「国鉄詩人」 165号 1987年2月 掲載

 

自由へ

 
 「平穏な毎日の生活」などというものは、実は、その時代の「軌道」のようなものが信じられている場合にだけ自らへのイメージとして成り立つにすぎないものなのかもしれない。あくまでもそれはイメージであって、平穏な生活自体なんてきっとこの世にはないのだ。
 私たちの父や母は、戦争や、戦後のどさくさに青春の真っ最中を送った。彼らの出会いや、結婚、我々の誕生、そして今、老いていく姿を思いやったとき、我々にはもはや、彼らのように、明日どうなるかもわからない、といった戦後の日々、「躍動」の時を過ごすことはできないのだろう、そんな話を、ある喪失感のような感慨がわいてくるのを感じながら友人としたことがあった。この先、鉄道員として泊り明けをくり返し男ばかりの職場の中、きっと不器用な俺たちは見合いでもして結婚でもすることになるのだろうか、そういった決まりきったこれからの人生にはささやかな充実と一緒に何かやりきれないものがある。そんなふうに誰か友人と語りあっていなかったか? それがまだ、ほんの数年まえの話だ。今、そんな感慨がいかにくだらないものであるかを我々は知らされた。
 いったいどこに、この先退職まで続く同じ仕事などというものがあっただろうか、どこに未来を拘束する「平穏」などというものがあっただろうか。
 今我々はかつてないほど、本当に、完璧に「自由」だ。明日のことがわからない、それは憂鬱ではなく、むしろ自由の証拠だ。今、我々は全面的な戦争状況の中にいる、それは、社会や、「私」の中に毛細血管のようにはりめぐらされた観念の全体性との根底的な戦いなのだ。
 赤字黒字という手品の掛け声が、レールをひっぱがし、苛酷な労働を強制し、まるで神の言葉のように人間の上に君臨し、貨幣=会計記号量の増大という教理に向って我々をずたずたにする。我々が列車を動かすということは、そんなもののためではない、そこに一人でも学校へ通う子供がいれば、一人でも病院へいく年寄りがいれば、我々はそこで仕事をしたい、彼らと我々と共働し、そこに何が必要かを決めていきたいのだ。
 いまやこの社会を、「自由社会」だとか「民主主義社会」などと自称する連中を我々はビル街のかかし以下にせせら笑うだろう。ヘーゲルの有名な引用「ここがロードス島だここで跳べ」ということばこそ彼らに送ることばだ。
 もし、5センチメートル四方にも満たぬ小さなビニール片を制服の胸につけて切符を切ったり、電車のドアスイッチを閉めたことで、全国で何万人もの人間が恫喝され、処分され賃金差別を受けることに、あるいは、点呼の時抗議したといって懲戒免職になる、半年の停職になる、三ヵ月一〇分の一の減給になることに、貨物列車の乗務員がネクタイをつけていないと勤務査定に響くとおどかされる、電車運転士なら仕事を外されることに、そして、言うことを聞け、きかなければ、聞く連中を北海道から連れてきてお前たちと取り換えるぞ、失業してもいいのか、妻や子供をどうするのだ、仲間を裏切れ、俺たちの言うなりになれよ、そうささやき続ける当局や第二組合幹部たちに、奴らに、怒りを感じないとすれば、君はソ連では「反体制派」への弾圧者であり、チリの軍事政権であり、「連帯」をぶっつぶしたポーランド政府そのものなのだ。嘘だと思ったら、強制労働ということばの意味をよく考えてみればいい。
 誰だって自分がかわいいんだ、仕事がないものをどうするんだよ、等々 、勝手にはめた枠の内で、子供じみたことを言わないでくれ。そう、俺たちはいつだって、はめられた枠の内で苦しみ、いがみ合わされ、互いに無関心にさせられ、共働することを、共に生きることを、さまたげられ続けてきたのだから。俺たちはその枠自体をぶちこわし、もうひとつ別の世界があるのではないかと考えだすことなく、胃潰瘍になるばかりだったのだ。そして、自殺者が・・・・・
 八万人もの要員減「合理化」を積極的に推進することを言明しながら、うちの組合は雇用を守るなどと言っている第二組合幹部にはただひとつだけ質問すればいい、「全員がめでたく第二組合員になってしまったとして、合理化ではみだす人はどうなるんですか」
 共に働き、共に野球をし、鮎釣にいった、家族同志つき合ってきた職場の仲間を裏切れと、一人一人ばらばらになれと勧める奴らを「指導者」などと認めるな。「イデオロギーで飯が喰えるか」などともっともイデオロギッシュな発言をする第二組合役員、元「革命的マルクス主義者」!?なんかくそくらえだ。(普通の「組合員」をなめちゃいけない。)奴らの言説の内で「雇用」という抽象語は、まるで「生きる」ということばとすりかかわり同義に使われている。だが仕事には必ず具体的な内容があるし、それによってこそ人とつながるのではないか。「雇用」=「雇われること」が「生きること」とすりかわっているというのは、自身の仕事の内容について儲かるかどうか以外無関心であり、従って他人の仕事の内容についても無関心になっているのだ。そして当局も第二組合もそのようになれといっている。それが「企業人」なる概念らしい。そういう人はきっと、欠陥品を作ることも、人を騙すような仕事もすべて、よしとするだろう。仕事をすることが、むしろ互いを傷つけあってしまう不幸。そして従属主義者たちの「雇用」という魔法のことばは金を稼いでくる亭主に、女房、子供を従属させ抑圧する人間観にまでつながっている悲惨さだ。
 だが俺たちはこの数年間、マスコミの集中砲火のなかで、嘘と「真実」の構造について「学習」してきたので、少しは問題を整理することもできるようになっている。 何を要求したいのか。
 まず、仕事の具体的内容において連帯すること、何が必要かを我々で、運転する人も乗る人も、作る人も、使う人も、で決定できるシステムを社会全体に張りめぐらせることへの欲求、「企業」という概念の、貨幣、儲けからの解放。そして自由無き職場、人が人に雇われるということ、「雇用」自体を廃止したいのだ。
 

いまや、ポーランドの労働者たちの巨大な先例とも、南アフリカの鉱山労働者とも、あるいはM・フーコー、F・ガタリ、といった世界的な思想家たちの作業とも、我々は地続きにいることをはっきり感じられる。もっともっと「常識」を疑うこと、「疑う」という生命の力を輝かんばかりに発し、もうひとつ別の世界を、伸びやかな優しさに満ちた我々を発見すること。

1986年6月

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