「社会評論」1983年4月掲載

今、国労攻撃の中で

 最近、身近なところで事故が多くなったように思う。統計的にはどうかわからないが、小さな脱線事故が立て続けに起ったり、私が以前いた駅でも入れ替え作業中指を3本つぶした、などと聞いて胸が重苦しくなった。国鉄で働くようになって10年間、知っている人が一生残るような怪我をしたのは初めてのことだ。

 自民党の三塚委員会は昨年11月に行った国鉄現場管理者アンケートの結果というのを発表した(1月29日『朝日新聞』)回答率52%、「職員の意識と勤労意欲については『以前と同じ』が過半数だが44%が『真剣に仕事に取り組むようになった』と答えている」。過半数が以前と同じで、44%が良くなったでは、「職員はやる気をなくしている」と答えた人いなかったことになる。「同小委では『職員は世論の厳しさを実感し仕事に真剣に取り組む者が増えてきている。規律の是正が、職員をより先鋭的な対決へと押しやる方向に働くとの見方が一部にあったが、むしろ、自覚を強める結果になっている』と分析している」(強調引用者)。この記事を読んで苦笑した。自分たちのやってきたことが国鉄の現場めちゃくちゃにして職員が不安を掻き立てばかばかしさにやる気をなくさせている、などとは口が裂けても言えない、ということだろう。東北、上越新幹線が開業した時、その借金返済と、借料、経費が年間4千億円であるということを国鉄労働者なら全員が知っていただろう。そして、そういう赤字をだまってしょいこませながら、一方の口で、もう民間会社なら倒産です、とか、赤字国鉄の職員はもっと働けなどと床屋政談にうつつをぬかしてるいる者たちをブラウン管の向こうや活字の向こうに半ば冷ややかに見てきた。しかしこうした組合内部では常識の新幹線赤字の宣伝も、戦略的に考え効果的に行われたとは必ずしも言えなかった。

 昨年『サンケイ新聞』から編集委員が送り込まれたと言われる当局の機関紙『つばめ』は毎週組合員(職員)の数だけ詰所に置かれる。一連の大活字は「現場協議協約について」「公労委勧告の趣旨に則った改訂」「世間に少しずつ評価され始めた再建への自助努力を積み重ねよう」「増収努力は再建努力」等々、中を開けば、「我らオールセールスマン」どこどこの工場では営業活動をして団体旅行の客を集めました、などという記事。何だかセールスマンは1兆円の赤字も救う、とか、馬に乗った人が馬に向かって俺たちは一体だもっとガンバレと言っているような感じで、全く悪い冗談としか思えない。したがって、「よくお読みください」「じっくりお読みください」「ご家族の皆さんも読みください」と書いてすがりつく「つばめ」も束になってくずかごへ直行し、ちり紙交換屋の垂涎の的に転化することとなっている。

 マスコミが作ってくれた、職員が働かないから赤字である=赤字は黒字にしなくてはならない、というイメージと現実の国鉄経営の歴史とのギャップがあまりにもはげしすぎ、しかも組合員ならずとも管理者さえもそのことをよく知ってしまっているために、営業努力営業努力というほど現場などはシラケてくる。それに加えて、長年「安い給料でも乗車証があるから」といってきた制度も取られ、さらに、仲裁裁定完全実施といいながら国鉄に関してはボーナスのカット、旧ベースでの支払いなどで結局、年収はベア無しと同じにするという自民党、当局のやりかたにあえば、これはもう、仕事などばかばかしくてやってられるか、となるのが当たり前だろう。「てめえたちだけでさんざん甘い汁を吸って俺たちの責任でもないことを俺たちのせいにして犠牲だけをおしつけてくるなんてフザケルナ」ということだ。

 おそらくこういった鬱屈した気持ち、仕事をやる気の消失というのが、最近私の回りの事故の増加に関係しているような気がする。

 問題は、本当は二つある。ひとつは、今国鉄労働労働者攻撃をしているそのねらい、労働組合つぶしのことである。その中には、国鉄の労働・作業の仕方の改変(下請化)などの問題も含めて考えられる。そこでは現象的には思想が問われる。もうひとつは、一応それとわけて考えなければならない、国鉄の輸送システムの改変自体の問題である。そこでは現象的には経済問題が問われる。

 まず労働組合弾圧の意味あいとしては、自民党三塚委員会が受け持ち範囲である。

 職場規律の確立と称して全国的に大量のでっち上げ暴力事件への処分や、職務命令に従わないとしての処分を乱発している。

 彼らが考えていることといえば、上意下達の軍隊システム以外の何ものでもない。今までさまざまなことについて我々は現場段階で、「協議」し、それなりに意見も反映させてきた。他の企業などで働く友人たちと話をするたびに、私は我々の労働組合と、職場の仲間とを誇りに思ってきた。もちろん組合内の官僚主義的傾向などいろいろ問題もあったのだ。しかし、そこには仲間同士の助けあいや、団結して事にあたる姿勢というものが確かにあったと思うし、それは労働組合の中では最も大事なことだと考えてきた。今彼らが行なおうとしているのは、そうした働く者同士の相互扶助や、共同性、たとえば「勤務成績優秀な人」への抜擢昇給は、過去の病欠で賃金が低くなっている人、同職、同年齢で、賃金が低い人などに回すよう当局に圧力をかけるとか、作業内容変更の場合のルールとか、そういったもの、それらに対抗して、一人一人を、作業指示だ、信賞必罰だなどといって直接、管理体制の中に制御しようということであり、「現場にいるのは職員だ、職員とは、命令と服従の関係しかない」という言い草である。そのために仲間の共同性の現実的な証である団体交渉に対して、これは労働条件でなく管理者の作業指示の問題だから団交事項でないとか、拒否回答を繰り返すことで、日常的な組合を無意味化し、連帯をくずそうとしているわけだ。

 現場ではこれから一切組合と話はできません、局の方針ですから、現場長としてもどうすることもできませんなどと言っている管理者を見て、私たちは、彼らも何とみじめったらしい、人間以下、ロボット以下になってしまったことか、などと言い合うと同時に、「もし組合の抵抗行為をずるずると容認すれば今度はお前たち自身(すなわち現場管理者自身)を処分するぞ」という恫喝を食らっている彼らの、自分の地位を守るためには何でもやってしまおう、しかたないじゃないか、と自身を免罪する姿勢には不気味さも感じている。なぜなら、それが最終的に我々に向けられたものであるし、その思想が戦争中はもとより、現在に至るまで我々の社会を貫く中央集権性と、それに対応した無責任体制そのものであり、それが根底的な問題であることを知っているからだ。この「自由」で「民主的」な社会が、実は全く正反対の中央集権的で、陰惨な秩序を求めているものであることは大企業の工場実態レポートを読むとよくわかる。本質的に国鉄の中でこれから再び行われようとしていることもそれと同じだ。

 現在制度的に現協制度がなくなってもほとんどの職場で、当局側と申し入れや折衝が行われているはずだ。それが形骸化しないためには、結局組合の意志にかかってくる。私たちは、まだ当面、当局の一方的対応に戸惑うことがあるかもしれないが、そうした現実的な場面での要求の実現がかなうか、かなわないかというその時々に一喜一憂せず、我々が今まで職場で進めてきたし、これからもやろうとしていること、当局の言いなりでなく、できるだけ仲間同士働きやすい職場にすること、の重要さをはっきり自覚し、連帯ということを改めてとらえなおさなくてはいけないと思う。

 ここで一つ重要な問題があると思う。

 それは下請化とそれに伴う労働内容の変化が「国鉄職員」にもおしよせてきていることだ。電気関係ではすでに現実化してしまっているが、線路保守作業のほとんどと車両修理作業のある部分を下請化し、職員は監督・検査が主体業務となる方向に進みつつある。これらの合理化事案は本部本社では既に妥結していたが、地方でも凍結していた交渉が始まる。いままでの、入社し一番下で作業をし、しだいにに技術をつけて、検査係になっていくという職場内の秩序のようなものがくずれていくだろうし、修理など実作業の経験がなく監督業務しかしたことのない「職員」が生まれてくるだろう。新採ストップと大量退職(年齢構成が国鉄は歪んでいる)により、すでに要員は切迫している。そこでやりきれない仕事は下請けに回せばいい、ということにしてはならないはずだ。民間企業では既に工場内で本工、下請工、臨時工というのが職務内容内容による区分に同置された階層をなし、それが組合員の意識をゆがめていると聞く。おそらく今まで同じ「職員」が働いていて単一空間(時間)だった作業場(働く場)内が、『所属(たとえば企業)が別である』という、支配する側の区別論理を越えられぬために、複数の時間性に重層化されて現れてしまい、(働く場の)全体性を自らのものとしてイメージできず、自分が今やっている(所属する)作業内容と自らが属する企業の範囲だけしか一度には考えられなくされているのだろう。私の職場の掃除に来るおばさんたちとの関係をみても、そこでは、同じ場所で働いていながら、本工と下請工が双方をを無視しあって無関係の関係を不断に生み続けて存在しているようにさえ思えることがある。ちょうど、見なければ何も存在しないんだ、とでも言うように。

 現在まで、合理化において私たちより先行する大企業労組においては下請化の問題を本質的に解決しているところはないと思う。私たちの組合も、その水準へ突入するのは時間の問題だ。すなわちこれはQC運動などと並んで現在の普遍的問題の一つなのである。

 労務管理としての「下請化」に対抗するには、企業性をどのように超えるかの論理の一部として、作業システム、作業内容自体の批判、例えば監督や検査業務と実作業という区分をそのまま人間の区別として固定化する方法は、一人の人間が時間的経過の中でそのどちらも経験した従来の方法に比べて非人間的ではないのか、また「純技術的」にみても劣っているのではないか、というような思考が必要になってくると思う。

 国労も含め、日本の労働組合は自らの賃上げや待遇改善には熱心でも、そういった自分たち自身の根拠でもあり組合員意識さえ左右しかねない労働内容の重大な変化に対しては無頓着すぎると国労外の人から指摘を受けたことがある。これらは、大量退職による組織人員の減少などよりよっぽど重大で普遍的な問題ではないのか、と思う。

 労働条件とか労働者の要求というものは単に金銭面だけではなく、もっと人間の様々な面にわたっているにもかかわらず、賃金の改善だけに矮小化してきた思想の限界が、今「官・民」を問わず、問われているのではないか、と思う。

 最後に国鉄の輸送システム自体の問題がある。

 労働者というのは与えられた仕事をこなしていればいい、その中で適当な労働条件を得ればいい、という考えである限り、受動性をこえ、主体性を形成することはできない。

 私は貨物部門で働いているが、最近輸送量はたしかに減少している、その減少を理由に合理化(切りすて)が進められている。その時、人間の生産活動や労働というものについて考えた実績がなければ、直ちに現在支配的である資本主義的発想に同一化せざるを得ない57・11ダイヤ改正時の団交では、組合側が、当局の官僚的対応によって荷主を逃がした具体例などをあげて、当局側に貨物をふやす努力を迫るという場面もあり、私などは複雑な気分になった。労働組合の具体的な対応の場面では、それも仕方ないのだともいえる。しかし、その思想的には、次のことははっきりさせておかなくてはならない。すなわち合理的な輸送システムの構想というのは、全社会的な、合理的生産システムの一環としてしか成立しないし、それは他の産業と同様、「利潤」という歴史的観念による制約にではなく、普遍的な自然条件― エネルギー効率や人間にどれだけ害を与えないか、といったことのみに従属するということだ。

 もちろんこのようなことを考えていくことは、本当は組合運動の水準を超えている。しかし、現場の労働者が、今自分がやっている労働から出発し、社会的変革の主体性を形成するまでの行程が考えられるとすれば、それは現在の企業制―利潤に逆支配された生産方法とは別の、自分たちの作るものが誰のためにどのように役立つかについて責任を持ち、持つ義務があり、そのためには、現在の生産体系を変える必要と義務があるという思想への過程以外にないのではないか。そしてその中で運輸労働者ならば、たとえば、現在の陸上輸送の中で「便利だ」とされるトラック輸送が、運転手の劣悪な労働条件や高速道料金への優遇措置、過積、騒音など外部不経済によってまかなわれた欠陥システムであることを知るだろうし、そもそも輸送量の増加による輸送業界の利潤拡大はむしろ社会的には不経済であることも知るだろう。そしてそれらの経済を企画している者と、我々との関係も知るだろう。

 労働者が、社会的責任を持つといういうこと、それは、与えられた作業を忠実に実行するということとは違う。我々が、何をどのようにだれのために生産するかについて責任を持つということのはずだ。害のある食品を製造している食品労働者は社会的責任を果たしていない。年に1万人からの死者と数百万人の騒音に苦しむ人々を伴う自動車交通も、とてもまっとうなものとは言えない。

 国鉄当局が貨物輸送について発表した拠点間輸送のみ行うという計画も、果たして本当に最も合理的なものなのかはわからない。ただ市場原理の中で、極短期的に右往左往してみせているだけで後世への責任など感じているわけではないのだから。

 最初、自らがたずさわる輸送という部門の不合理について考え始めたとしても、最終的には網の目を伝わり、現在の社会の生産方法すべての不合理につきあたってしまう。他の産業の労働者が自分の産業から始めても同じだ。そのために、この問題は「組合運動」ではなく政治的な問題なのであり、そのためにまた、一般的な共同性として労働者をつなげる問題でもある。すなわち(社会的生産面からみた)労働者としてのわれわれを現実的に発見させてくれる種類の問題である。

 自分たちが何をどれだけ、どのようにしてだれのために作るのかを決定できるかどうかというのは権力の所在の問題である。労働者が、自分たちの労働がどのように社会的に寄与しているかについて、「交換価値」においてでなく「使用価値」において判断しようとするとき、それは、次の社会のにない手としての「我々」の内実について熟成していることになる。現実的な即効性を超えて、今、そういうものが我々には必要なことのように思える。