労働法律旬報第1108号 1984.11.25

<特集>いま、国鉄労働者は  
国鉄労働の現場から--いま、国鉄労働者は--「分割・民営化」「三項目」合理化攻撃のなかで労働者は何を思い、訴えようとしているのか / 国鉄 労働 現場 取材 ルポ 集団、の一本として掲載

変革への生成

強制配転拒否闘争の思想的ベクトル

  「五九・二」と呼ばれる今年(1984年)二月の国鉄ダイヤ「改正」で、国鉄の貨物輸送体系は、操車場で貨車を行先別に仕分ける全国ネットワークから、拠点間のみの直行体制に「合理化」されたことになっている。

 しかし実際には、多くの荷主の反対を押し切り、道路交通、内航海運などをふくめた輸送体系全体についての論議もついにおこされぬまま、貨物駅は廃止きれ、貨車は解体され、跡地は国鉄に群がる企業の儲けのために、再び処分されつつある、というのが実態なのである。

 「赤字なのだから」「貨物輸送量(トンキロ)のシェアがわずか八パーセントに縮小したのだから」 と、データをもとに、事業縮小や「利用者のニーズ」に添った施策を実行する--もちろん同じ客でもあまりもうからない客の「ニーズ」は一切尊重されなかったが、--というのが、「利潤」に隷属するのを原理とする「企業経営者」にとっては当然だとしも、我々にとっては不合理で、非民主的な決定の押しつけにすぎなかった。なぜなら、我々は、トラックにせよ、鉄道にせよ、飛行機にせよ、その輸送方法の人間に与える害、たとえぱ交通事故、劣悪な労働条件、あるいは自然条件、エネルギー効率、騒音、大気汚染などもふくめて、いろいろな角度からその社会にはどんな交通体系がいいのか、論議の中で、組み立てていくべきだと考えていたからだ。しかし、我々の声は届かず、「利潤主義者」や、国鉄・政府の官僚主義者たちだけで決定したこうした「合理化」計画について、マスコミも、「早くて安けりゃなんでもいい」という無責任イデオロギーを自明として喧伝し、人々の目からこの「合理化」の問題点を充分隠す機能を果たし、りっぱな「共同正犯」となったのである。この、全体を見ず、そこで働く人々とのことも、自分や環境への影響も考えず、部分的であるがゆえに非科学的な観念論、すなわち「早ければ、安ければ、それでいい」という経済原則、パラダイム思考の枠組こそ、回り回って、人々自らの首を絞めるものであり、また自らを社会的決定の主体ではなく、「国民」とマスコミが呼ぶ「観客」の位相へと後退させてしまうものではなかったのか。

 そういった無念さのなかで廃止されていった職場のひとつに山梨県の甲府駅がある。

 甲府は山梨県の県庁所在地である。二月のダイヤ「改正」で、この駅のコンテナをふくむ貨物営業が廃止され、構内作業(貨車入換作業)もなくなった。同時に数駅の貨物営業も廃止され、山梨県ではついに拠点となる駅がなくなり、セメント、砕石、油類など、専用列車で特定駅間を輸送するもの以外、鉄道による貨物輸送は実質的になくなった。

 甲府駅では、その「合理化」のために、三七人の過員(当局が作業上必要と査定した定員より多い人数)が生まれた。これは一五、六人の三月末における退職者を除いた数である。さらに、二年後の国民体育大会に備えた駅の南北自由通路完成と営業「近代化」にともなう出改札窓口統合、自動券売機化などで、三十一人が新たな過員となり現在の甲府駅分会員約百三十人中七〇人が過員となっている。

 これは五九・二でつくられた全国二万四千人の過員のほんの一部の例であるにすぎない。

 今も彼らは、甲府駅でがんばっている。

 同じ「過員」といっても出札、改札の職場は仕事自体はあるので、当然のことだが、ローテーションで勤務割を作ることによって、だれが過員だと特定させないようにしている。仲間が等しく対応し、分断を許さないためである。

 しかし、貨車入換作業のグループは完全に仕事を奪われてしまったために、毎朝詰所へ出勤し点呼をとり、夕刻帰る、その間の作業がなく、「無益な時を過ごすことを強制される」という「労働」を課せられている。

 「合理化」によって生みだされた過剰人員は、配転や職種転換するのが当然ではないか? 配転先や当事者の処遇が決まったから組合は合理化案を妥結したのではないか? そういう質問を受けるかもしれない。しかし、五九・二の時点で当局は、「合理化」後の過員は一過性のものだ、として組合の過員対策についての追及から逃げたまま、時間切れだとして事案だけを押しきったのである。そして六月になって、過員は今後さらに増大する、だから若年退職、一時帰休、派遣をする、といってきたのである。すでに過員が生まれてしまってから、すなわち、仕事をなくして内堀まで埋めてから、本音を出したわけである。

 では、「合理化」で転勤、転職するのは当然なのだろうか。ここに、甲府地区の労働者がつきつけた重大な問題点がある。以下、強制配転拒否の持つ、とくに思想的な意味について取り出して考えたい。

強制配転拒否の思想

 とりあえず、甲府駅の労働者の述べるところにしたがい、この闘争の経過をつかんでおきたい。

 まず、五九・二ダイヤ改正の団体交渉時に当局は、甲府で生まれる過員は新宿地区へ出て働け、‘’必要なら宿舎を用意する、個々の家庭事情とか年齢は斟酌しない、といったという(甲府駅から新宿駅までは一二四キロ、通勤には三時間弱かかる。

 しかし、労働者が強制配転を拒否している出発点は、まさに「個々の家庭の事情」であり、「自分の生活を守る」という点からである。甲府駅の労働者は三〇歳台から四〇歳台が中心で、たいていの人が若いころは独身寮などに入り東京方面で働いていたが、低賃金でも山梨で生活したいと、里帰りしてきた人たちである。もともと山梨県出身の国鉄労働者は東京圈に多く、里帰り希望者は影大な数に上るので背番号さえついていたくらいであった。そして七、八割の人がいわゆる。〝半農半鉄〟であり、その他、親のめんどうをみなくてはならなかったり、家を建てたばかりなど、土地を離れられない事情があるのである。

 ある人はいう、「五〇歳近くになって、病気持ちだし、東京への通勤など身が持たない、子どもも受験など大事なときで、そのうえ金もかかるときだし、単身赴任なんてできない」。また、ある人はいう、「甲府駅までバイクで四〇分、新宿地区への通勤には往復八時間近くかかる、朝四時に起きなければならないなんて、俺は機械じゃない」。また、ある人はいう、「いままで試験も受けずに来たのは甲府で働くためだった、単身赴任など、低賃金で二重生活できるわけない、『やめろ』ということと同じだ(国鉄に単身赴任手当などはない)、一家での転居も八○歳のおばあさんはこの土地を勤かない、と言っている」。などなどである。

 こうした生活実態を率直に出して話し合うなかで、「先行きは不安だ。しかし、転勤しても生活破壊が待っているだけだ。ならばがんばれるだけ、がんばろう。最後まで一緒にいこう」という意思統一ができた。当局は、新宿地区へ行けといっていながら、具体的にはどこどこの駅にどんな仕事が何人空いているかなども示していない。しかし、個人に転勤の話がきても、みんなで、家族で十分話し合って決めて送り出そうという意思統一ができている。

 こうした団結の背景については、つぎのようなことがある。

 地元における人間関係の重さというものを大切に考える作風を、いままでの運動のなかでつくりあげてきたこと。たとえば、援農なども組合員間で行なってきた。五九・二を家族ぐるみでたたかうために、組合員の家へ執行部が行って当局のねらいなどを話し合ってきたこと、などである。もちろん、これは組合員全体でつくってきたものであり、その団結の具体的な姿が、国鉄本社や、自民党が直接介入せざるをえなかったほどの強力な職場内規制力であったわけだ。

不合理に対する怒り

 さて、「新宿地区へ通うことが生活破壊になるというのなら、国鉄をやめれぱいい」という考えがある。あるいは「国鉄をやめたら生活できないというのなら、しかたないから新宿地区へ通うしかない」という考えがある。あるいは「とにかく自分自身が合理化後の甲府地区で働くためには、組合ではなく個人の努力で道を開くしかない」という考えがある。いずれも個人的な解決方向であるこの三つのいい方で、だいたい強制配転拒否をめぐる問題点は尽くせるだろう。

 また実際、〝会社への通勤ができないと文句をいうならぱ、他の会社へ行けぱいいじゃないか″、〝やめたら生活できなくなるというのなら会社のいうことをきくしかないじゃないか″というのが日本の支配的な意見ではないだろうか。

 しかし、現在分会にいる人びとはそういう個人的・な解決の道をとらなかった。そしてその根拠となったものは、「怒り」であった。

 彼らはいう、「荷主も住民も反対しているのに職場を廃止され、そこから追われた怒りは忘れない、当局の責任は必ず追及しつづける。それは資本主義の矛盾だ」と。

 まさに二月からの八ヵ月を彼らは、そこに存在しつつづけること自体がたたかいであるようなあり方でたたかいぬいてきたといえる。総合的な交通体系の観点もなく、民主的な意思決定の過程もなく、ただ、赤字云々の規範性によって「合理化」された不合理と、超長時間通勤による非人間的な生活の強制という不合理への怒り、要するに、個人的な身のふり方の問題ではなく、共同的な、現在の社会に普遍的な課題として問題をみすえたがために、彼らは、個人的な解決の思想を選ぱなかったのである。

 どうして、この不合理に対する怒りが、「国鉄当局」や「自民党」に対するものだけにとどまっていられるだろうか。どうしてこの怒りが、「国鉄当局」や「自民党」という名前で表現される現在の思想――たとえていえぱ、金が儲かるか否かですべての社会的行動を決定するという思想、もうかるなら人殺しの兵器でも、年に一万人近くが事故死する交通体系でも、得体の知れない食品でもなんでも作って売ってしまえばいい、企業がもうからなければ「私」の生活も成り立たないのだから、というような、現在を支配する逆立ちした思想――に対する怒りと、それらを乗り越えようとする情熱へまで、発展しないなどということがありえようか。すなわち、この最初の怒りは、「企業あっての労働者」やめたら「生きていけない」というような、〝永遠に企業という名の「他人の意志」に従属した存在″としての自己規定をのりこえ、遂に「企業」という概念自体を解体無化し、同時に、自分たちの手ですべてを生み出していく主体へと自らも変成する道筋の入口でもあるのだ。

生活のなかの「時間(かち)」

 一方、当局は、「新宿地区へ行こうと思えば行けるではないか」と、駅の貨物構内と一緒に廃止された甲府客貨車区(ちなみに、そこの貨車検修庫は三億円で建築して二年で廃止となった)の人びとが八王子客貨車区へ通勤している例や、甲府地区へ転勤できぬまま新宿地区へ現在も通っている人の例をあげる。

 では、その人たちは実際にはどうなのか。一番近い八王子への通勤の例をみてみよう。

 五九・二で甲府客貨車区から八王子へ転勤したのは五五歳以上で退職予定だった人を除くと、四〇数名だったが、そのうち五三歳の二人と三〇歳台の二人、計四人が新たに途中で退職している。

 通勤している列車掛(貨物列車の最後部に乗務して貨車の検査と車掌業務を行なう乗務員)の例をみると、わずか一年前に念願かなって八王子から甲府に転勤しながら再び八王子に戻された人がいる。また、もっとも遠い人は、驚くべきことに長野県、飯田線の駒ケ根から二〇〇キロを通勤している。彼は長野への転勤希望をかなえるワンステップとして四年前の五五・一〇(一九八〇年一〇月)ダイヤ改正で新宿客貨車区の列車掛基地が廃止されたとき、両親の故郷である長野に一家で転居するとともに甲府客貨車区へ転勤したのだった。転勤を決める面接のとき、彼は、もう甲府が廃止されるようなことはありませんね、と念を押し、長野へ転勤するのにも順を追って、という言葉を信じて決めたという。もちろん、すべては裏切られてしまった。いま、彼は、十一時七分以前には当日出勤できないために、週に、一、二日しか家で眠れない。彼は思いあまって地元の職安に何度も足を運んだという。いまだ、長野へは転勤できないのである。彼はもう限界だという。これに類する超遠距離通勤者の例が国鉄には耳を疑ってしまうほど多い。

 そこまで遠くなくても、朝の九時二四分以前に出勤するには四時に起床して、車で二駅走ってやっと始発の駅にたどりつかねぱならない人もいる。彼は、俺の寿命はたぶん短いだろうな、と寂しそうにいう。

 みな、乗務員という不規則な勤務形態であるためにかえってなんとか通勤しているというのがわかる。

 ある人は、八王子へ通うようになってから、とにかく早く家へ帰りたいという思いが先にたって、仲間のことを考えられなくなりつつあり、家でも怒りっぼくなったり、人間が変えられてしまったみたいだ、という。ある人は、翌日早い出勤の夜には遅刻した夢をみてハッと眼が覚めるという。ある人は、まだ凍てつく星空の下を寒風をついてバイクで駅までとばしてきて、列車に乗ってほっとひと息ついたとき、ふと、俺はこんな生活をこの先まだ二五年もつづけなくてはならないのかと思ったとたん、ほんとうにやるせなくなった、という。

 こういった生活はみな我々が選んだわけではないのだ。一戸建マイホームを都心から遠くはなれた所へ自分で建てた人の通勤とはちがう(もちろん、彼らにしても安い土地を求めてそこを選ばざるをえなかったのだとしても)。強制され、一方的に生活を変えられてしまったのだ。ある個人がその転勤を拒否したとしても、別の時、別の所で別の個人に同型のことが行なわれている。すなわち普遍的な問題なのだ。こんなことをどうして、運命だなどと、しかたないなどと、いいつづけられようか。

 かつて八王子から甲府へ転勤したある青年は、初めて甲府で迎えた明番の朝、仕事が終わっても胸がわくわくして家へ帰ろうという気にならなかった、サッカーチームでいくら練習をやってもちっとも疲れた感じがしなかった、と語っていた。彼のいいたいことはこういうことだ。

 「『郷土に暮らし、そこて働き、そこで決定を行なう』権利の確立、要するに郷土の地理的・人間的・文化的環境のなかて職をつかむ権利の確立――中略――『郷土の空気、その様相、その気候――これは大切だ。わが北部の空気は、美しい灰色の空だ。北部でこそ北部生まれの人間はいちばん働きやすい。そこでこそかれは、ひとかどの人間であり、そこでこそ他人を知り、そこでこそ他人がかれを知っている』」
(フランス社会党編、『社会主義プロジェクト』大津真作訳)。

 まさに、そういうことだ。そういうことなのだ!!

 単身赴任などということが当然視され、しかも「これからもそれは増える予定だ、単身赴任手当を非課税に!!」などということを「労」「使」がまじめにいい合っているなんて、異様な社会ではないのか。家族とは、人生とは、いったい何なんだろう。

 働くということは決してただ「金」を稼ぐためだけのものではない、人間の生活の重要な一場面なのだ。

 通勤が遠距離であることのほかにも、在宅時間を短くしてしまう理由がある。貨物列車は国電などとちがって、列車の本数自体が少ないので、乗務と乗務の間に時間が空いてしまう。また、睡眠の時間も生きた人間には必要だ。どちらの時間も労働時間に計算されないので所定の労働時間を稼ぐためにはどうしても拘束時間が長くなる。そして、通勤の列車自体も本数が少ないので、出勤時刻と退庁時刻に適合した列車がなく、そこでも無駄な時間が生じる。こうして在宅時間はますます短くなる。

 しかし、いまの法律では、労働時間の制限はあっても、拘束時間の規制はされていない。法律が人間の人間に対する理解の水準を示すものだとすれぱ、現在はまだ、本質的には人間を「労働力」という機能としてしか考えていない人間観が存在しており、少なくとも、人間の生活という視野のなかに「労働力」をとじこめるということさえも成立していない。だから、「労働力」の移動としての転勤は、人間の移動であるの.に、自由自在、やむをえないということになるのかもしれない。そしてそれは、赤字だから廃止もやむをえない、などといういい方とそっくり同じではないか。よりよく生活するために何が必要かではなく、なんらかの規範にすでに規定されたものとしてわれわれの生活を、人生を、常に受身で了解しているのだ、今、は。

未来へ

甲府駅の人ぴとは、このたたかいは配転拒否闘争ではない、強制配転拒否なのだといった。また、思想的なたたかいなのだともいった。そのことのなかに、転勤問題だけでない、我々を囲む強制的な社会体制全体への反対の意思がふくまれていると思う。強制配転拒否ということによって、甲府駅の人ぴとは、企業意志への従属ではなく、〝生活の自立″ということをも言外にいいたかったのではないかと思う。

「労働力」としてではなく、社会の主人公として、さまざまな決定の主体として生きたいという意志こそ、この強制配転拒否鮮争の最終的な意味としてすくいだせるものである。

 甲府駅分会執行委員は最後に、実に落ち着いた態度でこう語ってくれた。

 「八ヵ月間、強制配転拒否のたたかいを行ってきた。だが、駅をめぐる合理化がひととおり終わり、ちょうど一時帰休、派遣などの首切り三項も具体化するこれからが、熾烈なたたかいの始まりとなる。今の力関係のなかで、いずれ、整理しなければならないときがくるかもしれない。しかし、その間育んだ思想は生きつづける、だからこそ、みんなでほんとうによくたたかったという、悔いのない「負け方」をしなければならない、どこへ散っていってもこんどはそこで、ねぱり強くたたかえるょうに、思想を残すのだ」。

 彼は、生むべきその思想について、資本主義ではだめだという思想、「社会主義」と呼んだ。どう呼ぶにせよ、その中身について、どれだけ豊かで、心を揺さぶるほど魅力的なイメージで語れるのかがほんとうに問われる点だ。そしてその問は依然として我々のもっとも重要な課題でありつづけている。

 我々自身がギリギリまで追いつめられたとき、初めて、現在の社会の常識――たとえば、いつの世でも世の中には必ず管理する者とされる者がいる、とか、「職場規律」だとか、なんだかんだいっても企業のいうこときかなくては生きられない、などという思想――について、やっと疑うことができるのだ。自明とされ目己意識の地平線をつくっていた概念を、解体していくその入口にたどりつくのだ。

 我々はいま、そういった集団的な体験を迎えているのかもしれない。この国鉄をめぐる熾烈な、いい換えれば、その時代のもっとも強力な思想と対決せざるをえない集団的体験のなかでこそ、必ず新しい思想というものが生まれる、いや、必ずや生み出されなくてはならないのだ。その作業において我々は、「利用者」とか「国民」とかいう共闘対象でなく、直接「我々」自身であるような仲間をいたるところに感じるはずである。