサキー第7章「母なる寺院」参照を筆頭に、プラ・ゴワ・ラワー第9章「蝙蝠の洞窟」参照やプラ・ウルワトゥ第11章「懸崖の寺」参照などが含まれる。サド・カヤンガンについては、詳しくは第9章を参照されたい。

 第5は、特定の神仏を祀る単立寺院である。安産と夫婦和合の寺として知られるプラ・チャンディ・ダサ第8章「十子の寺」参照、ジャワから渡来したダンヒャン・ニラルタの頭髪を祀るプラ・ランブット・シウィなどがある。

 さらに規模の小さいものとして、舞踊や音楽などの芸術や学問の神を祀る寺院、パンデスバックなど特定の職能集団や組織の儀礼を行なう寺院がある。

 ギアニャル県を南北に流れるプタヌ川プクリサン川とに挟まれたブドゥル、ペジェン両村には、50余の旧跡が水田の中に点在する。

 古代バリの中心寺院プセリン・ジャガット寺第12章「世界の臍」参照、「気違い水牛」の異名をとる「ペジェンの巨人」像で知られるクボ・エダン寺、サムアン・ティガ寺第10章「天湖の女神」参照、トゥンガナン村の起源と関係すると伝えられる一角馬のレリーフがあるプンガストゥラン寺、崖岩に往時の王国の繁栄を偲ばせるレリーフが彫刻されたイェー・プルなどが有名である。遺蹟、古寺、巨石像が至る所に散在し、さながらバリの明日香村といえようか。


ペジェン−ブドゥル周辺の地図です(GIF/5KB/290×290Pixel)ペジェン−ブドゥル周辺図(GIF/5KB)

 ゴワ・ガジャからプナタラン・サシー寺までは3分とかからなかった。ロマンチックな名前の由来を訊く間もなく、車は寺の門前に横付けされた。

 バリの寺院は、境内が二つの中庭に分割されている。最初の中庭は「外」庭――ジャバアン――、奥の中庭は「内」庭――ジェロアン、稀にダラム――と呼ばれる。寺院のなかには境内が三分割され、外庭の他に「中外」庭――ジャバ・トゥンガー――が内庭に対比することも多い。

 ごく一般的な寺院の境内を案内しよう。寺の入口には、真中で左右に割れたチャンディ・ブンタル――分割門――がある。外庭は祭礼の準備に使われる空間で、集会場や台所、ガムラン小屋、供物を作る小屋、警報太鼓クルクルの塔などがある。一般に奉納舞踊はここで行なわれる。

 パドゥ・ラクサと呼ばれる儀礼門をくぐり、内庭に入る。内庭は最も神聖な空間で、儀礼や礼拝が行なわれる場所である。大寺院では、3、5、7、9、11層のメルや大小の社殿が並んでいる。

 境内の最奥部には、マジャパイトのトーテムである神鹿や地方領主の祖先、アグン山やバトゥール山などの聖山を祀る祠堂がある。内庭のカジャ側――南部バリでは北東――には、最高神サンヒャン・ウィディ・ワサもしくは太陽神スルヤ[梵語名スーリヤ]に捧げられたパドマサナと呼ばれる石の神座が建っている。

 寺の境内に踏み込むと、品のある老爺が近づいてきた。寺守のプマンクである。バリの寺には僧侶は住んでいない。普段は、平民出身の村役人のうち品行方正の者が輪番で寺を管理する。これはプマンクと呼ばれる。

 他方、プダンダと呼ばれるブラフマナ階級(婆羅門)出身の僧侶は世襲である。特定の寺を持たず、寺の祭礼や冠婚葬祭の依頼を受けた家へ直接出向いて儀礼を執行する。その際、プマンクが助手を務めることがある。儀礼に不可欠な聖水の製造はプダンダの特権である。

 厚木はプマンクと顔見知りであった。美耶子を紹介し、来訪の目的を告げた。手にした分厚い帳面を開き、プマンクは記帳を促した。布施として、美耶子は1000ルピア札を帳面に挟んだ。軽く合掌し、プマンクは吹き抜け小屋に引き上げた。その小屋では、村の青年団がガムランの練習をしていた。

 内庭の入口に建つ門の両脇には、二頭の獅子が牙を剥いていた。日本の神社にある狛犬とどこか似ている。中門をくぐり、三人は寺の内庭へ入った。

 美耶子は緊張した。この寺が月の寺と呼ばれる理由が知りたく、根拠になりそうなものを躍起になって捜した。

 国家寺院――プラ・プナタラン――と呼ばれるだけあって境内はかなり広い。古びた木造の社殿を一棟づつ見てまわった。仏像のような風貌をした古代の貴人の石像や巨石が無造作に置かれ、布や絵や文字を書いた護符が壁にかかっていた。
 なかでも美耶子を驚かせたのは、男性自身をリアルに模した巨大なリンガ石であった。圧倒的な迫力を持つ石棒の前で立ちすくんでいる美耶子をワヤンが発見した。彼は哄笑するしぐさをしたが、声は出さなかった。



 リンガの呪縛からようやく解放されると、美耶子は厚木を捜した。

 「月の寺というから、円形や三日月形の石を捜してみたけど、どこにも見当たらないわね」と、美耶子は言った。

 「あったのは『リンガ様』ばかり、というわけだ」と、間髪を入れず厚木が言った。美耶子の顔は真っ赤に染まった。

 「では。君に特別に教えよう」咳払いし、勿体ぶって厚木は言った。

 寺の奥へ進んでいく厚木とワヤンを美耶子は追った。北東隅にあるパドマサナと祠堂とに挟まれた高楼の前で三人は止まった。

 櫓上の柵を廻らせた部分を厚木が指した。サトウ椰子の繊維で葺いた黒い屋根の下、頭上1.5メートルほどの所に目を凝らすと、青銅色の物体が微かに見えた。柵を越え、湾曲した部分が覘いている。

 (鏡? 青銅製の・・・)中国や日本で出土する古代の銅鏡を美耶子は想像した。鏡なら月に見立てることができる。

 考え倦んでいると、厚木が呼んだ。高楼の側面にまわり、厚木の指す方向を美耶子は見上げた。前方からは鏡のように平面に見えた物体は、かなり奥行きがあり、中央部がくびれて鼓型をしていた。

 「あれは銅鼓です」なおも不可解な顔をしている美耶子を見て、厚木が言った。

 「銅こ?」聞き慣れない言葉であった。

 「そう。青銅製の太鼓だ」と、厚木は腹鼓を打つしぐさをした。「西洋人はケトル・ドラム――大鍋太鼓――と呼んでいるがね」

 「ガムランのご先祖さまだよ」と、ワヤンがつけ加えた。


「ペジェンの月」を納めた楼閣の写真です(JPEG/107KB/372×260Pixel)「ペジェンの月」を納めた楼閣(JPEG/107KB)

 銅鼓は、東南アジアのドンソン文化を代表する青銅器である。ドンソン文化は、紀元前5〜前3世紀頃、中国南部の雲南からベトナム北部にかけての地域において高度に発達した金属器文化である。インドネシアでは、スマトラ、ジャワ、バリから、ニューギニア島に近いカイ諸島にまで分布する。

 ペジェン鼓は、鼓胴の全長が1.865メートル、鼓面の直径が1.6メートルあり、一体製の銅鼓としては世界最大である。鼓の胴部には人面や幾何学文様が描かれ、紀元前3世紀の製作とされている。プタヌ川中流のマヌアバ村から鋳型が出土しており、バリで製造されたことは明らかである。

 「何でこの銅鼓が月と関係があるのかしら」この物体の正体がようやく理解できると、美耶子は訊ねた。

 「話せば長くなるんだが」と、厚木はこの銅鼓の由来について話し始めた。「太古のバリには、月が13個もあったそうだ」

 「さぞ眩しかったでしょうね」と、言いながら美耶子は深く瞬きをした。

 「案の定、夜が明るすぎて困る連中が出てきた」厚木はかい摘んで話しを続けた。

 「ある時、そのうちの1個がペジェン村に落ち、椰子の木に引っかかった。夜が明るすぎて困った泥棒が木に登り、月に小便をかけた。ところがその瞬間、月が爆発した。泥棒は死に、月は地上に落ちた。これが『ペジェンの月』で、銅鼓の縁が割れているのは、地上に落ちた時に破損してできた傷だという」

 「銅鼓ってかなり古いものでしょう」月の寺の由来を知った美耶子は、新たな質問を厚木にぶつけた。「そんな昔からこのお寺にあったのかしら」

 「そんな筈はない」と、厚木はかぶりを振った。「インド文化がバリに伝来したのは、最大限早く見積もっても2000年前のことだ。王国ができ、寺院が作られたのはもっと後になってからだろう」

 バリのインド的国家の存在を証明する遺物は、882年の碑文まで待たねばならない。

 「じゃぁ、銅鼓はどこにあったのかしら」と、美耶子は首を傾げた。

 「この付近から銅鼓の鋳型が発見されていることからみても」と、腰の後ろに手を回しながら厚木は言った。「昔からこの地にあったと考えるのが自然じゃないかな。ゴワ・ガジャで話したように、ペジェン周辺は太古からバリの中心地だったんだ。だから、この場所に先住民の宮殿や聖所があったのを渡来民が滅ぼし、その址にこの寺が建てられたとも推測できる。そう。銅鼓は被征服民の遺品かもしれない」厚木の話は、あくまで常識を越えるものではなかった。

 傍らで二人の会話を聞いているうち、大筋の意味が理解できたのだろう。ワヤンが話に加わってきた。

 「ここにはマヤ・ダナワ王の宮殿があったという言い伝えがあります」二人の目が同時にワヤンに注がれた。

 「ほら。やっぱりそうだ」勝ち誇った顔で厚木は言ったが、美耶子は慎重に訊ねた。

 「待って。そのマヤ・ダナワという王様はいつ頃の人なの」

 「それは分からない。昔の人です」と、さりげなくワヤンは言った。

 何とも頼りない答えに厚木は苛立った。「う〜ん。バリ人の話を聞いているといつもそうだ。時代の感覚がないんだよな。さっきの、月が13個あったという話も、自分のお祖父さんの時代という奴もいるんだ」

 「でも、あなたの聖地交代説を論証する上で参考になる話ね」美耶子はさらりと言ったが、厚木は少々不満げであった。

 マヤ・ダナワ王は、ジャワに征服される以前にバリを支配していたという伝説的な王である。(この王は、第12章で再び登場することになろう。)

 三人がプラ・プナタラン・サシーを辞したのは、午後3時を少しまわった頃であった。吹き抜け小屋の方を一瞥すると、青年たちの奏でるガムランを子守歌代わりに、うたた寝するプマンクの姿があった。


「ペジェンの月」に描かれた人面画です(GIF/53KB/274×239Pixel)「ペジェンの月」に描かれた人面画(GIF/53KB)

(第3章終わり)

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