国鉄分割民営化(1987年)までに労働組合の機関誌、その他に発表したもの。
下から執筆順に並べてある。
題 名 |
要 約 |
■共に生きるということ |
国労組合員であり続けた思いを自覚的に取り出すとき、それは支配されることへの拒絶であり、それに気付いたときには我々は「内」と「外」で区分されないあらゆるところに仲間を見いだすのだ。 |
■自由へ (1986年6月執筆) |
仕事の具体的内容において連帯すること、何が必要かを我々で、運転する人も乗る人も、作る人も、使う人も、で決定できるシステムを社会全体に張りめぐらせることへの欲求、「企業」という概念の、貨幣、儲けからの解放。そして自由無き職場、人が人に雇われるということ、「雇用」自体を廃止したいのだ。 |
■『命令と服従』 |
彼らの意志に従えということ、その内容ではなく、とにかく「従う」という形式を求める「労・使」という関係は、市民社会、自由や平等、民主主義の極限的姿だ。「従え」に対して「従わない」を対応させる限り、この権力が生れる一対の極性をもった空間を解体することはできない。「命令と服従」の空間に外部の概念を接触させること、たとえば、公共交通のあり方について論議することは、彼らの、「当局のいうことをきけ」という言説をゆらめかせる。 |
■課題の変容 |
「私」になる前の直接的な怒りの中にこそ、発展可能性があり、それを、論理で切り開いていくことによって従来の「私」、「自己」でない、「我々」という主体性が生成できる可能性がある。 |
■変革への生成− 強制配転拒否闘争の思想的ベクトル |
甲府駅での強制配転拒否闘争からは、「労働力」としてでは無く、社会の主人公 として、様々な決定の主体としていきたい、という意志こそ、最終的な意味としてすくい だせるものである。 |
■呻吟する「言葉」を超えて―特に処分について |
当局のいう処分や賃金上の不利といったものについて考え抜いたとき、それらをこえてでも歴史の中で、私たちには守らな ければならない、確立しなければならないものがあることが見えてくるのではないか。 |
■いま、国労攻撃の中で |
徹底的な攻撃の中で、労働者が与えられた仕事に適切な労働条件を得れば良いという考えは破綻する。自分たちが何をどれだけ、どのようにしてだれのために作るのかを決定できるかどうかという権力の問題に展開せざるを得ない。 |
■アメとムチの統一的把握を |
― 行き生きした運動を職場からつくろう ― 一人ひとりをバラバラに分解させるのが現在の国労運動攻撃の実態。その事を理解して反撃することが未来を決する。 |