第8章 十子の寺

  ----Candi Dasa, Karangasem.



 美耶子ら一行がチャンディ・ダサに着いたのは、午後6時をまわった頃であった。とりあえず今夜泊まる宿を捜すことにし、海に近い瀟酒なコテージに落ち着いた。

 翌朝の再訪を約し、ニョマンはワヤンとともに夜道を帰っていった。

 チャンディ・ダサは、ロンボック海峡に臨む東部随一のリゾート地である。現在でこそ活況を呈しているが、美耶子らが訪れた時は小規模なコテージとレストランが数軒あるのみで、閑散としていた。

 四人用のバンガローを借り、夕食後しばらく休息した。リビングルームに再び全員が揃ったときは9時をすぎていた。

 美耶子がリビングルームに顔を出したとき、すでに三人が待っていた。冷蔵庫からビールを出し、川合と厚木が乾杯を交わしていた。

 ユリはテラスに出て、満天の星を眺めながら一人悦に入っていた。美耶子がテラスに出ようとした時、突然トッケイの大きな鳴声が響いた。悲鳴があがり、ユリが血相を変えて部屋へ駆けこんできた。

 長い安楽椅子に寝転び、昼間プラ・ブサキーで目撃した光の正体について川合と厚木が論じ合っていた。あの光体がUFOであることは疑いがない。美耶子とユリは二人と向かい側のソファーに腰をかけた。

 ユリによれば、去年の秋に富士山麓の御殿場付近で同類の光球を目撃したことがあるという。その時は真夜中に現われたそうである。

 黙然として話に加わらない美耶子をよそに、三人のUFO談義は続いた。

 「今まで黙っていたけれど」と、突然美耶子が口を開いた。「オレンジ色の光が現われたとき、感じたことがあるの」

 三人の視線が一斉に美耶子に注がれた。

 「その時」と、美耶子は言った。「そう。『サラスワティ』という言葉を何度も感じたわ」

 咒文の一種かと訝る川合を厚木が晴らした。

 「サラスワティは、ヒンドゥー教の女神です。もとはインドのガンジス河の神の娘で、神話ではブラーマ神の妃になったといわれています」

 「ヒンドゥー教の神様が何の用かしら」と、くちばしを入れたユリを無視し、厚木は話を続けた。

 「サラスワティは学問の女神でもあるのです。インドやバリの学者や知識人の家では、書斎にサラスワティの祭壇が祀られているくらいです」そう言って厚木は席を立ち、ベッドルームに入った。

 リビングに戻ると、バッグから大学ノートを取り出し、頁間に挟んであった一片の紙を三人に示した。そこには女神を思わせる若い女性が描かれていた。川合が絵を受け取ると、ユリと美耶子が両脇から川合に身を擦り寄せて画に見入った。


デウィ・サラスワティの画です(GIF/64KB/340×390Pixel)デウィ・サラスワティの画(GIF/64KB)

 「この絵、美耶子さんにそっくりね」と、絵を覘き込みながらユリが言うと、川合は相槌をうった。

 二人に見つめられ、美耶子ははにかんだ。真っ赤になった耳朶が色白の顔に浮かんでいた。

 厚木は、三人の反応を冷静に眺めていた。そして、厚木の心に揺るぎない確信が固まった。(この娘はやはり僕の・・・)

 ゴワ・ガジャで遭遇して以来抱き続けてきた蟠りが消えていくのを感じた。

 厚木が語ったように、サラスワティ[梵語名サラスヴァーティー]は弁舌と学問、文学を司るインドの女神である。のちに仏教と習合し、我国では弁才天として親しまれるようになった。河神の娘という出自から連想して、バリでは稲の女神スリ[梵語名シュリー]と比較されることがある。

 サラスワティ崇拝の一例として、1920年代バリを訪れた西洋人に離宮を解放し、バリの古典芸術の復興に尽力したウブッドの旧領主はチョコルダ・サラスワティと名乗った。

 バリのウク暦で1年に当たる210日ごとに廻ってくるサラスワティの祭日には、椰子の葉を乾燥させて作った「紙」に硬筆で文字を刻んだロンタルという本が供えられ、この日は誰びとも文字を読んではならないとされている。

 厚木がサラスワティにこだわるのには訳があった。バリ文化に惹かれ始めた頃、サラスワティが学問の神であることを知り、自分の守護尊とした。そしてバリへ初めて行ったとき、ウブッドの古美術店でサラスワティの絵を見つけた。先ほど三人に見せた絵はその模写である。

 バリに関する知識を増大させつつあった頃、『パンジ物語』と呼ばれる古代ジャワの物語を厚木は知った。

 『パンジ物語』とは、結婚を強要されたりするのが原因で主人公の王子や王女が行方をくらまし、旅芸人や放浪者に身をやつし、男装や女装によって身分を隠しながら恋人を捜し求め、遍歴を重ねた末に結ばれるという枠組みを有する物語の総称である。

 数々の艱難をくぐり抜けた末に恋人同士が結ばれるという説話が、インドネシアには多い。

 強制的な縁談や女装、男装の挿話が含まれることから、古代社会における成人式の遺風を留めた物語と考えられる。成人式に臨む未成年者が乞食のような格好に扮装して放浪したり、男女の衣裳や役割を交換したりする未開社会の儀式が、民族誌学者から報告されている。

 厚木の心の中ではサラスワティと『パンジ物語』のヒロイン――バリではガルーと呼ばれることが多い――とが重なり合い、夢幻的な逸話の中で醸成され、理想化され、いつしか永遠の女性サラスワティを捜し求めるようになったのである。

 まさにこの時、厚木の心の中で美耶子はサラスワティと重なり合った。



 翌朝、ニョマンがコテージを訪れた時、四人はチャンディ・ダサの魅力を歓談し合っていた。

 ことにユリは満悦至極の様子で、もう1泊するか、あるいはいっそのこと宿をここへ移そうと川合にねだった。論議の末、結局川合が折れ、チェックアウトの際に二人用のコテージを予約することにした。

 宿からチャンディ・ダサ寺までは近いので、徒歩で行くことになった。右手に灰色の砂浜、左手に濃緑の岩山が迫った椰子並木を東へ向かって10分ほど歩くと、海から車道に入り込んだラグーンが右手に見えてきた。車道を挟んで入江の正面がチャンディ・ダサ寺であった。

 寺伝によれば、プラ・チャンディ・ダサは、1190年、シュリ・アジ・ジャヤパングス・アルカジャランチャナ王により創建された古刹である。

 この寺の本尊は、多産と夫婦和合の神ムンブラユ(女神)とパンブラユ(男神)で、子宝に恵まれない夫婦が全島から参詣に訪れる。

 チャンディ・ダサとは、梵語で「十人の幼子(おさなご)」を意味するチリ・ダサに由来するという。十人の幼子とは本尊ムンブラユの子供のことで、仏教における鬼子母神とその娘たち――十羅刹女――に相当すると考えられる。

 現在ヒンドゥー教の寺院が建っている場所は、ヒンドゥー化以前から古代バリ人が祈りを捧げてきた聖所であった可能性が高い。古代の聖所が破壊され、その址に新しい寺や祠堂が建造されたが、古い神像や聖物――信仰の対象――の一部は破壊を免れたと考えられる。

 チャンディ・ダサ寺の本尊、パンブラユとムンブラユも、古い豊穰神が新来のヒンドゥー教のパンテオンに加えられたのであろう。

 チャンディ・ダサ寺の境内は二層になっていて、地上にある前庭の祠堂には12人の子供を抱いたムンブラユ女神像が安置されていた。後庭は72段の階段を登った裏手の小丘の上にあり、ここにはリンガ石やパンブラユの像を祀る祠堂や巖窟院があった。

 地上の祠堂に女神、丘上の祠堂に男神が祀られているのは、太古における地母神と天空神崇拝の名残であろう。

 子宝を授けてくれる寺と聞き、今秋結婚する予定の川合とユリは、社前で神妙に手を合わせた。


プラ・チャンディ・ダサのムンブラユ女神像の写真です(JPEG/71KB/260×372Pixel)ムンブラユ女神像(JPEG/71KB)

 一方、厚木と美耶子は、チャンディ・ダサ寺の地勢的意味について思案していた。

 第5章で触れたように、この寺は、古代ブダウル王国の都(現ブドゥル)を中心としたカジャ半円の円周上に位置する。


カジャ半円のイメージです(GIF/17KB/400×300Pixel)カジャ半円のイメージ(GIF/17KB)

 チャンディ・ダサはバリの中央部と東部とを結ぶ街道沿いにあり、周辺にはさらに東方の島々――ロンボックやスンバ、スンバワ、ティモール島など――との交易拠点がある。

 海を嫌悪するバリ人の観念とインド洋の荒波により、隣島ジャワとの交易は北海岸のブレレン(シンガラジャ付近)、東方諸島との交易はパダン・バイが長いあいだ独占した。トゥンガナン村の特産品であるグリンシン布は、古代よりパダン港から東方諸島へ積み出された。

 古代ブダウルの都(ブドゥル)からほぼ真東に位置するチャンディ・ダサは、太陽の昇る方角にあることから生殖や誕生と結び付けられた。王国の理想的領域――ブドゥルを中心とする大円――内で最も早く太陽の昇る地とされ、東方の島々との交易地として富を象徴する方角でもあった。

 こうして、この地に生殖と多産、豊穰を象徴する男女の神が祀られたのである。

(第8章終わり)

次章へリンクボタンのアイコンです第9章へ進みます

   ●目 次  ●索引地図  ●表 紙

Created by
NISHIMURA Yoshinori@Pustaka Bali Pusaka,1996-2000.