第7章 母なる寺

  ----Ubud/Pura Besakih/Kulungkung.



 美耶子のバリで3回目の朝は喧騒から始まった。どうやら、騒ぎの源は隣室らしい。耳を澄ますと、若い女の大きな悲鳴に混じり、ガラスの割れる音が聞こえてきた。

 昨夜遅く、美耶子の泊るコテージに日本人のカップルが到着した。二人とも25歳位で、男性は慇懃そうなサラリーマン、女性の方もOLに見えた。テラスで美耶子が日記をつけていたとき顔を合わせたが、軽く会釈を交わしただけであった。

 住込みの娘が朝食を運んできたので訊ねると、隣室の日本人女性がトッケイに驚いて騒いだらしい。

 娘の話では、テラスで朝食を摂っていると、壁にかかった額の蔭から体長20センチ位のトッケイが突然現われ、驚いた女性が悲鳴をあげた。ワヤンが駆けつけた時はすでに姿を消していたという。笑いながら娘は去った。

 トッケイは、黄緑色で、トカゲに似た爬虫類である。体長は大きく、夜出て蚊や小虫を食べる。臆病であまり人前には現われない。トッケイという名は、その鳴声から名付けられた。

 美耶子が朝食を終えた頃、隣室の女性が美耶子の部屋を訪れ、先刻の非礼を詫びた。

 「はじめまして。山名ユリと申します。R商事に勤務するOLです。横浜出身で、齢は24歳。乙女座です。よろしくね」屈託がない。

 自己紹介が終わると、ユリは連れの男性を肘で小突いた。いかにも実直そうな男である。

 「はじめまして。川合清志です。M電器に勤めております。齢は33歳です。・・・先程はユリがお騒がせしました」男の方は見かけほど若くなかった。ユリによると、二人とも大の旅行好きで、休暇をとっては国内、外国を問わず出かけるが、バリは初めてという。

 ユリの調子に合わせて美耶子も挨拶した。「はじめまして。藤森美耶子です。K大学の3年生です。東京出身で、齢は21歳。魚座です。3日前にバリに来ました。どうぞよろしく」

 ワヤンから美耶子のことを聞いたらしく、二人は同行を願い出た。今日は、島の東部をまわる予定であった。

 宿の主人に電話を借り、美耶子はペジェンのクリアン家に電話をかけた。事の次第を聞き、厚木は二人の同行を許諾した。

 二人の印象を聞いた上で、厚木は次のように提案した。「先にブサキー寺院まで行こう。それからクルンクンを見て、今夜はチャンディ・ダサに泊まる。明日はチャンディ・ダサ周辺をまわってウブッドへ帰る。むろん、途中どこに寄るかはその時次第だが」

 厚木に同意し、美耶子は受話器を置いた。厚木の提案を告げられ、ユリと川合は喜んだ。1泊分の荷物をバッグに詰め込み、いつものようにサロンを着け、クバヤの上から腰にスレンダンを巻いた。川合とユリは、ワヤン一家から正装一式を借り、着付けしてもらった。

 俄かバリ人が三人もでき上がったので、ワヤンは大喜びであった。殊に、グラマラスなユリの姿にワヤンは「チャンティック!」を連発し、おどけてカメラのシャッターを切るしぐさをした。



 美耶子ら三人の日本人を乗せ、ワヤンのジープはペジェンへ向かった。ワヤンもプラ・ブサキーの参拝を希望したので、手狭なジープはクリアン家に預け、ニョマンのキジャンで出かけることになった。普通バリ人は、祭礼以外に寺院へ出向くことはないが――屋敷内の寺サンガーは除く――、プラ・ブサキーだけはやはり別格らしい。

 美耶子と厚木、川合、ユリにワヤンと運転手のニョマンを加え、総勢六人の乗ったキジャンは、一路ブサキー寺院を目指して出発した。

 ブドゥル村を抜け、ギアニャルの街に近づくにつれ渋滞が始まった。厚木が訝っていると、沿道の村で火葬があるとニョマンが教えてくれた。前方には、バデと呼ばれる火葬塔が数人の男たちに担がれ、道を横断していくのが見えた。

 バリの葬式は豪奢なことで知られる。人々は、死者はもとより生者の威信をかけて、豪奢さを競い合う。当然出費もかさむので、死後すぐに荼毘()にふされるのは稀である。そこで、いったん土葬し、火葬に必要な資金がたまると再度掘り起こして火葬式を行なうのが普通である。ただし、地方によって習慣が異なるのがバリの常で、火葬を行なわない村もたくさんある。

 男たちが気合いを込め、火葬塔が右手の小高い丘上に勢いよく引き上げられると、ようやく車が動き出した。

 やがて、車はギアニャルの街に入った。ここは、イカットすなわち絣で有名な織物の町である。沿道には織物工房が立ち並び、自由に見学したり買物したりできる。かつてこの町は、南部バリの7王国の一つ――ギアニャル王国の都邑であった。現在は同名の県の県庁所在地である。

 ギアニャルの町の歴史は18世紀後半にさかのぼる。1771年、デワ・マギスという若者がクルンクンから独立し、ギアニャル地域のパハンという村に本拠を据えた。

 その後、デワ・マギス4世は、現在のギアニャル村の廃虚になっていた聖職者の屋敷に移り住み、そこに王宮を建てた。19世紀に改築された時、新しい聖職者の家――バリ語でグリヤ・アニャル――と呼ばれるようになり、それが訛ってギアニャルとなった。

 ペジェンやタンパクシリン、ウブッドを含むギアニャル地方は、古代文化濫用の地であるとともに、バリ屈指の稲作地帯でもある。1991年の人口統計によれば、1平方キロ当たり1000人に達し、バリで最も人口密度の高い県である。

 仏教徒の多い土地でもあり、市場の供物売場ではヒンドゥー(シワ)教用と仏教用との二種類の供物が売られている。

 クルンクンの街に入る少し手前でカランガスム街道に別れを告げ、車はブサキーへと続く山道に入った。ぐんぐんと高さが増していく。途中、景勝地で少憩し、一行はアグン山の中腹にあるブラ・ブサキーに到着した。

 プラ・ブサキーは、バリ・ヒンドゥー教の総本山とされ、バリの「母なる寺」と呼ばれる。

 プラ・ブサキーは22カ寺で構成される寺院複合である。それぞれの寺が、各地または屋敷に散在する末寺に対する本山のような地位にある。寺名は所在する村名に由来し、ブサキー村は東ジャワのブスキーからの移住者によって創始されたと伝えられる。

 寺伝によれば、プラ・ブサキーは、8世紀、ジャワから渡来したシワ教――一説では仏教――の高僧マルカンディヤによりプラ・バスキアンが建立されたことに始まるという。彼に従ってジャワから移住したのが、先ほどのブスキー人であった。

 10世紀頃は仏教僧の瞑想場として使われていたといわれ、16世紀、ゲルゲル時代に王家の葬儀に使われる寺院となった。以後、各地の領主が王家の寺を相次いで建立し、シワ、ウィシュヌ、ブラフマの三大神を祀る三大寺院を中心に、総本山としての陣容が整った。

 しかしながら、この寺の淵源は有史以前にさかのぼる。マルカンディヤが伽藍を営む前から、この地はアグン山の精霊――後にバリ・ヒンドゥー教の唯一最高神サンヒャン・ウィディ・ワサと習合した――と、カミになった祖先の霊に祈りを捧げる場所であった。

 主堂伽藍のプラ・プナタラン・アグンの左後方にあるプラ・バトゥマドゥク寺院内には、高さ1メートルを超す巨大リンガ石が祀られている。これ以外にも古代巨石文化の名残が山中に点在する。

 そもそも、山を背にしてテラス状ピラミッドの基壇の上に聖所を設ける様式は、ヒンドゥー文化伝来以前の古代インドネシア文化に広く見られる。東ジャワのプナングンガン山寺院複合や、中ジャワの霊峰ラウ山の中腹にあるチャンディ・スクーやチャンディ・チュトなどはその典型であり、ブサキー寺もこの型式のもとに建立されている。



 二人のバリ人に先導され、「ブサキー寺参詣ツアー」の一行は長く急な参道を登っていった。

 大国家寺院プラ・プナタラン・アグン内の三大神の蓮座、サングル・アグンの前で全員が祈りを捧げると、ワヤンとニョマンは彼らの属する階位に応じた寺へ行くことを望んだ。二人はそこで瞑想したいという。そこで集合時間を決め、二手に別れた。

 宗教にはあまり関心がないという感の日本人組は、厚木の案内でプナタラン・アグン伽藍の裏手にある展望台に登った。空が澄みわたっている。

 標高950メートルにあるプラ・ブサキーからの眺めはことのほか絶景であった。左手にはアムック湾の奥にヌサ・プニダ島、右手には中央山嶺の山並みがうっすらと見えた。そして前方には、11層の大メルの屋根越しに南部の平野が一望できた。

 厚木を除く三人は、初めて見る景色にすっかり魅せられてしまった。何度も見た風景はいつもながら変わらないが、厚木はこれまでとは別の観点から眺めていた。

 位置を変えては何枚も記念撮影をしているユリと川合を尻目に、厚木は美耶子に近づいた。

 言葉をかけようとした矢先、二人の立っている所から左手上空に銀色に輝く楕円形の玉が突如現われた。銀色の球体は、寺の上空を時計の針と反対方向に勢いよく廻りはじめた。

 今度ばかりは厚木にもはっきり見え、彼は光体にカメラを向けた。ユリたちも気付いたらしく、川合が写真を撮った。十数秒後、その光体は消えた。

 「あれは・・・UFO?」
 「きっとそうよ」
などと四人がつぶやくのも束の間、空が俄かに暗くなった。夕立かと思い、美耶子を除く三人は近くのワルンに非難した。怪訝な面持ちで、茶店の奥から売子が空をうかがった。

 雨は降ってこなかった。靄のかかった空をなおも美耶子が凝視していると、今度はオレンジ色の光が現われた。夕方の街路に電燈が点るように、一つひとつ数が増していった。直ちに美耶子は厚木を呼んだ。

 茶店から厚木が出てきた時、オレンジ色の光は大きなリング状に形を変えていた。三角形や六芒星などいくつかの幾何学図形に形を変えた後、光は突然消えてしまった。

 やがて靄が晴れ、陽光が再び注してきた。何ごともなかったかのように辺りは静まりかえっていた。

 後で分かったことだが、これらの光球を目撃したのは、美耶子ら四人だけであった。僧侶や他の参拝者のなかには異常を感じた者もいたが、折しも午後の祈祷の最中で、目撃することはなかったという。四人の周りの空間だけがそっくり異次元に入り込んで起きたような出来事であった。



 約束の時間に下山すると、ワヤンとニョマンがすでに駐車場で待っていた。展望台での事件について四人とも黙っていた。堂内で瞑想に耽っていた二人は、どうやら何も目撃していないようだ。

 長い山道を下り、クルンクンの街に入ると、蝋燭の形に似たコンクリート製の記念塔が見えてきた。この塔は、1908年のオランダ軍侵攻の際、王とその家族、廷臣等500余名が玉砕したププタン事件を記念して建造されたものである。

 クルンクンの歴史は、神話的な前史を含めると14世紀までさかのぼる。

 ジャワの歴史伝説書『パララトン』によれば、1478年、ジャワ北海岸のイスラム港市連合軍がマジャパイトの都に進攻した。最高位の祭司から王位の消滅を予言されていたプラウィジャヤ5世(一説にはクルタブミ王)は自殺し、ジャワのヒンドゥー政権は滅んだ(最近の研究では、マジャパイトの滅亡は1528年頃とされている)。イスラム支配を嫌った王子の一人は、廷臣や聖職者、職人を伴いバリへ移住した。

 バリ側の史料で、やはり歴史伝説書『パマンチャンガー』によると、これに先立ち1343年、ブダウルの王を「討伐」し、バリを征服したマジャパイトの宰相ガジャ・マダは、イダ・ダラム・クトゥ・クルスナ・クパキサンをバリに送って統治させた。1352年、この王はギアニャルにほど近いサンプランガンに宮廷を構えた。

 さらに1380年頃、クルンクン南方のゲルゲルに宮廷が遷された。ゲルゲル王朝では、古典文学や仮面劇、影絵芝居、音楽、絵画など宮廷文化が栄え、バリの「黄金時代」が花開いた。

 17世紀末頃、領主の叛乱に端を発し、宮廷がゲルゲルからクルンクンに遷されると、地方領主たちが相次いで独立し、バリは統一を失った。以後バリは8〜9の小王国が覇を競い合うになった。が、その後もクルンクンは、名目上はバリの「都」であり続けた。

 19世紀後半以来、各地の宮廷に介入し、陥落、懐柔してきたオランダがクルンクンに進軍した。

 1908年4月20日、クルンクンの国王一家と廷臣たちは自決行進ププタンを行ない、玉砕して果てた。マジャパイト、サンプランガン、ゲルゲルの王統を継ぎ、バリ正統の王家を自認してきたデワ・アグン家は途絶えた。

 これより2年前、二大強国バドゥン(デンパサール)はププタンにより、タバナンは国王・皇太子の自殺により果てた。クルンクン陥落により、バリ全島がオランダの支配下に置かれることになった。

 旧王宮址には水上宮殿バレ・カンバンと法廷クルタ・ゴサが復元され、往時の「神の愛でし都」――梵語でスマラプラ、バリ語でクルンクン――が偲ばれる。

 池に浮かぶ宮殿の天井を埋めつくす古典絵画を丹念に眺めるうちに、美耶子は亡国の兆しをはっきりと感じ取った。


クルンクンの水上宮殿バレ・カンバンの写真です(JPEG/71KB/368×256Pixel)クルンクンの水上宮殿バレ・カンバン(JPEG/71KB)

(第7章終わり)

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