第9章 蝙蝠の洞窟----Pura Goa Lawah, Karangasem.
 チャンディ・ダサを後にし、車はアムック湾に沿うて西へ走った。左手の海上にはヌサ・プニダ島の不気味な巨影が浮かんでいた。 
 アムックもしくはアモックは、一種の精神錯乱を指す言葉である。普段温厚な人が突然狂暴になり、他人を殺傷し、最後は自ら命を絶つ。インドやジャワ、マレーシアでは古くから記録されている。 
 閉鎖的な地縁社会において日頃から感情を抑圧して生活するなかでストレスが昂じ、ある日自我が崩壊し、ついに狂暴な行為に走るものと考えられる。ちなみにアムックの語源は、マレー語で「走る」という意味である。 
 バリでもこの症例が報告されている。バリの伝統的戦法では、両軍の先鋒が過激な示威行為を行ない、次第にエスカレートしてついにアムックに至り、敵を殺傷するという模擬戦が行なわれた。 
 19世紀から20世紀初頭にかけての一連の対オランダ戦争の最中(さなか)に起きた自決行進、ププタンもまた、アムックの変種と言えるかもしれない。 
 ニョマンによれば、バドゥン海峡とロンボック海峡とに挟まれたこの周辺の海は、突然荒れ狂うことが多い。ロンボック海峡は波の荒いことで有名である。その様相がアムックに似ていることからこの名が付いたという。 
 今日は波浪穏やかな海を眺めていると、程なくゴワ・ラワーに到着した。街道沿いの聖地に似つかわしく、寺の門前で車を停め、聖水を撒いて車を清めてもらうドライバーの姿があった。 
 ゴワ・ラワーは「蝙蝠の洞窟」という意味である。巌山に大口を開けた洞窟の中には数万匹の蝙蝠が群れをなしている。 
 洞窟の南側にあるプラ・ゴワ・ラワー寺は、六大寺院サド・カヤンガンの一つで、聖水を汲みに全島から人が訪れる。1007年、ジャワから渡来した高僧ムプ・クトゥランにより建立されたと伝えられる古刹である。 
 プラ・デサなど一般の寺院が特定の地縁集団や信徒集団によって維持されるのに対し、サド・カヤンガンはバリ全島から崇拝される六箇の寺院のことである。バリ語でサドは「6」、カヤンガンは「神霊(ヤン)の坐すところ、聖所、寺」の意味である。 
 6カ寺の所在については諸説がある。バリ寺院史に詳しいクトゥ・スバンディ氏によれば、次のとおりである。 
 (1)プラ・ルンプヤン・ルウル 
 さらにスバンディ氏は、6カ寺を含む九大寺院(八方位+中央)をあげている。 
 六大寺院の一つとあって、寺は「善男善女」のバリ人で賑わっていた。蝙蝠を見に来ただけの不敬な観光客を時折避(よ)けながら、美耶子ら一行は狭い参道を進んだ。意外にも寺はこぢんまりとしていた。 
 ニョマンに導かれ、美耶子らは寺の境内に入った。折しも祈祷が始まっていたので、五人は地面に坐り、両手を肩の高さで広げた。如雨露の撒水口に似た法具で、華髪のプダンダが一人ひとりに聖水をかけて清めた。 
 最後列の五人に聖水を撒き終えると、上座の高輿に坐り、プダンダはグンタを鳴らしながらマントラを唱え始めた。 
 「オーム。プラナムヤ・サルワ・デワムシュ・チャ・ 
 バリ訛りの強い梵語は聞き取れず、サラスワティへのマントラらしいことだけが厚木には理解できた。美耶子も同じで、ニョマンにマントラの意味を訊ねていた。 
 ところが、ニョマンはもとより大半のバリ人は梵語が理解できないことを知り、美耶子は唖然とした。バリ人の信仰心の篤さを知っている川合とユリも、信じられない様子であった。 
 やはり意味が理解できないのにお経を有難がっている日本人と似た状況に、厚木は親近感を覚えた。 
 洞窟は寺の北側にあった。巖窟の壁に蝙蝠がビッシリとぶら下がっている光景は圧巻である。地面と壁面の至る所に、おびただしい糞がこびり付いている。異臭が鼻についた。 
 洞門に近寄らず、遠くから恐る恐る眺めている四人を見て、ニョマンが言った。「この洞窟がグヌン・アグン山に通じているのを知ってますか」 
 「からかっているのね」と、間髪を入れずユリが噛みついた。「この蝙蝠がアグン山の火口から来たとでもいうの」 
 (ユリの言うとおりだ)と、厚木と美耶子は苦笑した。どうやら、バリ島の地下にはトンネルが幾筋も廻らされているらしい。バリとジャワにある二つのグヌン・カウィが地下トンネルで繋がっているという話を、先日バパ・クリアン――ニョマンの祖父――から聞かされたばかりだ。 
 ここで、ニョマンを弁護しておこう。この洞窟には次のような伝説がある。 
 ムンウィ王国の王子が許可を得、ゴワ・ラワーの洞窟探検に出かけた。洞窟内に入っていった王子はいつまでたっても戻らず、次に王子を見かけたのはプラ・ブサキーであったという。そのためこの洞窟は、約20キロ北にあるブサキー寺まで続いていると信じられている。 
 「何時だったか」少々ウンザリしながらも厚木はニョマンに訊ねた。「ペジェンのプセリン・ジャガット寺とヌサ・プニダ島とが地下トンネルで繋がっていると聞いたけれど、あれも本当かい」 
 「その話なら、私もワヤンから聞いたことがあるわ」と、美耶子も相槌をうった。 
 次第に旗色の悪くなったニョマンは、川合の方を向き、しきりに目配せした。 
 黙然としていた川合が「富士山みたいに、アグン山にも風穴があるのかもしれないな」と、気弱げに言うと、ユリが締めた。 
 「でも、この洞窟のある場所って、風水的に見て理想的な所よ」 
 三人はユリに注目した。半年ほど前から、OLの間で風水がブームになっているらしい。家相やインテリアの配置などの話に飽きたらず、資料を蒐集して独自に研究を重ねたという。 
 「古代の日本人は、東の方角を常世、つまり神界と考えたそうよ」と、ユリが話し出すと、厚木と美耶子は顔を見合わせた。 
 それに構わず、ユリは話し続けた。「この神界と人間界は、海を距てて東と西に併存していた。・・・神迎えや神送りは、母の胎内になぞらえてつくられた山中の御嶽(うたき)や、巨岩のつくり出す洞窟などで行なわれた」 
 ユリの言うとおり、神界と人間界との境界をなす海に臨むこの地は、理想的な位置にあるといえよう。 
 厚木はこの説を支持すると同時に重要な問題点を指摘した。「この洞窟は海に面しているし、ブサキー寺を御嶽と考えれば納得できる話です。今は方角は無視しましょう」ゴワ・ラワー洞窟は南面している。 
 「でも」と、厚木は続けた。「バリでは、海は神界ではなくむしろ悪霊の棲む魔界とされています。この点をどう考えるかです」 
 第5章で触れたように、南部バリでは山の方角=カジャ=北を聖なる方位として尊び、海の方角=クロッド=南を不浄な方位として嫌う。 この世界観はバリ人の一切を律し、国や村落、家、個人に至るまでこの世界観によって組み立てられている。実際、漁や特別な儀式の時以外、普段は海に近づくことさえしない。 
 厚木の謎掛けに口火を切ったのは川合であった。「海は不浄で魔界かもしれない。じゃあ、海の向こうはどうなんだ」
 
 「海の中とも考えられるわね。龍宮城みたいに」と、美耶子が続けると、間髪を入れずユリが言った。「バリに『海亀の島』があるって、ガイドブックに書いてあったわ」 
 海亀の島とは、サヌール南方に浮かぶスランガン島のことである。島の北東隅にあるサケナン寺は、210日(バリのウク暦で1年に当たる)に一度、ウマニス=クニンガンの日に大祭が行なわれる。ガムランの演奏とともに、身長3メートルもの男女の神像を御輿のように運び、ここでバロン・ランドゥンの踊りを奉納し、悪霊を鎮めるのである。 
 バリに龍宮伝説があるかどうか、ユリが訊ねた。厚木によると、龍宮城に似た話としてジャワに「南海の女王」伝説があるという。南海の女王とは、中部ジャワに伝わるラトゥ・ロロ・キドゥルのことである。 
 オランダの神話学者ヤン・ドゥ・フリースの採集した伝説によると、次のような話である。 
 「むかし、サリウォンソとサリグノという兄弟のガムラン楽士がいた。ある時、病気でもない兄が急死した。驚いて弟がガムランの師匠に尋ねると、南の海の女王ラトゥ・ロロ・キドゥルに連れ去られたに違いないという。兄の後を追って、サリグノはインド洋に注ぐ河の河口まで来た。ところがある筈の海がなく、代わりに立派な宮殿が見えた。 
 大勢の人々が宮殿に入って行くのが見えた。サリグノが尋ねると、南海の女王の息子が結婚し、そのお祝いに宮殿で踊りの集まりが催される所だという。 
 南海の女王はもとは人間の娘であったが、恋人に捨てられたことから悲観して入水し、「南海の女王」になったという。 
 16世紀にジャワ統一を図ったマタラム国王スルタン・アグンは女王と「結婚」し、王孫の危機に際し女王が軍勢をもって駆けつけるという約束を取り交わしたと伝えられる。 
 インドネシア各地には羽衣伝説や龍宮伝説が伝わり、この点でも古代日本と繋がりがあったと考えられる。 
 チャンディ・ダサ寺と同様、位置や形状からゴワ・ラワー洞も生殖や誕生と結び付いている。 
 洞窟がアグン山と繋がるという伝説は、東の海から昇った太陽が「太陽の洞窟」を通り、東の大山ウダヤ・パルタ――グヌン・アグン――から再び顔を出すと考えた古代人の思考の名残かもしれない。 
※本章第3節は、吉野裕子著『隠された神々』から文章を引用させていただきました。 
 (第9章終わり) 
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