第12章 世界の臍

  ----Pura Pusering Jagat, Pejeng.



 古代ブダウルの都を語る上で、もう一つ、どうしても訪問しておきたい場所がある。ペジェンのプラ・プセリン・ジャガット寺である。

 クリアン家を出て、ブキット街道を南へ歩いた。古代史の舞台となったギアニャル地方の遺蹟群を経て、南部のビーチ・リゾートと北部のキンタ・マニ高原とを結ぶバリ屈指の観光道路は、どれも満杯の客を乗せた大小のバスが行き交い、とても埃っぽかった。

 月の寺プラ・プナタラン・サシーと道路を隔てた村の広場では、炎天下にもかかわらず小学生がサッカーに興じている。やがて、クボ・エダン寺の少し先で右に折れた。竹林と寺の石塀とに挟まれた泥の小逕を進むにつれ、古代世界に一歩一歩足を踏み入れていくように感じた。

 寺の門前は意外と広かった。ワリンギンの大樹の蔭に子供たちが隠れ、こちらを窺っている。「世界の臍の寺」は、現実世界から隠蔽されたかのように静寂な佇まいであった。

 いなかのバス停留所に似た小屋の中に寺守りのプマンクがいて、記帳を促した。暇をもてあましているらしい。恰好のカモとばかりに老爺がしゃべりたてるので、30分ほどその場に足止めをくらった。

 ようやく境内に入ると、東部ジャワの古代遺蹟チャンディに似た石造物が出迎えた。その背後の石室から、チャトゥーカヤ四臂像が不埒な侵入者を睨みつけている。苔むした祠堂には、市松模様の布を腰に巻いた大小の石像が祀られていた。プナタラン・サシー寺のものと似たリンガ石もあった。

 主堂の裏庭に進むと、いっそう不可解なもので満ちていた。寺の北東隅にあるパドマサナの前方の地面は、直径3メートルほどが環状に窪んでいた。少し離れて、猿に似た奇怪な顔貌の石像が碁盤のような四角い板を手にして立っている。さらに南へ進むと吹き抜けの小屋があり、神々や大蛇などの動物が一面に彫刻された釣鐘様の石が置かれていた。


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 境内を一巡し、二人は境内南側の土塀に手をかけて並んだ。眼前には水田が広がり、ブドゥル村やゴワ・ガジャ方面が見渡せた。

 「このお寺、すごく陰気ね」と、稲穂の上を飛び交うトンボを眺めながら美耶子が言った。

 寺全体に異様な雰囲気が漂っている。それも、単に古さに由来するだけではなさそうである。

 「目に付くものはどれも古代ヒンドゥー文化の産物だが」と、厚木は言った。「目に見えないところに、何か得体のしれないものがうごめいているような気がしてならないよ」

 この時、美耶子は、デンパサールのジャガットナタ寺のことを思い浮かべていた。隣接する博物館の高楼から寺を眺めていた時、この寺がオランダとの戦闘で集団自決した人々の慰霊のために建てられたことを感じとった。

 「この地で戦争があって、多くの血が流れたのかもしれないな」と、美耶子の心を読んだかのように厚木が言った。「以前、ワヤンからマヤ・ダナワ王の話を聞いただろう」

 「ええ」と、美耶子はうなずいた。マヤ・ダナワとは、古代バリの伝説的な王である。

 「あれから、バパ・クリアンにマヤ・ダナワ王のことを訊ねたんだ」話す機会がなかったのでと、弁解してから厚木は言った。

 「マヤ・ダナワ王の話は、バリがマジャパイトに征服された後に書かれた古文書に出てくるそうだ。『ウサナ・バリ』というロンタルをバパ・クリアンに見せてもらったよ」

 ウサナ・バリとは、「バリ古史」といった意味で、14世紀ジャワのマジャパイトによる征服以前のバリの歴史が記された古文書の総称である。碑文や考古学資料との比較研究から内容の信頼性を高く評価する学者もいるが、征服者であるジャワ人の観点から書かれていることに注意しなければならない。

 「バパ・クリアンによれば」と、厚木は話し始めた。「クリアン家に伝わるウサナ・バリは、かのダンヒャン・ニラルタが古伝をまとめたものだそうだ」

 ダンヒャン・ニラルタとは、16世紀中葉、ジャワより渡来し、タナーロット寺やウルワトゥ寺などを建立・増築した僧侶である。前章まで読み進めて来られた方には、すでに馴染み深い人物であろう。

 彼はバリの「宗教改革」を実行した。シワ神とブッダとを同体異名とする所謂ジャワ=ヒンドゥー教(マジャパイト宗)とバリの諸宗教――シワ教、仏教、ウィシュヌ教、その他のヒンドゥー系宗教――とを統合し、現在大多数のバリ人が信奉する所謂「バリ=ヒンドゥー教」の基礎を築いた。

 現代バリの宗教は、哲学的・瞑想的な面よりも儀礼的・呪術的な傾向が著しい。これは古代バリの宗教とは際立って異なる。グヌン・カウィやゴワ・ガジャ、各地の険しい渓谷に点在する修道場など、バリの古寺や遺蹟には、瞑想用の修道窟や沐浴場などの施設が併設されている。

 こうした施設を建造・利用したのは、主としてウィシュヌ教徒や仏教徒であったらしい。ウィシュヌ神は水と関わりが深い。一般にウィシュヌの妃はラクシュミーであるが、一説には、河と水の女神サラスワティがウィシュヌの妃とされることがある。

 東ジャワの州都スラバヤ市から約50キロ南方にそびえる霊峰プヌングンガン山中麓にある有名な沐浴場遺蹟には、二人の女神を両脇に配し、神鷲ガルーダに乗ったウィシュヌ像がある。この像は現在モジョクルト博物館に陳列されており、11世紀初頭、スマトラの強国シュリウィジャヤに滅ぼされたクディリ王国を復興したアイルランガ王を模していると伝えられる。この型式に酷似した沐浴場がゴワ・ガジャにもあるが、中央のウィシュヌ像が欠けている。

 仏教も例外ではない。ジャワやバリの伝統的な暦では、水曜日は「ブダ(=ブッダ)の日」と呼ばれる。

 バリにカースト的な概念を導入したのも、ダンヒャン・ニラルタであるとされている。一般にイメージされるようなカースト制度は、バリには存在しなかった――これはバリを研究した欧米の学者が言い出したことである。彼らは、マジャパイト滅亡後のバリは、古代ジャワ文化の正確な模倣者とみなした――。したがって、正確にはブラフマナ祭司の優位を説いたというべきであろう。

 バリでは、伝統的に聖職者よりも国王の権威の方が強い。哲学的・瞑想的な宗教が優勢であった古代においては、国師ともいうべき高僧と国王とは同等、ないしは車の両輪の如くであった。僧籍にある者が君主になったり、王や大臣などが出家して修道者となることも珍しくなかった。

 だが、国王以下すべての民衆が繁雑で理解し難い儀礼と呪術の下僕となり、それらが聖職者の独占するところになった時、形勢が変わる。

 ニラルタは、彼自身と彼の後裔のみが最高位の聖職者であり、全てのバリ人の上に立つことを宣言した。したがって、ブラフマナの王家に対する優位は、ニラルタの系統に連なる者のみが主張するところであった。

 その後、オランダとの戦闘による相次ぐ王家の没落、欧米の学者と植民地行政官によるカースト支配の強化、観光化に伴なう「模範的な」バリ文化の「創作」と「演出」により、サトリアに対するブラフマナの優位性は不動のものになったのである。



 (やれやれ)と、美耶子はつぶやいた。古代バリ世界にたどり着く途上には、必ずダンヒャン・ニラルタが立ちはだかっているようだ。

 「多分」と、厚木は続けた。「マヤ・ダナワは、ニラルタが排除しなければならかった勢力の中心人物だったと思う」そう言って、厚木はディーパックの中からノートを取り出した。

 「これは」と、ノートを捲りながら厚木は言った。「バパ・クリアンの息子さんが、ウサナ・バリの原本をインドネシア語に翻訳したものです」

 バパ・クリアンの三男アグン・ライは、ウダヤナ大学でカウィ文学(ジャワとバリの古典文学)を学んだ。父は息子に、バリ語とバリ文字で書かれたロンタルをローマ字に転写させ、インドネシア語と英語とに翻訳させたのであった。

 「これによると、マヤ・ダナワは無神論者で悪逆の王のように描かれている」

 「でもそれって」と、先ほどから厚木の顔とノートとを交互に見比べていた美耶子が言った。「本を書いた側からの見方じゃない?」

 「もちろんそうだ。だから偏見を取り払ってみよう」と、言うや、厚木は美耶子にノートを渡した。

 英訳の一文に目を通しながら、美耶子は言った。「『彼は無神論者で、神々を礼拝しなかった』と、書いてあるわ」

 「彼は、ダンヒャン・ニラルタが崇拝する神々を礼拝しなかった、という意味だろう」と、厚木が言った。「おそらく、マヤ・ダナワは仏教徒かもしれない。仏教哲学は無神論で貫かれている」

 「じゃあ。次の『自分を礼拝させた』というのは?」と、美耶子は訊ねた。

 「それは、マヤ・ダナワの宗教は古代ジャワの宗教と同じだよ」と、厚木は答えた。「古代ジャワでは、王はブッダやウィシュヌの化身とされたんだ」

 「ちょっと待って」と、美耶子が遮った。「バリの宗教ではシワ神が優勢でしょう。なぜ、ブッダやウィシュヌなのかしら。これが第1点め。それから、マヤ・ダナワとニラルタとでは時代のズレを感じるのだけれども。これが第2点め」

 「いいところに気付いたね」と、笑みを浮かべながら厚木は言った。「シワ神の信仰は古くからあるし、他の神々に対する優位性も認められる。でも、ジャワでシワ神が絶対的優位に立つのはマジャパイト時代だ。そして、シワとブッダとが唯一不二のものとするのがマジャパイトの宗教だ」厚木の言葉に熱が入ってきた。

 「したがって、マジャパイト以前のマヤ・ダナワと以後のニラルタとでは時代に大きな隔たりがある。ニラルタは、彼の『シワ=仏教』をバリに広めるためにマヤ・ダナワの古伝を蒸し返したか、あるいは創作したのだろう。クルプティーやクトゥランら宗教改革者の努力も空しく、ウィシュヌを信奉する人々が多かった。そこでシワ=仏教の推進者が、『ウィシュヌ=仏教』徒の首班であるマヤ・ダナワを極悪非道の王におとしめたのさ」

 「バリにも宗教戦争があったというわけか」と、溜息をつきながら美耶子は言った。それっきり、二人は黙ってしまった。相変わらず、寺の境内には二人以外に誰もいない。

 ブダウル上空に浮かぶ入道雲に見入っている厚木をよそに、独りノートを読んでいた美耶子が沈黙を破った。「結局、マヤ・ダナワはいつの時代の人なのかしら」

 「君は、マヤ・ダナワがブダウルの王だと言いたいのだろう」と、なおも空を見つめながら厚木は言った。

 「このノートに書いてある限りでは」と、美耶子は続けた。「要するにマヤ・ダナワはバリ人の先祖で、彼もその子孫もジャワ人に滅ぼされた・・・」

 「結局」と、美耶子の方に向き直し、厚木は言った。「マヤ・ダナワの物語は、マジャパイト人によるバリ征服を正当化したものだろう。太古・・・神々の時代からニラルタの時代まで、幾度となく独立と征服とが繰り返された。そうしたバリの歴史をマヤ・ダナワという一人の王に仮託しているのさ」

 「ブダ・・・」と、美耶子が言いかけた時、突如大粒の雨が落ちてきた。急いで二人は、近くの、とある小さな祠堂に避難した。そこには、かつてプナタラン・サシー寺で美耶子を驚愕させたもの程の巨大なリンガが鎮座していた。リンガ石に寄り添うような恰好で、二人は雨の止むのを待った。

(第12章終わり−第1部終わり

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