1987年10月執筆 掲載誌不詳

共に生きるということ

― JRで今働く国労の友人達に―

 

 鉄道の仕事を去って、もう半年になる。

 しかし逆に、ますます、国鉄分割民営の過程の中で露わになった人の生き方、各人の覚悟性のようなものについて考えざるを得なくなっている。

 確かに一つ一つの出来事の記憶は次第に遠くなっていくように思える。何月何日にどういうことがあったか、という類のことだ。その上、今私が働く新しい職場の時間は、まるでこの世には「国鉄問題」とか「強制配転」などというこどばがなかったかのように過ぎていく、――ように見える。また現在JRで働く友人たちと時折会って話でも聞いていなかったら、車掌が腕章を止める安全ピンの色が違うなどの理由で乗務停止をされたりしていることもわからなかっただろう。

 しかし、だからと言って「JRの内のことなんか『外の人』は興味がないんだ。」などといって悲観する必要も全くないのだ。パン屋が、あの大工はパン屋の仕事の苦労をちっとも知ろうとしない、といって怒っても無意味なのと同様に。大事なのは、パン屋と大工が、互いをパン屋だ大工だと自分たちを区別しないで語り合える体験として、現実を取り出すことができるかどうかだ

 この一年(1986-1987)で5万人以上の人が国鉄を去った。老いも若きも、万感の思いで、怒りや、恨みや、見限ったさばさばした気分や、不安やらと共に、『国鉄の外』へ散開していったのだ。私には、分割・民営に納得して出ていった人なんかいないと思える。だから、言い換えれば、国労組合員は、それだけの数の仲間をJRの外に持ったのと同じだ。なぜなら国労組合員は「分割・民営」の問題点を訴え続け、当局と第二組合のあらゆる恫喝と現実の差別にもかかわらず、仲間の一方的な追い出しに反対し続けたのだからだ。

 先日も86年11月ダイヤ改正で廃止された列車掛(貨物列車の検査と車掌、駅での入換作業などを兼ねて行なっていた職種)の国労組合員の「同窓会」があった。様々な車掌区の車掌、様々な駅の駅員、ガソリンスタンドのアルバイト、清算事業団職員等々が集まった。11月に仕事がなくなってから少数の国労脱退者だけをはやばやと転勤させ、残ったものには朝8時半から17時5分まで作業指示も一切ない「詰所待機」を強いて不安の中で組合分裂を待とうとした当局の意図を、粉砕した仲間たちだ。ストライキ以外には絶対に全員が顔を合わせることのない乗務員を、毎日一箇所に集め何の仕事もさせないでおいてくれた当局を逆手に取り、毎日が意志統一と励まし合いの時間となった。毎日職場へ出てくること、たとえ通勤に2時間半かかろうと毎日職場へ出てくること、そこで仲間と、例えばきのう家族でどんな話が出たか話すこと、笑うこと、真剣に話し合うこと、時にはどなりあうこと、ただ仲間の顔を確認するだけでも、それが我々の支えそのものだった。そういう仲間同士だったのだ。

 それぞれの新しい職場について語り合った。「うちの車掌区では国労が少数派で区長や助役の圧力が強くて苦しいががんばってるよ。」「甲府から八王子、立川へ通っていると(勤務改悪)で三日も家に帰れない。」などなど。

 「希望退職」し、地元の小さな工場に入った人は、毎日3時間の残業で家帰ると酒飲む間もなく寝てしまうが、今日は絶対に出席する決意だったと言っていた。「ストライキをしようって話してたんだが直前に社長にバレてパー」「全員の給料は上げられるだけの力ないっていうから、じゃあ、仲間の中で、年のわりにうんと安い奴がいるから今年はそいつをあげてやれっていうことにしたよ。」酒を飲んで真っ赤な顔で彼は続けた。「俺もみんなで助け合って平等にやってくって方向でがんばってやってるからよお!」

 私は思わず目頭が熱くなった。あくまで全員の賃上げを勝ち取るべきだ、などといくらでも言うやつはいるに違いない。でも彼の判断と行動を私は完全に支持したい。働く場での仲間同士助け合う気持ちを当たり前のこととして身につけている彼に、私がそういう彼らとともに仕事してきたのだということに、誇りを感ぜずにはいられない。それに比べたら、自らの組合役員という権益を守るために国労の組合員を差別してくれなどと国鉄当局に哀願し、今、会社と一体となって労働者に足の引っ張り合いと、ただ働きを強いている一部の労働組合役員達と、それとつるみ、奴隷の主人になった気分で労働者を恫喝している会社経営者たちの思想の何とグロテスクなことか。

 私の利用する駅でも前夜24時間勤務の泊まりをしていたはずの改札係が明番でオレンジカードを夕方まで売っていたりする。制服を着て現金を扱っているのに小集団活動の自主的なものなので賃金は支払われないということだ。そういう窃盗(「労働力」のどろぼう)がニュースにならないのは、逆にこのようなサービス残業が勤務査定という恫喝と一対になって(すなわち単純な窃盗でなく強盗となって)、この国でありふれたものになっているからだろう。しかし「会社のいうなりでないと損だ、自分さえよければいい、強いものには弱く、弱いものには強く出る。」こうした道義的退廃がこのまま生存していけるなどとは到底私には思えない。

 そうしたことに公然と「変だ!」と声を上げ、『言うことを聞かなければ賃金で配転で家族をめちゃめちゃにしていじめぬくぞ』というおどかし(いや現実に会社はその通りやっている)に対しても「やはり変なことが変だ、俺たちはもっとゆったりと、仲間同士で生きたい」という思い入れこそ国労組合員であり続けることの底に流れていたものではないだろうか。決してそこの役員の属する党派の考えを支持して国労だったのではないのだ。むしろそれを超えた深いものなのだ。(そのことを役員は勘違いしてはいけないと思う。)

 確かにJRの内の様々なことはJRの外に知られてはいないかもしれない、しかし「JRの内のこと」は既に「JRの外」にも存在しているのだ。「私たち」が何と戦っているのかはっきりつかまなくては妙な孤立感に閉じ込められてしまう。私は人が人を様々なやり方で支配しようとすること自体に対して、「そんなこといやだ」と思い続けてきたように思う。そして気が付いたら分割民営化の真っ只中で国労の分会長だった。1986年の国鉄で何月何日何があったか、1987年のJRのどこで何があったかを完全には知り得なくても、JRの、そして清算事業団の人々が闘っているのと同じ型の闘いはこの世にあふれているのではないか。自由に生きたいということ、競争ではなく、共に生きたいということ。たとえば小さな会社の中の自然発生的なサボタージュの中に、あるいは指紋を押させさせられる「外国人」たちの抗議の中に、独裁政権下で行方不明になった子供の行方を追求する老いた母親のことばの中に、中学校のがんじがらめの校則を盾にして無理やり髪を切られる子どもたちの瞳の中に……。人として生きるために声を上げた時、そこにはもう「内」も「外」もないのだ。ただ一つの闘いの様々な場面があるだけだ。

 そう思っているたくさんの人々が今日あなたの改札口を通り、あなたがドアを閉めた電車に乗っているかもしれないことを、時々、思いおこしてほしい。